25年以上前の1998年。作風が180度異なる2人のクリエイターがそれぞれ社長を務める開発スタジオを立ち上げた。
西に居を構えるレベルファイブ。2004年に発売された『ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君』の開発で一躍脚光を浴び、後にパブリッシャーとして『レイトン教授』や『イナズマイレブン』、『妖怪ウォッチ』といった大ヒット作を立て続けに発売してきた説明無用の会社だ。
一方、東に拠点を置くのがグラスホッパー・マニファクチュア(以下、グラスホッパー)だ。1999年にプレイステーション向けアドベンチャーゲーム『シルバー事件』でデビューした後、『killer7(キラー7)』、『NO MORE HEROES(ノーモア★ヒーローズ)』といった、先鋭的でカルト的人気を博す作品を発売し続けているスタジオである。
そんな2社の社長である日野晃博氏、須田剛一氏はクリエイター兼経営者として、自ら企画した独自の作品を設立から25年の長きにわたって世に送り出し続けている。また、両氏は2012年に発売されたニンテンドー3DS用オムニバスタイトル『GUILD01(ギルドゼロワン)』【※】においてタッグを組み、『解放少女』なるシューティングゲームを制作している。
※『GUILD01(ギルドゼロワン)』:
2012年5月、レベルファイブから発売されたニンテンドー3DS用ソフト。斬新なアイデアを有した4作品をパッケージした意欲作。作品全体のプロデュースをレベルファイブが担当し、収録されている作品のディレクションを各界の著名クリエイターが手掛けている。
かたや大衆向け、かたやカルト向けと、作品のタイプが決定的に異なる両氏と両社。意外なことに、スタジオの設立はどちらも同じ25年前であり、須田氏は日野氏のことをかねてよりクリエイターとしてリスペクトしているという。
両社がともに設立25周年を迎え、日野氏とぜひ対談を行いたいという須田氏たっての希望から、今回の企画が実現。さらには、両氏、両社を事業立ち上げのときより、メディアという立場で見てこられた『週刊ファミ通』元編集長、ファミ通グループ元代表であり、株式会社KADOKAWAシニアアドバイザーを務める浜村弘一氏を対談のモデレーターとしてお迎えし、当時のエピソードと25周年を迎えてからのこれからについて語っていただいた。
そこで飛び出してきたのは、ゲームファンの印象とは180度異なる両者の素顔。日野氏は黒くて尖ったものをやりたくて仕方がなくて、須田氏はスタッフの人生と生活を背負っている覚悟と責任を持った”超真面目”な社長だった……!?
お互いの印象は「あんなに尖った作品を世に送り出す人ってすごいな」(日野氏)、「子どものころに作りたかったものをストレートに作り続ける凄味!」(須田氏)
──まず最初に、レベルファイブさんとグラスホッパーさん、設立25周年おめでとうございます。おふたりは同い年、さらにはお互い25年前に会社を立ち上げた経営者であり、クリエイターでもあるという、驚くほど共通事項が多いです。技術の進化とともにビデオゲームが発展していった時代を切磋琢磨しながら歩まれてきたわけですが、そもそもお互いにどのような印象を抱いていたのですか?
日野晃博氏(以下、日野氏):
僕自身、須田さんにすごく興味があって『ギルドゼロワン』のときに、いっしょにお仕事をさせていただいたんです。「あんなに尖った作品を世に送り出す人ってスゲーな」と毎回思っています。自分ではやれないようなことをしているクリエイターですから、陰ながら「ああ、またこんな尖ったことをやっているんだ……」と活躍を見させていただいています(笑)。
須田剛一氏(以下、須田氏):
日野さんは、子どものころに作りたかったものをすごくストレートに、まさにおもちゃ箱から飛び出てきたかのような作品をバンバン作っている印象です。しかもゲームだけではなく、劇場版も含めたテレビアニメの脚本も書かれているじゃないですか。日野さんの凄味を感じます。
本当に、自分の作品をすごく細かいところまでカバーされている方だと思います。僕もゲーム制作においてディレクション、脚本の両方を手がけていますが、日野さんはさらにその向こう側にいる。星のような方、という印象がずっとあります。
あと、業界ではあまり知られていないんですけど「KAZEOKE」という、WOWOWプライムで10年ほど前に放送された番組【※】の企画コンテストで圧勝した偉業をお持ちなんですよね。僕はそれをずっとリアルタイムで見ていたんですよ。
※「KAZEOKE」:
正式番組名は「大人番組リーグPresents KAZEOKE」。WOWOWプライムにて2013年7月14日(日)から、毎月第2日曜夜11時に放送された「間(あいだ)ストーリーをドラマチックに描け!」を合言葉に、最前線で活躍するクリエイターたちが競い合うバラエティー番組。参加クリエイターたちはテーマに沿って30枚以内の静止画で絵コンテのように表現し、観客の投票によって最もドラマチックな作品が選ばれる。日野氏は第1回にクリエイターのひとりとして参加した。
日野氏:
マジですか!? あれを知っている人がいるというのに驚きました……。
須田氏:
観ていました。決勝戦でも日野さんが圧勝していましたよね。
日野氏:
あれには僕自身も驚きました(笑)。最初、1回目の予選大会で優勝したんですが、その後、別のクリエイターの方々が参加された回もやっていて。さらにそのあとにその優勝者たちが集まって戦う大会もあったんです。
須田氏:
グランドチャンピオンを決める回ですね。で、そこで並みいる出場者たちの中で日野さんが圧勝で優勝したんですよ。それがもう、ゲーム業界に関わる人間としては嬉しくて嬉しくて。「日野さんすっげー!」となりました。
日野氏:
「KAZEOKE」は、一週間ぐらい時間をもらって脚本をリアルタイムで作る、というすごく本格的な企画だったんです。作り上げた脚本をもとに映像がついて、その中でどれが面白いかを収録現場にいるお客さんたちに判定してもらう、というものでした。
須田氏:
ガチの審査なんですよ。ほかの方の映像がまったく追いつけないぐらい、日野さんの脚本から作られた映像は面白かったんです。それを見て、「すごい人だな」と尊敬の念を抱きました。
浜村弘一氏(以下、浜村氏):
日野さんのことはよく知っているつもりでしたけど、それは全然知らなかったですね……。
──日野さんがそのような番組に出演されていたことに一番ビックリしました(笑)。
日野氏:
まだ代表作が『妖怪ウォッチ』ではなく、『レイトン教授』と『イナズマイレブン』だったのですが、そのころの企画とかシナリオを評価してもらえたんでしょうかね。「なんで僕が呼ばれたんだろう?」と今でも思っていますよ(笑)。
あのときは「テーマをもらってなにかひとつシナリオを書く」という普段通りのシナリオ制作をしていただけなんです。「こんな書き方でいい?」、「ちょっと長いから、この場面は切らせてもらってもいいですか?」と、当時の担当やディレクターの人とやり取りしながら映像を作っていったんです。
僕以外では、映画監督に芸人さん、脚本家さんなどがいらっしゃいました。
浜村氏:
へぇ〜。ちなみに、須田さんは日野さんが手掛けたグリコのおまけのことはご存知ですか?
須田氏:
いや、それは知らないですね……。
日野氏:
2022年にグリコ100周年を記念した「クリエイターズグリコ」【※】という商品が発売されたんですが、その内のひとつをレベルファイブが企画、デザインしたんです。ゲーム業界からは、僕のほかには『ドラゴンクエスト』の堀井雄二さんが参加していました。
※クリエイターズグリコ:
栄養菓子「グリコ」発売100周年を記念した特別商品。2022年11月22日より数量限定で発売された。公式プレスリリースはこちら。
須田氏:
ええ!? それは子どもの夢じゃないですか! いやー、知らなかったです。それって今、プレミア付いているんでしょうね……。メルカリで買おうかな。
「スターになれそうなスタジオやクリエイターがいるなら、応援しなきゃいけない」という使命感
──浜村さんはメディアの立場でレベルファイブさん、グラスホッパーさんを立ち上げ時からご覧になっていたと思いますが、おふたりと両社をどのように見られていたのでしょうか。
浜村氏:
プレイステーション2用ソフト、『ダーククラウド』でレベルファイブさんのことは聞いていたんですが、最初に驚いたのは東京ゲームショウで『トゥルーファンタジー ライブオンライン』【※】の映像を見たときです。
※『トゥルーファンタジー ライブオンライン』:
マイクロソフトより初代Xbox向けに発売が予定されていたMMORPG。レベルファイブが開発を担当。2004年6月3日に開発中止が発表された。
日野氏:
あのとき、浜村さんから「福岡まで『トゥルーファンタジー ライブオンライン』を見に行ってもいいですか?」と連絡をいただいて。こちらとしても「わざわざ福岡まで見に来られるんですか!? どうぞ来てください!」という感じでしたね。
浜村氏:
『トゥルーファンタジー ライブオンライン』が僕は見たくて見たくて、開発途中のものを福岡まで見に行きました。あの当時でありながら、アニメがそのまま動いているかのような映像で、その世界の中を動き回れるのが本当に衝撃的でしたね。
それまで、ゲームが完成したことをメーカーさんから教えていただき、出向いた先でプレゼンしていただくことは頻繁にあったんです。ただ、自分のほうから進んでメーカーさんに出向くのは滅多になかったですね。それくらい『トゥルーファンタジー ライブオンライン』には驚いて。
当時、自由に世界を動き回れるオンラインゲームはすでにありましたけど、『トゥルーファンタジー ライブオンライン』はクオリティが段違いでした。
──『トゥルーファンタジー ライブオンライン』は発売には至りませんでしたが、小冊子の特典をファミ通本誌に付けたりもしていましたね。
浜村氏:
よく覚えてるなぁ(笑)。発売しなかったファミ通の小冊子って、『トゥルーファンタジー ライブオンライン』だけじゃないかな。
日野氏:
……いろいろありまして(苦笑)。
浜村氏:
「あんなにスゴイのに、なんで発売しないんだろう?」と、すごく不思議に思いましたよ。
日野氏:
僕らとしては最後まで作りたかったんですよ。……ただ……ここでは言えません(笑)。
──浜村さんは『トゥルーファンタジー ライブオンライン』の前からレベルファイブさんに注目されていましたよね。
浜村氏:
そうですね。作品自体は見ていましたし、何より『ダーククラウド』が世界でメチャクチャ売れていました。当時は大手のパブリッシャーが作って出す作品が海外でミリオンセラーを記録することが多かったんですけど、日本の開発スタジオが作ったゲームが海外で売れていると聞いて「何が起きているんだろう?」と見ていました。あのときは「レベルファイブ……?」という感じだった気がします。
──ファミ通編集部は東京、レベルファイブさんは福岡と距離がありますけど、日野さんと浜村さんが初めてお会いしたのはどのタイミングだったのでしょうか。
日野氏:
実際にちゃんと意識してお話しして仲が深くなっていったのは、『トゥルーファンタジー ライブオンライン』のときです。昔からファミ通を購読していましたので、浜村さんのことはもちろん知っていました。浜村さんももしかすると『ダーククラウド』のころから、まだ世間ではそこまで注目されていないけど、目を付けてくださっていたかもしれません。
──その後、レベルファイブさんはあれよあれよと……(笑)。
日野氏:
おかげさまであの頃に比べたら大きくなりました(笑)。
じつは、自社独自の新作ゲームを発売するときなど、さまざまなターニングポイントで僕は浜村さんにお世話になっていたんです。『イナズマイレブン』を作るときも、浜村さんから「今の時代にサッカーゲームの新作を作るのは大変だけど、それでもやるんですか?」と言われて、「はい、やります!」と返したり。そういうやり取りを何度も交わさせていただいて、浜村さんとファミ通さんには、本当に応援していただいたと思っています。
浜村氏:
ファミコンからスーパーファミコン、プレイステーションとゲーム開発の規模が大きくなっていくに従って予算も膨れ上がり、パブリッシャーの数も減っていったじゃないですか。
当時は開発スタジオからパブリッシャーへと大きくなる可能性があっても、規模の大きさに耐えられずどんどん潰れていってしまうところが多かったんです。そんな事態になってしまったらゲーム業界全体にとってよくないと思っていましたし、「スターになれそうなスタジオやクリエイターがいるなら、応援しなきゃいけない」という使命感みたいなものがあったんです。
──そのころから浜村さんは、「クリエイターをリスペクトしろ」、「スターをちゃんとスターとして扱おう」ということを部員たちに伝えていましたよね(聞き手の豊田は元ファミ通編集部員)。
浜村氏:
極論を言うと、メディアとしてゲームメーカーの広報さんと喧嘩してもいいんです。でも、クリエイターさんへのリスペクトを失ってしまうことだけは、絶対にやっちゃダメなことなんです。
文字通り、魂を削って作品を作られている方々ですから、伝える側として大切にしなきゃいけない。「それを伝えていくため、応援するためにファミ通がある」と、当時はずっと言っていたんです。
日野氏:
その精神の賜物もあって、ファミ通さんはぐんぐんシェアを拡大して行ったんですよね。
──グラスホッパーさんに対してはいかがでしょう。当時はファミ通がアスキー所属で、グラスホッパーさんが開発を手がけた『シルバー事件』は発売元がアスキーです。すごく近い位置にいらっしゃったと思うのですが……。
浜村氏:
『シルバー事件』はアスキーの中にある開発部が関わっていましたが、僕は雑誌の部署に所属していたので、接触はほとんどなかったんです。「アスキーはものすごく尖ったものを作るな」と、別の部署で見ながら思っていたぐらいでしたね。
須田氏:
僕が浜村さんとお会いしたのは、アスキーさんが入っている初台にあったビルで行われたミーティングのときだったと思います。そこにたまたま浜村さんがいらっしゃって、「あ!浜村さんだ! 本物だ!」と思ってご挨拶させていただきました。その後、ゲームが発売されたあとにちゃんとお話する機会があり、そこで僕とグラスホッパーのことを覚えてもらいました。
浜村氏:
本当に尖った作品を作られていましたからね。
日野氏:
須田さんはいわゆる”尖った系”の走りでしたよね。今でこそ、大衆受けとはかけ離れたゲームはインディータイトルでいっぱい出ていますけど、当時から「こんなゲームを世に出すんだ!?」と驚くようなゲームをたくさん作られていて。
須田氏:
当時からいろいろな言われ方をされていましたね。一番多かったのは「須田ゲー」でしょうか。
日野氏:
あんなに尖ったゲームって、普通の感性では作れないですから。
浜村氏:
須田さんというクリエイターの作家性がものすごく出ているんですよね。
須田氏:
そのようなゲームの特徴を広める際にも、ファミ通さんにはすごくバックアップしていただいたことを覚えています。世間ではまったく注目されていないのに、4ページも割いて特集を組んでもらって。そのおかげで読者の皆さんに認知してもらえました。
浜村氏:
スターとなるクリエイターやスタジオが生まれないと雑誌は成り立ちませんから。スターって、そんなにたくさんいないんです。その中でお二方は系統と言いますか、方向性はずいぶん違いますけれど強い個性を持っていたんです。
たとえばスタジオがいっぱい集まった学校のクラスがあるとしたら、日野さんはその真ん中で生徒会長をやっている。で、須田さんは後ろのほうの席に座っていて、なにか悪いことをしているイメージ(笑)。
一同:
(爆笑)。
浜村氏:
「遅刻してきて好きなことやっているなぁ、この子……」みたいなタイプ。将来がすごく期待できる優秀な生徒と、この生徒ははぐれてしまうかも、という感じで注目していて(笑)。ですから「なにがあってこの2人は仲良くなったんだろう?」と思いながら見ていました。
須田氏:
ありがとうございます。日野さんとは、きっと共通の趣味をきっかけにクラスでも仲良くなったんです。
日野氏:
浜村さんはそう見てくれていらっしゃると思うんですが、僕は決して生徒会長になれるタイプではないんです。どっちかというと、先生を陥れるために影で策略するほうかもしれません(笑)。
一同:
(爆笑)。
日野氏:
決して心底マジメな人間じゃないんです。一番前の席にはいるけど、じつはまったく違う方向のヤバい考え事をしているヤツというか……(笑)。
お互い、会社を立ち上げたきっかけは「自分の作品を作りたい」という思いから
──今でこそ、クリエイターの方々が独立されてスタジオを作ることが当たり前になりましたが、おふたりは25年前にスタジオを設立されて、いわば時代の先を行っていたわけです。ある種、「異端児」のように見られていたと思うのですが、どのような考えから経営者として会社を建てようと決めたのですか?
日野氏:
たぶん、須田さんも同じ方向じゃないかなと思うんですけど、「自分の作品」が作りたかったんです。「上から言われたものを作る」のではなくて、自分の作品、特に「自分の好きなRPG」を作りたいと思っていたんです。
そのような人間ってたぶんレベルファイブにもいるでしょうし、いつかは会社を離れて自分の作品を世に広めたいと考えていると思うんです。僕が当時在籍していたリバーヒルソフトに対して不満はなかったのですが、そのころから自分の作品を作りたいと思っていました。
会社を立ち上げるというのは、本当にいろいろと大変なことが多いのですが、当時のリバーヒルソフトの状況が芳しくなかったこともあり、自分の考えに賛同してくれた人たちを連れ、意を決してアクションを起こしました。それぐらい、自分の作品を作りたい思いが強かったんです。須田さんの場合はどうだったんですか?
須田氏:
僕も近いです。ただ、当時は自分が在籍していたヒューマンが近いうちに潰れそうな気配がプンプンしていたので……(笑)。
日野氏:
いまだから言えますけど、僕がまだリバーヒルソフトに在籍していたときに、「ヒューマンが危ないらしい」という話を耳にしていましたから。
須田氏:
それで、社長が脱税で逮捕される事件が起きたんです。事件が起きてから、ヒューマンがあった吉祥寺のビルの前にテレビ局の報道陣がたくさんやって来て、出勤してくる社員にインタビューするんですよ。それを見て、「あ、これはいよいよ会社がヤバいぞ……」というのがきっかけとして一番大きかったですね。
あと、ヒューマンにいたころってオリジナルの企画が作れなかったんです。『ファイヤープロレスリング』、『トワイライトシンドローム』シリーズといったタイトルを作ってきましたが、「会社がこの状況じゃ、新作を作るなんて難しいだろう。だったら出るしかないな」となったんです。
当時、ヒューマン時代の同僚がアスキーにプロデューサーとして入社していたんですね。その方を頼りにアスキーに移ろうと思っていたら、「今なら、アスキーで会社が作れるよ」という話があって、独立の道を考えたんです。
日野氏:
僕と同じパターンですね。僕も最初はSCE(※ソニー・コンピュータエンタテインメント、現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)の社員になろうと思っていたんです。
須田氏:
そうだったんですか!? いっしょですね。
僕の場合、「会社が作れるよ」と言われたんですけど、当時アスキーの専務だった廣瀬禎彦さんが新しい開発スタジオへの支援を積極的に進めていてくださって。その流れで、会社を作ることを決心しました。日野さんはなぜSCEに……?
日野氏:
当時、SCEが若手のクリエイターたちにチャンスを与える「ゲームやろうぜ!」という企画をやっていたんですね。それで「僕もそういうクリエイターたちのグループに入れてください!」と出向いたんです。
ところが、僕らが行ったときはもう「ゲームやろうぜ!」が終わりかけのころで。当時SCEの副社長をやられていた佐藤明さんから「そちらが会社を作ったら話を聞きますよ」と言われてしまったんです。
ただ、佐藤さんにそう言われて「ああ、これは覚悟を試されているんだな……」と思いました。「開発の受け皿を作る覚悟がないならやる価値はない」ということですよね。だから、会社を作る気はなかったのですが、それを機に作ることを決心しました。佐藤さんにあの時ああいってもらえたことは、今でも本当に感謝しています。
須田氏:
社長をやるの、怖くなかったですか? 僕はすごく怖かったです。
日野氏:
当時の僕は、たぶん何も考えていなかったと思います……(笑)。
というのも、僕はけっこう勢いで行っちゃうタイプなんです。リバーヒルソフトに行く前の、一番最初に入った会社はプログラマーとして入社したのに、プロデューサーの勉強ばかりさせられたのが不満で4ヵ月で辞めちゃいましたし、そのぐらいの気持ちで行くしかない感じでした。
浜村氏:
ワガママ放題で行っちゃうぐらい、強い思いがないと会社なんて作れませんし、クリエイターというのはそういう覚悟を持った人でなければダメなんですよね。
「1発目が当たった」、「評価された」、「才能があった」としても、強い思いがなければあとが続かずにそれだけで終わってしまいます。
日野氏:
本当にそうです。あとは、僕は運だけは人一倍いいほうだと思っていますし、運の良さにも感謝しています。
──ちなみに設立当時のレベルファイブさんの社員数はどのくらいだったのでしょうか?
日野氏:
登記上は9人で、そのあとすぐに2人来て11人になりました。そこから30人、50人、100人と増えていって。『ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君』(販売元:スクウェア・エニックス)が終わるころにはかなりの人数になっていましたね。『ドラクエVIII』のときは、作るために投資を拡大しなければいけないこともありましたので……。
──グラスホッパーさんはどうだったのですか?
須田氏:
設立当時は3人です。最初の『シルバー事件』は、最終的に合流する人数が9人だったので「9人で作れるゲームの企画」として考えていました。時間とともに人が集まって、最終的には9人になりました。