こんな依頼を受けた。
ある小説のレビューだという。ホラー小説だ。あの「梨」の新刊らしい。
「凝った付録がついているので、きっとお楽しみいただけると思います」と、私に連絡してきた編集者は言った。
電ファミの編集部というのは、ときどき妙な依頼を持ち込んでくる。やれ焼肉屋に行けだの、やれ農業高校に行けだのいう。ゲームメディアだという自覚があるのか、疑わしいところがある。面白ければなんでもいいだろうと思っているのか。
題名は『オブラートに包まれた怪談』という。サンクチュアリ出版という、聞いたことのない出版社から出ていた。

”透明なコップと水をご用意の上、お読みくださいませ”
胡散臭い表紙に、胡散臭い文字。
ネットで出版社名を調べると、一応ちゃんとヒットする。ご丁寧に「ホラー」というカテゴリがあったが、該当するものはこれ一冊しかない。やる気があるのか無いのか、妙な出版社である。
もちろん、依頼は依頼である。ビジネスであり、原稿料が入る。文句などあろうはずもない。
引き受ける旨を伝えると、他日、本が送られてきた。ネットで見た書影そのままの本である。妙にごてごてしているが、不気味と言うほどでもない。
編集者の言葉通り、本には付録がついていた。それはこんなものだった。
執筆/恵那
※この記事は『オブラートに包まれた怪談』の魅力をもっと知ってもらいたいサンクチュアリ出版さんと電ファミ編集部のタイアップ企画です。
一、
それは女の写真──若ければ30代、年増でも40代程度であろう、女の顔が写されたオブラートだった。
決して気味の良いものではないが、ひと頃のオカルト雑誌などでは、こんなものより遥かにエグみのある写真などいくらでも載っていた。
近頃ああしたものはどこへいったのだろう。YouTubeなど、一見混沌としているように見えて、その実は芯まで毒気の抜かれたものしか残っていない。超自然の産物も、ビッグテックの規制とアルゴリズムには勝てないのだと思うと、なんだか妙な哀れさがある。
オブラートは袋に収められ、本の巻末に差し込まれていた。
オブラートとは、要するにイモのデンプンを引き伸ばしたものである。包み紙のような形状だが、食える。
「ボンタンアメ」を包んでいる薄い膜だと言って伝われば良いが、今時分にその駄菓子が残っているのかどうか、自信がない。
昔住んでいたところに、「上店」と呼ばれる駄菓子屋があった。小学校前にある坂の上にあったから「上店」。本当の名前は知らない。子供のころはそこで「ヤッター麺」や「きなこ棒」をよく買っていて、たしかボンタンアメもあったと思う。その店がなくなって、もう何年経ったか思い出せない。
最終ページ付近に、次のような文言が書かれていた。
同封されている袋を開封し、以下の手順に従ってください。
①硝子製の透明なコップに水を溜める
②別添の袋からオブラートを一枚取り出す
③オブラートを本書カバーの枠線にぴったりと合わせ、皺や丸まりを伸ばす
④オブラートの両端を持ち、コップの水面にゆっくりと置く
⑤一分ほど放置する
⑥コップの水を受け容れる(任意)
ばかに丁寧な解説だった。要するに、水の中にこれを浮かべればいいだけのことだ。
巻末に書かれているということは、読後にやってみることを想定しているのだろう。といっても、後か先かだけの違いでしかない。これがこの本のミソなのだろうし、記事を見ている読者からしても、何が起こるのかは早く知りたいだろう。
オブラートは、一辺が5センチほどの大きさである。
大きくはないが、うちにあるグラスはどれも口の細い、縦長のものばかりである。
どうしようかと思っていたら、夏にかき氷を作るために買った幅広のうつわがあったのを思い出した。水を貯められさえすれば、なんでもいい。
浮かべると、思っていたよりもはっきりと女の顔が水面に写った。
30から40代だと思ったが、髪型が古臭いだけで、実際にはもう少し若いのかもしれない。
「⑤一分ほど放置する」と本には書かれていた。けれど、実際にはもっと長く待った。
時間が経てば経つほど女の姿は広く大きくなり、その分だけ薄くなっていった。別段何かを期待していたわけではなかったが、それは妙に愉快だった。
モナ・リザ効果という言葉がある。もちろん、かの有名なダ・ヴィンチの淑女から取られた言葉だ。人物が描かれた絵画や写真をさまざまな方向から見ると、どこから見ても「目が追いかけてくる」ように見える、一種の錯視のことである。
もちろん実際に動くわけではないが、目というものは人間の顔の造作のなかでも、特別な意味を持っているということだろう。古来、「見る」ということには呪術的な意味もあったという。
薄く淡く、水に溶け込んでいく女の顔の中で、双眸だけが、いつまでもはっきりと残っていた。水の中に、奇妙な隙間が空いてしまったようだった。
ふと、オブラートが入っていた袋の台紙を裏返すと、次のように書かれていた
・食用ではありません。
妙なことをわざわざ書くものだと思った。
これは嘘だ。オブラートなど、薄く伸ばしたイモのデンプンに過ぎない。
二、
それはこんな話だった。
語り手が暮らす長崎のあばら家に、ひとりの男──もしくは女──が訪ねてくる。(男か女かなんて、そんなに重要な問題か?)
語り手には、不思議な力があるらしい。その力で、訪ね人の願いを叶えることができるという。
男だか女だか知らないその訪ね人が、どんな願望を抱えてわざわざ九州の果てまでやってきたのかはわからないが、己の願いの話をする前にまず自分の話を聞けと、語り手は言う。
曰く、語り手はかつて、父親に“黒い水”を飲まされたのだという。どうやら、それがすべての始まりのようであった。
私は父親に手を引かれるまま、チラシに書かれていた住所へ向かいました。ぐねぐねした坂の合間に小さな団地と荒家が立ち並ぶ細道、ぼつぼつと季節外れの椿が咲いている悪路の、そのさらに奥にある、ぼろぼろの平屋。海風のせいか、妙な湿気でどこもかしこも嫌に重く軋む、薄暗い民家です。玄関の鍵は開いていて、何の挨拶も許可もなく中に入る私たち親子を咎める者もありませんでした。
『オブラートに包まれた怪談』
椿は春の季語である。冬を越えた木が、春先に花をつける。花が落ちるとき、くびが捥げるようにして花弁ごとボトリと落ちることから、かつて武家の間では嫌われたという。季節外れと言うから、まだ寒中の候の話なのだろう。
九州というと、関東以北の人間はまるで南国のように思っている人もいるが、その実、民家もまばらな地域で吹きすさぶ冬の風は、よほど堪えるものである。海風の吹き付ける地域は、とくにそうだ。
語り手──“私”──は、病がちな、ひ弱な子供だったという。
その病の気を祓うために父親が見つけてきたのが、得体のしれない“黒い水”を呑む、という民間療法まがいの怪しげな“治療”であった。
口元まで持って行って、窓からわずかに射す陽の光を反射する水面を注視して、そこで気付きました。
指の震えでかすかに揺れるその水面には、見知らぬ老婆の顔が写っていて。
その老婆が、周囲の大人と同じように、無表情に私を見つめていることに。『オブラートに包まれた怪談』
ふと、オブラートを溶かしたまま、ほったらかしにしていた水のことを思い出した。
どうしたのだったか。というより、どうして忘れてしまっていたのだったか。
台所へ向かうと、すでにすっかりインクがほどけて、色付きの砂糖水のようになっている█を湛えたうつわが、もとのまま置かれていた。放置している間に蒸発してしまったのか、少し減っていた。深い紫紺のような色合いで、光の加減によっては、黒っぽく見えないこともない。
水面には、色を失ったオブラートのぶよぶよした残骸が、くらげの死骸のように浮いている。
調べたところによると、ああいう喫茶店で使われている印刷物は、殆どがオブラートなんだそうですね。平たいケーキの上や茶の張った水面の上に、事前に印刷しておいたオブラートを貼り付ける。当然ながら、オブラートだから食味への影響もないし、印刷技術が発達したことで、食用インクのみを使っても、コピー用紙に刷るのとほぼ遜色ない色味を再現できるようになった。だから、言うなれば食べられるフィルムとして、現代では寧ろ若い層にこそオブラートが重宝されていると。
『オブラートに包まれた怪談』
食味に影響を与えない食べ物への装飾品として、現代オブラートは広く使われている。
オブラートというのは、もとはカソリック教会における聖餅──聖餐で用いられるパンのことを指す。オランダ語だかドイツ語だかに、直接の由来があるらしい。
公教会では聖書の記述に則り、パンをキリストのからだ、ワインをキリストの血として拝み頂く儀礼があるという。私はキリスト者ではないので、詳しくは知らない。けれど現代の人々が、由来などつゆ知らずにそうした宗教儀礼の一部を辿っているということは、妙におかしい。
三、
一晩眠り、本の続きを読んだ。
物語は、さして長くない。じっくり腰を入れて向き合っても、本来であれば読み通すのに2時間もかからないだろう。
それでも昨晩は、妙に眠かった。低気圧のせいで頭が重く、頭痛薬を飲んだせいである。薬を飲んで眠った日の常で、翌朝もまだ少しばかりぼんやりしていた。が、頭痛は消えた。
オブラートを溶かした█は、まだそこにある。実験は終わったのだからさっさと捨ててしまえばいいものを、どうしてか本を読み終えるまでは残しておいたほうが良いような気がしていた。
でも、実際そこには何があったんだろうね。
誰かが私にぽつりと言いました。
どういうこと、と私が問うと、その子は不思議そうな顔で続けました。
その黒い水の出処よ。例えば水を汲んだり、粉薬を溶かしたり、なんでもいいけどその水が「注がれている」ところをあなたは見たことがないのでしょう? 話を聞いている限りだと、お父さんが湯呑を持ってきてくれていたみたいだし。その水の原料が何で、どうしてそんな色をしているのか、気になって調べたりはしそうなものだけど。『オブラートに包まれた怪談』
“黒い水”の頓服によって生来の病を克服した“私”は、成長して故郷を離れ、忘れ、やがて思い出す。
それまでの“私”の物語は、ときに断片的である。単に忘れているのか、伏せているのか、よく分からない。話の舌触りは別に悪くはないが、味が遠い。そこに、輪郭が見えてくる。
ボンタンアメを口の中で転がしているときのように、ぺりぺりとした薄い膜が口中で溶け、舌に直接味が伝わる瞬間のような、何か邪魔していたものが急に█えたような感触があった。
「オブラートに包む」というのは、それそのものの効用であると同時に、慣用表現でもある。
もとは薄いせんべいのようなものであった西洋世界のオブラート──元々の聖餅──を、いまの我々がよく知っている半透明の████状に仕立てたのは、三重県の医師・小林政太郎であったという。

苦い粉薬を包み込み、病人が頓服しやすくするために改良されたというのが、その由来である。レトリックとしてのオブラートも、こうした歴史がなければ生まれなかったのであろうと思うと、興味深い。
新発明のオブラートは世界に広がったが、製法の変化などによる競争の激化で、小林の立てた█████の工場は、昭和10年頃までに██を停止したという。
それは墨汁のように黒い液体でした。███から█のように流れ出ている黒色の何かが、少しずつ透明な水の中に染み出していたのです。それはインクのようにかすかな重量と粘性をもつようで、水中に広く拡散するのではなく、███に滴り落ちるように黒い筋を形作っていました。
『オブラートに包まれた怪談』
本書のタイトルは『オブラートに包まれた怪談』である。
読み心地は軽やかであり、読み通すのに█時間もかからないだろう。その味に気づくことなく、するりと██まで呑み込める。
水面に浮かんでいた女の姿はとうの昔に全て溶け去っており、いつの間にかうつわの█もだいぶ少なくなっている。長く置いているうちに、乾燥して、飛んでしまったのであろう。
物語の中では、█に浮かんでいたのは老婆の顔であった。けれど、ここに浮かんでいた女の姿は、もっと若かった、ような気がする。
本書の最後には、〈より楽しく本編を体験していただくために〉という注意書きが添えられている。
・内容物は食用ではありません。
どうぞ安心してお楽しみください。
※本文引用内の伏せ字は、すべて本記事の筆者によるものです。








