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『近畿地方のある場所について』背筋氏 ×『零 ~紅い蝶~ REMAKE』柴田 誠氏対談──ホラークリエイターが語る恐怖の本質。「消臭スプレーで除霊」の生みの親、柴田氏に聞く「視えること」による創作への影響

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幽霊は実際に対峙するよりも「何かいる?」と感じているときのほうが怖い

──柴田さんの実体験のお話が長くなってしまいましたが(笑)、おふたりは恐怖、ホラーの定義をどう捉えていらっしゃいますか? また、恐怖における主観表現と客観表現に関してもうかがえればと思います。

柴田氏:
ゲームにおける怖さでお話しますと、自分の認識や存在が揺らぐ瞬間が怖いと思っています。何もいないけど、見えない何かがいる。それが自分を見ていて、近づいてくる。逆に幽霊が出てくると安心するというか。「何かいるかも?」と思っているときのほうが怖い。ゲームで幽霊とか怖さの元凶が見えてしまうと、「よし、やるぞ!」と臨戦態勢に入っちゃいますから。覚悟が決まると逆に怖くないんです。前触れだったり、何がいるかがわからない途中の想像しているときのほうが怖いですね。

背筋氏:
私はそこまで厳密に「ホラー」を自分の中で定義付けはしていません。たとえば「蜂に刺されると怖い」ということを扱った作品でも私はホラーだと思いますし、「隣人が怖いよね」もホラーだと思います。もちろん、「幽霊が怖いよね」もホラーです。そういう意味ではホラーは懐の深いジャンルだと思っています。

主観と客観については、小説という観点で言うと、主観で語ったほうが読まれている方の没入感があがりますね。ゲームにおける主観視点といっしょかもしれません。「そのときにどう思ったか」とか、「キャラクターの感情を同期させる」といったことが容易なのが一人称なんです。

対して三人称で書くものというのは、カメラを通して見ているイメージとなるので、感情というよりも「この人、どうなっちゃうんだろう?」という怖さを語るのに適しているのかなと思っています。ただ主観・客観のどちらで描くにしても、大切なのは「文脈」だと思っています。それがないと単なる脅かしになってしまうと思うんですよね。

『零』も、ただ襲いかかってくる幽霊を撮るだけだったら怖くはないはず。いま起こっている現象の背景には忌まわしい儀式があって、愛している人をみずから手にかけないといけない、それを強要している社会がある、といった文脈があるからこそ、真実に近づいていったときにより一層、怖くなる。文脈を置いて怖さというのは作れないと思っています。

『近畿地方のある場所について』背筋氏 ×『零 ~紅い蝶~ REMAKE』柴田 誠氏対談──ホラークリエイターが語る恐怖の本質_015

柴田氏:
背筋さんの小説はすべて読んでいますが、主観で感情を書くのがとてもうまいと思います。客観的に起きていることや事実を積み重ね、そのあとに主観的な感情が入ってくる。この視点が行ったり来たりするあいだに見えてくるものが出てくるというのが特徴的だと思っていて。

ドキュメンタリー的なホラー小説はいろいろありますが、背筋さんの小説はこの構成がしっかりしていて、主観客観が折り混ざったあと、うまく決着させているところが特徴的だと感じています。

──『零』も背筋さんの作品も、舞台として日本を扱っていますが、ホラーにおける日本文化的な要素はどう捉えていらっしゃいますか?

背筋氏:
日本が舞台という意味では共通していると思いますが、私が書く作品は現代的な舞台が多いので、そういう意味では『零』が描いている世界とは違う部分もあるのかなと。創作では、過去のことを書けば書くほど、時代考証が必要になってくるじゃないですか。自分はそれができないから現代を舞台に書いているところがありますので、だからこそ『零』シリーズがすごく好きですし、尊敬しています。

「実際に日本のどこかであり得たかも」という、儀式の内容は荒唐無稽だけど説得力のある独特のリアリティ。冷静に考えると「縄で四肢を引き裂く…………ないない!」と思いますが、そこに対しての説得力を持たせるのがすごいと言いますか……。ビジュアルもさることながら、シナリオの強さがあるからこそだと思います。そこは自分には真似できない部分です。

柴田氏:
真逆な話になってしまいますが、ゲームで現代の日常を描こうとすると、違和感が少しでもあると説得力が生まれにくいんです。現代のよくある風景をしっかり作るほうが難易度が高いですね。

『零』の世界って廃村だったり夢の世界だったりしますが、ある種どこかで見たことがあるかもしれないファンタジーの世界。そっちのほうがゲームでは表現がしやすいんです。

『近畿地方のある場所について』背筋氏 ×『零 ~紅い蝶~ REMAKE』柴田 誠氏対談──ホラークリエイターが語る恐怖の本質_016

背筋氏:
なるほど。お互い語り方の特性を活かしている形かもしれませんね。

柴田氏:
文章だと「喫茶店に入った」というテキストを見たら、読者は自分が見たことのある喫茶店を想像しますよね。ですから、ディテールにこだわらなくてもいいんです。

ゲームだと自分の部屋を描いたとしたら「机、ちっちゃくない?」とか、「こんなに物が少なくないよ」とか、わずかな差が気になってしまう。逆にそこがしっくりこないと、怖い世界、異界に行ったときに、「さっきも嘘っぽかったけどもっと嘘っぽい」となってしまうんです。

──現代を舞台にすると、テクノロジーによるツッコミを受ける側面がありますよね。たとえば「双子が離れ離れになってしまった」と描いたら「携帯で連絡をとればいいじゃん」とツッコまれたり。これはすべてのエンタメ作品に言えることですが。

『近畿地方のある場所について』背筋氏 ×『零 ~紅い蝶~ REMAKE』柴田 誠氏対談──ホラークリエイターが語る恐怖の本質_017

柴田氏:
ホラーの中でも、携帯電話があるホラーと、携帯電話がないホラーというのがあると思いますが、『零』はないんです。ゴシックホラーやクラシックホラーに近い形です。まあ、携帯がある場合でも廃村が舞台であれば「圏外でつながらない」といった状況に陥りますから、そこまで恐怖の質は変わらないかもしれません。

背筋氏:
昨今、リアリティ至上主義的な方向に傾いているのを見ていると、クリエイティブの足かせになる部分もあるんだろうなと思っています。とくにホラーにおいては、「リアルかどうか」が評価の対象になってしまっていて。個人的には、リアリティは味付けだったりフックのひとつでしかないと思うんです。

評価されるべきは、何を伝えたいのかとか、どうおもしろいのかというところですよね。携帯が出てこないから『零』はおもしろくないのかというと、まったくそんなことはない。フィクションだからこそ魅力のある物語が作れるわけです。「リアルか、リアルじゃないか」という物差しだけでは測れない楽しさがあると思います。

柴田氏:
テクノロジーを出すと、時代に引っ張られてしまうと思います。ガラケーの時代に携帯を出しても良かったかもしれないですけど、いま見たら「え、何その携帯」みたいな感じになるじゃないですか。だから時代性のないもので構成したほうが、時代を超えた怖さが出せるのではないかと思っています。

──土着的な設定や怖さについてはどう捉えていらっしゃいますか。

背筋氏:
自分は土着をテーマに書いているという意識は強くありません。それよりも、人間の信じたいものを信じる欲求だったり、信じることに救いを見出すような話を書きたいと思っています。もう少し詳しく言うと、信じたものが言い伝えられるうちにねじ曲がったり、悲劇を生んだりとか、「ないはずのものを生んでしまう」といったことを書きたい。それを伝えるための手段として土着的な設定を選ぶことはあっても、土着を描くことにこだわりがあるわけではないんです。

柴田氏:
小説ですと最近は土着のホラーになるのか人怖になるのかなどミクスチャーが多く、どちらの方向に行くか予想が楽しいですよね。「やっぱりこうなった。いや違った!?」という考察の楽しさも求められているんだろうなと感じていて。
ゲームだと、プレイヤーが実際に探索することができるので土着の怖さは相性がいいです。土地に染み込んだもの、土地が持っている力に触れる日本的な土着の怖さはぜひ出していきたいところです。

背筋氏:
日本的な怖さの象徴として、そういったジャンルはやはり人気がありますよね。一方で、『異端者の家』【※】という映画があるのですが……。

※『異端者の家』
A24 × ヒュー・グラント主演 ×『クワイエット・プレイス』脚本コンビが仕掛ける脱出サイコスリラー。

柴田氏:
ヒュー・グラント主演の映画ですね。

背筋氏:
布教活動のため、深い森の中にある一軒家を訪れたシスターが……という宗教を深く扱った映画なのですが、作品内で「“唯一神”を深掘っていくとほかの国で信仰されている神と同一なんじゃないか」といった話があるんですね。みんな唯一のものだと信じているけどそもそもオリジナルなんてない、みたいな。

『近畿地方のある場所について』では、そういった人類が生きるうえでの業を語りたかったんです。みんな何かを信じているけど、その何かは言い伝えられるうちにねじ曲がったものという……。ただ、そういう話はラベリングとしてはわかりにくいので、やはり「〇〇様」のような存在とか、キャッチコピーをつけたほうがわかりやすいんだろうなとは、ある種、客観的に見たりはしています。

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柴田氏:
わかりやすいラベリングは、掴みとしては良いですね。

背筋氏:
ただ、私は『紅い蝶』が“因習村”みたいな感じで語られると「それはちょっと違うぞ」と古参ファンとして言いたくなるんですよ。「儀式があります、廃村です」というセットアップだけを表面的に切り取ったらそうなるのもわかります。

でも、「双子の悲劇」だったり、「閉鎖環境で暮らさざるを得ない人たちのやり場のない心」だったり、「いたたまれなさ」みたいなものを感情として受け取るということのほうが強くて。

因習村を極めたいんだったら、もっともっと残酷にできるわけじゃないですか。突き落とすだけじゃなくて、もっとエグいこともできる。だからこそ、本質は別のところにある というのがいちファンとしての意見です。

柴田氏:
幽霊に感情がある、というのは先ほどお話ししましたが、そこにいた人の最後の感情を描けるのであれば、舞台装置としては因習村でもいいと言いますか。

背筋氏:
「『紅い蝶』って因習村のやつですよね?」とか単純に言われるとちょっと嫌なんです(笑)。

柴田氏:
『零』の世界には、人間を超越したもの、たとえば神がいないんです。人間の中の行き違いだったり悲劇だったり死だったりが感情につながる。縛りとして“神”と“悪人”を出さないようにしています。倒すと解決しそうですし……。

儀式は出てきますが、死がいまよりも近いところで暮らした人の感情のほうがプレイヤーに残ると思います。

背筋氏:
わりと、そういう儀式を率先してやっていた人も、ちゃんと葛藤していますよね。やらざるを得ないとか。

柴田氏:
超越したものは出さないといいましたが、黄泉の門、死の入り口はビジュアル的に表現しなければと思っていました。小説などでは死などは概念的にも語りやすいですけれど、ゲームだとなかなか概念は語れないので(笑)。

──『零』は「どのラスボスがいちばん強いか」というおもしろ議論がネットで行われていて、楽しんだ思い出があります。

柴田氏:
実際にはお互いに戦わないんじゃないかと思いますけどね(笑)。『零』の世界はフィジカルの強さより、感情が強いほうが強い。恨みが深いとか無垢なものの無念のほうが強く怖いんです。ラスボスが、そのストーリーでいちばん強い感情を持っている。

背筋氏:
わりとゲームシステムとバッティングしませんか? ラスボスなのに小さいとか?

柴田氏:
なるべく盛るようにしていますが、ラスボスよりその前のボスのほうが強い場合もあります(笑)。

──『零』は美しさであったり、切なさであったりという表現を大事にしていますよね。

柴田氏:
なるべく血は出さずグロテスクさに頼らない美しいホラーを目指しています。そうなると怖いストーリーですが、最後の感情の切なさにフォーカスしていくことになる。ゲームでも、ラスボスが遺した感情を知ることでストーリーは成立していて。バトルは感情を知る演出に近いです。主人公も呪いの元凶を解消できればよく、ラスボスを倒すことが目的ではないんです。

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電ファミニコゲーマー副編集長。

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