それは、ほかのゲームとは明らかに一線を画していた。
まるで一枚の絵画のような幻想的なパッケージ。「手をつなぐ」というゲームらしからぬ身近でありながら斬新なアクション。説明も指示もなく、言葉が徹底して削ぎ落とされた世界観……
──そして何よりも“無国籍で神秘的な雰囲気”に満ちている。
2001年12月6日、PlayStation2用ソフトとして発売された『ICO(イコ)』というゲームは、そのいまだかつてないほどに卓越したセンスでもって、多くのプレイヤーのみならず、国内外のゲームクリエイターにも多大な影響を与えたタイトルだ。
その後『ワンダと巨像』、『人喰いの大鷲トリコ』を手がけ、いまや日本を代表するゲームクリエイターのひとりである上田文人氏の才名を広く世に知らしめた傑作である。
しかし、『ICO』の「どこがどう良いの?」と聞かれると、答えに窮してしまう方も少なくないはずだ。
「手をつなぐ行為がいい」「世界観がいい」「少年と少女の物語がいい」といった答えは、たしかに『ICO』の良さの一部ではある。けれど、そうした「要素」を数え上げていけば『ICO』の魅力をすべて語り尽くせるかと言われたら、そういうわけでもない。
こうして結局のところ、『ICO』の魅力を語ろうとする試みは「なんかいい」「とにかくすごいんだよ」といった意味不明な興奮のほとばしりに終わってしまう。それほどに『ICO』は不思議な魅力に満ちている作品なのだ。
そんな『ICO』が、2021年12月6日に20周年を迎えた。
『ICO』が与えた衝撃とはいったい何だったのか? これほどに評価を得ている作品なのに、なぜその良さを言葉にするのが難しいのだろうか?
そこで電ファミでは20周年を記念して、上田文人氏とともに『ICO』の魅力を改めて振り返る座談会を開催した。
お越しいただいたのは、『ニーア』シリーズでおなじみのヨコオタロウ氏、そして『サイレントヒル』や『SIREN(サイレン)』シリーズで知られる外山圭一郎氏。
おふたりは上田氏と普段から親交が深く、さらに同い年のゲームクリエイターであるという共通点をもつ。また外山氏は上田氏自ら「良き理解者」と語る人物でもあり、ヨコオ氏は「好きなゲーム」を聞かれた際には、昔から必ず『ICO』を挙げるほどに上田氏のファンでもある。
そんなおふたりが同席したこともあってか、普段あまり表立って語ることのない上田氏の口から、『ICO』に施されたさまざまな“こだわり”について、貴重なお話をいくつもお聞きすることができた。
『ICO』や上田氏のファンのみならず、クリエイティブに少しでも関わる方であれば間違いなく必見の内容となっているはずだ。
大阪芸大卒業後、CGを独学で習得。自主制作から『ICO』へ
──今回は『ICO』のすごさを、ヨコオさんと外山さんからどんどん語っていただいてほしいなと思っております。きっと上田さんにさまざまな疑問をお持ちかと思うので、それを率直にぶつけてもらうと面白いお話になるのかなと。
上田氏:
僕も聞いてみたいです。『ICO』について、「なんでそんなに評価してるのかなぁ?」と(笑)。
──上田さんの作るゲームって、やっぱり「何か心に残る」ゲームだと思うんですよ。一方で、その「心に残る」とか「印象に残る」とはいったいどういうことなんだろう? という気持ちもあって。今日のお話の中で、そのあたりも深堀りしていければと思います。
上田さんって、ゲーム業界に入る前は大阪芸大で油絵を専攻されてらっしゃったんですよね?
上田氏:
正確に言うと、油絵専門というよりもけっこう柔軟な学科でした。油だろうがアクリルだろうが、立体だろうが、何でもOKみたいな感じです。
──CG(コンピュータグラフィックス)も大学時代に触ってたんですか?
上田氏:
いえ、大学時代は触ってなかったんです。卒業してから始めました。
──なるほど、ではどんなきっかけでCG方面に進んだのでしょうか。
上田氏:
「美術じゃ食っていけない」というのは卒業前からわかってたので、「何かしないとなぁ」という焦りの中から、いろいろ考えました。
自分は昔からAmigaというコンピュータが好きで、日本のゲームにはない表現や珍しいゲームジャンルに興味があったんです。当時は「洋ゲー」とか言われてて、作りがきめ細やかじゃないというか、丁寧じゃないイメージはありましたけど、個人的には洋楽と同じノリで「海外のゲームってすごくカッコいいな」と思って見てましたね。
それで「これを使えばなんか新しいアート表現ができるんじゃないか」みたいな期待でAmigaを買ったんですが、そこで思わずCGアニメーションにハマってしまったんです。
そのときちょうど3DCGがゲーム業界で盛り上がり始めていたので、うまく時流に乗れたという感じですね。
──じゃあCGは独学で始められたんですね。
上田氏:
そうですね。昼間バイトして、夜はこつこつCGの勉強をしていました。
当時のAmigaって、解説書は全部英語しかなかったんで、辞書を引きながらほぼしらみつぶしで機能を上から順番に試すという感じで……(笑)。
ヨコオ氏:
当時のCGツールってすごく高価だったので、とにかく「しゃぶりつくすぞ」感がすごかったんです(笑)。
新しいマニュアルやアップデートが来たら、毎回イチから全部試す!みたいな時代でしたよね。
──その後、上田さんはワープ【※】に入社されて『エネミー・ゼロ』の開発に携わられていますよね。そこから『ICO』に至るお話をお聞きできればと思います。『ICO』のモチーフやインスピレーションなども含めて、企画を立ち上げるところからお聞きしていってもいいでしょうか。
※株式会社ワープ
『Dの食卓』、『エネミーゼロ』などで知られるゲームデザイナー、飯野賢治氏が1994年に設立したゲーム開発会社。上田氏は1995年にワープに入社。
上田氏:
ワープに入るまでは、まさか「自分がゲームを作れる」とは全く思っていなかったですね。とはいえ、「自主制作で何かやってみたい」という気持ちはもともとあって。ワープで仕事をしているうちに、「自分でもゲームが作れるんじゃないか?」と思い始めたんです。
それで、ある程度お金が貯まったタイミングで会社を辞めて作り始めたのが『ICO』というタイトルでした。
でも、当時の『ICO』はまだゲームとも、映像作品とも言えないようなものでした。ただ、それだと生活していけないので、業務委託として入ったのが当時のSCE(ソニー・コンピュータエンタテインメント)です。
「フルタイムで働いてほしい」と言われたんですけど、「すみませんが、自主制作もおこないたいのでできません」と。そうしたら、ありがたいことに「SCE社内で作ってみては?」と勧められて、SCEで作っていくことになりました。
インスピレーションでいうと、やっぱり当時は『バイオハザード』のインパクトが大きかったですね。これはたぶん外山さんの『サイレントヒル』もそうだったんじゃないかなと思います。
それまでの経験としてCGムービー制作をやっていたので、CG表現をメインに据えたものであれば自分でもできるんじゃないかなと。背景は止め絵にして、リアルタイムでレンダリングしたキャラを組み合わせればなにかゲームっぽいものができるのではないか。そう思って、「せっかくならホラーじゃないゲームを作ろう」としたのが最初のきっかけでしたね。
ヨコオ氏:
『ICO』の原型は背景が止め絵だったんですね。
上田氏:
厳密に言うと、止め絵じゃなくってQuickTime VRというものなんです。ご存知でしょうか?
ヨコオ氏:
知ってます知ってます。
画像を360度つなぎ合わせて表示できるやつですよね。
上田氏:
当初の『ICO』はあの技術を背景に使おうと考えていて。『バイオハザード』の背景は完全に止め絵でカメラは動かせないんですけど、『ICO』では背景画像を回転させて表示できるようにしたんです。
なんでそういう手法を選択したかというと、僕自身、ワープで『エネミー・ゼロ』などでCGムービーは作っていたんですが、リアルタイムレンダリングのゲームを作ったことがなかったんですよね。
だからモーションもレンダリングも、「これぐらいなら実現可能では」と自分の手の届く範囲で確実なものを組み合わせたものが『ICO』だったんです。
ヨコオ氏:
じゃあ、ゲームの文脈的には『MYST』【※】なんかに近いんですか。
※『MYST』(ミスト)
1993年発売。アメリカのサイアンが開発した3Dアドベンチャーゲーム。プレイヤーは本の中の世界「MYST島」に迷い込んだ旅人として、世界の謎を探索。CGプリレンダリングで作られた静止画や動画による美麗なグラフィックと独特の世界観は、その後多くのクリエイターに影響を与えた。
上田氏:
そうです。とくに『Dの食卓』は、『MYST』から強く影響を受けていますしね。
BGMを多用せず、環境音メインなのもワープでの経験が大きいかもしれません。
──当時って、Steamのように手軽にゲームをリリースできる環境がいまほど整っていなかったと思います。その中で、上田さんは『ICO』をどうやってアウトプットしようとしていたんでしょうか?
上田氏:
それでいうと、『ICO』は最初からゲームにするんじゃなくて、まず映像として予告編を作るところから始めたんです。
とはいえ、自分が作りたいシーンだけ作ってまとめて音楽をつけた、みたいな代物なんですが(笑)。それがゲームになるのか、映像になるのかはわからないんだけど、とにかく自分がいま持っている技術を注ぎ込んで。
これは当時作ったCGムービーとPS1の開発映像をコラージュした動画なんですが、このなかのCGムービー部分がそれですね。
ヨコオ氏:
「素敵なムービーを作って、コンパクトにまとめる」みたいなことプレステが出る前後に「マルチメディアCD」としてちょっと流行ったじゃないですか。『MYST』もそうなんですけれど。
上田氏:
ありましたね。
ヨコオ氏:
CGクリエイターが、ちょっとインタラクティブ性を持たせた作品を出し始めて。そういう文脈の最終形が、『ICO』のQuickTime VRのプロトタイプという感じなんですかね?
上田氏:
いやぁ、そこまでは考えていなかったです。当時のCGブームの勢いがとにかくすごかった、ということのほうが大きいかもしれません。自分のCG技術にはそこそこ自信があったので、『ICO』がゲームになろうがムービーになろうが「何か作品と言えるものにはなるだろう」という気持ちはありました。
ヨコオ氏:
当時はCGアーティストが大きく注目されていて。LightWave 3Dという当時の主流CGツール界隈では、上田さんはかなり注目されていましたよね。僕自身も会社に入ったときからもういきなり3DCGをやらないといけない状況でしたし。
『アウターワールド』や『レミングス』などアーティスティックな“洋ゲー”に衝撃を受けた
──これを機に聞いてみたいんですけど、そもそも上田さんはどんなゲームが好きで、どんなゲームに影響を受けてきたんでしょうか。
上田氏:
原点はセガ・マークⅢ、メガドライブですね。もちろんファミコンやスーファミも買いましたけど、ずいぶんあとになってからだったんです。僕はずっとセガ派ですね(笑)。
メガドライブには海外産ゲームが多かったので、そこから「海外のゲームってすごいな」と思い始めて。それで「もっと海外のゲームを遊びたい!」と、Apple IIやAmigaに行き着きました。
影響を受けたゲームで言うと、『アウターワールド』【※1】や『プリンス・オブ・ペルシャ』【※2】、『レミングス』【※3】とかですね。
アート専攻だったのもあって、それまでは「ゲームって快楽や商業を追求するだけ」に見えてたのが、『アウターワールド』や『レミングス」の表現を見たとき、「ゲームでもこういうオルタナティブな表現ができるんだ」と可能性を感じたんです。
※1 『アウターワールド』(北米版『Out of This World』、欧州版『Another World』)
フランスのデルフィン・ソフトウェア所属のゲームデザイナー、エリック・シャイが開発したアクションアドベンチャーゲーム。ポリゴングラフィックによる映像で、テキストやセリフによる説明がほとんど行われずに異世界での冒険が繰り広げられる。
※2 『プリンス・オブ・ペルシャ』
1989年、アメリカのブローダーバンド社から発売されたAppleⅡ用ソフト。『カラテカ』で知られるジョーダン・メックナーが開発を手がけたアクションゲーム。ロトスコープによるアニメーションが高く評価されている。
※3 『レミングス』
1991年にイギリスのPsygnosis(シグノシス)から発売されたAmiga用ソフト。天井にある蓋から落ちてくるレミングスに指示を出し、出口へと導くアクションパズルゲーム。
ヨコオ氏:
出てくるサンプルが、どれもセガのゲームじゃないってのが面白いですね(笑)。
──『アウターワールド』や『レミングス』に衝撃を受けたお話について、もう少し詳しくうかがってもよいでしょうか。
上田氏:
『レミングス』だと、多少、犠牲をはらったとしても全体の何割か助かれば良かったり、最後に残ってしまったもうどうしようもないレミングスは殺さないとクリアにならないとか、そういう予定調和じゃないコンセプトが前衛的で新鮮に感じました。
当時はコンセプチュアルアートが流行っていたんですが、それと同じ匂いを感じたんです。『レミングス』の開発者がそれ意識してるかどうかはわからないですけど。
──なるほど、なんとなくわかります。映像でも文字でもなく、あの”ゲームという形態”でしか表現できないものというか。
上田氏:
そうですね。ゲームの中のキャラクターってコントローラーで操作できるのが当たり前なのに、操作ができないというところも「新しいなぁ」と。プレイヤーはレミングスに指示を与えるだけで、あとは見守るしかない。
似たような路線では『LittleComputer People』【※】とかも好きで。ゲームとして新しいアイディア、新しいメカニクスがある作品に意識が向いてたのかもしれないですね。
※『LittleComputer People』(日本版『アップルタウン物語』)
1985年、Activisionから発売されたシミュレーションゲーム。1997年、日本版がファミリーコンピュータ ディスクシステム用ソフトとしてスクウェアより発売。
──ちなみに、『アウターワールド』はどういうところがお好きなんでしょうか。
上田氏:
ゲームの難易度曲線って、徐々に上がっていくのが普通じゃないですか。でも、『アウターワールド』はそれがめちゃくちゃなんですよね(笑)。急にすごく難しくなったり、すごく簡単になったりするんです。
でも、その予定調和じゃないところが良くて。だから、「次のステージはどうなるんだろう?」「どういう表現になるんだろう?」とすごくワクワクしながらプレイしていけましたね。映画や小説だと「鑑賞者の予測を裏切る」って当たり前におこなわれている表現だけど、ゲームだと進行するほどに難しくなっていくのが当然と思っていたところをいい意味で裏切られるというか。
みなさんは『アウターワールド』をどう思いますか?
ヨコオ氏:
僕は当時触れてませんでした……というよりも、「目に入ってこなかった」というのが正しいですかね。
僕は普通の消費者だったので(笑)、雑誌『ログイン』に載ってるゲームと、あとゲーセンにあるゲームが全てでした。
『アウターワールド』も『ログイン』でそんなに特集が組まれていたわけじゃないからよく知りませんでした。外山さんは情報をキャッチしてたんですか?
外山氏:
僕はスーファミ版を持ってましたけど、たしかにゲーム雑誌でもあまり取り上げられていませんでしたね。
「わかんないだろうけど、見たほうがいい」みたいな感じで何かで紹介されて買ったんだと思います。
それで『アウターワールド』を家で動かしてみて、なんか「ワッ!」てなったのはすごく記憶にありますね。
ヨコオ氏:
僕はその後FM TOWNSを買ったんですけど、そこで初めて「洋ゲー」というものを知りました。あそこではけっこう洋ゲーが出てましたよね。
上田氏:
そうですね。『レミングス』や『シャドー・オブ・ザ・ビースト』を開発したシグノシスのゲームがけっこう出てましたね。
『ICO』が日本から生まれたすごさとは?
上田氏:
ちょっと話が飛んじゃうかもしれないですけど、『ICO』ってなんか“そういう感じ”じゃないですか?
当時の『アウターワールド』や『プリンス・オブ・ペルシャ』って、そこまで世間的に評判になるタイトルではなかった。
でも表現にすごくこだわってる、みたいなところで言うと『ICO』のポジションも似たようなものじゃないかと思うんですよね。
ヨコオ氏:
でも僕は『ICO』を初めてプレイしたとき、ものすごい衝撃を受けましたよ。「あ、ゲームでこれやっていいんだ」と。
もし『ICO』が「QuickTime VRを使った映像作品」だったら、そこまで驚かなかったと思うんですよ。たとえば『MYST』みたいに、当時はCGで“オシャレ”な表現をするアーティストはたくさんいましたし。そういうものが、プレイステーションから出てきたとしても「なるほどね」で終わってたと思うんです。
だけど『ICO』は普通にゲームとして出てきて、しかもパッケージもなんかよくわかんない謎のアートだし、「わけがわからないな」と思って気になりました。
いざ遊んでみると、ボスは出てこないしゲームらしい抑揚もない。でも、不思議と美しいビジュアルと雰囲気に呑み込まれていって何時間も遊んでしまう。そういうところも含めて「すごいものを作る人がいるな」と、びっくりしたんですよね。
当時SME(ソニー・ミュージックエンタテインメント)系から出ていたオシャレなゲームとも違うし、洋ゲーとも違う。「何かすごいものが突然飛んできた」という感覚ですね。『ICO』は「日本からこの表現が生まれた」ということ自体もかなりすごいことだったんじゃないかと思うんです。
上田氏:
「海外の人が作ったゲームかもしれない」って、よく勘違いされたんですよ。
ヨコオ氏:
僕は全然そうは感じなかったです。外山さんはどう思ってたんですか?
外山氏:
初報のときは「洋ゲーっぽいな」とは思いましたね。
ヨコオ氏:
あ、そうなんですか。
僕は逆に、「こんなに女の子が可愛いゲームが洋ゲーのはずがない」と思ってました(笑)。
外山氏:
僕は『ICO』を実際にプレイした時には「あれ、ちゃんとしたゲームじゃないか」と思いましたね。
というのも、当時の洋ゲーって「なんじゃこりゃ!?」となる意味不明だったり、不親切だったりする要素がけっこうあったんですが、『ICO』は全然そんな感じがしなくて。
きちんと「これを超えたら、自然と次はこれ」みたいな気配りがあるし、いいタイミングでセーブをさせる気もある(笑)。
上田氏:
そのへんは当時の洋ゲーよりはフレンドリーですね(笑)。
外山氏:
お話もちゃんと意味が伝わりますし。言葉はわからないけど、話はしっかりとわかる。
そのあたりの、すごくチャレンジャブルだけど普遍的なことを「きちんとやりきろう」みたいな意識がすごく丁寧で、信念みたいなものを感じましたね。
ヨコオ氏:
作り方の話で言うと、僕はそのときちょうど『ドラッグ・オン・ドラグーン』の制作最中だったんです。
そのときのスクエニのプロデューサーから言われるのが「量を増やせ」「ボイスを増やせ」ということだったんです。それで「このゲームをやれ」と言って渡されるのが『三國無双』だったりという。
外山氏:
(笑)。
ヨコオ氏:
とにかく当時は「過剰に」「派手に」という時代で。だからこそ、そういう中で「大きい会社からこういう作品が出るんだ」という驚きは大きかったです。
上田氏:
メジャーレーベルから「なんでこんなマニアックな」みたいな衝撃ってことですよね。
ヨコオ氏:
そうですね。しかも表現として“逃げてない”んですよね。
「アートっぽくオシャレに作りました」ではなくて、やれる範囲でコンパクトにうまくまとめてあって、ちゃんと一貫したゲーム体験になっている。そこはやっぱりすごいなと思いましたね。
上田氏:
そこの本物感は意識しました。でも、パッケージは「アートっぽい」ですよね(笑)。
ヨコオ氏:
いま振り返ってみると、「よくあのパッケージで通ったな」とは思います(笑)。
上田氏:
そうですよね(笑)。でも、あのパッケージは『ICO』のひとつ大きな戦略ではありました。
名の知れた経歴がある自分やチームでもなかったですし、聞き慣れたゲームジャンルでもないので、とにかく「目立たないといけない」と思っていたんです。
『ICO』を作り始めたのは初代プレイステーションだったので、それこそ飯田さんの『アクアノートの休日』や森川幸人さんの『がんばれ森川くん2号』を参考にして。
ナンバリングタイトルや誰もが知っているタイトルではありませんから、ああいう“目立ち”が必要だと思っていました。というかそれしかなかったですね(笑)。
外山氏:
僕は『SIREN』のパッケージを藤田新策先生に頼んだんですが、あれも当時の上司に「本当にいいのか?」みたいなことは言われましたね。
ただ僕は、時間が経った時に、消費され尽くして廃れて「うわっ! 古っ!」となっていくものと、そうではなくてむしろヴィンテージとしての価値が上がっていくもののふたつがあると思っていて。それで僕は後者を選択したんです。
上田氏:
僕も同じ考えですが、外山さんもずっとそう考えているんですか? 『サイレントヒル』、『SIREN』でもそういう雰囲気は感じましたけども。
外山氏:
そうですね、「トレンドだから」とか「流行っているから」とかはむしろ避けていましたね。最近はちょっと違ってきていますが(笑)。
上田氏:
最近では少なくなくなってしまった価値観かもしれないなぁとは思いますけどね。
ヨコオ氏:
上田さんもよくおっしゃっていますね。
上田氏:
やっぱり作るからには『MOTHER』や『moon』のように末永く愛されるものにしたいと思っていました。
僕だけじゃなくて当時のスタッフたちも「たくさん売れたい」という気持ちもありますが、それだけで作っているわけではなかったですし。
じつは『ICO』の開発を初代プレイステーションからPS2に移行するとき、僕は反対したんです。なぜかというと、新しいプラットフォームに間に合わせで作った作品になるぐらいだったら、「“プレイステーションの終焉期に出た、すごくこだわりのあるタイトル”のほうが、売れないかもしれないけど残るだろう」と思ったからなんです。
まあ結果的にはPS2になりましたが、満足する内容でリリースすることができたので良かったです。
ヨコオ氏:
おふたりの「マスターピースとして残る作品を作りたい」という思いは、じつは僕にあんまりないんです。
というのも、その思いがなくなったのはそもそも『ICO』のせいなんです(笑)。といっても、ポジティブな意味でですよ。
『ICO』を見て、こういう「残る作品」を作れる人がいるんだったら、僕はこの方向ではやらなくていいなと思って。
だから、自分はもうちょっと──なんだろうな、「ある時代の中でしか生きられない、チンドン屋みたいなゲーム」を作っていきたいな、という発想にシフトしたんです。
外山氏:
僕もそこは同感です。「時代を超えて残る」みたいなところを突き詰めるのは上田さんがいればいいや、と(笑)。
自分はもうちょっとライブ感とか、ノリみたいなものを入れてこうかなという方向にシフトしましたね。
上田氏:
自分もそうなんですけどね。
一同:
(笑)。
ヨコオ氏:
いやいや、それだと全員混ざっちゃうから困りますよ(笑)。
外山さんと上田さんとお話ししててよく出る話題が「アーティストか、エンターテイナーか」みたいなことなんです。
この中で誰がアーティストで誰がエンターテイナーかというと、全員自分が「一番エンターテイナー」だと思っていて……(笑)。
上田氏:
でも『ICO』を作ったのは、当時は『ICO』みたいなゲームがなかったから、というのも大きいですよ。
もし当時、言葉も要素も少ない寡黙なゲームが世の中にいっぱいあったら、『ICO』みたいなゲームを作ろうとはしなかったと思います。
ヨコオ氏:
ああ。なるほど。
上田氏:
『ICO』って語らないところを評価してもらえることがあるんですど、いわゆるナラティブなゲームにしたいから言葉をなくしたわけじゃないんです。
語らないゲームが多くあったなら「じゃあたくさん言葉が出てきて語りまくるゲームを作ろう」と思ったでしょうし。
ヨコオ氏:
僕は『ICO』の全然説明しない感覚に影響を受けて、『ニーア ゲシュタルト/レプリカント』はわざとめちゃくちゃ喋るゲームにしたんですよ。それこそ、拠点から拠点へ歩いて移動するあいだもずっと喋っているようなレベルで。
『ICO』が喋らないゲームだったから、逆にめちゃくちゃ喋らせようという“ひっくり返し”だったんですけれど、そういう意味ではすごい影響を受けてますよね。
僕にとってゲームを作るのって「空いている穴を埋めていく」ような作業なんです。『ICO』は僕の中にあるすごく大きい穴を埋めてくれたようなもので、やっぱりその衝撃は大きかったんですよね。
上田氏:
言われてみればたしかに、いま掘ろうとしてるところでそれ以上のものが先に出てきちゃったら、そこには鉱脈はないですよね。
それだったらもう別のところを掘るしかない、という考えは『ICO』に限らず意識するところです。