2026年、個人や少人数でゲームを開発するクリエイターが、かつてないほど増えている。
だが35年前、そうしたシーンも潮流も何ひとつなかった時代に、たったひとりでゲームを作り、のちのビデオゲームへ多大な影響を与えたゲームデザイナーがいる。
その名はエリック・シャイ。1991年にAmiga 500、Atari ST向けに発売されたアクションアドベンチャーの金字塔『Another World』の作者だ。日本では1992年に『アウターワールド』というタイトルで、スーパーファミコン向けに発売された。
本作は、実験中の落雷事故で異世界に飛ばされた青年レスターが、異星人と協力して脱出を目指す物語が描かれる。状況説明やセリフ、インターフェースも一切なく、ロトスコープによる滑らかなポリゴンアニメーションと音楽だけで、すべてが語られていく。
『Another World』は、『ワンダと巨像』を手がけた上田文人氏や『メタルギア』シリーズを手がけた小島監督、『killer7』を手がけた須田剛一氏など、日本を代表するクリエイターたちが「影響を受けた」と公言してきた作品である。そんな歴史に名を残すタイトルをエリック・シャイ氏はグラフィックからプログラミングに至るまで、すべてひとりで手がけた。
いったい35年前に、どういった道筋をたどれば、たったひとりで革新的なビデオゲームが作れるのだろうか。それを知っているのは、エリック・シャイ氏ただひとりだ。
このたび、アルシペル主催のゲームカルチャーの祭典「The Tenth Mosaic」への出演のため、エリック・シャイ氏が13年ぶりに来日した。電ファミ編集部は、その会場となった東京日仏学院で氏に直接話を聞く機会を得た。
しかも今回、エリック・シャイ氏は当時の制作資料を日本まで持参してくれていた。
方眼紙にびっしりと描き込まれたドット絵。カバーアートに使われたドローイング。プログラムに打ち込む前のコードを書き留めた、手書きのノート。そして、ロトスコープの撮影に実際に使われた備品。

そうした貴重な資料と共に語られたのは、35年前の「個人ゲーム開発」の現場そのものだった。
思ったように作れるツールがなかったから、ポリゴンエディターも開発言語も自分で作った。全体の構想が見えなければ「即興」を交えて作りあげた。パブリッシャーからの「BGMを変えろ」というしつこい要求には、無限に流れ続けるFAX「インフィニティ・ファックス」を送りつけて抗議した。
個人でゲームを作ることが、まだ「インディー」と呼ばれてすらいなかった時代。その黎明期を生きたエリック・シャイ氏に、たったひとりで『Another World』を生み出すまでの経緯を伺った。あわせて、現在のフランスのインディーゲームシーン、そして今後のビデオゲームに期待することについても聞いている。
13年ぶりの来日。35年前の『Another zWorld』の制作資料
── 本日はよろしくお願いします。さっそくですが、すごい資料ですね。
エリック・シャイ氏(以下、エリック氏):
じつは『Another World』でロトスコープ【※】撮影時に使った実際の備品などを、日本に持参してきたんです。こちらが、当時の制作に使用していた資料です。
※ロトスコープ……実写映像を1コマずつ下敷きにしてなぞり、アニメーションを作る技法。1910年代にマックス・フライシャーが考案したとされ、ディズニー作品などでも用いられてきた。
── 当時のものを、まだお持ちであることに驚きました。35年前の資料ですし、博物館に収められていてもおかしくないものですよね。
エリック氏:
制作したときから、ずっと大切に保管してきました。たとえばこちらのドローイングは、『Another World』のカバーアートに使われたものです。おもに色のリサーチに利用していました。
また、このドットは『Another World』よりも前に描いていたものです。方眼紙に描かれているように、当初はすべてドットで紙に描いていました。それから、コードをプログラムに書き込む前に、まず自分で手書きでノートに書き出すこともよくやっていましたね。
── そして、こちらが当時『Another World』を制作する際に使用されていたコンピューターですね。
エリック氏:
「ORIC-1」【※】というイギリス製のコンピューターです。イギリスではあまり普及しなかったようですが、フランスでは多くの人が使用していました。
※ORIC-1……1983年にイギリスのタンジェリン・コンピュータ・システムズが発売した8ビットのホームコンピューター。エリック・シャイ氏によると本国では苦戦したものの、フランスでは広く普及したという。
ビデオゲームに感じた魔法的な魅力。アーケードと「ゲーム&ウォッチ」の感動
── いま見せていただいた「ORIC-1」などを使って『Another World』という傑作が生まれたわけですが、そもそもエリックさんが表現方法としては映画や書籍といった選択肢もある中で「ビデオゲームを作ろう」と思い立った初期衝動はどのようなものだったのでしょうか。
エリック氏:
私がビデオゲームを作りたいと強く思ったのは、中学生のころでした。アーケードゲームの『スペースインベーダー』や『パックマン』をプレイして、とても感動したんです。
「画面の中にあるものを、自分の手で実際に動かせる」という体験が、当時の私にはまるで魔法のように感じられました。それまではテレビの映像は、ただ受動的に受け取るものだと思っていましたから、みずから操作できるということに強い衝撃を受けたんです。
── 当時のアーケード筐体に触れて感動したのですね。ちなみに、フランスにはゲームセンターのような施設があったのでしょうか。
エリック氏:
当時はフランスでアーケードゲームのブームが起きていました。
遊べる場所はおもに2種類あって、筐体がたくさん並んでいるゲームセンターか、筐体が1台だけポツンと置いてあるカフェです。
ただ、当時の私はまだ未成年だったので、普段から入り浸るというよりは、夏休みの家族旅行のついでに遊ぶことが多かったですね。毎年「今年の夏は何がプレイできるのだろう」と、ワクワクしながら想像していました。
アーケードゲームのほかに、もうひとつ衝撃を受けたのが「ゲーム&ウオッチ」です。当時は『オイルパニック』と『ドンキーコングJR.』を遊んでいました。
数学の先生に教わったコード、15歳で世に出たゲーム『フロッグ』
── どのように技術を学び、ゲーム開発に関わっていったのでしょうか。
エリック氏:
フランスの中学校は4年制で、ちょうど4年生のころにマイクロコンピューターに興味を持ちました。
初めて触ったのは「ZX81」【※】というコンピューターです。学校の数学の先生がコードの書き方を教えてくれて、正午から午後2時までの時間で勉強していました。]

※ZX81……1981年にイギリスのシンクレア・リサーチが発売した8ビットのホームコンピューター。テレビに接続して使う廉価な機種として、欧州で広く普及した。
その後、先ほどお見せした「ORIC-1」を手に入れ、初めてBASICでコードを書き、コンピューターをテレビにつなげてプログラミングをする経験をしました。
── 当時はパソコンに触れている人自体が少なかったと思います。技術を学ぶ場や、情報交換をするコミュニティはあったのでしょうか。
エリック氏:
おっしゃるとおり、情報を得られる場は本当に限られていました。
私が活用していたのはおもにふたつで、ひとつはパソコン雑誌です。ゲーム専門誌ではありませんでしたが、掲載されているサンプルのプログラムを見て技術を学ぶことができました。
もうひとつは、地元のパソコンクラブです。マイクロコンピューターのファンが集まって情報やゲームを交換する場所で、私もそこへ通い、仲間といっしょにアセンブラなどのプログラミング言語を学びました。
── 学習環境は限られていたものの、ある程度ゲームを作るために、技術を学べる環境があったんですね。
エリック氏:
はい。ORIC-1を入手して1ヵ月ほど経ったころ、当時私はまだ15歳でしたが、自作のゲームをコンピューターの輸入代理店に持ち込んだんです。自分の作ったゲームが実際に世に出ていくというのは、非常に誇らしい経験でしたね。
── 15歳ですか!? いまのように個人制作ゲームが流通する仕組みがなかった時代に、それはすごいですね。
エリック氏:
運が良かったのだと思います。
というのも、両親の友人が語学本などを出している出版社の社員で、趣味でコンピューターを触っている方でした。その人が「ゲームを販売・公開できる会社があるよ」、「この会社に話をしてみてはどうか」と、ゲームを販売するための具体的な道筋を示してくれたんです。
── その最初のゲームは、どのような内容だったのでしょうか。
エリック氏:
『フロッグ』というタイトルの、とてもシンプルなゲームです。プレイヤーはカエルのキャラクターを操作して、伸びる舌で虫を捕まえます。ハエを食べればライフが回復し、ハチに当たるとダメージを受ける、といった内容でした。このイラストは、当時の『フロッグ』のキャラクターデザインです。
── かわいらしいカエルの絵ですね。『Another World』以前の資料まで残っているとは驚きです。
ひとりからチームへ、テクノロジーありきから「何を伝えたいか」へ
── 15歳で作られたその『フロッグ』から始まり、のちの『Another World』に至るまで、エリックさんはゲームをおひとりで作られていますよね。当初から、ゲームはずっと個人で作っていくと決めていたのでしょうか。
エリック氏:
時期によって異なりますね。
たとえば初期の8ビット時代、アムストラッド【※】などで出していたゲームについては完全にひとりで5、6本のタイトルを制作しました。
※アムストラッド/Amiga 500/Atari ST…… いずれも1980年代に欧州で普及したホームコンピューター。アムストラッド(Amstrad CPC)は1984年発売の8ビット機で、フランスでも広く使われた。Amiga 500とAtari STは、グラフィックと音源に優れた16ビット機として、当時の欧州ゲーム開発の中心となった。
しかしその後、Amiga 500やAtari STの時代に入ると、初めてチームを組んでゲームを作るようになりました。じつはその時期、私は一度プログラミングから身を引き、1年半から2年ほどグラフィック表現に専念していた時期があるんです。
── それは、なぜでしょうか?
エリック氏:
理由としては、8ビット時代後期に技術が急速に発展し、世の中のゲームの質がどんどん上がっていったからです。それに追いつくためには、プログラミングだけでなくグラフィックも高いレベルで扱えなければならないと感じたためです。
── ちなみに、ゲームクリエイターには「作りたい世界観」を起点にする人と「いまある最新テクノロジー」を起点にする人がいると思います。エリックさんはどちらのタイプだったのでしょうか。
エリック氏:
私はその狭間にいる、という感覚があります。ただ、ゲームを開発し始めた当初は「テクノロジーありき」だったように思います。昔のマシンには厳しい制約があり、それをどう乗り越えるかがつねに課題だったんです。
「自分の表現のために、自分でツールを開発する」という経験は、そうした課題から生まれています。
── なるほど。
エリック氏:
ですが、年齢を重ねるにつれて、重心は「自分が何を表現し、何を伝えたいのか」ということへ移っていきました。
世界観や感情、アイデアをどのようにプレイヤーへ届けるか。出発点は依然として技術ですが、そこから「この技術を使って何を表現するか」へと発展させていくアプローチに変わりました。
── かつては「制約として乗り越える相手」だった技術が、いまは「そこから何を表現するかを考える出発点」になったと。
エリック氏:
そうです。だから最近は、その技術が物理的にどんな表現をできるのか、その技術がほかのアイデアとどのように協調し、響き合うか。つまり出発点は技術で、そこからどう進化させるか、という形で考えています。
『Another World』では対象となる技術がポリゴンであり、近作の『ペーパービースト』【※】では「動き」に一度重きを置き、そこから発展させていくプロセスを取っていますね。


※『ペーパービースト』……エリック・シャイ氏が手がけ、2020年に発売されたVRゲーム。インターネットのデータの海から生まれた、紙のような生き物たちの生態系を探索する。生き物の動きと物理シミュレーションが特徴。








