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『Dの食卓』で知られる鬼才のゲームクリエイター・飯野賢治はどのような生き様だったのか? 語り継がれる「エネミー・ゼロ事件」からドリームキャストの功績にいたるまで、水口哲也氏など著名クリエイターから語られる飯野氏の“人となり”とは

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これから起こることは一世一代の大げんか! 語り継がれる「エネミー・ゼロ事件」とは

アレックス氏:
飯野さんを語るうえで「エネミー・ゼロ事件」は外せないと思うのですが、今では信じられないことですよね。だって「プレイステーションエキスポ」というソニーさん主催のイベントで『エネミー・ゼロ』をプレイステーションではなくセガサターンでリリースすることを1万人の前で発表してしまうのですから。

『Dの食卓』で知られる鬼才のゲームクリエイター・飯野賢治はどのような生き様だったのか?_017

飯田氏:
あれは本当に大事件だったんです。ソニーの人たちがもう掴みかかる寸前で。会場が晴海の国際展示場だったんですけど、東京湾に囲まれていますからね。それぐらい本当に緊張感があったんです(笑)。飯野さん自身も「これいいのかな?」と直前まで緊張していました。でもまぁ、やるって決めていたんでしょうね。

水口氏:
そのときは一緒にいたんだよね?

飯田氏:
はい。「8時に晴海に来い」と言われて行ったのですが、僕はなにが起こるか聞かされていませんでした。「これから起こることは一世一代の大げんかだから、瞬きせずに見てほしい」と言われて。今思うとやっぱり不安だったんでしょうね。そのときの僕は味方でもないですし、なんならどちらかというとソニー派でしたから(笑)。

由香夫人:
この話を聞くと、ドキドキする(笑)。

飯田氏:
事前に聞いていました?

由香夫人:
やっぱり本人が珍しく少し緊張した面持ちだったんですよ。でも私は、そんなことをするとは知らずに「ふーん」と思っていました。でも発表したら会場がどんどんざわざわして、走っている人もいて、「あれれ?」と(笑)。

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ドリームキャストは飯野氏の功績が大きかった

水口氏:
よく戦っていたよね。今でも覚えていることがあるんだけど、セガのドリームキャストをやるときに飯野くんはセガの入交(昭一郎)さんと気持ちが繋がっていて、「なんでもやりたい」とよく言っていました。ある日、僕が会議をしているときに何回も電話がかかってきて「ちょっと来れる?」と言われたので彼の部屋に行ってみたらものすごい量の雑誌が置いてあったんです。コンビニに並んでいる雑誌をすべて買ったくらいの量で、いろんな人の顔が並んでいました。

思わず「なにやってるの?」と聞いたら「この人たち全員がドリームキャストを買って喜んでいる姿を想像していた」と言うんですよ。その日はそこから朝まで話しました(笑)。

ロゴはこうあるべきだ、色はこうあるべきじゃない? 形はこうじゃないとダメだよね、とか。だから僕は飯野くんの功績が大きいと思っています。ドリームキャストっていうネーミング自体も、たしか彼がアイデアを出した気がする。これって結構センシティブな話だけど。

飯田氏:
センティブ繋がりでいうと、僕は飯野さんからドリームキャストの起動音を聞かされたんですよ。

水口氏:
そうそう、あの起動音を作ったのは坂本(龍一)さんなんだよね。

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飯野くんが坂本さんにお願いして作ってもらっていました。今それを聞いて思い出したけど、当時飯野くんが夜中に持ってきたんだよ、そのテープを。その頃のセガって、夜中でも普通にミーティングしてたんで(笑)。今じゃちょっと難しいけど、そうしたところに持ってきて「ちょっと、みんなでこれを聞いてください」っていって。それがそのまま採用されました。

飯田氏:
飯野さんのアイドルはビートルズのポールだったけど、そのあとはずっとYMOだったよね。それでとうとう坂本さんに頼んだわけですよ。ドヤ顔でマウンティングを取りたかったと思うんだけど、残念ながら僕はYMOよりもスターリン好きだから、むしろ敵みたいな(笑)。当然、今は大好きですよ。

由香夫人:
坂本さんの葬儀をするときはどんな曲がいいかって、「僕が絶対やってあげるから」と本人に伝えたそうなんです。そしたら縁起でもないと怒られた、みたいなことを言っていました。

飯田氏:
だから飯野さんの葬儀のとき、坂本さんが怒りの弔電をニューヨークから送ってきたんだ。「バカヤロー」って。

由香夫人:
「なんでこんなだらしない死に方をしたんだ。もうすぐしたら俺が行くから待ってろよ」って。

飯田氏:
葬儀のプレイリストが逆じゃないかっていうね。

由香夫人:
本当にそうですよね。

転んだときに飯野氏からかかってきた電話で救われた不思議な話

飯田氏:
そういえば不思議なことあって、僕が『巨人のドシン』を作っているとき、たしか1999年くらいだったんですけど、ナレーターを男性と女性でふたり使おうというキャスティングが進んでいて、あるタレントさんに決まっていたんですね。その人に思い入れがあったのでその人に合わせてセリフを書いていたんだけど、トラブルがあってその方がどうしても出られないという知らせを聞かされました

僕もゲームを作っていてそうとう入れ込んでしまっていたから、そこまで決まっていたキャスティングが成立しないとなると「もうこれは無理だ、できない、やめよう。争うしかない」と思ってしまったんです。2億円ぐらい使っていたから。

そのときちょうど幕張メッセで「東京ゲームショウ」が開催されていて、東京駅から京葉線に乗りながら「ああ、もうだめだ」と落ち込んでいました。電車で座っていたのに幕張駅でなぜか足もしびれてきて……。ついには駅のホームで眼鏡が割れるぐらいのレベルでド派手に転んでしまったんです。

そしたらその転んだときに飯野さんから電話がかかってきて「緒川たまきさん紹介するよ」と言われたんです。僕は、困っていることとかキャスティングがダメになったこととか、なにも言ってないのに。

そのとき飯野さんは僕にいちばん必要だった発想、「あの人がダメだったらほかの人の可能性を考える」ということを示してくれました。そこからトントン拍子で緒川たまきさんに決まったんです。

山田氏:
もはや緒川たまきさんしかイメージできないですよね。

飯田氏:
はい。飯野さんは僕以上に作品のことをわかってた(笑)。

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トークイベントとしてはここで終了し、最後に由香夫人から会場に訪れた人たちに向けてメッセージが語られイベントは締めくくられた。

由香夫人:
本日は、お忙しい年末のなかお時間をいただきありがとうございました。高いところからで申し訳ございませんが、お礼申し上げます。こんなにうれしいことはありません。10年も経ってこんなに素晴らしい映像を作っていただき、皆さまと一緒に見ることができて感無量です。これからもどうぞ、よろしくお願いします。

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ライター
ライター/編集者。コンピューターホビー雑誌「ログイン」の編集者を経て、1999年よりフリーに。 現在はゲームやホビー、IT、XR系のメディアを中心に、イベント取材やインタビュー、レビュー、コラム記事などを執筆しています。

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