ジギタリス出版という名前に込めたもの

──今回のレーベル名、ジギタリス出版についても聞かせてください。そもそも「ジギタリス」とは何ですか。
西村氏:
私が初めてジギタリスという言葉を知ったのは、ハミングバードソフトの『ラプラスの魔』【※】というパソコンゲームでした。ジギタリスは体力を上げる薬として出てきます。強心剤でもあります。
実際には植物で、別名として「魔女の帽子」や「狐の手袋」といった名前もあります。ジギタリスという言葉自体には、指を表す言葉との関係もあります。デジタルという言葉とも、語源的に近い関係がある。
私が作っているものは魔女の関係だったり、狐の関係だったりします。これからもそういうものを作っていきたい。デジタルでもある。
そして『ラプラスの魔』が本当に好きだった。取り憑かれているような状態です(笑)。それで、ジギタリス出版という名前にしました。
※『ラプラスの魔』
1987年にハミングバードソフトから発売されたPC用ホラーRPG。クトゥルフ神話をモチーフとしたゴシックな世界観と高い難易度で、熱狂的なファンを持つカルト的名作として知られる。
──『暗黒城の魔女』だけでなく、今後もデジタルゲームブックを作っていく予定なのでしょうか。
西村氏:
そうですね。ゆくゆくは、こうしたデジタルゲームブックが認知され、同じような作家の方が集まってくれるといいなと思っています。
そのときには、私たちが作ってきたライブラリやツールを開放して、一緒に作りましょう、という運動をしたいです。
──それはちょっと面白そうな試みですね。
西村氏:
紙にこだわる方もいると思いますし、スマホで気軽に遊びたい方もいると思います。1時間、2時間で終わる短いものを作りたい人もいるでしょう。
いろいろな立場の人が作れるようになるといい。Steamやニンテンドーeショップのような流通の場に、一般的なインディーゲームとは少し違う形のインディー作品として出ていけたら面白いと思います。
曽爾村で畑を耕しながらゲームを作る

──話は少し変わりますが、今の生活について聞かせてください。どこに住んで、どういうふうにゲームを作っているんですか。
西村氏:
今は奈良県宇陀郡(うだぐん)曽爾村(そにむら)というところに住んでいます。信号機が1つしかない、本当に小さな村です。人口は資料上では約1200人ですが、実際に村にいる方はもう少し少ないと思います。高齢者の割合も高いです。
ただ、観光地でもあります。曽爾高原や屏風岩(びょうぶいわ)など、美しい自然が楽しめる場所があります。「日本で最も美しい村」というグループがあって、そのひとつでもあります。秋は本当に綺麗です。
──なぜ曽爾村だったんですか。
西村氏:
コロナがきっかけです。
元々は大阪に住んでいたのですが、当時、「大都会にいると、何か問題が起こったときにどうにもならないのではないかと?」という妙な危機感があって。
妻と相談して移住しようという話になった。そして妻が「ここ」と指差した場所が曽爾村だったんです。
──思い切りましたね。
西村氏:
空き家バンクで賃貸を探して、素晴らしいオーナーさんに巡り会えました。土地もよかった。ここだ、と思いました。
曽爾村には、屏風岩や鎧岳(よろいだけ)という山があるのですが、これが私が作っていた『モンスターハンター』の風景そのままなんです。『モンスターハンター』の背景は、スコットランドのグレンコーという場所をモチーフにしています。大きな岩がむき出しになった山があり、とてもかっこいい。曽爾村にも、それに近い風景があるんです。

──今は、ご自身で畑もやっているんですよね。
西村氏:
はい。自給自足と言えるほどではありませんが、野菜を作って食べています。自然農で、農薬も肥料も使わず、草ぼうぼうの中で苗を植えています。意外と育ちますね。
会社員だったころは、朝早く起きて農作業をして、10時くらいからゲームの仕事をして。あとは土日も畑作業をしていました。
個人事業主になってからは逆転して、土日や忙しいときはゲームの仕事をがっつりやり、平日に畑をやる感じです。苗が大きくなった、種を植えなければいけない、というタイミングが来たら、それを優先する。好きな時間に好きなようにやっています。
──会社に通ってゲームを作るのとは、かなり違いますか。
西村氏:
全然違います。ストレスが違います。私は基本的に人が好きなので、会社の仲間に会えないのは寂しいです。でも村にも人はいますし、ここにいると、いろいろなことを考える余地ができます。
体調もいいですね。痛いところ、辛いところがほぼない。時間の流れがゆっくり感じられる。日が沈んでいく、虫の声が聞こえる、すぐそばを鹿が通る、タヌキもいる。家のデッキには山の小鳥がやってくる。そういうものを愛でていると、心が豊かになるんです。
──まさに「晴耕雨読」ならぬ「晴耕雨ゲーム制作」ですね。
西村氏:
都会にいたころは、会社と家の往復で、気づいたら「桜、終わってたな」という感じでした。
ですが、今は四季を感じられます。ちゃんと何かを見ているし、何かを感じられている。それがよかったと思います。
往年のゲームブックファンにも、知らない若い人にも
──最後に、読者やプレイヤーに向けてメッセージをお願いします。往年のゲームブックファンに向けてと、ゲームブックを知らない若い人に向けて、別々にいただけますか。
西村氏:
往年のゲームブックが好きな方には、「ここでこんなのを使うんだ」という驚きや、懐かしさとアレンジで楽しんでいただけると思います。
当時遊んでいた方にはわかるネタもたくさん入っています。まさにあなたのために、そして私のために作ったものなので、裏切ることはないと思います。ぜひ遊んでいただきたいです。
ゲームブックを知らない方にとっては、少しオタクっぽい、マニアックなものに見えるかもしれません。でも、あるようであまりない体験だと思います。
──どのあたりが「あまりない体験」なんでしょうか?
西村氏:
想像力をとくに使うゲーム、という部分だと思います。
状況を説明され、選択をする。そのとき、人は「この先どうなるんだろう」と未来を予想します。
それが正しいか間違っているかを確かめる。これは日常でもしていることですが、ゲームとして改めてやると、自分がいかに想像力を使いながら生きているかを実感できると思います。
───想像力、という観点は確かに。
西村氏:
なぜ昔、ゲームブックが流行ったのか。それは純粋に面白かったからです。
今は文化的な事情や出版業界の事情で、当時ほどは広がっていないのかもしれません。タイトル数が増えすぎたこともあったと思います。
でも、本質的には面白い。そう感じる方は、今も潜在的にいるはずです。だからぜひ、一度手に取って触っていただきたいんです。
──あと本作は、動画配信については肯定的だと聞きましたが、それはなぜなんでしょう? 物語が中心のゲームだと、配信で見られると自分で遊ぶ意味が薄れるのではないか、という懸念もあります。
西村氏:
先ほどもお話したように、ゲームブックって、「あなたならどうする」という体験が中心にありますよね。
配信で見ると、それが「その配信者ならどうする」になる。慎重な人は慎重に進むし、好奇心の強い人は危険な扉を開ける。効率重視の人は安全な道を選ぶ。選択肢がその人の性格を映します。
自分で遊んだときと、別の人が遊んだときでは体験が違うと思うんです。
──つまり、配信は単なるネタバレではなく、「他人の選択」を見る場になるということですね。
西村氏:
はい。このゲームには、本当にいろいろなイベントや選択肢が盛り込まれています。だから正直、本作に用意された全部のルートを見る方はあまりいないと思うんです。
──例えば、アクションゲームの配信では、プレイヤーの技術やリアクションが見えるし、対戦ゲームでは、判断の速さや読み合いが見てて楽しかったりしますよね。では、本作(ゲームブック)の配信では何が見えて、どう面白いんでしょうか?
西村氏:
たぶん、その人の癖(へき)が見えるのが面白いんじゃないかなあ、と思います。危険を避けるのか、踏み込むのか。知らない人物を信じるのか、疑うのか。損得で選ぶのか、情で選ぶのか。
だから、他人の配信を見るのも面白いと思いますし、できることなら、やっぱり自分で遊んだあとに他人のプレイを見ると、さらに楽しめるのではないかと。
自分はここで右へ行った。あの人は左へ行った。自分は助けた。あの人は見捨てた……などなど。
そこに、ゲームブックという形式の、古くて新しい面白さがあると思います。(了)
ゲームブックは「迷う」から面白い
取材を終えて、ひとつ強く残ったことがある。
『暗黒城の魔女』は、決して「ゲームブックを今風のゲームとして、便利で分かりやすくしました」というだけの作品ではない。
むしろ逆だ。
あえて、理不尽さや不便さを残している作品でもある。
すぐに死ぬ理不尽さ。文章を読み、自分の頭で状況を想像しなければならない手間。選択肢を押す前に一度立ち止まらなければならない、その「間」。
現代的な体験やUI設計なら、そういうものは削られていく。
もっと滑らかに、もっと快適に、もっと迷わないように。
だが、ゲームブックの面白さは、その「迷う」こと自体にあると、西村氏は言う。
迷うから選択になる。
選択するから、失敗が意味を持つ。
失敗するから、もう一度挑戦することに意味が生まれる。
西村氏の話を聞いていると、ゲームブックという形式は、単にレトロな遊びではなく、ゲームが本来持っていた「選択の重み」を取り戻すための装置なのだと思えてくる。
そして、それを作っている人間の人生もまた、選択の積み重ねだったと言えよう。
カプコンへ行く。辞める。ヴァニラウェアへ行く。
絵を描き続ける。後輩にメインを譲る。
曽爾村へ行く。畑を耕す。インディーゲームを作る。
そのどれもが、合理的なキャリアパスとは少し違う。
だが、合理性だけでは、たぶん『暗黒城の魔女』のような作品は生まれない。
ゲームブックは、ページを開けば始まる。
そして、選ぶのはいつも読者だ。
『暗黒城の魔女』が面白いかどうかも、結局はプレイヤーが選ぶことになる。
だが少なくとも、この作品が生まれた経緯そのものは、かなり面白い。
なぜなら、これは「ゲームを作って生きていく」という選択の、かなり変わった分岐の先にある作品だからだ。

