「ホラーゲーム宣言」
~ゲーム史が産み落とした「鬼子」に捧ぐ~
(文:電ファミニコゲーマー編集部)
この夏、電ファミニコゲーマーでは「ホラーゲーム」を特集する。
ホラーゲームの年表を掲載した特設ページを設置して、8月末までの1ヶ月以上にわたり、毎日ホラーゲームの名作を紹介。さらにはゲームの企画書のホラーゲーム特別回や、電ファミ連載陣によるホラーゲームについての特別コラムなどに加えて、ホラー系のおもしろ企画も準備中だ。
通常のネットメディアでは、単発で記事を作っていくのが普通の運営手法であって、こういう雑誌やムックのような総力特集を組むことはまずない。だが、電ファミニコゲーマーでは当初から、この紙媒体的な手法をあえて取り入れて、ネットならではのお祭り性の高い企画を実施してみたいという話を編集部内でしてきた。その第一弾となる試みが、この「ホラーゲーム」の特集である。
では、なぜ「ホラーゲーム」の特集から始めるのか?
まあ、その理由は――夏だからホラーでお祭りしてみようと思った、と言えばそれまでであるし、わりと企画が決まった経緯としては事実でもあるわけだが(!)、必ずしもそれだけではない。
それは、ホラーゲームというジャンルについて、今ここでゲームメディアが真剣に取り上げておかねばならないという危機感があるからだ。
90年代日本が先鞭をつけたホラーゲーム
そもそも、ホラーゲームとはなにか、ホラーゲームの起源はどこにあるのか――。
こうした問いに答えるのは難しい。もちろん、起源として色々な作品名は挙がろうが、多くのジャンル史の起源論争や境界論争同様に、こういう話題は神学論争の如きものへと近づいていかざるを得ない側面がある。
だが、ゲームにおけるホラーの盛り上がりはどこから始まったか……という話であれば、90年代の日本のゲームクリエイターたちこそがその開拓者であったことを否定する人間はいないだろう。
例えば、1992年に発表されたチュンソフトの『弟切草』。
ここで彼らが提示したサウンドノベルはその後、本格ミステリとゲームの融合を果たした『かまいたちの夜』や、宮藤官九郎のシナリオライティングを先取りしたかのような『街 〜運命の交差点〜』などの名作を生み出していく。もちろん、その後のノベルゲームの歴史に与えた影響も言うまでもない。だが、その発想はまずホラーとともに登場してきたわけだ。
そして1996年には、PlayStationでカプコンから金字塔的傑作『バイオハザード』が登場する。多くの人間にホラーとゲームの可能性に瞠目させたこの名作は、その後『バイオハザード4』で現在のTPSの原型となるゲームデザインの導入を経て、ホラーゲームの代名詞として今なお君臨しつづけている。
また、後に日本的な意匠を大胆に取り入れたホラーゲームも登場してきた。横溝正史の小説に出てきそうな田舎の辺鄙な村からの脱出を描いた『SIREN』、日本家屋の中を少女が「写真撮影」を武器に探検していく『零~zero~』などの作品は、『リング』などの映画や角川ホラー文庫で盛り上がりを見せたJホラーの流れを組むものだ。こうした作品は、後に『リング』がハリウッドに進出していったように、海外でも一定のファンを獲得している。
だが、このようにゲーム史の分岐点になるような、様々な成果を出してきたジャンルでありながら、この「ホラーゲーム」というジャンルの歴史を体系的に語った本・企画は、ほとんど見当たらないのである。
インディーで再び盛り上がるホラーゲーム
一方で近年、ホラーゲームは、インディーゲームというジャンルにおいても大きく盛り上がりを見せ始めている。
例えば、Steamの新作では、ゾンビアクションやサイコサスペンス系のホラーゲームは常に盛り上がりを見せているし、またゾンビもののオンライン協力/対戦ゲームは、世界的な人気を誇る定番ジャンルの一つである。ダウンロード配信&フリープレイが可能という、実験的な作品が許容される環境が生まれたことが、ホラーゲームというジャンルに再び活力をもたらしているのだ。
特にこの動きの中で特筆すべきは、小島秀夫氏が監督を務めた『P.T.』だろう。
本作は「サイレントヒル」シリーズの新作のプレイアブル・ティザーとして、あえて全ての肩書きを隠してPlayStation 4上で発表されて、ネット上で大きな話題を呼んだ。本作が完成形を見せることは、小島監督のコナミ退社によってかなわなくなってしまったが、現在も本作は、世界中のインディーゲームのクリエイターたちによって、彼らが”精神的続編”と呼ぶ二次創作が勝手に作られ続けている。まさに現代のゲームにおける「カルト」となった作品と言える。
日本に関して言えば、ゲーム実況でホラーゲームはずっと爆発的な人気を獲得してきた。そこで人気だったのは『バイオハザード』や『サイレントヒル』のような誰もが知る名作だけではない。『四八(仮)』のようなゲームまでもが実況で驚くほどの知名度を獲得するなど、独自の文化が築かれてきた。
その中で登場した顕著な動きが、アマチュアの制作したフリーゲームにおける、ホラーゲームブームだろう。
こうした中で、『Ib』や『ドラえもん のび太のBIOHAZARD』、『殺戮の天使』のような、ホラーゲームとして洗練の域に達した作品が数多く話題になってきた。上に挙げた作品たちなどは、あまり大人のゲーマーには知られていないが、多くの商業ゲームをはるかに超える相当な知名度を子供たちの間で持っている作品だ。日本一ソフトウェアが2Dホラーゲーム『夜廻』をここにきて発表したことなどは、このフリーゲームにおけるホラー人気と切り離せない。
ちなみに、この実況動画とホラーゲームの相性の良さは、海外のYouTuberたちにも「発見」されている。例えば、世界で最も人気のあるゲーム実況者PiewDiePieはホラーゲーム実況の名手でもあり、『青鬼』の実況動画を上げたこともある。
さて、こうして長らくホラーゲームは盛り上がりを見せてきたのに、その盛り上がりに見合うだけの語られ方がほとんどなされてこなかったことは、やはり冷静に思い返してみて不当な思いを覚える。いや、そもそもホラーゲームというジャンルそのものが、どこかゲームとしてはずっと異端のジャンルと見なされてきたのではないか。実際、RPGやFPS、格闘ゲームやシューティングゲームのようなジャンルと同等の水準の論説でホラーゲームを真剣に考える特集がなされたことは、出版メディアにおいてさえも記憶にない。
我々、電ファミニコゲーマーが「ホラーゲーム」を真剣に扱ってみたいと考える理由は、まさにここにある。ゲーム史の中で大きな役割を果たしてきながら、十分に顧みられないままに現在も勢いを増し続けている、このホラーゲームというジャンルを暗闇から引きずり出し、光を当ててみたいと思うのだ。
ゲーム史の産み落とした「鬼子」
だが、それにしても――である。なぜホラーゲームはかくも顧みられてこなかったのであろうか。そのゲーム史に果たしてきた役割に比して、あまりにも惨めな扱いは一体なにゆえなのか。
これについて、我々は一つの仮説を持っている。
それは、ホラーゲームとはゲーム史における「鬼子」だったのではないか――ということである。その異形の出自こそが、我々をホラーゲームと真剣に向き合う心理から、どこか遠ざけてきたのではないだろうか。
一体どういうことか。例えば、バイオハザードのプロデューサーを務めてきた三上真司氏の以下の発言を見てみよう。
三上:いやあ、ゲームでもしんどいですよ。ホラー性を追求するならば、本当は反撃したくないですもの。ですが、スカッとするところがないと、先ほど貴志さんがおっしゃったとおり、プレイヤーには不満が溜まります。ホラー要素の強いゲームとして怖さを保ちつつ、ゲーム本来の快感を追っていくというのはなかなか大変な作業です。
「サイコパスな人間の心理」 とは?!ホラー作品のクリエイター 作家・貴志祐介×ゲームクリエイター・三上真司が語る エンタメで描く「恐怖」 【『ダ・ヴィンチ』10月6日発売 対談ロングバージョン】より
これは、サバイバルホラーというジャンルの「ゾンビに立ち向かって倒す」という要素が、ホラーの本来の面白さである、敵に追い回されて逃げていく恐怖演出とそぐわないという苦悩を語ったところである。
この言葉には「バイオハザード」シリーズの「コード:ベロニカ以前」と「4以降」の流れを知っている人ならば、ピンと来るのではないか。確かに、『バイオハザード4』は紛れもないゾンビアクション系のホラーゲームの大傑作である。特にそのガンシューティング部分のゲームデザインなどは、その後のTPSの流れを決定づけるほどに優れていた。だが、ホラーという面ではどうか。むしろ、いつ襲われるともわからないゾンビに不安を覚えながら、ゲームデザインとしてはちまちまと銃弾を節約しながらうろつく時間が大半を占めていた「コード:ベロニカ以前」の方が、やはり「怖さ」という点では正道にあったのではないか。
あるいは、「サイレントヒル」を立ち上げ、「SIREN」シリーズを手掛けた外山圭一郎氏の以下の言葉はどうか。
――恐怖をゲームに還元するときに、どういった点を意識しますか?
外山 理屈的な部分でなら、”完成した話よりも未完成な作品のほうが気になる”という心理を意識します。心理学では”ツァイガルニック効果”と言いますが、嫌なことが起こっていて、それを解決したい。でも解決法がわからない。そういう状況をつねに残すようにしておくんです。それは怖さそのものであり、ホラーには欠かせないですからね
「外山圭一郎×イシイジロウ対談 ホラーゲームの彼岸から見た恐怖というエンターテイメント」週刊ファミ通 2008年7月18日号,p52より
これもなんだか奇妙な言い回しである。ゲームの面白さに問題解決のすっきりした魅力を求める人は多いと思うが、むしろ外山氏は解決がわからない状態を常に残しておくべきだと言う。
だが、この言葉も彼の『SIREN』のようなゲームをプレイすればわかる。
訳もわからず断片的なストーリーだけが進行して、「解けねーよ!」とツッコミが入るほどの高難易度の謎解きの前で、村人のオッサン屍人連中に何度も殺されていく圧倒的な理不尽――「クソゲー」とdisる人間がいる一方で、熱狂的なファンを数多く抱える『SIREN』の、あの他に類を見ない恐怖体験は、このホラーゲーム以外では確実に怒られる一線越えてストレスフルなゲームデザインに、外山氏が臆せず振り切ったことと切り離せはしない。
扁桃体と大脳皮質の狭間で
実は、こういう通常のゲームの文法を逸脱していくホラーゲームの特徴は、彼らに限らず様々なホラーのエンターテイナーたちが口にする。ホラーとゲームの相性というのは、実のところどうなのだろうか。そのヒントは、今日公開された記事にある東京大学教授・池谷裕二氏による以下の言葉にあるように思える。
ホラーコンテンツを怖がっているときと、パズルを考えているときに活動している脳の部位はまったく異なるんです。怖さを感じるのは、最初に話した脳の真ん中の部分、扁桃体のある大脳辺縁系なのですが、知的作業をするのはいちばん外側の大脳皮質です。
じつは、この大脳皮質がなぜ発達したのかというと、大脳辺縁系を始めとした進化的に古い脳――つまり扁桃体などの活動を抑制するためなんですね。ですから脳にパズルみたいなものをやらせるのは、大脳皮質を活性化させるのと同義で、ホラー体験で大脳辺縁系がせっかく活動しているのに、それを抑え込んでいるということになりますよね。
東京大学教授・池谷裕二氏が語る“ホラー”がエンターテイメントたり得る理由より
「ゲーム」を語るとき、人は困難をアクションで果敢に乗り越えたり、あるいは知的な謎解きで楽しんだりする「大脳皮質」の快楽を追求するジャンルとして語り、作品を評価することが多い。その視点から見るならば、ホラーの本質である「扁桃体の興奮」はその性質に真っ向から反するものだ。それだけではない。操作性の気持ちよさをあえて制限して気持ち悪くさせるゲームデザインも、ホラーゲームではしばしば取り入れられる。こういう部分は、いわばプレイヤーに「快感」をもたらすゲームデザインと、「不快感」を本質とするホラーという存在の、ある埋めがたい生理学的な水準での相克とも言えるかもしれない。
実際、優れたクリエイターたちは、この「扁桃体」と「大脳皮質」の狭間で――すなわち、ホラーとゲームであることのジレンマで悩んできた。ゆえにこそ三上真司氏は、取材の中でしばしばホラーゲームや「バイオハザード」シリーズについて聞かれて、「ゲームであることは大事だ」という言葉を繰り返すのだろう。一見、「なぜ三上氏ほどの人が当たり前のことを?」と思ってしまいそうなこの言葉からは、どれほど彼がホラーとゲームのすりあわせについて悩み抜いてきたかが読み取れる。
今こそホラーゲームを
こう書くとホラーゲームは、「突き詰めるとゲームと本質的にソリが合わない、問題だらけのジャンルってわけね」なんて思われてしまうかもしれない。
だが、思い返してみてほしい。ホラーゲームは、「ドラゴンクエスト」シリーズの中村光一氏、「メタルギアソリッド」シリーズの小島秀夫監督、あるいは前出の三上真司氏や外山圭一郎氏のような、ゲームの歴史に燦然と輝く傑出したクリエイターたちが挑んできたジャンルでもある。そして、今や世界中のクリエイターたちが、ホラーゲームの枠組みの中で新たなゲームデザインを考えはじめており、日本に至っては実況動画ブームのおかげで、普段はゲームをプレイしないような女子中高生たちまでがホラーゲームを楽しんだり、果てはRPGツクールで創作したりする状況まで登場しているのだ。
――そう、ホラーゲームは、やっぱり「ゲームとして」魅力的なのだ。
であれば、むしろ我々は、この「鬼子」のようなジャンルに、超一級の才能たちが魂を惹かれてきた事実や、そんなものがここに来て世界的に増殖していることもまた「面白い」と愉快に思うべきだろう。一体、なぜ私たちはホラーという「不快な体験」をわざわざゲームで楽しむのか――この問いは決して低級な問いでも、単純な問いでもない。むしろ、この問いは考えれば考えるほどに、「ゲームとは何か」を逆に照らし出すような不思議な問いであるはずだ。
ぜひ皆さんも、夏の夜長にこの「恐怖とゲーム」をめぐる問いの奇妙さを楽しんで欲しい。もちろん我々電ファミニコゲーマー編集部も存分にこの夏を楽しむつもりだ。(了)