ゲームはお客さんが自分で調理するキャンプ料理のような楽しさを。言葉を排したアクションによる物語表現
── 「自分の作品の最初のプレイヤーでもある」とおっしゃっていましたが、プレイヤーとしての体験、そしてどういった感情を生み出したいと考えていますか。
エリック氏:
私のアプローチは、もしかしたら不思議なアプローチかもしれないです。
というのも、ゲームとプレイヤーとのあいだの感情関係を考えるには、まず「自分がデザイナーである」ということを忘れないといけないんです。
だから、自分のゲームを自分でテストプレイするときは、自分がゲームデザイナーだということをいったん忘れて、プレイヤーになりきるんです。それも、自分の知らない誰かのプレイヤーではなく、「自分というプレイヤー」に。

そのプレイヤーがどういう感覚で、何を感じているか。ゲームデザイナーとしての自分は、どこか遠くから俯瞰するように「プレイヤーのエリック」を見ているんです。
そうした態度でゲームをプレイして、そのときの自分の感覚──たとえば「ちょっとつまらない」「平坦すぎる」といった感じたことを糧にして、体験を改善し、最適化していくわけです。
完全に自分を分離させられるわけではないんですが、こうして「デザイナーの自分」と「プレイヤーの自分」を分離させる。そして、ゲーマーとしての体験を、デザイナーの自分に語りかける。そういう感じです。
上田氏:
そのゲームを全く知らない状態としてプレイする、ということですよね。いちばんニュートラルなプレイヤーとして。
それは自分もよくやります。「このゲームを全く知らなかったとしたら、どう感じるんだろう」というのをシミュレーションする。というか、その「シミュレーション精度」こそが、デザイナーの能力でもあるのかなと思います。
── 同じ質問を上田さんにも伺います。ユーザー体験の構築や感情作りの部分で、注力しているポイントはどこでしょうか
上田氏:
感情作りが比較的うまい、と言われているのかなとは思うんですが、自分的にはそこまで意識していないですね。
感情を作るというところで言うと、ビデオゲームの場合は映画や音楽、小説といったほかのメディアに比べて、すべてをコントロールできるわけではないんです。
だから、ある程度プレイヤーに委ねてしまう部分があって、そこはもうプレイヤー次第というところもあります。なので、あまりそこは深く考えないようにしています。
感情作りの部分を究極的に突き詰めるのであれば、映画などのほうがいいんじゃないかな、というのもあって。ある程度はもうプレイヤーに委ねてしまって、あくまで自分はその世界を作る、「世界環境」を作るというところにフォーカスしますね。
いまだから言えますが、たとえば『人喰いの大鷲トリコ』にしても、「トリコと主人公の絆」みたいなキャッチコピーがあったんですが、作り手の自分たちとしては、それは少し照れくさいというか。そこまで表現できているかどうかは、もう作っている最中はわからないんですよね。
とにかく「トリコが本当に存在しているんだ」というのをプレイヤーに感じてもらう。それだけにフォーカスしているというか。
そこで「こういう展開にしたら感動するだろう」とか、そういうシナリオ的、スクリプト的なものは、あんまり意識していないかもしれないです。意識してもほかのメディアには敵わないという少しの「諦め」みたいなところもあるので。
あくまで自分は、その環境をリアルに感じてもらう。それが結果的にその場にいて、そこで感じたこととして感動してもらえたりするんじゃないかと思いますね。
そこに関してはよく料理に例えるんです。
たとえば、フランス料理のフルコースの料理を作るシェフのように、タイミングから味付けから、全部コントロールできるのが他のメディア、たとえば映画などといったものだと思うんです。
でも、ビデオゲームはコントロールできません。お客さんが調理するものなので、ある程度材料を揃えたり、焼き方の説明をしたり、そういうものを伝えて体験してもらう、という違いがあると思うんです。
でも、だからこそ美味しく感じる部分もあると思うんです。すごく高級なフレンチのコース料理も美味しいですけど、自分たちでキャンプに行って、何もないところでご飯を炊いたり、ソーセージを焼いたりして食べる美味しさもありますよね。
どちらも美味しいのですが、キャンプの場合は自分で調理したり、そこで苦労することで得られるものだと思うんです。
その感情や、料理のクオリティ、体験の質というところで言うと、ゲームはどちらかというと、先ほど言ったようなキャンプのような美味しさを表現するべきじゃないかな、と思いながら作っていますね。
だから、スクリプトは重要視しますけど、スクリプトだけでは他のメディアには敵わないという割り切りが自分の中にはあります。
エリック氏:
そうですね。ビデオゲームはインタラクティブな媒体ですから、映画とは違う要素がいくつも出てきます。
たとえば『人喰いの大鷲トリコ』では、トリコを撫でてやることも、体に刺さった槍を抜いてやることもできる。プレイヤーがそれをいつ、どんなタイミングでやるかは、作り手にはわかりません。それでも、「撫でる」「槍を抜く」という行動そのものが、プレイヤーの中に感情を生むんです。

もちろん、我々ゲームデザイナーは「こういう体験をしてほしい」と場をお膳立てしています。でも、体験や感情の土台になっているのは、あくまでプレイヤー自身がとった行動なんです。
映画と比べると、わかりやすいと思います。映画は、カットが一本の線として順番につながっていく、線形的な媒体です。でも、ビデオゲームはそうではない。画面の中では、いくつものことが同時に起きている。ビデオゲームにあって映画にないもの、それが「アクションの並行性」です。映画的な長いシークエンスを持つゲームもありますが、そこはやはり映画とは決定的に違います。
ゲームの画面の中には、たくさんの「役者」がいます。主人公だけではありません。NPCや敵、プレイヤーが歩く場所、地形。動くものはすべて役者です。
そうした役者たちが、プレイヤーの行動と並行して動いている。そして、我々デザイナーは、どの役者の動きを目立たせるかを調整できます。ある動きを強調すれば、プレイヤーはそれに反応して次の行動をとる。つまりゲームでは、この並行する動きの強弱によって、物語の運び方を操作できるんです。
『Another World』の冒頭で言えば、画面の奥で黒いモンスターが崖に飛び乗ります。プレイヤーの目の前で起きることではないので、ただの背景で済ませてもよかった。でも、これは物語の一部なんです。

プレイしている最中は、たいして重要には見えません。でも、あのモンスターはその後も別のシーンに現れて、4つ目のシーンでは、ほんの2秒のあいだに姿を見せた直後、いきなり襲いかかってくる。奥で起きていた出来事が、主人公の身に降りかかってくるわけです。
どのゲームにも、こういう並行して進む出来事があると思います。それが主人公の行動と連動した瞬間に、また新しい物語が生まれてくるんです。
上田氏:
『Another World』で言うと、手前のプレイヤーがいるレイヤーの奥に敵がチラ見えする。最初にちらっと存在が示唆されるというのは、まさに「並行に」ということですよね。
その後同じレイヤーに重なって、結果的には勝てないわけですけど。興味深いですよね。確かに、あそこはすごく印象的でしたね。
── おふたりの作品は、非言語のコミュニケーション、ビジュアルをベースにした表現が大きな共通点として挙げられます。そうしたビジュアルベースの表現の醍醐味を伺えますか。
上田氏:
そこも、いままで作ってきたタイトルでよく言われたんですが、そうしたくてそうしたというよりは、「そうせざるを得なかった」というところが大きくあります。
さっきもお伝えしたように、スクリプトをビデオゲームで表現するのは、なかなか難しいんです。
たとえばNPCキャラクターにいろんなことをしゃべらせるうえに、それがゲームの進行にとって重要なセリフだったりすると、聞き逃したプレイヤーのために同じことを繰り返してしゃべらせざるを得なかったんです。
今はもっと新しいテクノロジーを使うことで、そういったものは回避できるかもしれないですけど、当時はそれがどうしても違和感があったんです。
ゲームの進行よりは、その世界のリアリティを描写したい。だから、どんどんそういった言葉を排除せざるを得なかった。その結果、ビジュアルだったり展開だったり、レベルデザインで進行を促す、という方式を取らざるを得なかったというのが正直なところですね。
エリック氏:
私も同じです。というのも、私はそもそもシナリオライティングがあまり得意じゃないんです。それに、『Another World』の場合、テキストは没入感を損なうものでした。
もし音声を入れていたらメモリをすべて食ってしまいますし、翻訳の問題も出てきてしまいます。そもそも自分も無口なほうですし、主人公にしゃべらせないというスタイルが、とてもしっくりきたんです。

そしてテキストがないからこそ、仕草や視線だけでいろいろなことを表現することができるんです。
『人喰いの大鷲トリコ』の場合、トリコが時々どこかを見つめたり、ある位置に立って、あちこちを見回したりしますよね。それがすごくゲーム内のいろいろな情報を伝えているんです。
プレイヤーもトリコが感じた情報を感じ取ると思いますし、トリコが自分の周りの環境を意識している、リアルな存在だと感じられますよね。

上田氏:
テキストだと一行「どこどこの場所に何かがあるよ」で済むけれど、それを全部ジェスチャーやモーションだったり環境だったりで説明しようとすると、膨大な手数というか、工数がかかるというのはありますね。
自分がその選択を取れたのは、まさに先ほどの『Another World』や『ハートオブダークネス』があって「こういう表現をしていいんだ」と、自分の背中を押してくれたというのがありますね。
あれがなければ、とても怖くて「言葉がない」とか「言葉が通じない」という選択は取れなかったと思いますね。
「技術の進化に寄り添いすぎる危険」と制約から生まれたスタイル
── おふたりにとって技術的な制限は、ゲーム制作においてどのような制限になっていたのでしょうか。
エリック氏:
むしろ技術の制約が、逆にクリエイティビティにつながった経験についてお話しします。
ビデオゲームは、テクノロジーと切っても切れない関係にあり、技術の進化と根本的に結びついた表現なんです。80年代、90年代の初期から今日まで、ハードの世代は本当に目まぐるしい速度で進化してきました。ただし、少なくとも私が始めた頃は、ゲームの制作において技術的な制約がとても強かったと思います。
当時の私たちは、その制約がなくなることをひたすら望んでいました。「もっとメモリがあればいい」「もっと多くの色が使えればいい」と。
でも面白いのは、その制約こそが、新しいスタイルを生んだことなんです。
たとえば、ピクセルアートは、まさに制約から生まれた表現ですよね。
『Another World』もそうです。本作はポリゴンがむき出しの平面的なビジュアルですが、これは元々、メモリを節約するために採用しました。ところが、このビジュアルが作品の魅力になった。技術の限界が、表現において面白いアウトプットを生んだわけです。

いっぽうで、テクノロジーには「罠」の面もあります。
人は常に、最先端の技術を使いたくなるものです。私自身もそうでした。そして『ペーパービースト』では、実際にその罠にはまってしまった。
本作はVRゲームで、物理シミュレーションも活用した、技術に軸足を置いた作品です。その分、技術面で求められる作業量が本当に、本当に大きかった。

技術を追いかけると、デザインだけでなく、制作の面でも制約が生まれます。技術の進化にぴったり寄り添いすぎると、「このハードでできる最高のものを出そう」とするあまり、常に綱渡りの状態で作り続けることになる。それが、技術に寄り添いすぎることの危険性なんです。
上田氏:
すごく耳が痛い話だなと思いました。
僕がゲーム業界に入ったときは、初代プレイステーションとプレイステーション 2の時代だったので、それより前のゲームに比べると、まだ制限が緩い時代だったと思うんです。それでも、まだ制限はたくさんありました。
その制限の中で、自分たちができる限界というよりは、プラットフォーム、ハードウェアができる限界のほうが先に来ていたんです。だけど、それ以降になると、自分たちの限界のほうが先に来てしまう。
その中で、いかにプロダクトをお客さんに提供できるレベルのものにするのか、というところを悩みながら作っていました。
先ほどエリックさんがおっしゃったように、いつでも技術の沼に落ちてしまうということは、多々あるなと思います。現代においてどのように開発するのがいちばんヘルシーなのかは、未だにわからない部分もあります。
ひとつ思うのは、最初からすごく制約を設けて作ったうえで、余力があれば広げていく、というのがこれからの作り方なのかなと、なんとなく見えてはいるんです。いきなり「あれもこれもできるから」と言ってやってしまうといろいろ苦労する。いままでの経験上、そういうふうに感じます。
でも、これには明確に答えはないですよね。技術的にできる限界のことができて、それでお客さんが驚くというタイトルもたくさんあります。
どれが正解というのはないんでしょうけど、それは常に「テクノロジーと自分の発想を照らし合わせながら、うまい落としどころを探っていきながら制作していく」ものかな、といまは思っています。
自分の作品にあった制約で言うと、先ほどの反省点の話とは別に、やっぱり「描画能力」がどうしてもボトルネックになっていた、というのもあるんです。
たとえば『ICO』だと、遠くの風景、遠くのレベルは作らずに、ひとつの城だけを徹底的に作り込むことにしたんです。そして、それ以外は霧に覆われて見えなくすることで遠景の対策をしたりしました。
『ワンダと巨像』で言うと、広い空間は表現できたけど、そこにいろんな要素を追加していくのはメモリ的にはとても厳しかった。だから、巨像がいる場所や環境をマップにうまく配置することでメモリに負担がかからないようにうまくバランスを取ってできたのがあの世界でした。
プレイヤーの人が聞くと、台所事情というか「そういう制約の中でそれができたんだ」となると、少しがっかりされちゃうかもしれないです。
でも、そうやって制限と自分のやりたいことのバランスをうまく取りながら「これだったら、その世界のリアリティも崩れないし、お客さんが新鮮に感じてくれるんじゃないか」というところを探しながら、「これだったら」という進め方をしていますね。
エリック氏:
本当にそうだと思います。そういった制約を使って、制約とともに何かを作る。それってすごく面白いですよね。
霧の話をされていましたね。奥行きのことももちろんそうですし、霧はよりミステリアスな雰囲気もくわえてくれます。それは、『ICO』にぴったりだったと思います。
上田文人氏はビジネスの「習わし」に、エリック・シャイ氏はゲームの「見つけやすさ」に課題を見る
── ここから先、ビデオゲームという媒体にどういったことを期待されていますか。
上田氏:
ビデオゲームを「総合芸術」だという人もいますよね。ですが、ゲーム自体のフォーマットは、まだそこまではっきり固まっていないんじゃないかというふうにも感じるんです。
プレイ時間や値付けであったりとか、そういったものはほかのメディアに比べると、まだ「これがベスト」というものが決まっていなくて、これまでの習わしに従ってビジネスが動いているというような感覚もあるんです。
たとえば、僕がすごく短いゲームを作りたいと思ったとしても、それだとなかなか採算が取れないとか、短いと値段を下げないといけないとか。そういう中で、クリエイティビティを活かしながら、どういうビジネスをやっていけばいいのか。それを今、本当に考えながらやっているところです。
この先、ビデオゲームに期待することですが、ゲームという表現やメディアといった大層なことは、あまり考えていないかもしれないです。ここまでの話であったように、自分が考えるベストなものを追求していくというところですね。
エリック氏:
技術面で期待することは、それほどありません。私が期待しているのは、ゲームの流通に関してです。
今はあまりにも多くのゲームが出回っています。Steamだけでも、年間で1万本【※】以上、もしかしたらもっと多くのゲームが出ているはずです。
※Steamでリリースされたタイトル数は、2025年に過去最多の2万1318本を記録している。
そうなると問題になるのが、「ゲームの見つけやすさ」です。いい作品はたくさんあるのに、それをどうやって目立たせるのか。Steamなどでチャートを見ると、上位50本ほどに並ぶのは、いつも同じ大作、AAAタイトルばかりなんです。

私としては、それが居心地悪いと感じます。とくにインディーゲームには、本当に素晴らしいものが隠れています。ランキングには出てこないけれど、本来なら商業的にも成功するはずの作品が、たくさんあると思うんです。
だから、流通の部分には、まだ改善できる点があるはずだと感じています。小規模なインディーゲームと大作とのバランスを取る、何かしらの良い仕組みがあるのではないかと考えています。そこを模索していきたいですね。


