WWEを観戦するためアメリカへ! いのまた氏の “自作応援ボード” がテレビに映る
──いのまた先生は『バーチャ』の持ちキャラだった「ジャッキー」に並々ならぬ思いがあったとうかがっています。ジャッキーは男性キャラクターですが、それ以外には、たとえば「かわいいものが好きだった」といったような好みはあったのでしょうか?
橋本氏:
やっぱりジャッキーが好きだったよね。
川村氏:
綺麗なもの、かわいいもの、かっこいいもの、筋肉、どれも好きだったんですよ。
橋本氏:
あと、プロレスも好きだったね。
──プロレスもお好きだったんですか!
永野氏:
サムシング吉松くん【※】という有名なアニメーターがいるんですけど、むっちは彼とも仲がよくて。彼とはしょっちゅうプロレスを見に行っていましたね。だから、僕たちが知らない「いのまた像」があるとしたら、彼が知っていると思います。
※サムシング吉松
1965年生まれのアニメーター、キャラクターデザイナー、漫画家。本名は吉松孝博。アニメ『新世紀GPXサイバーフォーミュラ』や『TRIGUN』、『十兵衛ちゃん』などでキャラクターデザインや作画監督を担当。
──現地での観戦にも足を運ばれていたんですね。
永野氏:
プロレスといったら後楽園ホールじゃないですか。それで、うちのアトリエは当時、飯田橋にあったんですよ。だからいつも「クリス、いま水道橋にいるんだけど」と連絡がきてさ(笑)。
「わかったわかった、じゃあメシでも一緒に食べよう」と言って焼肉屋なんかに行っていました。川村がいるときは「私も行く~」と言って(笑)。
川村氏:
そうそう、お肉を焼きながら「神取忍がさ~」みたいな話をしましたね(笑)。
永野氏:
吉松くんとふたりで格闘技のTシャツを見せてきて「これ買ったんだよ~」と見せられて。俺、格闘技わからないのに(笑)。
橋本氏:
プロレスといえば、「ガイア」というプロレス団体の「広田さくら」という選手と会える権利のオークションがあったんですよ。むっちゃんがその権利を落札して、プロレス仲間と「さくらのTシャツ」を作って会いに行っていました。その様子が番組として放送されたことがあったんですよ。
川村氏:
たしか、CSかBSの有料チャンネルでしたよね。その番組のなかで、彼女と会える権利のオークションが開催されることになって。それでもう何日も前から対策を練っていたんですよ。
先生は「やっぱり最後に浴びせ倒したいんだよね」と言っていて(笑)。じわじわと有利になるように価格を上げていくんだけど、最後は一気に浴びせて……。
──戦略的に価格を釣り上げるほど本気だったと(笑)。
川村氏:
先生なら大丈夫だろうなと思っていたんですけど、本当に「落札した」と報告が来たときはさすがだなと思いました。
橋本氏:
だから、『極悪女王』【※】を見せてあげたかったな。きっとあれはすごく好きだと思う。

※『極悪女王』
2024年にNetflixより配信開始された連続ドラマ。ダンプ松本を始めとした女子プロレスラーたちの物語を描く。
川村氏:
WWEもお好きでしたよね。
橋本氏:
そう。WWEを見るために一緒にロサンゼルスまで行ったのは、私たちの勲章のひとつです。ふふっ。
むっちゃんのアトリエが現地にあるので、そこで応援ボードを作ってリングサイドで掲げたんです。そうしたら後日友だちに「昨日、正枝たちテレビに映ってたよ」と言われて。
──いのまた先生がご自身で応援ボードに絵を描かれたということですか?
橋本氏:
はい。アトリエだから自分でボードに絵を描いていました。ショーン・マイケルズ【※】を描いたりして(笑)。
※ショーン・マイケルズ
アメリカ合衆国の元プロレスラー。1988年から、20年以上にわたってプロレス団体「WWE」で活躍した。
川村氏:
アメリカのプロレスって、推しのボードを掲げるのがセオリーだからね。
橋本氏:
むっちはちょっと背が低いから、外国だとなおさら埋もれてしまうんです。だから「ボードがあれば大丈夫」って。
永野氏:
まあ、あいつにリミットはなかったよね。
橋本氏:
好きなものに関して、リミットはなかったね。
なにごとにも「広く深く」向き合ういのまた氏の逸話にはいつも “泣き顔” が入ってる
──お話を聞いている感じとして、永野さんはいのまた先生とは作家仲間というよりもゲーム友だちのような側面が強かったのでしょうか。
永野氏:
というか、むっちのことを作家だと認識したことがないもん(笑)。
一同:
(爆笑)。
永野氏:
たぶん、あいつも同じだと思います。「呼んだら都合よく車で来てくれるよ〜」みたいな。
──クリエイティブに関するお話はされなかったんですね。
永野氏:
いっさいしていないですよ。
橋本氏:
唯一むっちゃんが言っていたとすれば、クリスが「俺は1億円か0円でしか仕事を請けない」と話していたことがあったみたいで。「そこはいいよね」と褒めてました。
永野氏:
(笑)。でも、そんなもんでしょ。むっちと仕事の話をしたと言えば、マッキントッシュ関連の話くらいかな。当時はインターネットもなかったし、グラフィック関連でマックを使いまわしている人って本当に少なかったので。
困ったときはむっちに電話して「クラッシュしたわ」「それはもうしょうがないわ」と報告したり。それぐらいでしたね。
──当時としては貴重なマック使いの作家同士で情報交換をされていたということですか。
永野氏:
当時、僕は音楽活動もしていたので、CDを作るためのレコーディングシステムをマックで組んでいたんですよ。
それをむっちに話したら「私もマック買うよ~」と言い出して。僕の使っていた「Macintosh SE」は当時84万円だったと思うけど、むっちが買った「Macintosh II」は210万円くらいしたんですよ。
橋本氏:
えーっ。
──「買う~~」で210万円はなかなかできないですよね(笑)。
永野氏:
それに加えて絵を出力するためのプリンターや30万円以上するグラフィックボードなんかも揃えていましたから。「いくら使ったの」と聞いたら「600万円」って言うの。
川村氏:
うわあ……!
永野氏:
「それで絵を描けるの?」と聞いたら「うん、一応打ち出せる」って。「なんだこいつ!?」みたいな感じですよね。
──おそらく当時としては最新鋭の環境ですよね。
永野氏:
「PC-8800」「PC-9800」などの機種が普及していた時期に「Macintosh II」ですから。とんでもないやつですよ。
その後、新しい機種に買い替えるとき、ふたりで秋葉原に行って同じものを購入したこともありました。でもむっちは「前のマックの600万のローンがまだ残っている」と嘆いていましたけどね(笑)。
一同:
(笑)。
橋本氏:
おもちゃが大好きだから。
永野氏:
ああ、この前みんなでむっちの遺品整理をしたときも「こいつ本当にバカだな」と思って。
川村氏:
なんということを(笑)。護くん、それは漢同士の悪友に対するコメントだからね。
──なにがあったのでしょうか?
永野氏:
ふたりが「これなに?」と持ってきた段ボールの中を見たら、3Dプリントに使う紫外線硬化レジンが入っていたんですよ。
話を聞いたら、むっちは亡くなる少し前まで自分の絵を「額付き」で販売していて、その額を自分で3Dプリントしていたそうなんです。そのためのスキャナー、3Dプリンター、PCなんかを一式組み上げていたんですよ。
──3Dプリンターまでですか!「最新の環境を追い求めたい」という姿勢はずっと変わらなかったんですね。
永野氏:
「最新と言えば最新だけど、なにやってんだよ」と思いましたね(笑)。
橋本氏:
そうかと思えば、すごく古いマックが残してあったりして。このあいだ雷が鳴ったときにそのマックが突然立ち上がったんですよ。「アンタどうしたの!?」と思いながら恐る恐る電源を抜いたんですけど。
一同:
(笑)。
永野氏:
あいつに関しての逸話はいくらでも出てくるよね。それで、その逸話のなかにはいつも泣き顔が入っている。
橋本氏:
(笑)。
川村氏:
「こんなんだったんだよ~(泣)」みたいなね。かわいかったです。
橋本氏:
むっちゃんとはお金の話もしなかったよね。
永野氏:
お金の話はしない。『バーチャ』の筐体が76万円だったってことくらいだね。ゲーセンから買うと100万円くらいするけど、セガから直接買うとそれくらいで買えるんだよ。
川村氏:
金銭的な話題はそれだけ(笑)。たしか筐体って、自宅をゲームセンターという扱いにしないと買えなかったんですよね。
永野氏:
いや、それはナムコ。セガはそのまま売ってくれたんです。ナムコのときは、電話をして「『鉄拳3』を売ってくれ」と言ったら「お売りできますけど、個人宅では伝票を切れません」って。
でもうちは会社をやっていて、ゲーム系の出版をやっているという点は間違いなかったので、そこを通して売ってもらえました。
セガはそういうのがなくても売ってくれたんだよね。俺以外にも『少年マガジン』の作家の人も買ってたりしていた。
川村氏:
高河ゆんちゃん【※】も買ってたね。
※高河ゆん
1965年生まれの漫画家。代表作に『LOVELESS』や『機動戦士ガンダム00』のキャラクターデザイン原案など。
永野氏:
そうそう。高河ゆんちゃんも、セガに直接電話して買っていたね。いい時代だったかもしれないけど、そのために筐体を運ぶ巨大なトレーラーが家の前まで来ると思うと……(笑)。
橋本氏:
むっちゃんの家に筐体が来たときはまだ家が建ったばかりで、周りにほかの家がなかったんです。そのとき玄関からは筐体が入らなかったので最終的に窓から入れたんですけど、いまはもう周りに家が建ってしまったから、二度と外に出せなくなってしまいました。
一同:
(笑)。
永野氏:
もう分解するしかないね(笑)。
橋本氏:
筐体が来た日、玄関からは入らなかったけど門の内側には置けたんですよ。延長コードで電源を引っ張ってきて、夜だから音量を低くしてひと晩中遊びました。
永野氏:
というか、俺らがあれだけ騒げたのって、まだ周りに家がなかったからだよね。だから七輪を置いたりして、焼肉パーティもできたし。
橋本氏:
そうそう!
川村氏:
肉は焼くわ、ゲームはやるわ(笑)。
──遺品整理をされたとのことでしたが、その筐体はまだ残ってらっしゃるんでしょうか?
橋本氏:
まだありますよ。だって家から出せないんだもん(笑)。当時、あまりにもみんなが遊ぶものだから、途中から「100円を入れることにしよう」となって。そのお金も入ったままなので、貯金箱みたいになっています。
永野氏:
筐体の金庫ってけっこう大きかったよね。25万円分くらい入ったっけ?
橋本氏:
そこからときどきみんなのごはん代を出したりして(笑)。
永野氏:
そうそう、ガチャガチャ開けてさ。ひどかったのは、むっちから「クリス、クリス、大変なことになっちゃった〜」と電話が来たことがあったんだよ。理由を聞いたら「筐体の鍵を失くして開けられなくなっちゃった、どうしよう」って言うの。
筐体は、ガチャっと開けるメインキーがあって、その内側に、金庫を開けるための別の鍵があるんです。むっちはその金庫用の鍵を失くしちゃったんですよ。
橋本氏:
じゃあ開かないじゃん。
永野氏:
そう。だから俺が予備のキーを持って行って、ようやく開いたんだよ。「めんどくさいから持ってていいよ」と言って、それからうちも予備キーがない状態で『バーチャ』をやっていたね。
橋本氏:
(笑)。クリスのところの筐体はまだあるの?
永野氏:
いや、さすがにもう処分した。『バーチャ』のあとも、俺とむっちはそれぞれ別のゲーム筐体を買っていたじゃん。俺の場合は『鉄拳3』や『ソウルキャリバー』だけど……。
橋本氏:
えっ、むっちゃんも『ソウルキャリバー』やってたよ。
永野氏:
そうなんだ? 高河ゆんちゃんはあのあとカプコンの対戦ゲーをやっていたよね。なんだっけ、『スターなんとか』っていう……。
橋本氏:
ああ、『スターグラディエイター』ね。むっちゃんもやってたよ。
永野氏:
あいつは本当になんでもやってるな(笑)。
──数々のエピソードをうかがっていると、いのまた先生は気になったことにはとことん熱中する方だったのかなと感じます。
川村氏:
むっち先生はなにごとにも深く向き合う方でしたよね。
──ひとたび「好きだ!」と思ったものに関しては、なんでもそういった感じで深くのめり込むタイプだったのでしょうか?
永野氏:
あいつは「狭く深く」ではなく「広く深く」なんです(笑)。
川村氏:
ひとつひとつに対して悔し泣きするほどですから。「こんなに熱い人ってほかにいない」と思います。
──旅行もお好きだったそうですが。
橋本氏:
旅行も好きだったんですけど、いまみたいにオンラインで仕事ができなかったので、スケジュールが厳しいじゃないですか。だからなかなか行けなくて。
──ちなみに、いのまた先生はお酒は飲まれたんですか。
橋本氏:
前は好きだったんですけど、やっぱり体調がイマイチなときは飲めませんでしたね。日本酒が好きでした。おいしいものも好きでしたね。
あとは、山が好きだった。好きすぎて「歩荷になろうかな」とか言ってたから(笑)。
一同:
(笑)。
──ご自身で山に行くのが好きだったということですか?
橋本氏:
山と、山に挑戦する人たちが好きだったんです。きっと「ギリギリな感じ」が好きなんですよ(笑)。
多忙な仕事のかたわら徹夜でゲームに熱中したアニメーター時代
──永野さんはいのまた先生とクリエイティブの話はほとんどされなかったということでしたが、おふたりが参加された『ブレンパワード』のときも同じだったのでしょうか?
永野氏:
『ブレンパワード』のときは、富野由悠季という “知らない人” がいまして……。
一同:
(笑)。
永野氏:
最初は富野さんがうちのアトリエまでやってきて、「こういう企画があるんだよ」という話をしていました。いろいろやり取りをしているうちに、どこから噂を聞きつけたのか「永野くん、『ブレンパワード』のキャラクターデザインに、いのまたさんってどうだろう?」と聞かれたんです。
なので、むっちに電話をして「富野さんから新作にむっちを使いたいって話があったんだけど、いい?」と聞いたら「え~、ちょっと怖いよ~」とか言って。
──いのまたさんからしても、富野さんは怖い人の印象があったと(笑)。
永野氏:
「とりあえず1回会ってみてよ」と説得して、それからむっちに決まりました。富野さんからは「目のでかい女は嫌いだ」とか、いろいろと注文されたみたいですが、「ムカつくことも多いと思うけど、勘弁してね」みたいなことを言ったのを覚えています。
川村氏:
私はみなさんと『バーチャ』で遊ぶようになる以前に『聖闘士星矢』の「アスガルド編」に出演してたんです。
それで、むっち先生はアスガルド編からバンクシーンなどを描いていらしたとうかがって。
永野氏:
そっちでも繋がりがあるんだ(笑)。
橋本氏:
たしか、「アンドロメダ星座の瞬」(アンドロメダの瞬)の動画を描いていましたよね。
川村氏:
はい。アスガルド編って、北欧神話がベースになっているアニメオリジナルの話だったんですよ。
姫野美智さん【※1】がキャラクターデザインをしていらして、むっち先生が「姫野さんから直々に作画をお願いされた」といった話をしてくださって。そのとき「私、フレア役をやっているので知っていました」というお話をしました。
堀江美都子さん【※2】が演じていらしたお姉さまのキャラクターがすごくエキセントリックで、あのあたりを先生が描いていたとおっしゃっていましたね。
そういえば、テレビアニメの『聖闘士星矢』って『北斗の拳』の終わりくらいのタイミングで放映がスタートしていましたよね?
永野氏:
そうそう。
※1 姫野美智
1956年生まれのアニメーター・キャラクターデザイナー。アニメ版『ベルサイユのばら』『聖闘士星矢』などのキャラクターデザイン・作画監督などを担当。
※2 堀江美都子
1957年生まれの歌手・声優。アニメ版『聖闘士星矢』ではアスガルド編の「ポラリスのヒルダ」役を担当。
川村氏:
むっち先生はずっと『北斗の拳』に携わっていらして。それが終わって「ずっとがんばったから次はちょっと休もう」という感じで、『聖闘士星矢』はやらなかったらしいんですよ。
そうしたら、『聖闘士星矢』の第1話を見たときに「なんでおいらはこの仕事を断っちゃったんだ……」と悔し泣きされていたらしくて(笑)。
永野氏:
そうそう。あいつの本当にひどいところなんですけど、アニメ作品が出ると制作会社に電話して「原画をやらせてください」と言うんですよ。
それって普通のアニメーターからしたら「営業」なんですけど、むっちの場合は「邪心」でやっています(笑)。
一同:
(笑)。
──生活のためというよりは「この作品に関わりたい」という欲望で営業をかけていたと(笑)。
永野氏:
先方としても、いのまたむつみから「やらせてくれ」と言われたら、そりゃあ「オープニングを頼もうか」とか「バンクシーンを頼もうか」となりますよね。あいつはそれを喜々としてやっていたっていう(笑)。
橋本氏:
そうそう、なんか余計な絵までいっぱい描いてました(笑)。その話で思い出したけど、『北斗の拳』のときに並行して『幻夢戦記レダ』【※】もやっていて。
そこに色男のキャラクターが出てくるんですけど、「(『北斗の拳』の影響で)その人のアゴがどうしても長くなる」と言っていました。「アゴが直んないんだよ〜」って(笑)。
※『幻夢戦記レダ』
1985年のOVA作品。いのまた氏はキャラクターデザインと作画監督を担当。
──ファックスの話でもそうでしたが、いのまた先生は筆が早いほうだったのでしょうか。
橋本氏:
早いですよ。以前ほかの友だちとお絵描きチャットをしたことがあったのですが、向こうが「ちょっと待って」と言っている間に10枚くらい描いていました。
永野氏:
俺らって「筆が遅い早い」というレベルじゃないと思う。当時むっちがアニメーターをやっていた時代は「ひと月1200枚で一人前、1600枚でベテラン」と言われていたんです。いまは月に400枚で一人前でしょう。
橋本氏:
へえ、そうなんだ。
永野氏:
いまはアニメの絵も緻密だから昔の俺たちみたいな描き方だと通用しないようなレベルになってきたけど、当時は手が早くないと仕事が来なかった。
橋本氏:
そうだよね。
──そもそも筆が遅かったらやっていけない世界だったわけですね。
永野氏:
アニメ業界なんて「すみません、このカット全部お願いします」と言われて「いつまで?」と聞くと、「明日まで」というのが当たり前だったので。
特にむっちのような作画監督とかキャラクターデザインクラスになると、夜中の12時に「明日の朝まで、あと8時間でお願いします」みたいなこともよくありましたから。
永野氏:
だから「手が遅い」イコール「仕事ができない」ということで、「遅い早い」というレベルじゃなかったと思います。下絵なんか描いていたら到底間に合わないから、もう下絵なしで一発で描く。それが我々の時代のアニメーションの普通だったんですよ。
──ええっ、下絵なしですか……!? すさまじいスピード感ですね。
永野氏:
『エルガイム』にしても『Zガンダム』にしても、原画スタッフって3人くらいなんです。ひどいときは作画監督ひとりで300カットも描いて。
川村氏:
ひとりで300カット……。
永野氏:
でも、むっちたちもそれを平気でやっていた世代だから。
橋本氏:
むっちゃんは、それと並行してほかのイラストも描いていたんですよ。「この時間までアニメをやって、そのあとにイラストを描く」って。そんな感じでした。
永野氏:
でもそれって、我々の時代では普通の話なのでね。アニメの仕事をやって、『アニメディア』などの雑誌の表紙を描いて、原画をやって、頼まれたイラストもやるという。
橋本氏:
そうそう、それをこなしたうえでファックスの絵を描いてね。
一同:
(笑)。
永野氏:
こんだけ絵を描いてるのに、なんで夜中にファックスが送られてくるんだよ!
──起きているあいだはひたすら絵を描いているような生活をされていたと。
川村氏:
いちばん驚いたのは、むっち先生ご自身のキャラクターが大泣きしながら「ああ~」と倒れ込んでいるイラストが送られてきたときのことです。
「なにが起きたの!?」と思ったら、どうやら『タクティクスオウガ』をプレイしていて、“取り返しのつかないミス”をしてしまったらしくて。
永野氏:
むっちは前作の『伝説のオウガバトル』のときから「カノープス」というキャラクターが推しだったんですよ。次回作の『タクティクスオウガ』にもカノープスが出てきて、「カノプー」とあだ名をつけて呼んでいたくらいに推しで。
あのゲームは本編クリアのあと「セーブ不可の99階ダンジョン」に突入するんですけど、そのエクストラダンジョンに入って……。

川村氏:
当時のむっち先生は2徹とかをしながらプレイしていたので、眠いなかで続けているうちにカノープスが死んじゃったらしいんです。でもあれって、セーブデータをさかのぼればチャラにできるじゃないですか。
──キャラクターが死亡してロストしても、それ以前のセーブ状況を読み込めばやり直しはできますよね。
川村氏:
でも先生はダンジョンの外に出てセーブを上書きしてしまったらしく、気づかないままずっと進めてしまって。そのうちハッと「カノプーがいない!」と気づいたと。
それでよく見たらカノープスが死んだままセーブしてしまい、ゲーム内時間で半年分くらい取り返しのつかないまま進んでしまったそうなんです。
それに気が付いたときに絶望したらしくて、アニメーションで倒れ込むご自身のキャラクターがファックスで送られてきて……(笑)。
──(笑)。ちゃんとアニメーションで描かれていたんですか。
川村氏:
はい。3人くらいの先生が徐々に倒れ込んで(笑)。「むっち先生が大変なことになっている!」と思わず電話してしまいました。
永野氏:
ちゃんと3コマ打ちで中割りもしてさ(笑)。
橋本氏:
後日、『タクティクスオウガ』に詳しい人からアドバイスをもらったんですけど、そのアドバイス内容が「よく寝てからプレイしてください」でした(笑)。
永野氏:
でも、しょうがないよね。昼間はちゃんと仕事をして、それ以外の時間に遊んでいるわけだから。
橋本氏:
残してあった落書きを見てみたら、カノープスの絵もたくさんありますね。カノープスがごはんを作っている絵とか。
永野氏:
本当に、あいつはいつ描いているんだ。普通だったらふてくされて寝るような場面でも、わざわざアニメーションにした絵を描いてファックスで送ってくるんですから。
橋本氏:
そうなんですよ。紙と鉛筆さえあれば割り箸の袋にも落書きしちゃうんです。
永野氏:
むっちもそうだけど、作家さんたちってファミレスに行ってちょっと暇があるとお手拭きの紙に描いたりするよね。
川村氏:
おしゃべりよりも手が動いちゃう感じなんでしょうね。
スタジオの “棚” で寝泊り!? 当時のアニメ制作の現場を振り返る
──ここまでお話を聞いていて、いのまた先生の「周囲に好かれるお人柄」が見えてきたような気がします。年代的には、上からも下からも慕われるような方だったのでしょうか?
永野氏:
俺らの世代のアニメ業界って、突発的に頭角を現した人が多かったじゃないですか。
どうしてそこまで一気にキャラクターデザイナーや作画監督になれるかというと、「それを許してくれる環境」があったからなんだと思います。
──上からかわいがられていたからこそ、すぐに重要な仕事を任せてもらえたと。
永野氏:
そうですね。上に顔が売れていなければ、あそこまで急速にキャラクターデザインをすることはできなかったと思います。
川村氏:
ひとつ思い出したんですけど、あのころのアニメ業界って、本当に家に帰れないくらい忙しかったじゃないですか。
私たち声優も音楽アルバムを作らせてもらえたような時代です。でも、いまほどシステム化はされていないから、手作り感満載で。昼間はアフレコの仕事をして、夜にレコーディングをして、さらにそこからアフレコに行って……。という感じで、家に帰れないんです。
それでむっち先生に「アイドルソングみたいな曲を歌っているのにミキシング卓の下に毛布を敷いてもらって、そこで寝てるんですよ……」と愚痴ったら、先生が「おいらもさ……」って(笑)。
──いのまた先生も忙しすぎて家に帰れていなかったというわけですか。
川村氏:
むっち先生は女性だったから「カット棚の一角を空けてあるからそこで寝るといいよ」と言われたらしいんです。
永野氏:
当時は原画、動画、背景を1話ごとにまとめて保管する「カット棚」というものがあって、棚のいちばん下が空いていれば、そこは寝てもいい場所だったんですよ。二段目や三段目に人が乗るとさすがに潰れてしまうから、いちばん下が空いていると都合がいいんです。
一同:
(笑)。
永野氏:
むっちは女性だったから、そこをわざわざ空けてもらったんだろうな。ちなみにほかの人はどうしたかというと、椅子を並べてその上で寝ているというね。
川村氏:
そうそう。電話で「おいらもしょっちゅうそこで寝てたよ〜」って。「えーっ、じゃあおんなじですね」と共感したんです(笑)。
──当時のアニメ業界では、仕事場で寝るというのはそれくらい当たり前だったのでしょうか?
橋本氏:
仕事で会った人に「この間サンライズに行ったら信じられないことに机の下で人が寝てるんですよ!」と言われたことがあって。「えっ、当たり前じゃん」「なんで驚いてるんだろう」と思ったことがありました(笑)。
永野氏:
サンライズでもそんなのは普通だったじゃん。みんなそうやって寝てたんだから。業界全体がそうだった。
当時のアニメスタジオは辺鄙な場所にあったし、中途半端な時間に来ても終電がないから、みんな夜中の10時ごろに来て朝に帰るようなことをしていたんです。
橋本氏:
アニメーターはいいかもしれないけど、声優さんはそんなところで寝たら声がガラガラになりませんか?
川村氏:
だんだんボロボロになっていきますね。朝10時から仕事が入っているのに、直前になってもまだ録り終えていなかったりして。「終わったら戻ってきます」と中断して、アフレコの仕事をこなしてからまた戻ってくるようなことをやっていました。
──それは体力勝負ですね。時代柄もあるとはいえ、かなり大変だったのではないでしょうか。
川村氏:
若かったからできたと思いますね。でもその件でむっち先生と意気投合して。「おいらも、おいらも」と話していましたね。