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「外を視たら死ぬ」神ゲー『Look Outside』があまりにも面白かったので、“神学”的にその面白さを考えてみた。窓の外には何があるのか、そして作中で出会う「怪物」たちとは何者なのか?

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「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」

――出エジプト記、33章20節

『Look Outside』が面白い。

ところで、面白いという言葉の語源は、ずっと曇っていたのが晴れ、太陽が出たとき、ひとびとが互いの顔を見て、
「おも、しろい!」
と言い合ったから、できたという説がある。
すると、この世でいちばん面白いものは、太陽だということになる。

「外を視たら死ぬ」神ゲー『Look Outside』レビュー・評価・感想:面白さを”神学”的に考えてみた_001

これは、地上に生き物があらわれたときから、そうだろう。
いくら望遠鏡の精度が上がり、宇宙の大きさの見当がつくようになろうとも、わたしたちの生活の実感に照らし合わせれば、やはり太陽がいちばん面白いだろう。

いいや、どこか遠くの彼方にあるブラック・ホールのほうが面白い、というなら、それで結構だが、しかしブラック・ホールがどうだとか、面白いとか、ビデオゲームはうんぬんと言い合えるのは、やはり太陽のおかげであろう。

むろん、物事の根本原因を突き詰めていけば、いちばん面白いのは、世界があることだ。
だが、その面白さは、生活の実感から遠い。

記紀にしても、世界そのものである天之御中主神は、冒頭のただ一行で去ってしまうが、太陽神であるところの天照大御神は、ずっと活躍する。
それくらい太陽は身近である。

「外を視たら死ぬ」神ゲー『Look Outside』レビュー・評価・感想:面白さを”神学”的に考えてみた_002
(画像はDon’t watch this trailer | Look Outside | Out Now│YouTubeより)

とはいえ、わたしたちは、太陽を直視することは出来ない。
むりに見ると、盲いてしまう。
すると、人間は、この世でいちばん面白いものを、直視できない、ということになる。

どうしてこんな話をしたかというと、『Look Outside』が、その名の通り、「外を視て」はいけないゲームだからである。

文/藤田祥平
編集/うきゅう


「外を視たい」という奇妙な渇望と、「外を視たら死ぬ」という相反

『Look Outside』の世界において、外を視ると、どうなるか。お伝えする前に、そもそもなぜ「外を視る、視ない」の話になるのかを紹介する。

主人公は、どこにでもいる、ふつうのおじさん。
朝六時に、独居のアパートのベッドで目覚める。

彼はどうしてか、窓の外を見たくてたまらない。
それは「Strange desire」というから、ふだんわれわれが何気なく、目覚めた朝にカーテンを開きたくなるような気分よりも、もっと奇妙に強いという意味で、「奇妙な渇望」なのかもしれない。

しかし、よく考えてみれば、朝に目覚めたわれわれが、何気なくカーテンを開き、外を見たくなるわけも、はなから「奇妙な渇望」である。

むろん、ホルモン・バランスがどうだとか、日光浴をすると目が覚めるといった科学的説明も、可能ではあるが、「なぜ世界があるのか」という根本問題を明らめないから、手落ちの思考に附説するだけだ。

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とにかく、ここでプレイヤーにコントロール権限が移る。見下ろし型の、マス目に沿ってキャラクタースプライトを動かすもので、よくある、古いRPGの形式だ。
あなたが自由意志で、窓に向かって一歩を踏み出すと、あなたの寝室の壁の裂け目に、まぶたのない目があらわれる。

その目が言う。
「見てごらん……きれいだよ。」
うむ、たしかに、世界はきれい(なはず)だし、あたらしい一日を始めるにあたって、朝日を拝むのは、いいことだろう。
それで、あなたはカーテンに近づき、それを開いて、見る。

すると、こうなる。

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まったく、これだけで、わたしなどは、このゲームがまったくすきになってしまった。

さて、外を見ると、「こうなる」ことがわかってしまったので、ゲームをはじめからやりなおし、こんどは壁の穴からあなたをのぞく、まぶたのない目に話しかけてみる。

すると、彼女は言う。

「ご、ごめん……まちがえた……見ちゃ駄目だ……外を見ちゃ駄目だ。ひどいことになる」

ここから、視ると、どうひどいことになるのか。主人公である無職独身のおじさんの名前。外にいるものは二週間ほどでどこかへ行く見通しが立っていること、などなどについて、穴の目は語る。

つまり、とにかく二週間を生き延びれば、この状況は、すべて終わる。終わったあと、人間社会や生活が元通りになる保証はないが、とにかくは、生き延びることが先決だ。
と、「説明」がなされる。

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というわけで、あなたは居間にきて、冷凍食品のごはんを食べたり、テレビゲームで遊んだりする。
しかし、延々と時を刻み続ける振り子時計や、冷蔵庫のモーター音が、プレイヤーにあることをそそのかす――

探検しろ、冒険しろ、外に出て、世界を知れ。

それは、単純な食料だけの問題ではない。
人間は、どうしても行ってしまうものだ、安全な自室から、危険な外へ。
 
あなたはアパートの自室から、廊下に出る。
すべてが、どこか、ふつうでない。
いちばん目立つのは、廊下のうえの、ながい血痕である。
血まみれの死体を引きずったあとのように見える。

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それはそれ、とにかく、ご近所さんの様子を「見て」みよう。ドアは開いている。
なかにはいると、テレビは点きっぱなしで、砂嵐を映している。居間に、野球のバットが転がっている。あなたはそれを手に取り、「そうび」することができる。

居間にはだれもいない。バスルームに入る。すると、ひとがいる。となりの……名前は何だったか、忘れたが……とにかく、ご近所さんだ。

声をかけると、彼は振り向く。
RPGによくある、戦闘の画面に移行して、テキストボックスが表示される。

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「ああ……どうも……なあ……あんた、『見た』か? 『見た』のか……? おれは『見た』よ……ああ……それは……なんて、きれいだったろう……」

あなたは、彼のお腹からどくどくと血が流れていることについて聞いてもよいし、元気かどうかと聞いても、ナイフを捨てろと命じてもよい。

いくつか、対話の選択肢が現れる。
どれを、どう選ぶかは、あなた次第だ。
そして、あなたの意志に応じて、あなたの意志と関係なく、状況は流転していく……。

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といったところが、ゲーム開始直後の、あらましである。これ以上、この原稿を「見て」しまうと、「面白く」なりすぎてしまうから、ここで一端やめて、『Look Outside』という迷宮に、ご自身で迷い込んでみることをおすすめする。

けれども、それでも「見たい」という方は、ごじぶんの判断で、この原稿のつづきを見ていただければよい。

ところで、ご近所さんが、どうなるかといえば、こうなる。

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そして彼は、あなたに襲いかかってくる。あなたはRPG的に、彼と戦う。彼を倒したあと、あなたは「レベルアップ」する。だが、そこに勝利のファンファーレはない。

あるのはただ、いましがたあなたが殺したばかりの、おなかから巨大な目を見張らせた、ご近所さんの死体。
そして、蛍光灯が放つスタティック・ノイズのみだ。

あなたは、あなたの殺した死体を見つめる……。

「見たら死ぬ」と語られる、キリスト教の“神”。本作との関連をトマス・アクィナスの著作『神学大全』から考えてみた

さて、ここからは、この作品が、どんなところからモチーフを採ったと思われるか、話してみよう。
わたしたちの現実のロアにも、「見てはならない」存在がいる。
キリスト教の神である。

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たとえば出エジプト記の33章で、モーセという指導者のもとに、神が通りがかった。
すると神は、わたしを見ると死んでしまうから、おまえを岩の裂け目に隠しておこうと、その御手を差し伸べられ、モーセをお隠しになられた。

これに類する話は、聖書のなかにいくらでもある。
つまり当時は、一般に、神を視ると死ぬのだと、かたく信じられていたらしい。
すると問題は、どうして人が神を視ると死んでしまうのかだが、直接その理由を説いた話は、どこにもない。

自分で考えろということだろう。

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それで思い出すのは、『新約聖書』に記された「コリントの信徒への手紙」13章12節だ。

「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。」

謎めいた預言である。
古代の鏡というのは、銅鏡などであるから、そこにうつる像はおぼろげである。
しかし、「その時」が来たれば、顔と顔とを合わせて視るように、はっきり知るだろう、という。

「その時」は、やはり、死の時であろう。
というのも、われわれは、生の時に神の御姿を探し求めるけれど、なかなか見つからない。
そして神は、トマス・アクィナスによれば、最高善である。

「神は単に諸事物の或る類ないし領域について最高善であるというにとどまらず、端的な意味において最高善である。そもそも神に善が帰せられるのは、すでに述べられたように、熱望されるすべての完全性が、神を第一原因としてそこから流出するかぎりにおいてである。」――『神学大全』

最高善である神が、それと一体となりたいと、熱望しているわれわれから隠れるなどという、いじわるをするわけがない。
だとしたら、なにか事情があるはずだ。

そう、たとえば。
神はあまりに完全であるから、不完全な身体をもつわれわれは、神と会うことに、物質的に耐えられない。
太陽があたたかいからといって、こいもとめて中心に近づけば、肉体が燃え尽きてしまうように。

「ところで同義的原因の場合には、結果との類似性は結果のそれとおなじ形で見いだされるが、異義的原因においては結果におけるよりもすぐれた在り方で見いだされる。たとえば熱は、火におけるよりも太陽において、よりすぐれた在り方で見いだされるのである。」――『神学大全』

そう、神がおつくりになられた太陽を直視するだけでわれわれは盲いてしまうのに、太陽だけでない、この世界そのものをおつくりになられた、あまりにも強大な根本原因である神をみてしまったら、われわれの肉体などという脆弱なものは、消失するにちがいない。

ということは、神は、見つかってしまうと人間が死んでしまうから、それを避けたくて、お隠れになられている、ということだ。

不完全な人間は、完全な神を理解することはおろか、視ることも、触ることもできない。
そんなことをしたら、われわれの不完全な身体は、神の完全さに耐えられず、崩壊してしまう。
したがって、神が隠れていることは神の慈悲である。
つまり、この世のどこを探しても神が見つからず、この世が地獄であることは、神の存在の証明である……という風にも、考えることができるかもしれない。

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死をもたらす窓の外の“何か”を感じながら、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」

そうすると、『Look Outside』の作中における、「視た」だけで死んでしまう、窓の外のものは、「神」なのか。

キリスト教的な絶対神の考えでいえば、そうではない。

「〔すべての事物の原因は〕同義的作用者としての神から流出するのではなくて、種の性格においても類の性格においてもその結果と共通するところのない作用者としての神から流出する。」――『神学大全』

が、ほかのロアの考えでいえば、「神」と呼んでよい。
複数形、「神々」のうちの一柱とみてよい。

というのも、作中の「神」は、ラヴクラフト的な、人知をこえた混沌ではあるけれど、とにかくも具体的な物象である。
これが、かつて地球に生命のたねを撒いたから、人類があるのだという、自然科学的説明まで、作中でしっかりとつけられる。

つまりこの作品は、「視てはいけない神」というキリスト教的なイメージを援用しつつ、その「神」それじたいを、物象として挿入したことになる。

万物を創造した神ということばのうちに想定されている「神」は、ただ地球に生命のたねを撒いたのみであり、それが何万年かあとに再訪して、その影響力を地球に及ぼした。
その様子を描いたのだ、という論旨を、本作はもつことになる。

「外を視たら死ぬ」神ゲー『Look Outside』レビュー・評価・感想:面白さを”神学”的に考えてみた_017

それは、キリスト教の教えと、両立不可能なものではなかろう。
最高善が創った世界のなかの、ある物象が、わたしたちを創ったのだから。
ただ、わたしたちはいままで、その物象と神とを混同していたが、いまやわれわれが神だと思っていたものの一部が物象であったことは、「外を見れ」ば明らかだ。

なぜか。
それを見ると、死んでしまうからである。
ここでいう死とは、部分が全体へと流出することである。
そしてキリスト教的な神とは、もっとも偉大なる全体、「それ以上に大きなものが意味されることができないもの」である。
だから窓外の「神」の影響力の大きさは、神に比することができる、かのように思われる。

しかし、神はなにものとも比することができない。
したがって、この「神」は神であって、神ではない。

ここをはき違えてはならない。
はき違えると、この作中でつぎつぎと登場する、さまざまな怪物――それは「神」の影響下で怪物化してしまった「人間たち」だ――に対して、まったくの不正義をなすことになる。

なぜそうなのか、詳しく言う。
神は部分であり全体である。第一原因であり、すべての結果である。
だから窓外の「神」は、ラヴクラフト的な物象をもつ「神」であり、またキリスト教的な神である。

だが、窓外の「神」だけが神なのだという考えをもってはならない。
神とは、「神」という概念が可能になる場そのものである。
その場が成立するための場である。
場が成立するための場が成立するための場、という無限の循環、それそのものである。
言語によって記述可能なすべてのもの、記述可能でないすべてのもの、全体であり部分である。
したがって、窓外の「神」は、神であるが、それだけが神なのではない。
部分が全体の一部であるように、すべてのものは神である。

だから、視るべきは外ではなく、主人公=あなたの、外にたいする行いだ。

彼は、言葉もなしに襲いかかってくる「怪物」にたいしてはむろん武器を振るい、必要であれば殺すが、しかしその「怪物」が、どこまでグロテスクに変じていようとも、対話の――というより、交わりの可能性があるかぎりは、彼らに心を開き、諭し、信仰へいざなおうとする。

「外を視たら死ぬ」神ゲー『Look Outside』レビュー・評価・感想:面白さを”神学”的に考えてみた_018

だとしたら、この作品は、既存の戒律を守ることが道徳律だと考えられている現代において、誰もが鼻をつまみ目をそらすような怪異でさえ、神を視る目でよく視ることが、「汝の隣人を愛する」ことであると、語っている。

そうすると、繊細な手で描かれた奇想の怪物たちのアートは、ただプレイヤーを怖がらせたいという動機のみによって描かれたとは、言えなくなる。
むしろ、こうした怪物どもさえ愛しきってみせよと、このホラーが、不断にわれわれを試していることになる。

他者を信じるという尊い試みを、とうぜんそれに付随する恐怖としっかり抱き合わせつつ、奨めていることになる。

人類史上、そのような気高き行いをした者は多くいるが、本作の文脈からひとりだけ名を挙げれば――イエス・キリストのほかにいるまい。

つまり、この作品は、あなたにキリストになれと言っているわけではないが、キリスト的な――お好みなら釈迦的な、孔子的な、あるいはソクラテス的な――この主人公のような――ふるまいを、できる限り、心を砕いてせよと、ゲームとしての楽しみを充分にもちながら、われわれに語りかけていることになる。

それは、まったくむつかしいことではない。ゲームシステムはたんなるRPGだし、対話にも選択肢は多くある。どれを選べば神のお眼鏡にかなうか、といった、教会的な道徳律をしっかり守れと要請しているわけではない。

もちろん、守ってもよい、あなたが楽しめるならそれでよい。

そのようにして、楽しんでゲームをプレイすることで、しぜんと原因は結果へ流出し、それぞれのマルチ・エンディングへと分岐する。

その流れのすべては神である。

「汝の隣人を愛せ」というのは、その隣人が神であるからだ。
そして、あなた自身もそうなのである。

そうした意味で、『Look Outside』は聖書のように面白い。

ライター
1991年大阪府生まれ、文筆家。 Website : https://github.com/rollstone1/fujitashohei/wiki
Twitter:@rollstone
編集者
小説の虜だった子供がソードワールドの洗礼を受けて以来、TRPGを遊び続けて20年。途中FEZとLoLで対人要素の光と闇を学び、steamの格安タイトルからジャンルの多様性を味わいつつ、ゲームの奥深さを日々勉強中。最近はオープンワールドの面白さに目覚めつつある。
Twitter:@reUQest

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