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「キムタクが如く」と思われがちな『ロストジャッジメント』はなぜ“ド級の社会派サスペンスゲーム”なのか? 「イジメと私刑」というクソデカ社会問題にメスを入れた同作について考える

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 手からビームを放つ姿や人間離れしたダンスシーンだけを見て、「キムタクが如く」などと笑っているのは間違いだ。

 なぜなら『LOST JUDGMENT:裁かれざる記憶』(以下、『ロストジャッジメント』)は、「イジメ」という、きわめて繊細で、表現の方法論としても困難と言える事象を軸にし、前作よりもさらに踏み込んで「正義」を描くことにチャレンジしたド級の社会派サスペンスゲームだからだ

 これは後述するようにビデオゲームではほぼ真正面から描かれたことのない困難な題材であり、ましてAAA級のタイトルを例に考えればおそらく初の試みだろう。

「キムタクが如く」と思われがちな『ロストジャッジメント』はなぜ“ド級の社会派サスペンスゲーム”なのか? 「イジメと私刑」というクソデカ社会問題にメスを入れた同作について考える_001

文/悲野ヒコ
編集/ishigenn


舞台や時代背景を発売年に合わせて形作る、「龍が如くスタジオ」のこだわり

 本作を語るにあたって、どうしても外せない要素がいくつかある。まずはこの作品が、2018年に発売された木村拓哉主演のリーガルサスペンスアクションゲーム『JUDGE EYES:死神の遺言』(以下、『ジャッジアイズ』)の続編であると同時に、2005年から始まった『龍が如く』シリーズの系譜を継ぐ新たなIPであるという位置づけだ

 普段あまり語られないことだが、2005年から2021年までのおよそ16年のあいだに世に出てきた『龍が如く』の系譜に連なる作品数は、じつに20本近い(※スピンオフやリメイク含む)。おもに実在する日本の街々や歴史を舞台の参考にした日本開発のゲームでありながら、「日本産のゲームは衰退した」と声高に言われてきた冬の時代も生き抜いた異色の長寿シリーズであり、その多作さと優れたキャラクターにより国内外で人気の裾野を広げ続けてきた。

 そして作品を重ねていく中で、『龍が如く』のナンバリング作は「舞台や時代背景をその発売年に合わせて形作る」という「龍が如くスタジオ」のこだわりが強く寄せられていった。これによりこの大作シリーズは、地味にだが確実に水面下で徐々に変わっていく日本社会そのものを映し出す「鏡」としての意味合いを持つようになった、と言っても過言ではない。

 実際に2005年に初代『龍が如く』で出現した架空の街「東京神室町」の世界と、2021年に『ロストジャッジメント』でその存在を新たにした「東京神室町」の世界は、似ているように見えてけっして同一ではない。描写される社会風俗や人々の在り方にその時代が持つ空気感など、流行歌が世の移り変わりとともに変化するように、「龍が如くスタジオ」が描き出している世界もまた現在進行形で変化し続けている

 さらに作品全体のテーマやコンセプトにしてみても、初期の『龍が如く』が「仁義、生き様、金、経済、権力、情」という社会を構成する基本的なエレメントを初代主人公である桐生一馬という巨人を通して描いてきたのに対し、『ジャッジアイズ』はそのいささか牧歌的かつ紋切型とも言えるエンターテインメントからの脱却を図っていた。

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 より現代的に洗練された「正義」をテーマにした非常に練りこまれたプロットと、木村拓哉の放つ無二の存在感は、『龍が如く』シリーズとはまた異なった複雑な社会テーマを扱いながらも、エンターテインメントとして確実に成功に導いていたと言えるだろう。

なぜ『ジャッジアイズ』にはキムタクが必要だったのか? 「八神隆之」は桐生一馬に次ぐ神室町の主人公に

 その続編である『ロストジャッジメント』は、全編にわたって悪質な「イジメ」事件の加害者たちに「私刑」を執行することの是非を問いている。

 もちろん法治国家という通念上、また社会秩序の維持という意味でも、「私刑」は許されない。しかし読者の中には、「私刑が許されないというのは別の側面から見れば方便であり、単なるきれいごとでは?」と、一度は自問した者もいるのではないだろうか。

 法という技術システムの中で救いあげられなかった弱者の無念や怨嗟や絶望はどこにいくのか。それを別の形で救いあげることは倫理的に間違っているのか。ゲーム本編では最初から最後まで、はたしてそれは「正義」と呼べるものかという重い質問を、極めて鋭利にプレイヤーに突きつけてくる。

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 前述したように、「イジメ」はビデオゲームで描くには、あまりにも困難な題材だ。それは「イジメ」があまりにも身近で、被害者側であれ加害者側であれ、じつは関わったことがない人間など、ほぼいないからである。

 ゲーム本編冒頭では、横浜・伊勢佐木異人町にやって来た八神たちに向けて、オキシトシンという脳内ホルモンについて語られるシーンが存在する。いわく「太古の昔、ヒトが仲間と助け合うようになることができた」という仲間意識を刺激するその物質は、一方で群れの中で足を引っ張る存在を裏切り者として認識することを促し、対象には「正義としての制裁」が加えられるようになったと。

 それは空気の読めない者をKYと読んだり、反応の鈍い者をノリが悪いとイジメたりする、現代のマイノリティの排除となんら変わりがないというのだ。

 そう作品が語るように、集団の中で特定の誰かを弾く行為や思想そのものを広義の「イジメ」と定義すると、程度の差こそあれ誰もが人生のどこかの局面においてそれを経験してきたと言える。目撃し、被害を被り、そして誰もが加害している。例外なく誰もがそうだ。

 人が集団の中で社会を形成し始めたことで、集団の利益は個の利益より優先されるようになる。自由より秩序が重んじられ、その中に馴染めない者は排除される。社会の維持発展を考えれば当然とも言える発想だ。

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ビデオゲームで「イジメ」を描くことの難しさ

 社会の発展と安定の中で、いまやむしろ個性が大切とされ、個性を持つことに価値があると叫ばれるようにはなった。しかし多様性が尊ばれる世の中になったはなったで、社会にとって異質な存在を排除しようとする斥力は、じつは誰の心にも根強く残っている。あらゆるエンターテインメントが「誰も傷つけない表現」を試行錯誤するが、同様な規模感で向かい風が吹くのは、そういう一例だろう。

 またSNSにおいて、誰かが何か見過ごせない問題を起こした際、我々は半匿名の安全な場所から誰かを非難し、自らの正当性を謳い、多数の意見に同調することを「正義」の名のもとに執行してはいないだろうか。そしてそれを何となく無視して「自分は無関係です」というアピールをしていないだろうか。

 誰かの行動に関して誰かに誘導され、あるいは自分で考え、社会の掟に逆らった人間や、対立する意見を持つ立場の人間をひたすら排斥していく行為。著しく誰かの尊厳を棄損するという意味で、これらの行動はじつは「イジメ」とほぼ変わらない。その手段が腕力だろうと、SNS上に軽い気持ちで書き込んだ一文でも、その行為の性質においてなにひとつ変わらないのだ。

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 場所が学校だから、被害者も加害者も学生だから、集団で行われているから「イジメ」が問題なわけではない。同僚に、友人に、配偶者に、知らない人に「イジメ」は社会に出て大人になっても、恒常的に同じような精神性の中で行われ続けているから問題なのである。

 集団の中で疎外された思いをしたことがない人間が稀有であるように、集団の中で誰かを疎外したことがない人間もまた稀有なのだ。社会に暮らす誰も無関係ではなく、社会に暮らす誰もが被害者で、そして加害者だ。誰もが汚れていて、その事実を正確に認めていない。

 人間の本質にあまりにも近いからこそ、「イジメ」という問題は誰もが固有の視点と考えを持つ題材であり、それは作中でもさまざまなキャラクターの視点から提示されてゆく。ゆえに「プレイヤーが介入してゲーム性を楽しむビデオゲーム」では操作キャラクターとプレイヤーとの思考の“ズレ”がたやすく生まれる。だからこそビデオゲームで「イジメ」を描くのは難しい。

 しかし、SNSやコロナ禍の混迷の社会の中でもいまだに「イジメ」の事件が顕在化している現代だからこそ、それを問うのは時代の移り変わりとともに変化してきた「龍が如くスタジオ」が生み出すブランドにとって自然なのかもしれない。物語に普遍性を持たせながらも、どこかしら「今」を感じさせるのは、じつはシリーズがもっとも得意とする在り方でもある。

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プレイヤーが抱く心情的ズレによって物語とテーマ性を俯瞰視

 まず『ロストジャッジメント』の物語で特筆すべきなのは、「正義」とは何かというテーマ性の中で、本作の登場人物に「敵役」という純粋な悪役がほぼひとりも存在しないという点だ

 私刑は「正義」とは言えないという八神と、私刑は「正義」だという信念を持つ人、さらに秩序を維持することこそが「正義」であると信じる人。己の信じるところは違えども、誰ひとりとして「イジメ」自体を是認していない。つまりスタンスの違いはあれど、誰もがこの世にはびこる理不尽の解決を行動原理としているのだ

 大人のシステムに染まり善悪の区別が曖昧になってしまった人間はいても、私欲に塗れ切り、己の私利だけに行動している人間はほぼいない。どこか歪んでいても、どこか迷っていても、それでも自らが設定した正義のルールのために全員が行動している。それこそが『ロストジャッジメント』をストレートな勧善懲悪の物語ではなく、複雑で優れた群像劇にし、いままでのシリーズ作品と一線を画す姿形にせしめている

 その中で、すでに起こってしまった「イジメ」とその凄惨な結果に対して「どう対応するのが正解なのか」という、誰にとっても他人事ではなく、明快な答えが出づらい問題が突きつけられていく。プレイヤー個々人の持つ体験や経験に根ざしている不安定で曖昧な思いは、『ロストジャッジメント』というビデオゲームの中に登場する主要なキャラクター陣が織りなす強い思いと信念の間でゆらぎ続けるのだ

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 それは『龍が如く』シリーズや『ジャッジアイズ』のストーリーテリングの中で、桐生一馬や八神隆之のような主人公キャラクター達が感情移入の受け皿として強く存在していたのとは対照的だ。『ロストジャッジメント』では、ときとしてプレイヤーの心情と八神隆之の行動が乖離する瞬間さえありうる

 他者の尊厳を蹂躙し、心を破壊しつくす凄まじい悪意と無関心が引き起こす不幸で日常的な「イジメ」に対して、法の番人でもあった八神は私刑による制裁以外の方法論を訴えるが、この作品をプレイする人たち全員がその強い信念に共感できるかと言えばそうではないだろう。

 そして同じように、対立軸として迷いながらも私刑の道を選んだ登場人物たちの行動や叫びに完全には共感できないまでも、部分的には理解できてしまうかもしれない。

 両者ともに、社会的弱者が現在進行形で被っている、あらゆる意味での暴力行為に対してどうすれば寄り添えるのかという問題を、真正面から受け止めている。それゆえに、どちらが完全な善でどちらが完全な悪ということはあり得ない

 その結果としてプレイヤーはゲームの進行に合わせて、八神の正義ともう一方の正義のどちらにも揺れ、メインキャラクターである八神隆之との心情的ズレを生じさせる。これによって『ロストジャッジメント』は、物語とテーマ性を俯瞰視させることに成功している。

最後までブレない「イジメと私刑」という論点

 また忘れてはならないのは、この物語の中で「イジメ」という根幹のテーマがまったく別の大きな悪や陰謀に繋がっていきながら、巧妙にも「イジメ」の事件が単なる物語の狂言回しには終始していない点だ。最後の最後まで、どんなに話が大きくなったとしても、最終的には「イジメと私刑」という根幹の論点に話が戻ってくる

 優れた巧みなプロットは、プレイヤーの心を惹きつける謎を随所に提示しながら先の展開が読めない物語を楽しませ、ストーリーの根幹にある問題を追ってきたプレイヤーが満足しうる「問いかけ」を残していく。

 一見簡単なようで、各々の正義を完全に肯定も否定もしないというあまりにも困難な方法論によって、『ロストジャッジメント』はキャラクターが紡ぎ出す物語を立脚させた。それだけではなく、重大な問題提起と極めて高いエンターテインメント性を高い次元で両立させたシリーズの到達点となった。

 本作はその完成度において、「キムタク」がゲーム内で動くという前作のフックとなったギミックの面白さを払拭し、八神隆之という存在を明確に確立させたと言えるだろう

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「汚れるのが厭ならば、生きることをやめなくてはならない。生きているのに汚れてないつもりならば、それは鈍感である」

吉行淳之介

 「正義」というのは不思議な言葉だ。誰でも知っている言葉なのに、その本質は蜃気楼のようにぼやけていく。普段そんなものは気にして生きてはいないのに、安全地帯から敵対者に石を投げるときには、信じられないほど無自覚に鉄壁のエクスキューズとして利用だけはする。

 個人が誰かの尊厳を信じがたいほどに傷つけ死に追いやった先に、僕らは正義の言葉を空々しく発しながら勇ましく加害者を罰するが、それが終わらない円環であることに関して関心を持つ人間は驚くほど少ない。

 そんな地獄が恒常的に生まれ続ける社会に僕らが生きていかなければならないのは、いったい誰のせいなのだろうか。社会のせいなのか、政治のせいなのか、お前らのせいなのか、あるいは殴り返してこない相手を死ぬまで殴り続け、他者の痛みを平気で見て見ぬふりをすることのできる僕らの無邪気さのせいなのだろうか

 初代『龍が如く』から16年のあいだに、日本では見知らぬ誰かが生まれ、見知った誰かが世を去っていった。泣いていた誰かが幸福を享受し、笑っていた誰かは地の底で這いずり回っている。

 そして誰もが疑わなかった多くの常識や思想信条は崩れ去り、正しいと思っていたことはしれじれしく嘘に塗れ、世界は誰も思いもよらなかった厄災の只中にある。形作る「ガワ」に変化は無くても、中身は少しずつ変化している。

ライター
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悲野ヒコ
大学時代4年間で累計ゲーセン滞在時間がトリプルスコア程度学校滞在時間を上回っていた重度のゲーセンゲーマーでした。 喜ばしいことに今はCS中心にほぼどんなゲームでも美味しく味わえる大人に成長、特にプレイヤーの資質を試すような難易度の高いゲームが好物です。
編集
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ニュースから企画まで幅広く執筆予定の編集部デスク。ペーペーのフリーライター時代からゲーム情報サイト「AUTOMATON」の二代目編集長を経て電ファミニコゲーマーにたどり着く。「インディーとか洋ゲーばっかりやってるんでしょ?」とよく言われるが、和ゲーもソシャゲもレトロも楽しくたしなむ雑食派。
Twitter:@ishigenn

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