いま読まれている記事

クリエイターには「原液」性が必要だ。藤本タツキが「嫉妬」した『我々は宇宙人』は、若い才能に立ち会うための映画である。

article-thumbnail-260925w

1

2

クリエイターには、「原液」性が必要だと思うことがある。

言い換えれば、「原液」となれるだけの強度が必要だ、ということだ。

ヒットするには、大衆に受ける必要がある。
要するに、多くの人にとって食べやすい作品でなければならない。ところが、表面的な食べやすさだけの作品は底が浅く、深みに欠け、結局ヒットには至らない。

つまり真にヒットする作品は、「食べやすさ」と「奥底の深み」という相反する要素を併せ持っており、そこが作品作りの難しさだと言える。

そして、この矛盾を成立させるのが「原液」である。

そのクリエイターが根っこに持っている、濃い何か。そのまま出すと、くどかったり分かりづらかったりして受け入れられない。だが適度に薄めると、ちょうどよくて美味しいものになる。

カルピスの原液を思い浮かべてもらえれば、そのイメージが伝わるだろうか?

例えば、新海誠さんでいえば、『ほしのこえ』や『言の葉の庭』には原液性を感じるし、それを飲みやすく大衆向けに完成させたのが『君の名は。』だと言える。

あるいは、「風の谷のナウシカ」の漫画版を見ると、宮崎駿という作家の根っこの思想性のようなものを感じることができる。劇場アニメとなった「風の谷のナウシカ」は、そこからかなりエンターテインメントに振っていることが、後から見比べるとよく分かる。

重要なのは、『君の名は。』は単に“薄めたから売れた”のではなく、薄めても味が残るほど原液が濃かったから売れた──ということだ。原液性のないクリエイターが飲みやすさだけを追うと、ただの砂糖水になる。

砂糖水は、一杯目は飲めても、二杯目を頼もうとは思わないものだ。

その人にしか見えていないもの。その人だけが、いつまでも引っかかっていること。ほかの人なら適当に流してしまうのに、どうしても流せない感情や、忘れられない風景。
それは、必ずしも立派な思想や、壮大なテーマである必要はない。むしろ、本人にとっても、なぜそこまで大切なのかをうまく説明できないものかもしれない。

原液性とは、それを取り除いてしまうと、その人が作品を作る理由までなくなってしまう。そういう、根っこのところにある、濃い何かだ。

さて。
9月25日に公開された長編アニメーション映画『我々は宇宙人』は、筆者にとって、その「原液」性を強烈に感じる作品だった。

藤本タツキが「嫉妬」した『我々は宇宙人』は、若い才能に立ち会うための映画である_001

企画・脚本・監督を務めるのは、YOASOBI「優しい彗星」のMVなどを手がけてきた門脇康平(かどわきこうへい)氏。本作が長編初監督作になるという。

正直、売れ線とは言いがたいと思う。
絵には独特の癖があるし、タイトルからは何を期待して観に行けばいいのかがわかりにくい。あらすじを説明しても、肝心の面白さがなかなか伝わりづらいだろう。

でも、実際に観てみたら、これがとても面白かった。

ただ子どもたちの日常を観ているだけなのに、妙に引き込まれる。そして、気づいたときには、その日常がサスペンス映画のような手触りを帯びてくる。人物たちのことを考えていたはずが、いつの間にか、自分のことまで考えさせられているのだ。

これが「魂を込めた作品」であることは間違いない。

そして、だからこそ観終わって、別の意味でも驚いた。

「よくこの監督に、この映画を、この濃さのまま作らせたものだ」

才能のある人が映画を作った、というだけではない。その才能の、少し扱いづらい部分まで含めて、映画にすることを選んだ人たちがいる。私には、そのことが作品そのものの面白さと切り離せないように感じられた。

というわけで、今回は、『我々は宇宙人』の紹介&解説をしながら、そんな「才能」と「それに向き合う人」について、少し語ってみたいと思う。

文/TAITAI(電ファミニコゲーマー編集長)


タイトルを見ても、何の映画なのかわからなかった

まずは、簡単に作品の概要を説明しておこう。

というか、まず正直に言うと、本作のタイトルを見ても、いったいどんな映画なのかがまったくイメージ出来ていなかった。“事前の期待”をどこに置けばいいのかが、全然分からない作品だったのだ。

キービジュアルを見ても、「泣ける青春アニメ」とも「SF」とも言い切れない。『我々は宇宙人』というタイトルは、中身を何も教えてくれない。興行的には、かなりのハンディである。

藤本タツキが「嫉妬」した『我々は宇宙人』は、若い才能に立ち会うための映画である_002

そんな本作の物語の舞台は、平成の田舎町。
内気で“普通”であることに悩む翼と、クラスの人気者で“特別”な暁太郎。小学3年生で出会った二人の、30年にわたる関係を描く。

前半は、登場人物たちの日常を描いているだけだ。二人だけの遊び、意味のない会話、夕暮れの帰り道。それだけなのに、不思議と引き込まれていく。

公式のあらすじを借りれば、翼は暁太郎の変化に気づきながら「何も言えず、何もしないという選択を重ねてしまう」のだ。

加害者でも、被害者でもなく、見ていた側。

教室にいた人間の大半は、この立ち位置にいたはずだ。だからこの映画は、観た人間の古傷に触れることになる。「クラスにいた、あいつ」の顔が浮かぶのだ。

浮いた存在に視線が集まり、噂が囲んでいく教室の力学は、令和のいま、SNSのタイムラインで毎日再生産されている。平成の田舎の日常を描くことは、現代で起きていることを、一段引いた場所から見せるための距離感でもあるのだ。

描いているのは「平成の風景」ではなく「あのころの自分」

本作における濃さ(原液性)は、奇抜な設定や難しい言葉ではなく、なんでもない日常の描写の中に宿っている。

本作が描いているのは「平成の風景」ではなく、「あのころの自分の感覚」だと思う。

まず引き込まれるのが、この子ども時代の描き方である。
何か大事件が起きているわけではない。子どもたちが遊び、話し、一緒に過ごしている。それだけなのに、観ていられる。

登場人物が、物語を進めるためだけに動いている感じがしないのだ。

藤本タツキが「嫉妬」した『我々は宇宙人』は、若い才能に立ち会うための映画である_003

あらすじだけなら、もっと短くできるかもしれない。
例えば、「ふたりは出会い、親友になりました」とだけ言えば、情報としては、それで伝わる。だが、それだけでは、その友情にどんな時間が詰まっていたのかまでは伝わらない。

門脇監督は制作の過程について、子役の動きを繰り返し撮影して観察したと説明している。また、学校の机の角の丸みや、使われて傷んだランドセルなど、過去の手触りにつながる描写にこだわったという。

「昔はこんなものがありました」と見せられれば、頭では懐かしいとわかる。
けれど、「そういえば、自分もああいうふうに使っていた」と感じたときには、より身体性を伴って記憶が戻ってくる。

本作の絵は、過去について説明するためではなく、過去の感覚に触れるために描かれているように見受けられる。

子どもたちも、物語に必要なことだけをしているわけではない。
最短距離で移動するわけでも、要領よく会話するわけでもない。大人から見れば、どうでもいいことに夢中になる。

でも、子ども時代のかけがえのなさは、案外、そういう「どうでもいいこと」の中にある。

本作の細かさは、単に情報量が多いという意味ではない。何を見せれば、その時間の価値が伝わるのか。そこを見逃していない細かさなのだと思う。

藤本タツキが「嫉妬」した『我々は宇宙人』は、若い才能に立ち会うための映画である_004

だから本作の絵作りも、デフォルメの方向ではなく、記憶の解像度を上げる方向に振られている。教室の空気、机の傷、夕方の光。「アニメを観ている」というより、「自分の小学校の記憶を上書きされている」感覚に近い。

試写を観た人の感想に、鋭いものがあった。
もし寸分違わない実写版があったとして、ここまで感傷を伴って過去が甦っただろうか、という問いだ。

答えは否だと思う。

実写であれば、登場人物のイメージはより固有の人間(他人)に固定化され、「自分のクラスのあいつ」ではなくなっていたような気がする。あくまで線で描かれた絵(アニメーション)だからこそ、情報量が適度に引き算されて、観客の記憶に入り込む余白を作ったのではないか?

これが、アニメーションという表現の面白さなのかもしれない。抽象化された「絵」だからこそ、見た人側の記憶に触れる/呼び起こすような感覚が得られたのだ。

独特の癖のある絵柄は、鑑賞へのハードルであると同時に、その感覚を生むための大切な表現でもあるのだろう。

「全シーンが、自分の感覚」──29歳の作家がほとんど一人で描いた映画

藤本タツキが「嫉妬」した『我々は宇宙人』は、若い才能に立ち会うための映画である_005

本作は、とても「原液」性が感じられる作品であると書いた。
ではなぜ、本作は原液のまま世に出せたのか。

監督の門脇康平氏は29歳。企画・脚本・監督・絵コンテ・編集を自分で担い、クレジットにはキャラクターデザイン、作画監督、美術監督まで名前が入っている。あるインタビューでは、「全シーンが自分の感覚だ」と語っていた。

長編アニメは普通、分業で作られる。
分業が入るたびに、作家の感覚は少しずつ「他人の常識」で薄められていく。門脇監督は、その薄まる工程のほぼすべてを、自分の手元に置いた。だから、薄まらない。『ほしのこえ』が、ほぼ一人で作られていたのと同じ構造だ。

門脇氏は東京藝大在学中の20歳から、日常と地続きの宇宙を描く自主映画を撮ってきた作家でもある。本作は、29歳の新人が急に思いついたものではなく、20歳から煮詰めてきた原液が、初めて長編の器に注がれたものなのだ。

藤本タツキが嫉妬している?

この原液の濃さを、誰よりも正確に嗅ぎ取った人物がいる。

『チェンソーマン』『ルックバック』などで知られる漫画家・藤本タツキ氏だ。

藤本氏は、クラウドファンディング開始時のティザー特報でこの作品を知った。この描き方でやるなら自分は観に行く、と思ったという。

試写には、面白くなければ途中で出るつもりで行ったと言い、そして観終わって、「ここ3年はこれ以上面白いものは出てこない」と感じたそうだ。公式に寄せたコメントには、

「試写で見せてもらった後からずっと嫉妬しています」

とある。

業界人の営業コメントに、「嫉妬」という言葉は出てこない。原液性を持っている作家が、別の作家の原液を見つけたときにだけ出る言葉だろう。

面白いのは、藤本氏を試写に向かわせたのが、私が「癖がある」「売れ線ではない」と書いた、あの絵柄だったということだ。大衆にはハードルに見えるものが、作家には合図として届いているのかもしれない。

藤本タツキが「嫉妬」した『我々は宇宙人』は、若い才能に立ち会うための映画である_006

念のため書いておくと、本作は「届ける努力」をまったくしていないわけではない。W主演の坂東龍汰さんと岡山天音さん、ヒロインに櫻坂46の山﨑天さん、令和ロマンの松井ケムリさん。音楽はYaffleさん、主題歌はadieuさん。ここは手堅く、大衆に向いている。

ただし、それらはすべて「入り口」の調整だ。
本体であるシナリオ、絵、構成などには、一切手が入っていない。原液のボトルに、飲みやすそうなラベルを貼っただけで、中身はそのままである。

1

2

編集長
電ファミニコゲーマー編集長、「第四境界」プロデューサー。 ゲーム情報サイト「4Gamer.net」の副編集長を経て、KADOKAWA&ドワンゴにて「電ファミニコゲーマー」を立ち上げ、ゲーム業界を中心にした記事の執筆や、サイトの設計など運営全般に携わる。2019年に株式会社マレを創業し独立。 独立以降は、編集業務のかたわら、ゲームの企画&プロデュースなどにも従事しており、SNSミステリー企画『Project;COLD』ではプロデューサーを務める。また近年では、ARG(代替現実ゲーム)専門の制作スタジオ「第四境界」を立ちあげ、「人の財布」「かがみの特殊少年更生施設」の企画/宣伝などにも関わっている。
Twitter:@TAITAI999

本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ている場合がございます

新着記事

新着記事

ピックアップ

連載・特集一覧

カテゴリ

その他

若ゲのいたり

カテゴリーピックアップ