「戦争は、時間と空間のジレンマである」現代ウォーゲームが発見した“真実”——ゲームはいかに戦争の「本質」を捉えてきたか【徳岡正肇氏インタビュー】

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あなたのゲームにAIは本当に必要ですか?

徳岡氏:
 ところで、すこし話は変わりますが……戦場のランダム性について考えていると、AIについても考えてしまうんです。

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――ランダム性から、AIですか? それはまたどうして?

徳岡氏:
 「あなたのゲームにAIは本当に必要ですか」と問いたくなる時があるんです。そこはもう、ランダム性にまかせればいいんじゃないですか、と。
 もちろん対戦相手としてのAIは重要です。でも「自分の指揮下の部隊が高度なAIによって自律的に行動する」みたいな仕様って、「プレイヤーの操作量を減らすことができる」以上の効果が本当にあるのか。例えばですが、「忠誠心が99の将軍は、1%の確率で裏切ることがあります」といった原始的な処理のほうが、ウォーゲームにとっては効果的なんじゃないか、と。

――現時点では、AIの動きはどうしてもパターン化されてしまいますよね。その傾向をプレイヤーが覚えてしまえば、それによってプレイが限定される。そしてプレイの幅が狭められてしまうことは、ありますね。でも、ランダムなら読めない。こういうことでしょうか。

徳岡氏:
 ええ。『Left 4 Dead』【※1】のディレクターAI【※2】が未熟だったころ、ディレクターAIそのものが攻略されてしまう案件がありました。プレイヤーのあいだで「そろそろ死んでおこうか」みたいな会話が交わされてね。
 これノーミスで行っちゃうと、エンディングにタンク4匹出て来てどうせ死んじゃうから、先に一回死んでおこう、みたいな。

※1 Left 4 Dead……2008年に、『Counter-Strike』や『Half-Life』などを手がけたことでも有名なValve Corporationから発売されたFPSゲーム。襲い来るゾンビの群れに立ち向かう4人の「生存者」の戦いが、映画のように描かれている。
(画像はGDC2009_ReplayableCooperativeGameDesign_Left4Dead.pdfより)

 この事例からもわかるとおり、AIって、けっこう読み切られちゃうことがあるんですよね。ちゃんと人間らしくふるまってくれるので、こちらも人間に対するように応じれば、攻略できてしまう。
 ところがランダム性になると話は別で、まったく人間らしくふるまわない。……じつは私は『Killing Floor』【※3】というゲームが大好きで、あれはゾンビの湧きが完全にランダムでした。

※2 ディレクターAI
ゲームAIの一種。ゲームを俯瞰的に見て、難易度を調節したりする役割をもつ。

※3 Killing Floor
2009年にリリースされた協力プレイ型(CO-OPタイプ)サバイバルホラーFPS。最大6人のプレイヤーでチームを組み、「スぺシメン」と呼ばれるゾンビたちの殲滅をめざす。

――あの、ゾンビがわーっと押し寄せてくる、ターン制サバイバルのFPSですよね。

徳岡氏:
 そう。ランダムだから、突如として異常に強い敵がどんどん湧いたりする。

――逆に、自分のプレイの調子が良いときに運の良さがかみ合うと、かなり長い時間生き延びることができたりする。そのランダム性ですよね。

徳岡氏:
 あんまり軽々しく言えないことだけれど、人間は社会において普段から人間と付き合っていて、大自然とは付き合っていないわけですよ。すると、こんな思いが生まれてくるのではないか――どうして、ゲームをするときにまで読みやすい人間と付き合わなきゃいけないんだ? ゲームをするときぐらい、大自然のランダム性を乗りこなす体験をさせてくれ!

――予測可能な人間の代替品としてのAIではなく、予測不可能な自然と確率と数学に付き合わせてくれよ! ということですよね(笑)。

徳岡氏:
 そのほうが爽快感あるじゃん! と思うんです(笑)。

 私はこの感じを「乱数を乗りこなす快感」と定義しています。予想できる――つまり人間らしくふるまう相手を屈服させる快感よりも、暴れ馬のような、まったく予想不可能なものを、自分のあらゆるスキルを駆使して乗りこなすことができれば、すごく面白い体験になりますよね。

――そうですね、それはとても愉快な体験だと思います。ただ私は、最高のランダム要素として可能性があるのは、人間自身だとも思うんです。

徳岡氏:
 なるほど。ランダマイザーとしての「人間」ですね。

人間はランダマイザーか?

――だって、ウォーゲームにランダム性が導入されているのも、実際に戦場で逃げ出した兵士がいたからこそでしょう?

徳岡氏:
 逆に言うと、観測者側からすれば、人間の振る舞いもまた、それくらいランダムに見えますからね……このあたりは実は、けっこう自分のなかでも結論が出ていない部分です。

――見方の問題だと思うんです。人間も、偶然の発生装置だと見なすことはできる。べつの見方、ウォーゲーム的な観点からすれば、ある程度予想可能なものとしても捉えられる。これは、人間をどのように捉えて、シミュレーションするのか、という議論になってきますよね。

徳岡氏:
 予見不可能性をどう捉えるかが鍵となるテーマですね。ウォーゲームなら、統計学的にこのテーマを処理している。これは行動経済学【※】で言うところの、人間は失うことを嫌う、という一般原則に繋がってきます。

 Aボタンを押すと、100%の確率で1000円がもらえる。Bボタンを押すと、50%の確率で3000円もらえるとしましょう。これ、数学的には、Bのほうを押すべきなんです。ところが統計を見ると、人間のうち、7割くらいの人がAを押す。

※行動経済学
従来の合理性にもとづく経済学は、感情や偶然性といった人間のもつ不確定要素を排除しているとして、心理学的な見地もあわせて人間行動を観察・記述しようとする新たな経済学のこと。

――僕もAを押すかも。

徳岡氏:
 でしょ。つまり人間は失うことを極度に怖れ、それをオーバーカリキュレートする傾向がある。しかし、だからといって人間はわけのわからないものだという結論で終えてはいけない。この現象の心理学的な理由はさておき、とにかくオーバーカリキュレートして7割がAを選ぶという、統計的なふるまいとして人間を捉えられるのは確かなんです。

 ここで先ほどの「AIは本当に必要か」という話に戻ってきます。この場面において人間らしさを演出するのは、恣意的にいずれかを選ぶAIではなく、70%でAを選ぶというランダマイザーの確率設定でいいじゃありませんか!

――うーむ、なるほど。

徳岡氏:
 現代の戦争はコンクリートに鉄を打ち込んで破壊する速度を競う競技会めいたものになっている側面があって、人間心理が関わる部分がほぼありません。ソビエト軍なんか、鉄量を投射して構造体を破壊するみたいな、運動力学で戦争を行いました。
 そりゃあ人が死んじゃうよね、という話なのですが、それはそれとして、世界中の軍でこの考えが強くなったのは事実です。

 しかし、それでも最後の最後には、人間が逃げ散ってしまう、あるいは組織的に撤退している敵方に突っ込んでいくバカが死ぬ、ということは起こるのです。バカが突っ込む理由はわからないが、とにかく人間がバカであることは一定濃度で統計的な分布が見て取れる以上、ひとつの表にまとめられる。
 その思想が結実したものが、例の戦闘結果表だったし、現代のウォーゲームのゲームシステムの根幹でもあるんです。

ランダム性がフィクション足り得るとき

――ちょっとずれた質問かもしれませんが……私は、そのあたりの境界をフィクションに応用できないかな、とずっと考えています。事実は小説よりも奇なりという言い方がありますが、事実と虚構の境界をうまく操作できないかなと考えていて。
 つまり、統計的にはランダム性の範疇に含められるような要素がじつは巨大な運命を左右していて、その真実性と意外性が物語の面白さってことになるんじゃないか、とずっと考えているんです。戦場で兵士がひとり逃げだしたために、彼が属していた軍勢が大勝する、みたいな出来事って、面白いと思いませんか。

徳岡氏:
 それは世界を切り取るべつの方法だし、その描き方もたいへん面白いと思います。ゲームって、どちらも容れられる懐の広さがありますから。……ここは、まさにシミュレーションの方向性であり、「人生のどの部分を切り取ってシミュレーションするのか」という議論になってきますね。

――ウォーゲームの切り口であれば、まさに「客観的データをもとに、戦争における人間のふるまいをシミュレーションする」ものですよね。そのプレイ感覚って、どんなものでしょう。なんとなく、俯瞰的に世界を見渡す神のような快感があると思うんですが。

徳岡氏:
 部分的にはそうです。ただ、じつはウォーゲームがもたらす体験って、内面的でもあるんです。プレイしていると、いらいらだったり、悔しさだったり、思うようにならない感覚が生まれてくる。

 これって、現実の指揮官が感じたものと、おそらく同一なんですよ。その感情を味わうことができるなら、そこに至るまでの戦いの過程が、史実とまったく同じでなくても構わない。これが、ウォーゲームのけっこうコアなところにある思想です。

――ああ、僕はその思想にすごく賛成です。虚構の体験が現実とおなじくらい強いのであれば、それは虚構であると同時に真実ですよね。

徳岡氏:
 擬似的な体験とそれにともなう感情がプレイヤーのなかで惹起されること。これが、ウォーゲームを含めた、すべてのゲームの目的のひとつでしょうね。根っこの部分を考察したとき、ゲームは、他者の体験を自分のなかに入れていくプラットフォームであると言うことができる。

 ここで重要なのも、やはり切り口なのだと思います。ゲームは、現実のすべてを表現できるわけじゃない。でも、だからこそ、人生のおいしいところをつまめるんです。ウォーゲームなら、戦争における指揮官という、超レアな体験を味わわせてくれる。しかも指揮官が戦闘している時間なんて、人生のうちのごく僅かですよ。それだけやっていられるなんて、たまりませんね(笑)。

――(笑)。どの部分をつまむのかが、やはり作者のセンスとなってくると。

徳岡氏:
 うまいウォーゲームは、指揮官のすべてを体験させることは絶対にしません。指揮官の悩みのどの部分を抽出して、どこを体験させるのかが大切なんですね。これは、すべてのゲームに言える普遍的な真実だと思います。

ゲームを規定する「2つの原則」

――なるほど、「普遍的な真実」と。では、このあたりで、直球の質問をさせてください。徳岡さんが考えるゲームの本質とは、何でしょうか?

徳岡氏:
 私は、ゲームをふたつの原則から定義しています。
 ひとつは、踏み越えてはいけない線引きです。そのラインは、「遊んでいると人が死にうるもの」。これは、ゲームと呼んではいけない。ゲームを作ることは、死について考えることでもあるけれど、だとすればなおさら、リアルな死をそこに紛れ込ませてはいけないんです。

――それは完全な越境、侵犯行為ですね。私も、そこは踏み越えてはいけないと思います。

徳岡氏:
 そこを許すと、堕落してしまいますからね。ロンメル【※】はかつて、「戦争とはゲームのようなものだ」と言った、とされています。

※ロンメル……エルヴィン・ロンメル(1891-1944)。ドイツの軍人。第二次世界大戦における戦闘指揮で抜群の功績を収め、中産階級出身にして、陸軍元帥にまで登りつめた。その知略に富んだ戦いぶりで、「砂漠の狐」の異名とともに恐れられた。
(画像はWikipediaより)

 けれど、「ようなもの」は絶対に超えないんです。戦争がゲームでない理由も、まさにこの原則から説明できます。シミュレーションで死んでしまえば、それはもはやシミュレーションではないんですよ。

――まったく同意です。ちなみに、もうひとつの原則とは何でしょうか?

徳岡氏:
 人間が遊ぶものであること。人間が主体であることが、すごく重要なんです。猫が遊ぶものじゃあしょうがない。

 こう考えると、ゲームの作者は「人間とは何なのか」という問いに踏み込んでいくことになる。しかし、そこを突き詰めていくのだが、絶対の真実にはたどり着けない。すべてを描くことは出来ませんからね。
 だから作者が世界を解釈するんです。するとゲームには、彼にとっての人生の解釈が現れる。この解釈が良い形で現れているゲームは、とても面白い。

――大賛成です。その人の育った国、時代、社会情勢、家庭環境、なんでもいいのですが、作者の人生観が何か反映されているようなゲームは、非常に面白いですよね。

徳岡氏:
 そうですね。ゲームは、いろんな人の人生の、ほんの刹那の断片をピックして、誇張と省略の技法を用いて、プレイヤーの心に再現させるものです。その快感を味わって感動することは、他人の人生を生きて、感動すること。人が生きるってどういうことなんですか、という解釈をすることなんです。それがデザインのなかに含まれ、作り手と受け手が共感するとき、大きな力が生まれてくる。

 『スーパーマリオブラザーズ』を考えてください。マリオはただの配管工なのに、悪い奴にさらわれた姫を助けに行く。これは、もう、人生じゃありませんか。それがあのゲームの動機であり、そしてまた、私たちが生きるということのシミュレーションでもある。
 つまりゲームを作る、そして遊ぶという行為を掘り下げれば、それはすべて人生のシミュレーションである、と言えるんです。(了)【※】

※とはいえ、今回の自分の議論には「アブストラクトなゲーム」(「オセロ」や「テトリス」など)という、ウォーゲームのロジックが通用しないゲームが例外として残ります。(筆者注)

 いかがだっただろうか。
 ウォーゲームにおける戦争のシミュレートから、ランダム性の議論へと移り、最後にゲームは人生のシミュレーションであると定義する、みごとな徳岡氏の語り――ここに、もはやつけ加えるべきことはないように思われる。

 本稿で漏れていることといえば、氏の発言のペースの早さと、的確さだろう。いまだに信じられないのだが、氏へのインタビューを録音したテープの長さは、一時間に満たない。彼の発言は語られた時点で校正済みの原稿のように明瞭であり、聞き手である筆者は、ただただ彼の精確さに圧倒されるばかりだった。

 さて、ゲームが「人生のシミュレーション」であるならば、ゲームをプレイすることは、他人の人生の疑似体験である。だとすれば、ゲームはもはや、長きにわたる人類の、文化的営為の一部とは言えないだろうか。編集を進めながら、筆者の心中にはいままでプレイしたさまざまなゲームの印象が去来した。そしてこれは間違いなく、私がかつてともに生きた、他人の人生の一部なのだ。

 読者のみなさまにも、自分の人生の一部となっているゲームがあるはずだ。胸に手を当てて、考えてみてほしい――あなたはゲームからなにを受け取り、いま、どのように生きているだろう?

※The Combat Results Tableに関する記述を修正いたしました(9月22日 20時50分)

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著者
藤田祥平
1991年大阪府生まれ、文筆家。
Twitter : @rollstone
Website : http://shoheifujita.smvi.co/

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