「スーファミ」上村雅之氏×「プレステ」久夛良木健氏──“ゲーム機戦争”両雄の歴史的証言から識る90年代プラットフォームビジネスの真髄【セミナーレポート】

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「スーファミは今後1年間発売しません」

 続いてセミナーの第2部では、立命館大学ゲーム研究センター副センター長の中村彰憲氏がモデレーターを務めるパネルディスカッションが行われた。
 ここでは、かつてゲーム市場でプラットフォームのリーダーシップを担ったスーパーファミコンとPlayStationについて、同じ項目を振り返って比較する「比較事例研究」という手法が採られた。

 2つのプラットフォームの当事者である上村氏と久夛良木氏に加えて、このパネルディスカッションではより中立的な立場であるゲームメディアを代表して、株式会社Gzブレインの代表取締役社長である浜村弘一氏が加わった。
 ちなみに浜村氏もまた、立命館大学映像学部の客員教授を務めている。

浜村弘一氏

 最初の比較項目は「ゲーム機発表時の反響」だ。まずはスーパーファミコンの発表時に、1989年当時の『ファミコン通信』に掲載された記事が紹介されたのだが、その内容はというと、任天堂が「スーパーファミコンは今後1年間発売しません」という発表を行ったという、衝撃的なものだった。

左から順に、久多良氏、上村氏、浜村氏

 この件について聞かれた上村氏は、「SRAM【※】が手に入らなかった」ためにスーパーファミコンの量産に遅れが生じて、発売が延期されたという内情を明かした。
 この当時は各社が発売していたワープロ専用機が人気を集めており、半導体を製造しているメーカーとしては自社の製品に対して優先的に供給することになる。そのためスーパーファミコンの部品用にまでは回ってこなかったという。

※SRAM……半導体メモリの一種でStatic RAMの略。消費電力が低く高速で読み書きできるのが特徴で、スーパーファミコンではビデオメモリに使用されている。画像はNESクローンに使われていた2K×8ビットSRAM
(画像はWikipediaより)

 「しかたがないのでこういう発表をしただけで、別に期待を煽っていたわけではない」と上村氏。
 その一方で「おかげで1年という開発期間が確保できたので、ハードやソフトを練り込む時間が取れたのはありがたかった」とも語っていた。

 一方、スーパーファミコン発表時の印象について聞かれた浜村氏は、「ファミコンの後継機種として期待がかなり大きかった」とした上で、「機能面では画面の拡大・縮小や回転が、それまでのゲーム機にはなかったものだけに、特に目新しかった」という。

 上村氏はスーパーファミコンの開発において、社内からの提案を最終的にまとめる立場だったそうだが、現場の担当者のイチオシも、じつは拡大・縮小機能だったという。上村氏によると、この機能を入れてもコスト的にはあまり変わらないが、そのわりには目立つ機能だったので、それなら入れようと決めたとのこと。

 スーパーファミコンの開発を振り返った上村氏は、スーパーファミコンをどのようなコンセプトで作るか社内で議論した際に、2つの異なる考え方に分かれていたことを明かした。1つはディスクシステムをもっと改良した家電的なハード、そしてもう1つはROMカートリッジを使用して従来のファミコンをより強化した形だという。

 最終的には「中身スーパー、外ファミコン」というコンセプトで、従来のファミコンのイメージを引き継いだ形にすることを上村氏が決定したのだが、その決め手となったのは拡張性だったそうだ。
 ROMカートリッジの場合、その中に特殊チップなどを搭載することで、さまざまな機能拡張が可能になる。そしてもう1つ、ROMカートリッジはローディングのプロセスがないことも大きかったと、上村氏は語っていた。

3DCGの恐竜を見た発表会場が、シーンと静まりかえった

 続いては、PlayStation発表時の反響について。モデレーターの中村氏が「いちばん記憶に残っているのはコレ」と紹介したのは、PlayStation発表時のデモ映像に登場した、リアルな3DCGで表現された恐竜の頭部の画面だ。
 浜村氏によると、当時はゲーム業界内でまるで都市伝説のように恐竜の話が出回っていたそうで、「しばらく経ってから、久夛良木さんから実際に見せてもらったときはビックリした」と語っていた。

 久夛良木氏によると、このデモ映像は開発チームが『ジュラシックパーク』を意識して製作したもので、当時は三角形を組み合わせた3Dポリゴンの映像をそのまま表示してCG感を強調するのが主流だったが、この恐竜はあえて表面にテクスチャを張ってリアルに見せているとのこと。

 ゲーム開発者を多数集めた発表会でこの恐竜のデモ映像を流したところ、会場がシーンと静まりかえってしまい関係者は落ち込んだという。
 あとで参加者に聞いてみたところ、「あまりにショックを受けて、どう反応していいかわからなかったと言われた」と、久夛良木氏は説明した。

 セミナー会場で紹介された1994年当時の『ファミコン通信』の記事では、PlayStationの発表時に108社もの企業が参加を表明したことが報じられている。これについて聞かれた浜村氏は、「今のインディーみたいな会社がたくさんいた印象がある」と語った。
 PlayStationのローンチと同時期に『キングスフィールド』【※】を発表したフロム・ソフトウェアも、同作がゲーム初参入である。
 そういった小さな集団がたくさん現れて、今までの発想にはなかったゲームを作り始めたと、浜村氏は振り返っていた。

※キングスフィールド…… 1994年にPlayStationで発表された、主人公の一人称視点で進行するリアルタイムRPG。ほとんど説明がないままゲーム世界に投げ出されて、高低差のあるダンジョンと強力な敵に立ち向かうというシビアな内容は、フロム・ソフトウェアがのちに生み出す『ダークソウル』などにも相通じるものがある。画像は『キングスフィールド』ゲーム画面。
(画像はソフトウェアカタログより)

 この点については久夛良木氏によると、「PlayStationを始めるにあたって組んだのが、ソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)という音楽の会社だったのが大きかった」という。
 音楽業界で活動するSMEは、楽曲を作って演奏するアーティストがいちばん大事だという考え方で、新しい才能が世に出てくるのを応援するカルチャーを持っていた。
 そのカルチャーが「PlayStationと見事にハマった」と久夛良木氏。それを受けて浜村氏も「ゲームってこんなに幅があっていいんだというのを教えてもらった」と語っていた。

クリエイターの力は、ハードが持っている能力を超える

 次の比較は、それぞれのプラットフォームを代表するゲームについて。

 スーパーファミコンのファーストパーティーである任天堂からは、『スーパーマリオカート』、『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』といった、今なお続編が登場する大ヒット作が生まれているが、ここで取り上げられたのは『スターフォックス』【※】だ。

※スターフォックス
1993年に任天堂より発売された3Dシューティングゲーム。スーパーファミコン初の3D作品であった。動画はニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン版。

 『スターフォックス』では、ROMカートリッジ内に「スーパーFXチップ」という拡張チップを搭載して3Dグラフィックスを実現するという、先に上村氏が説明した拡張性を全面的に活用した内容になっている。
 この技術はイギリスのアルゴノート・ソフトウェアが売り込んできたものだという。これについて上村氏は「スーパーファミコンはファミコンと違うということを、世の中にPRするという意味で価値が高かった」ために採用したと語った。

 サードパーティーのゲームについては『ファイナルファンタジーVI』などのタイトルが挙がるなか、浜村氏は『ストリートファイターII』が、スーファミコントローラーのL・Rボタンを利用してアーケードの6ボタンを再現したことに言及した。

スーパーファミコンのコントローラー。側面にL・Rボタンがある
(画像はWikipediaより)

 スーパーファミコンでコントローラーにL・Rボタンを搭載した理由について聞かれた上村氏は、「L・Rボタンをつけろと“命令”してきたのはソフトを作る人たち」と明かした上で、スーパーファミコンはコントローラーもコネクタで接続する形になっており、自由に拡張できることを説明した。
 そして、「画面の映像だけでなく、操作も一体となった世界観の楽しさを追求する任天堂の姿勢は、この当時からずっと変わっていない」と語っていた。

 続いてPlayStationの代表作についてだが、ファーストパーティーであるSCEのゲームは『パラッパラッパー』、『XI[sai]』、『どこでもいっしょ』といった具合に、内容が非常にバラエーションに富んでいることが特徴となっている。
 ここで話題は、そうしたユニークなゲームを生み出す土壌となった「ゲームやろうぜ!」という施策に及んだ。

 一般からゲーム企画やプログラムを募集し、優秀な企画を商品化するだけでなく、クリエイターを制作チームとして採用したり独立を支援したりする「ゲームやろうぜ!」は、現在のインディーゲームの先駆けとも言える施策であった。
 前述したように、『どこでもいっしょ』や『XI[sai]』といったゲームタイトルが、この施策から誕生している。

 久夛良木氏によると、この施策は音楽業界のバンドオーディションが元になっており、「基本的にはソニー・ミュージックの人たちの肌感覚」だという。
 一般の人でも参加できるように、PlayStationの開発ツールもできるだけ安くすることで、大きな資本がなくてもソフトが開発できるんだというウキウキするような感覚が生まれたと、久夛良木氏は語っていた。

 一方、サードパーティーのゲームに関しては『バイオハザード』や『メタルギアソリッド』といった大人向けのゲームタイトルが、日本だけでなく欧米のゲームに対しても大きな影響を与えたことが説明された。
 さらに、「『ファイナルファンタジーVII』【※】はPlayStationの方向性を決めるゲームになった」と語った浜村氏は、同作を初めて見たときはゲームの可能性はここまで広がるということを痛切に感じた、と振り返っていた。

※ファイナルファンタジーVII
1997年にスクウェア(当時)より発売されたプレイステーション用ソフト。ハードがPlayStationに変わったことに伴い、表現方法を3DCGに変更。ゲームシナリオの観点からも高い評価を得ており、全世界のセールスはシリーズ最高の980万本を記録した。

 こうした大作ソフトがPlayStationで相次いで登場したことについて、久夛良木氏は「自分たちは(クリエイターが作品を描く)キャンバスを作っているような感じ」と語った上で、20年以上前に上村氏から聞いたという話を披露した。

 技術者が100という能力でハードを作ると、ゲームを作るクリエイターは70、80、90といった具合にだんだんと習熟してくる。そしてある時点からは、ハードがもともと持っている100の能力を超えるゲームが出てくるというのだ。これはこれまで数々のゲームハードを作ってきた両名ならではの、実感がこもった言葉なのだろう。

とにかく楽しんでゲームを作ってもらいたい

 最後の比較となったのは、プラットフォームでビジネスを展開していく上で必要なマネージメントについてだ。

 任天堂にはゲームソフトのデバッグやモニターを受け持つ「マリオクラブ」と呼ばれる組織の存在が知られている。上村氏によると、マリオクラブが誕生したそもそものきっかけは、上村氏が自身の講演で語った「流通の見識眼」に関係しているという。

 マリオクラブは当初、アルバイトの人たちがゲームソフトをプレイして、そのランキングを流通業者に提供して仕入れの参考にしてもらうという目的で作られた。
 ところが当初はランキングと実際の売れ行きが一致していたものの、だんだんと実際の売れ行きとのあいだにズレが生じるようになった。それはクラブのメンバーたちがゲームに慣れてしまい、「オタクになっていった」からだと上村氏は説明した。
 一方で、並行して行っていたデバッグやモニターなどは好評だったため、ソフトの品質評価を受け持つ組織として、現在まで続いているとのことだ。

 一方、PlayStationにおけるソフトのマネージメントについては、「クリエイターの作りたいものを応援するというのが、まず先にある」と久夛良木氏。

 ただし大人のマーケットも意識していたため、どうしても血が飛び散る暴力表現などが出てくるようになり、CEROも含めた何らかのレーティングが必要だという話になっていったという。
 また、世界中の家庭に展開していくにあたっては、国や地域、宗教によって基準が異なるため、そういったチェックをやらざるを得なくなったと語っていた。

 パネルディスカッションの締めくくりに、モデレーターの中村氏から上村氏と久夛良木氏の両名に、メッセージが求められた。

 「初代PlayStationが出てから23年、もっとはじけていいんじゃないか。初代ははじけまくっていた気がするので」と語る久夛良木氏に対して、上村氏は「久夛良木さんとは対称的だけど、日本人はシンプル・イズ・ベストを目指してほしい」とコメント。
 「どちらも同じことをやっても面白くないので、任天堂はシンプル・イズ・ベストを追求することで、濃密なテイストを実現してほしい」と語っていた。

 「最後にこれだけは言っておきたい」という久夛良木氏は、「日本のゲーム業界の方には、とにかく楽しんでゲームを作ってもらいたい。なぜこんなことを言うかというと、それができなくなっているジャンルもあるからなんです。複雑な意味を込めて、もう一度取り戻してほしい」とのこと。

 最後に上村氏、久夛良木氏に浜村氏も加えた3名で固い握手を交わし、大きな拍手のなかでこのセミナーは終了した。

 久夛良木健氏といえば、PS2やPS3の時代にSCEの代表として、アグレッシブな言動でゲーム業界を引っ張っていたイメージが強いのは、筆者だけではないだろう。
 一方で、かつての久夛良木氏の上司である丸山茂雄氏は、「技術者たちは久夛良木氏のことを深く尊敬していた」と語っている。テクノロジーを知る者同士だからこそ通じ合えるものが、互いにあるのだろう。

 今回、久夛良木氏とともに登壇した上村雅之氏もまた、電子機器を使ったエンターテインメントに乗り出す任天堂を支え続けてきた、技術のプロである。
 長年の経験から得られた深い見識を、飄々と解説する上村氏の語り口はじつに魅力的であり、久夛良木氏も「30年前から変わらない上村節」と、敬意と親しみを込めて呼んでいた。
 かつて世界を席巻した二大ゲームプラットフォームの生みの親同士の顔合わせ、というフレーズから予想されるような緊張感はそこになく、セミナー会場にはただ和やかな空気だけが流れていた。

 今のゲームを取り巻く状況は、かつて「ゲーム機戦争」と呼ばれた時代とは隔世の感がある。PS4やNintendo Switchといった家庭用ゲーム機だけでなく、スマートフォンやPCゲームも含めたさまざまなサービス、さまざまなプラットフォームが入り乱れる、混沌とした様相を見せている。

 そんな状況の現在の中で、かつて上村氏や久夛良木氏がゲームプラットフォームを自ら切り拓いていったエピソードを聞いていると、そのゼロから1を生み出すエネルギーに圧倒されてしまう。この20数年で、日本のゲーム業界が見失ってしまった活力を取り戻すためにも、今回の講演は意義深いものだったのではないだろうか。(了)

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著者
過去には『電撃王』『電撃姫』で、クリエイターインタビューや業界分析記事などを担当。現在は『電撃オンライン』『サンデーGX』などでゲーム記事を執筆中。また、アニメに関する著作も。
Twitter:@ito_seinosuke

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