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『どうぶつの森』のアイテムは“無機能”であるがゆえに”自由”を生む──マリオやゼルダのような機能重視のゲームデザインと、その真逆である『あつ森』の凄さ

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スナックと『どうぶつの森』

 街中を歩いていると、それなりの頻度で見かけるスナックという形態のお店に、私はほとんど入ったことがない。なんとなく一見さんには厳しそうな、常連さんばかりでお客が構成されてそうなイメージがあるし、行ったところで、何をすればいいのか良くわからなくなり、手持ち無沙汰で途方に暮れそうな自分が容易に目に浮かぶ。

 だけど、なんとなくではあるがスナックというものに対して淡い憧れのような感情も持っていたりもする。

 私の勝手な思い込みで語ってしまうが、もしスナックに行ったとしても、特においしい料理に期待するわけでもないし、お酒だって高価なものや、珍しいものを求めようとは思わない。何処でも売ってるようなビールとか焼酎(JINROが丁度いい)の水割りとかが飲めれば充分だ。

 おそらく、私がスナックに対して抱いている憧れとは、「場」への憧れなんだと思う。何となく気が向いたらフラッと寄れて、普段とはちょっと違う時間を過ごせる「場」を私は求めているのだろう。そして、そういう人達が少なからず存在することが、日本中に点在するスナックを支えているのかなと想像していたりもする。

 今のところ、まだ私は現実世界に行きつけのスナックを持てずにいる。だが自分の中のスナック欲を満たしてくれるゲームには出会うことが出来た。

 そのゲームとは『どうぶつの森』である。

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(画像はどうぶつの森 観光局 | 任天堂より)

 私はゲームキューブ版の『どうぶつの森+』以来このシリーズを遊び続けているが、私なりにこのゲームの面白さを考えていくと、先ほど述べたようなスナック的な「場」の魅力に満ちたゲームだからではないかと思うに至っている。

 というわけで、今回のこの記事では、『どうぶつの森』のスナックらしさという観点から、このゲームについて考えてみたい。

文/hamatsu


「習慣化」するゲーム──一日にちょっとだけ遊ぶことを毎日繰り返す

 スナックと『どうぶつの森』について考えた時、行きつけのスナックが頻繁に「通う」ものであるように、このゲームもまた頻繁に「通う」タイプのゲームであるという点が挙げられる。

 このゲームの大きな特徴として、現実の時間の流れとゲーム内の時間の流れが連動しているという要素がある。ある程度プレイヤー側で操作する余地があるとはいえ、基本的には現実の夜に遊べばゲーム中でも夜であり、夏に遊べばゲーム中の季節も夏になる。
 現実の夜明けと共にゲームの夜が明けるという、現実とゲームが連動する時間の要素は『どうぶつの森』を『どうぶつの森』たらしめる最も重要な要素だろう。

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 この要素は決して『どうぶつの森』が初めて採用したものではない。1995年にスーパーファミコンで発売された『天外魔境ZERO』というタイトルにおいて、既にカートリッジに時計を内臓することによって、現実の時間とゲーム内の時間が連動してイベントが発生するという仕組みが実装されている。

 既にあったものではあるが、それでも『どうぶつの森』の実時間とゲームが連動するという仕組みは新鮮な驚きをユーザーに与えた。それは実時間と連動することをゲームの根幹に据え、「通う」ゲーム──別な言い方をすれば、一日にちょっとだけ遊ぶことを毎日繰り返すという「習慣化」を目指して作られたゲームというものが、2001年時点においては極めて珍しいものだったからだろう。

 この「習慣化」という点について、本作の開発者達が興味深い発言をしている。発言の一部を引用してみよう。

岩田
宮本さんが当時、言ってました。
「ゲームのようなことをだらだら遊ぶあそびなんだよ」と。
「だらだら」という形容詞がついてるのが
すごく新鮮だなあと思ったんですけど、
どちらかと言うとゲームは
一生懸命にやるものでしょう?

野上
僕自身、結婚してから感じるようになったんですけど、
家のなかで、そんなに一生懸命
ゲームをやってられないんですよね。

(中略)

野上
なので、一生懸命やらなくても、
ちょっと空いた時間に遊んで、すぐやめて、
それで満足できるようなゲームをつくりたいというのが
当時のテーマでもあったんですね。

江口
そうですね。
だから、だらだら遊んでいると
やることがなくなるようにしたんです。
お店に行っても商品は売り切れてるし。

野上
遅くなると閉まっちゃうし。

江口
夜も遅いし、もうそろそろ寝たらと。
で、また明日も遊んでねと。

岩田
ふつうのゲームは
やめさせないようにつくるんですけどね(笑)。

社長が訊く ゲームセミナー2008 ~『どうぶつの森』が出来るまで~ より引用)

 まず冒頭の宮本茂が言ったという「だらだら遊ぶあそび」という言葉がすごい。『どうぶつの森』というゲームの特徴をひと言で見事に言い当ててしまっている。

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 続く岩田社長(当時)の発言にもあるように、基本的にゲームというものは一生懸命遊ぶものであり、そこには緊迫した時間が流れているものである。その張り詰めた時間が途切れるときといえば、ゲームが中断した、もしくは終了した時のいずれかだろう。
 そしてひとつ障壁や目標を突破すればさらに次の目標が設定され、さらなる張り詰めた時間へ突入していくというのが一般的なゲームのあり方ではないかと思う。

 ゲームというメディアは、普通の日常では簡単には体験出来ない、緊迫した濃密な時間の流れを、気軽に体験出来るという点に強みがある。格闘ゲームやレースゲームをプレイすることを通して0.1秒という時間を「長い」と感じた人は少なからず存在するだろう。そのようなアスリート的な時間感覚を手軽な形で体験できることは、ゲームというメディアの持っている重要な特性である。

 そのようなゲームが本来的に持っている強みにあえて逆らうかのような発言が、上記に引用した対談では連発されている。「だらだら遊んでいると、やることが無くなるようにした」なんて、ユーザーを楽しませることを放棄しているかのようにも思える言葉だ。

 『どうぶつの森』というゲームをプレイしてみればわかることだが、確かにこのゲームはアクションゲームの制作を得意とする任天堂が作ったとは思えないほど、ゆったりした──宮本茂の言葉を借りれば、「だらだらした」時間が流れている。

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 魚釣りや虫取りに多少のゲーム的な手応えはあるものの、『どうぶつの森』よりも数年前にリリースされた『ゼルダの伝説 時のオカリナ』における(本編にほぼ関係がないにも関わらず過剰に作り込まれた)釣りのミニゲームと比較しても恐ろしくシンプルな内容になっている。

 なぜ『どうぶつの森』はゲームの持っている特性に逆らうような要素ばかりで構成されているのか。それは、このゲームが先に述べたように「習慣化」を目指しているゲームだからだ。

 一度プレイを始めれば、化石を掘ったりお店の品をチェックしたり、一通りやることはあるものの、小一時間程度で一通りのことは終わってしまう。でも明日になればまた新しい化石は埋まっているし、店の品揃えも新しくなる。
 だから毎日ちょっとずつプレイするようになり、気づけば日々の生活の「習慣」になる。『どうぶつの森』とはそのようなゲームとして作られている。

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 『どうぶつの森』が発売される以前においても、ゲームを日々の娯楽として習慣的に遊ぶ人は決して珍しくはなかっただろう。しかし、このゲームが特異なのは、ゲーム内部の構造に「習慣化」を促す仕掛けがてんこ盛りになっている点である。

 本作では、あの任天堂が手がけているにも関わらず、アクションゲーム的な要素があまりに大胆に、バッサリと削ぎ落とされている。それは、あえて言ってしまえば通常のゲーム的な面白さが「習慣化」を阻害する要因になりかねないためだろう。
 アクションゲームをプレイすることで生じる、0.1秒を長いとすら感じるような研ぎ澄まされた時間感覚は、プレイする側に必然的に相当な集中を要求することになる。そのような体験はどれほど面白いものであっても、「重い」体験になってしまう。

 任天堂のアイデンティティとすら言えるであろうアクションゲームのノウハウを大胆に切り捨て、従来の面白いがどこか「重い」ゲームプレイではない、「軽さ」を志向する。そのことによって、『どうぶつの森』はマリオでもゼルダでもない、全く新しい任天堂の新規タイトルとして世に出ることができたのだ。

 リリース当初より熱心なファンを獲得こそしたものの、看板タイトルに比べればマイナーな存在だった本作だが、2004年にリリースされた任天堂の携帯ハード、ニンテンドーDSの登場によって転機が訪れる。ニンテンドーDS用タイトルとして2005年にリリースされた、『おいでよ どうぶつの森』が国内だけで500万本超、全世界で1000万本を超えるという、過去作のセールスを大きく上回る、大ヒットを記録したのである。

 ニンテンドーDSといえば『東北大学未来科学技術共同研究センター川島隆太教授監修 脳を鍛える大人のDSトレーニング』(以下、『脳トレ』)がリリースされ大ヒットしたハードとして記憶する人も多いだろう。

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(画像は『脳を鍛える大人のDSトレーニング』公式サイトより)

 ニンテンドーDSとは、この『脳トレ』に代表される“一日にちょっとだけ遊ぶことを毎日繰り返す”という「習慣化」を前提としたゲームを、普段はゲームをやらないような幅広い層に浸透させることに成功したハードである。ニンテンドーDS発売以前より「習慣化」を目指して作られていた『どうぶつの森』が、このハードと出会うことで大ブレイクを果たすことは必然だったと言えるかもしれない。

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(画像は『おいでよ どうぶつの森』公式サイトより)

 2020年において、ゲーム内部に「習慣化」を促す仕掛けが施されたゲームは、全く珍しいものではなくなった。特に、スマートフォンでのF2Pのゲームなどは毎日のログインボーナスや曜日ごとの仕掛け、定期的に開催されるイベントなど、毎日の「習慣」としてプレイすることが前提のようになっている。

 2001年時点においては先進的だった「習慣化」を目指したゲームは2005年の大ブレイクを経て、当たり前のものになった。そのような中で『どうぶつの森』もまた特別な一本から、多くのソフトの中に埋もれる一本になってしまったかといえば、全くそんなことはない。2020年4月にリリースされた最新作『あつまれ どうぶつの森』は、全世界で販売本数2000万本超というシリーズ歴代最高のセールスを達成し、現在においても快調にその売上を伸ばし続けている。

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(画像はNintendo Switch|ダウンロード購入|あつまれ どうぶつの森より)

 なぜ『どうぶつの森』は多くのゲームが「習慣化」したにも関わらずその特異性が薄まるどころか、むしろ増してすらいるのだろうか。それは冒頭に述べたような、スナック的な「場」をゲームというメディアで実現するために必要不可欠なもう一つの要素があるからだ。

 それは「無機能性」という言葉で説明できると私は考えている。というわけで、次の項ではゲームにおける「無機能性」について考えてみよう。

なんの機能も持たないオブジェクトの存在によって、プレイヤーは自由を手にする

 ゲームは「動詞」によって成り立っていると言ったのは『ポケットモンスター』を作った田尻智だが、ゲームが「動詞」によって成り立っているのであれば、ゲームキャラクターやゲームの背景、オブジェクトは何らかの「機能」を持っている。

 「歩く」という「動詞」を実行するためにはキャラクターに歩行機能がある必要があるし、「投げる」という行為を行うためには投擲機能を持ったキャラクターと、投げるために適切なサイズのオブジェクトが必要になる。

 このようにゲームにおいて、キャラクターやオブジェクトが何らかの「機能」を有しているということは、当然の前提と言っていいだろう。ゲームに登場するキャラクターが何の「機能」を持ってないのだとしたら、そのゲームに存在する意味が無いとすら言える。

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 数多くのキャラクター、オブジェクト、そして何より様々な木々が生い茂る森が存在する『どうぶつの森』というゲームもまた「機能」に満ちたゲームである。
 釣り竿を持てば釣りが出来るし、斧を持てば木が切れる。そして木を切った後に残る切り株はキャラクターが腰掛けられる椅子になるし、虫が寄ってきたりもする。フィールドにデフォルトで配置されているひとつひとつのオブジェクトが単なる書き割りや賑やかしではなく、プレイヤーに関係した機能を持っているという点において、『どうぶつの森』のフィールドは『ゼルダの伝説』シリーズのフィールドに共通する部分が多い。

 だが、『どうぶつの森』というゲームが特異なのは、そのような「機能性」でゲームを満たしていくだけではなく、その膨大なリソースの多くが、ほぼ「無機能」であるという点にある。

 本作において、主にお店で購入したり、DIYするなどして手に入れる家具や服の大半はほとんど何の「機能」も持っていない。椅子であれば座れたり、タンスであれば衣装やアイテムを収納できたりするものの、そういった何らかの「機能」を持ったアイテムはごく一部であり、大半のアイテムはただその場において鑑賞するくらいしかすることは無い。

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 これは広大なオープンフィールドを何らかの「機能」を持ったオブジェクトやキャラクターで満たし、さらに化学エンジンの採用による「機能の状態変化」が起こるようにすることで掛け算的に世界の「機能」を拡張させることに成功した『ゼルダの伝説』シリーズ最新作、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』(以下『BotW』)とは真逆の方向性だ。

 化学エンジンに象徴される、これまでにない「機能性」に満ちたゲーム体験が得られる『BotW』が世界的に高い評価を獲得することは必然に思えるが、『あつまれ どうぶつの森』の膨大に存在する「無機能性」に満ちたオブジェクトやアイテムたちはこのゲームにとって必要なのだろうか?単なる飾り以上の意味を超えてゲーム体験を豊かにしているのだろうか?

 その問いに対しては私は明確に「Yes」と答えよう。『どうぶつの森』の大半の要素は「無機能」だからこそ良いのである。

 何故なら「無機能性」によって得られる「自由」があるからだ。

 「無機能性」、つまりはゲームにおいて何もできなくすることによって「自由」が得られる。何とも矛盾したもの言いだが、この「自由」こそが、この文章の冒頭で述べた本作のスナック的な「場」の魅力の根幹を成すものなのである。

 『BotW』のような「機能」によって構成されたゲームをプレイし、目の前に立ち塞がる何らかの拠点を攻略しようとすれば、その攻略に有利な「機能」を持ったアイテムや装備品を使用することは、一種の「義務」のようにすらなってくる。たとえば、溶岩に覆われる火山地帯を冒険したければ耐火装備が必要になるし、極寒の雪山に挑む際は防寒装備が必要になるという具合だ。

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(画像はゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド パッケージ版 | My Nintendo Store(マイニンテンドーストア)より)

 『BotW』自体は、そのようなある種の押し付けがましさを緩和するためにいくつもの解法を用意し、「遊び」であったはずのものが「義務」にならないよう、細心の注意を払うことで生まれる幅の広さこそが評価されたゲームだった。だが、やはり「機能」「スペック」というものがゲームに存在することで、そこには良くも悪くもある種の制限が生まれる。そもそもゲームとはそこに生じるジレンマにこそ面白みがあるのだから、そこに異論を挟むことはナンセンスのようにも思える。

 しかし、『どうぶつの森』が凄いのは、その「機能」と「義務」のジレンマを回避できてしまっているところなのだ。膨大に用意されたファッションアイテムの大半が「無機能」であるため、「機能」に付随する形で発生しがちな「義務」が発生しないのである。

 真夏に夏っぽい格好をする必要はないし、真冬に薄着でいても全く問題は発生しない。服装にまつわる「機能性」をほぼ排除しているため、そこには制限やメリット、デメリットのようなものが一切存在しない。
 自分のしたい格好をすればいい。「無機能性」によって生まれる「自由」とはそのようなものである。そうして理解するのは、自分の好きな格好をして好きなように動き回ることや、自分のお気にいりの家具やオブジェを好きなように飾り、普段の生活で目にすることは気分がいいというシンプルな事実だ。

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 『あつまれ どうぶつの森』において、様々なファッションブランドが自身のブランドの服を『あつまれ どうぶつの森』の機能のひとつであるマイデザインに落とし込み、ネット上で公開するという動きが見られたが、このようなムーブメントが作り手側の意図を超えて起きるのもまた「無機能化」ゆえの風通しの良い自由があるからだろう。(これがもし固有の「機能」──たとえば、それを着ることによって釣りの効率が上がるなど──なんて持って限定配信なんてした日には、ユーザー阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されていただろう。)

「役割」を持ったキャラ、持たないキャラ──無機能で、汎用的だからこそ生まれる個人的な関係性

 キャラクターに関しても、『どうぶつの森』に登場するキャラクターは明確に2種類に区分けすることが出来る。何らかの固有の「機能」を有したキャラクターと、それを有しないキャラクターだ。

 「たぬきち」や「しずえ」のように、どの島にも必ず存在するキャラクターが固有の「機能」を持ったキャラクターであり、ランダムで割り振られる島の「住人」が汎用的で交換可能な最低限の「機能」しか持たない「無機能」なキャラクターである。

 たぬきちやしずえといった固有の「機能」を持ったキャラクターとの関係性は、どのプレイヤーであっても良くも悪くも一定だ。プレイヤーごとにたぬきちの対応が変わったら(課せられる借金が変動したりしたら)それはそれで面白そうではあるが、制作者の手間が大変なことになるだろうし、あまり現実的な仕様ではないように思う。

 それに対して固有の「機能」を持たない「住人」達との間には、「無機能」だからこそプレイヤーの数だけ「関係性」が生まれるのだ。

 私の島の話を例にしてみよう。いらないベースボールシャツがあったので、そこまで親しみを覚えていなかったウチの島民である「きんぞう」に、プレゼントと称して投げやり気味に押し付けてみたことがある。すると、次の日に「きんぞう」がその服を着てその辺を歩き回っていたのだが、それを見たときに、自分でも意外なほど心を揺さぶられてしまい、そこからは「きんぞう」と頻繁に交友を持つようになってしまった。

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 なぜこのような他愛のないやり取りに心が動いたのかと言えば、この時点でプレイヤーである私と「きんぞう」の間には“この二者の間にしか存在しない”関係性が生まれているからだ。我ながら見事にゲームに踊らされているなと思いつつも、『どうぶつの森』ならではの、汎用的な「機能」しか持たないからこそ生まれる体験だったように思う。(ちなみに「きんぞう」は現在も私の島に住み続けている。)

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 たぬきちやしずえといったキャラクター達は基本的に替えが効かない、居なくなってはゲームの進行上困るキャラクター達ばかりであるのに対して、「住人」達は基本的に居ても居なくてもどうなっても特にゲームには問題がない。だからこそ、「住人」とプレイヤーの関係性には幅と厚みが生じる。
 なんとなく気に入らないキャラクターと会話せずに過ごしていれば、その時点で「疎遠」という関係性が生まれてしまう(そして久しぶりに話しかけるとその点をきっちり突いてくるんだこれが)。ここにもまた「無機能性」によって得られる「自由」がある。

 ちなみに、プレイヤーキャラクターの服装やアクセサリー、自分の所有する家を家具で飾るゲームというのは『どうぶつの森』以前にも存在している。例えば『メタルマックス』シリーズなどはインテリアを購入して飾る要素が存在し、ある意味『どうぶつの森』を先取りしているタイトルだとも言えるだろう。徹底して自由を追及した姿勢など、実は『メタルマックス』シリーズは『どうぶつの森』と共通する点が多い。

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 しかし、『どうぶつの森』というゲームがやっぱり異常なのは、自宅を好きなような家具で飾ったり、着ているものを自由にコーディネートするといった寄り道的な要素として存在しがちなものを、メインの柱として据えた上で膨大なリソースを投入している点にある。通常のゲーム作りの考え方で言えば狂気の沙汰と言ってもいい。
 『どうぶつの森』になかなか強力な競合タイトルが現れない理由はその狂気、言い換えればゲーム作りに対する「確信」の強さに、並大抵のことでは太刀打ちできないからだろう。

 『あつまれ どうぶつの森』のキャッチコピーは「何もないから、なんでもできる」だ。本作の、というよりも『どうぶつの森』の本質をこれ以上なく表現したコピーではないかと思う。

 本シリーズは、開発初期段階においてはダンジョンを攻略するタイプのゲームとして構想されていたそうだ。そこから様々な紆余曲折があって現在の『どうぶつの森』の形に落ち着くわけだが、初期から一貫して構想していたのは、様々な人たちのコミュニケーションフィールドとなるゲームだという。

 様々な人々が行き交い、交流する「場」としてのゲーム。いわゆる通常のゲームとしての面白さはそれほど無いが、ついついやってしまう程度には魅力的で、頻繁に通ったからといって何か得するわけでは無いのだけど、そこにはその「場」だから得られる自由がある。
 それって、この文章の冒頭で述べたスナックそのものではないか。やはり『どうぶつの森』は私にとってのスナックなのである。

任天堂の「裏面」としての『どうぶつの森』

 ここまで『どうぶつの森』について私なりに考えてきた。

 「習慣性」「無機能性」といったキーワードを軸にこのゲームについて考え、思うことは、『マリオ』『ゼルダ』といった任天堂の看板タイトルを任天堂の「表」だとすれば、『どうぶつの森』は「裏」であるということだ。

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 黒い任天堂、白い任天堂という呼び方をされることもあるが、「表と裏」という言い方が私には一番しっくりくる。

 プレイヤーに容赦無く多額の借金を背負わせてくるたぬきちからどうしようもなく醸し出される腹黒さなどから、本作を黒い任天堂作品と言いたくなる気持ちもわからなくはないのだが、たぬきちというキャラクターは自身に課せられた「役割」、「機能」を常に全うするという意味においては、クッパやガノンといったキャラクターとなんら変わらない、任天堂の王道を歩むキャラクターではないかと思う。

 あってもなくても支障のないアイテム、一部を除けば居ても居なくても、一切の会話をしなくてもゲームの進行には問題のない住人たちに囲まれながら過ごすかけがえの無い生活が体験できる。『どうぶつの森』というゲームは、アスリート的なシビアな身体感覚、時間感覚を要求し、機能性に特化しようとする任天堂の王道タイトルとはその本質において対極に位置している。

 だからこそ、やっぱりこのゲームは任天堂の「裏」と表現するのがふさわしいように思う。「表」の任天堂がエンタメの王道を行く「非日常」を体験させてくれるコンテンツなのだとしたら、「裏」の任天堂の象徴たる『どうぶつの森』は「日常」を体験するコンテンツだ。日常の合間に「日常」を楽しむコンテンツ、なんと奇妙なゲームだろう!

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 最新作『あつまれ どうぶつの森』は、ここまで述べてきたような『どうぶつの森』の裏の側面を踏まえてみると、随分と任天堂の「表」に近接したタイトルになっている。

 プレイヤーに対して明確に課せられる目標、ついつい達成しようとしてしまうたぬきマイレージ、プレイヤーの「機能」を大幅に拡張する「島クリエイター」。スナックのお客というよりは、スナックの経営側に回ってしまったかのような大きな変化を遂げている。

 この変化に対して『どうぶつの森』が普通の、任天堂の「表」側のゲームになってしまったと嘆く人もいるかもしれないが、私個人としては結局かつての『どうぶつの森』と変わらずに楽しんでしまった。大きな変化を遂げながら、本質的な部分は変わらない味を維持するという非常にレベルの高い仕事をしていると感じられた。

 今までシリーズを通していくつもの村や島で生活し、魚や虫を捕獲し、住人と交流し、そしてなんとなくプレイするのをやめるというサイクルを繰り返してきた。『あつまれ どうぶつの森』を私はまだプレイしているが、まあそのうち飽きて止めるのだろう。そしてまた何年か後に新しい『どうぶつの森』がリリースされたら買って遊んでたぬきちに課せられた借金を返すのだと思う。

 ゲームとは不要不急のものであるということを言ったのは元任天堂社長である山内溥その人だが、コロナ禍に見舞われ「日常」や人間同士の「関係性」が世界レベルで寸断された世の中において、『あつまれ どうぶつの森』はゲームという枠組みを超えて最も注目を集めたエンターテインメントコンテンツになった。「日常」が破壊された世界で求められたのは「日常」を体験出来るゲームだったのである。

 現代においても、ゲームは不要不急のものであるということは変わらない。しかし、このような状況だからこそより注目を浴びることになってしまった『どうぶつの森』というゲームを考えることを通して強く確信せざるを得ないのは、ゲームは不滅でもあるということだ。

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『どうぶつの森』のアイテムは“無機能”であるがゆえに”自由”を生む──マリオやゼルダのような機能重視のゲームデザインと、その真逆である『あつ森』の凄さ_020
某ゲーム会社勤務のゲーム開発者。ブログ、「枯れた知識の水平思考」「色々水平思考」の執筆者。 ゲームというメディアにしかなしえない「面白さ」について日々考えてます。
Twitter:@hamatsu

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