『チェンソーマン』と『呪術廻戦』。どちらもテレビアニメ、映画などさまざまな媒体を通して大ヒットしている作品だが、共通点が多いことも知られている。
作者の生まれはどちらも1992年で、ともに出身は東北地方。善悪がきっぱりと分かれず混然一体となっており、主要なキャラクターであっても容赦なく命を失っていくという「死」の描写が濃厚であることの加え、作品のモチーフにも似ている点がある。『チェンソーマン』は悪魔、『呪術廻戦』は呪霊と、それぞれが“恐怖”を具現化した存在を描いているが、そのインスピレーションの源は、彼らが思春期に経験したであろう東日本大震災とも考えられる。
連載の時期もほとんど重なっている。双方が2018年に『週刊少年ジャンプ』(以下ジャンプ)で連載が始まり、『チェンソーマン』は第二部をウェブサイトおよびスマホアプリである『ジャンプ+』で連載。『呪術廻戦』は後継作である『呪術廻戦≡(モジュロ)』をジャンプで連載し、どちらも2026年に後継作の完結を迎えた。
『モジュロ』の最終3巻は5月1日、そして『チェンソーマン』の最終24巻は6月4日に発売されたばかりだ。
同年代の超人気作家ふたりが、奇しくも似た道のりを歩いたように見えるが、その作家性はまったく異なるという──。
ドラマ評論家としてさまざまな作品を批評し、『坂元裕二論 未来に生きる私たちへの手紙』(blueprint)などで骨太な作家論を語ってきた成馬零一氏が、その物語の紡ぎ方、そして閉じ方から、作家性の違いを分析する。
編集/森ユースケ(路地裏書店)
文/成馬零一
宗教対立、移民問題、エネルギー問題を扱ったSF漫画として傑作
『週刊少年ジャンプ』(以下ジャンプ)で短期集中連載されていた『呪術廻戦≡』(集英社、以下『モジュロ』)が、3月9日に完結。5月1日に最終3巻が発売した。本作は2024年に連載が終了した芥見下々の人気漫画『呪術廻戦』(集英社)のスピンオフ作品で、原作を芥見、作画を岩崎優次が担当した。
『呪術廻戦』のアニメ版を担当している制作会社MAPPAによる動画。公開から5日で約650万回再生という人気ぶりで、コメント欄には海外ファンのコメントも多数。
まず何より驚いたのは、短期集中連載とはいえ、7年間にわたる長期連載を終えて一年後に本人が原作を務めるスピンオフ作品を発表したスピード感のあるメディア展開だ。
物語もコミックスで全3巻とは思えない密度の濃い内容となっており、『呪術廻戦』の世界観を大きく広げたと同時に、宗教対立、移民問題、エネルギー問題といった社会的テーマを扱ったSF漫画としても読みごたえがあり、今の時代に描かれるべき作品に仕上がっていると感じた。
以下、『呪術廻戦』、『モジュロ』のネタバレあり。
『呪術廻戦』は人間の負の感情(=呪力)から生まれる呪霊を祓う呪術師たちの活躍を描いたオカルトアクションバトル漫画だったが、『モジュロ』は近未来を舞台にしたSF漫画となっている。
舞台は『呪術廻戦』で描かれた死滅回游の闘いから68年後の2086年。地球に突如、シムリア星人と名乗る5万人の地球外生命体を乗せた宇宙船が地球に飛来。呪力と似た力を操る彼らは、移民として地球への移住を求めていた。
呪術師の兄妹・乙骨真剣と憂花は、シムリア星人の特使として呪術師の情報を探りに来たマルことマルル・ヴァル・ヴル・イェルヴリと呪霊討伐の任務にあたることでシムリア星人のことを知り、マルもまた、乙骨兄妹と親交を深めることで人間と地球のことを理解していく。
地球人とシムリア星人の関係は良好で共生は可能に思えた。だが、シムリア星人が聖なる動物として崇めるカリヤンと呪霊が酷似していたことで、両者の間で宗教対立が勃発。シムリア星人は人間が駆除対象としている呪霊を保護するため、東京にルメル国という新しい国家を創設すると宣言し、それを拒否するならば、一対一での決闘による裁定をおこなうことを地球人に要請する。
『呪術廻戦』のファンサービスにとどまらない高い作品性
『モジュロ』の主要人物は、『呪術廻戦』に登場した乙骨憂太と禪院真希の孫にあたる二人で、虎杖悠仁や釘崎野薔薇といった前作の主要キャラクターも成長した姿で登場する。
また会話の節々から他のキャラクターのその後や、呪霊の住処となっている廃墟と化した東京が描かれるため、『呪術廻戦』の世界観を引き継いだ作品として何よりとても良くできている。だが本作が本当に凄いのは、前作のファンサービスだけで終わらせずに『呪術廻戦』の設定を用いて何を描くべきかというテーマがはっきりと打ち出されていることだ。
3巻終盤。虎杖は「呪霊の生まれない世界を作りたい」というマルと意気投合し、どうすれば呪霊のいない世界が作れるのかについて話し合う。呪霊は人間が放出した呪力が澱のように積み重なって実体化した存在で、その現象は“ほぼ”日本でしか起こらない。そのため二人は日本人から呪力をなくそうと考えるのだが、虎杖は「今からやることは大罪で、安全と引き換えに人間の可能性を奪うことになり、未来において他の資源が枯渇した際に呪力が代替エネルギーとして用いられる可能性を放棄することになる」と言う。
何より日本人の身体を勝手に弄ることになることは倫理的に許されるのか? とマルに問いかけるのだが、そういった大罪を引き受けた上で、それでも「やる」ことを虎杖は決意する。その後も虎杖は呪力をなくしたことによる副作用などについてマルと話し合い、その上で呪術師としてできることを模索し、呪霊による被害を最小限に抑える仕組みを仲間たちと再構築しようと考える。
2026年現在だからこそ生々しく感じられる物語性

「呪力」を化石燃料や再生エネルギーに取って変わる人類史上もっともクリーンなエネルギーと定義し、「呪力」を発する日本人を保護の名目で拉致するべきかと米国が計画する場面が『呪術廻戦』では描かれた。本筋がバトル漫画なので、呪力のエネルギー利用というモチーフにはあまり踏み込まなかったが、『モジュロ』の冒頭では、日本人がエネルギー資源として拉致される事件が深刻化していることが語られており、京都で子どもたちが誘拐される事件が多発している。
『呪術廻戦』を読んでいる時は、呪力を新しいエネルギーとして捉えるアイデアは、呪術師たちの異能力バトルに説得力を持たせるために作り込まれた過剰な理屈付けとしか思わなかった。だが、2026年にアメリカとイスラエルがイランに戦争を仕掛けたことで、世界規模の石油危機が起こり、原油から取れるプラスチックや合成ゴムを生成するナフサ不足が日本の製造業や医療の世界に深刻な影響を与えようとしている。現在『モジュロ』を読むと、現実に根差した生々しい設定だったと改めて実感する。
宗教対立、移民問題、エネルギー問題といった社会的テーマが詰め込まれているため、少年漫画としては複雑でわかりにくい内容となっているが、芥見の作家性は物語の転がし方よりも、過剰なまでに理屈付けが施された設定について様々な角度から説明する場面でこそ光るものがある。
『呪術廻戦』のラスボス・両面宿儺との最終決戦は、複雑なバトルを展開しながら、その状況について各キャラクターが解説していく様子が、セルフ考察漫画とでもいうような奇妙な味わいとなっていた。
それは『モジュロ』でも健在で、むしろ自分で作り上げた複雑な設定を自分で逐一解説していくセルフ考察に拘泥していく本作を読んで芥見の作家性は健在だと感じた。何より、人気長編漫画のスピンオフ作品を社会派SF漫画に仕上げた覚悟に対して頭が下がる。
エンタメ業界における「働き方改革」として見事な選択
また、『モジュロ』が芥見にとって新境地と言えるのは、作画を岩崎優次に任せたことだ。作画を担当しなかった理由について芥見は、自分がキャラクターを書くと『呪術廻戦』のキャラクターと似てしまい「読者に必要のない憶測を与え、読み進める上で大きなノイズ」になってしまうからだと、第3巻のあとがきで語っているが、この采配は見事に成功しており、全3巻という程よいサイズ感も含め、スピンオフ作品の可能性を大きく広げたと言えるだろう。
ジャンプに限らず近年の少年漫画は、世界観や設定が複雑化し、主要登場人物が多くなりすぎた結果、連載が長期化し物語を終わらせることが難しくなっている。長期連載は作家の寿命を確実に縮めるが、人気が続く限り辞めることができない。
それでも近年のジャンプ作品は連載を引き伸ばさずに適切なタイミングで終わろうとしており、『NARUTO』(全72巻)や『BLEACH』(全74巻)の時代と比べると、全30巻で完結した『呪術廻戦』の連載は、人気漫画としてはだいぶ短くなったと言える。ただ、本誌連載が終わった後も、アニメシリーズ等の映像展開は続き、作者がそこに深く関わることが求められるため、一つの作品に作者が関わる期間はとても長くなっている。
今回の『モジュロ』もまた『呪術廻戦』というコンテンツを延命させるために描かれたスピンオフ作品であることは否定できない。だが、ここで作者が身を削って作品の全てに関わるのではなく、作画は他の漫画家に任せ、自分は原作に徹するという役割分担は、本人の負担を減らし、過酷なエンタメ業界の労働環境を少しでも軽減する「働き方改革」という意味においても、見事な一手だったと感じる。
少し余談になるが、『呪術廻戦』には本編で語られなかった物語が多く、両面宿儺の過去を描いた平安時代編や五条悟の青春時代を描いた前日譚など、スピンオフ作品として展開できるエピソードはいくらでも作れる。だが、それを芥見一人で描くと時間がいくらあっても足りない。
だから、ある部分は原作や監修に徹し、どうしても自分で描くべきと思う物語だけ、彼が漫画で描けばいい。
そもそも一つの巨大な物語を一人の漫画家がすべて描くということ自体に限界が来ているのではないだろうか?
『呪術廻戦』と『チェンソーマン』の比較すると際立つ作家性の違い
『呪術廻戦』もそうだが、近年の漫画は雑誌でヒットした後、アニメ化されることで市場規模を何倍にも広げ、そこで初めて存在を知る人も多い。そのため、漫画と多ジャンルの連携はとても重要コンテンツ全体を俯瞰して流れをコントロールするプロデューサー的な立場も求められている。
今回の『モジュロ』の展開を見ていて、芥見には漫画を描く才能と同じくらいコンテンツを管理するプロデューサーとしての才覚があるのではないかと感じた。
物語の中で扱っている社会的テーマ、人気漫画の続編としてキャラクターのその後を見せる読者サービスの手腕、そして原作者にとどまることで作品全体をコントロールするプロデューサー的采配など、あらゆる点において『モジュロ』は隙のない完璧な作品だと言えるのだが、その完璧さに息苦しさを感じるのは、読者や社会に奉仕する「正しさ」が全面に出ている一方で芥見個人の欲望が作品から見えにくいからだろう。
それは『モジュロ』の連載終了から少し経った3月26日に連載が終了した藤本タツキの『チェンソーマン』と比べると、よりはっきりする。

悪魔が跋扈する世界で、チェンソーの悪魔・ポチタと契約した少年・デンジが、チェンソーマンに変身してデビルハンターとして悪魔と戦う姿を描いた本作。『呪術廻戦』と並ぶ2020年代のジャンプを代表するオカルトアクション異能力バトル漫画だったが、最終的に両者は真逆の場所にたどり着いたように感じる。
以下、『チェンソーマン』のネタバレあり。
第二部の終盤では、戦争の悪魔・ヨルとチェンソーマンの最終決戦が描かれた。食べた悪魔の名前にまつわる存在を消滅させる力を持つチェンソーマンが死の悪魔を食べたことによって死という概念が消滅した世界で、チェンソーマンと戦争の悪魔は延々と闘い続けることになる。
死が消滅した世界で派手なバトルを繰り広げる二人の姿はどこか滑稽で、残酷描写がどんどん過激になっていく中で、死なない(もしくは死ねない)キャラクター同士が殺し合いを演じる様は、ごっこ遊びのようで、既存の少年漫画に対する悪意のある批評となっていたといえるだろう。
同時に、終わりが見えない中で延々と二人が戦い続ける様子は、ウクライナやイランで起こっている現代の戦争が持つ泥沼感を抽出して見せているようにも感じた。
作家として生み出した作品をぶっ壊す権利を行使した
その意味で『チェンソーマン』も『モジュロ』と同じように「新しい戦時下」と言える現代の空気をバトル漫画のフォーマットで描いた社会批評的な作品とも言えなくもなかったが、大きく異なるのは、最後の描き方だろう。
231話。チェンソーの悪魔・ポチタが「自分自身を食べる」ことによって、チェンソーマンという概念自体が消滅し、デンジがチェンソーマンにならなかった世界で生き直すという、これまでの展開をリセットするような結末を迎えた。
チェンソーマンになったことで、守るべき家族を手に入れ、相思相愛となる女性と出会えても、デンジはどこか幸せではなかったとポチタは指摘する。その言葉はこれまでのデンジの生き方を否定すると同時に、『チェンソーマン』という物語自体が無駄だったという、作者自身による作品否定にも見えた。
そして、最終話(232話)では、ポチタと出会わなかった世界でのデンジの物語が展開され、第一部で人気キャラだったパワーが登場してデビルハンターとしてデンジとバディを組むといった展開がある。キャラクターが幸せになったから良かったと思うところもあるのだが、最終的に藤本タツキが『チェンソーマン』を強引に自分から切り離したかのような、作り手の「痛み」が強く残るものとなった。
アニメ映画が大ヒットし、アニメシリーズの新作が作られることもすでに発表されている『チェンソーマン』は、いずれ第二部もアニメ化され、人気コンテンツとして定着していくのだろうが、作者自身が未来の可能性を殺したようにも感じる終わり方で作品世界を創造した原作者の振る舞いとしては、あまりにも無責任だと感じた。
だが、同じくらい思うのは、自分が生み出した世界だからこそ、容赦なくぶっ壊す権利が藤本タツキにはあり、彼はその権利を容赦なく行使しただけだということだ。
間違った存在が間違ったまま生きている姿を提示した藤本タツキ

『チェンソーマン』第一部終了後、藤本タツキはジャンプ+で『ルックバック』と『さよなら絵梨』という長編読み切りを発表している。どちらも創作におけるクリエイターの悩みを描いた私小説的な作品で、この二作の成功によって作家・藤本タツキに対する評価はより高まった。
この二作と第二部は地続きで、劇中でデンジがチェンソーマンというヒーローとして生きるか、普通の幸せを選ぶべきかと自問自答する姿は、漫画家として『チェンソーマン』という物語とどう向き合うべきかと、作者が自問自答している姿と重なって見えた。
不安定で残酷な描写の連続でありながら、物語として綺麗にまとめた第一部と比べ、第二部は最後まで先行きが見えない不安定な展開が続いた末に、すべてを放り投げて終わったように見え、漫画としての完成度は、かなり落ちてしまったようにも感じた。
だが、その不安定さの中に藤本タツキという作家の心情がにじみ出ていた。デンジが最後まで自分の気持ちに忠実だったように、藤本タツキも最後まで自分の描きたい『チェンソーマン』を貫いた。
社会正義に裏打ちされた万人が求める「正しさ」を模索する芥見下々に対し、間違っていたとしても自分の描きたいものを描くという作家としてのエゴを最後まで貫いた藤本タツキ。今の時代における最適解を示しているのは間違いなく芥見だが、間違った存在が間違ったまま生きている姿をそのまま提示した藤本の在り方にも、救いのようなものを感じる。
二人がたどり着いた場所は真逆だが、どちらもコンテンツビジネスが肥大化する世界の最前線で生きる漫画家が示した誠実な回答である。
