『TATSUJIN』と『雷電』は、縦スクロールシューティングを代表するシリーズである。
その両作のメイン開発者が、現在は同じ会社で机を並べている──。
東亜プランの創世記から関わり、シューティングゲームの礎を築いた弓削雅稔氏。
かたや、セイブ開発で『ライデンファイターズ』シリーズを手がけた齋藤貴幸氏。
縦スクロールシューティングの全盛期に、それぞれの看板タイトルを引っ提げて同じ時代を走ってきたふたりが、新作『TATSUJIN EXTREME』で初めてタッグを組んだ。
『TATSUJIN EXTREME』発売に際し、電ファミ編集部は弓削氏と齋藤氏へインタビュー取材を実施。『TATSUJIN EXTREME』開発に関する話はもちろん、弓削氏がいかにしてゲーム業界に飛び込み、「東亜プランシューティング」のムーブメントを生み出したのか、40年以上にわたる縦シュー開発秘話をうかがった。
語られたのは、単なる新作の開発秘話にとどまらない。A4用紙1枚の企画書から生まれた『究極タイガー』、「達人」と呼ばれるほどの腕前を誇るプレイヤーへの敬意が込められた『TATSUJIN』の命名、ボムの誕生、漢字タイトルという発明──。『怒首領蜂』以前、縦スクロールシューティングの源流にあたる時代の話が、ここで掘り起こされる。

聞き手・編集/豊田恵吾
執筆/kawasaki
撮影/佐々木秀二
──本日はよろしくお願いします。個人的な印象となりますが、『怒首領蜂』が「弾幕シューティングの起点」として語られることは多いものの、それまでの礎を築いた東亜プランシューティングについてはあまり広く伝わっていない気がしています。
今回、新作『TATSUJIN EXTREME』のインタビューではありますが、せっかく弓削さんと齋藤さんにお話をうかがえる機会となりますので、東亜プラン、セイブ開発【※】時代のことを含め、おふたりがゲーム業界に入られるきっかけから現在に至るまでのお話を聞かせてください。弓削さんと齋藤さんのお付き合いは長いのでしょうか?
※セイブ開発……1982年に有限会社セイブ電子として発足。1984年にセイブ電子のアーケードゲーム関連部門を有限会社セイブ開発として分離独立した。1990年に販売された縦スクロールシューティングゲーム『雷電』およびそのシリーズ作品が代表作。
弓削氏:
しっかりと話をしたのは、じつは齋藤さんがうちに入社してからなんです。齋藤さんが入社したのは4年前くらいですか。
齋藤氏:
2021年にTATSUJINに入社しました。最初にお会いしたのは2017年ごろだったと思います。
──弓削さんは業界歴40年、齋藤さんは30年といったイメージですが、意外にもつながりが生まれたのは最近なのですね。
弓削氏:
ゲーム業界歴はもう44年になります。
齋藤氏:
私は33年くらいです。当時、私は弓削さんのことを一方的に知っていましたが(笑)、あのころの時代はメーカーの垣根を越えたつながりはあまりなかったんですよね。
──齋藤さんがTATSUJINに入社されたきっかけは?
齋藤氏:
共通の友人の紹介ですね。
弓削氏:
シューティングが得意な人を探していたところ、紹介していただいて。まさにタイミングがバッチリ合いました。
──齋藤さんは東亜プランにどういったイメージを持っていらっしゃったのですか?
齋藤氏:
東亜プランのシューティングがアーケードでたくさん出ていた時代は、ちょうど私もゲームセンターに通ってシューティングをやり込んでいたころでした。ゲーマーとしてだけでなく、じつはゲームセンターの店員もやっていたんです。
当時、神保町に「ハイテクノーベル神保町」というお店があって、1988年ぐらいからの5年間ほど、そこで店員をやっていました。タイトルで言うと『TATSUJIN』から『達人王』ぐらいまでですかね。スコアラーが集まるお店で、そこでシューティングに揉まれた感じですね(笑)。
「横シュー」も好きではあったのですが、あまり得意ではなかったので、どちらかというと縦シューをプレイしていました。
──弓削さんは、『雷電』のことをどう見ていらっしゃったんですか?
弓削氏:
『究極タイガー』を出したあとに『雷電』が発売されたんですね。内容が若干似ていたようで、「これ大丈夫なんですか?」と周囲からよく言われました(笑)。
で、プレイしてみたらすごくおもしろくて。設計がちゃんと考えられていて、プレイヤーの心を揺さぶるシーンもある。出来がすごく良かったので、「これは文句を言っちゃいけない」と(笑)。
大事にしてゲーム業界のイメージが悪くなったり、ゲームクリエイターが減ってしまうのは損失になりますから。シューティングゲームは業界全体で盛り上げたいと思っていました。

──齋藤さんが最初に『雷電』シリーズの開発に関わられたのは……。
齋藤氏:
『雷電II』からですが、開発というか、プレイヤーとして意見を伝える業務というか。セイブ開発に入社したのが1993年の半ばぐらいで、ちょうど『雷電II』開発の終盤だったんですね。入社からほぼ半年後の12月に発売になりましたので、本当に佳境でした。入って最初にやったのが、デバッグを兼ねて「『雷電II』を攻略してくれ」ということだったんですよ。
努力の甲斐があって1周クリアまでできたのですが、その結果、難度がすごく上がっちゃって(笑)。
そのときは「難しいゲームじゃなかったのかな」とは思ったんですけど、後日「齋藤くんがクリアしたから製品版は難度が上がったよ」と直接言われて(笑)。冗談なのか本当なのか、ちょっとわからないですけども、もしかしたら私のせいで『雷電Ⅱ』の難度が上がってしまったのかもしれません(笑)。
──(笑)。齋藤さんがゲーム業界に入ろうと思ったきっかけはあったのですか?
齋藤氏:
ゲームセンターでアルバイトをしていたときの先輩が、私よりも前にセイブ開発に入社していたんです。その方から「プログラマーを募集しているからうちに来ないか?」と声をかけていただいたのがきっかけでした。
もともとコンピューター系の専門学校に通っていて、以前からプログラムはやっていたんですね。当時は「ゲーム専門学校」はなく、情報処理の学校だったのでCOBOLやFORTRANを学んでいました。ただ、バイト代でX68000を買ってC言語とアセンブラを独学で学んでいたので、知識としてはなんとなくはあったというか。
『雷電II』はそのまま開発には関わらず、そのつぎの『雷電DX』でいくつかアイデアを出させていただきました。「こういう「稼ぎ要素」がいっぱい欲しい」と意見を伝えていたら、どんどん実際のゲームに取り入れられて(笑)。ちゃんと企画を立てたわけではなく、本当にゲーマー目線の意見をバンバン言っていただけだったんですけども(笑)。
──『雷電III』から、本格的に開発に関わるようになったのですか。
齋藤氏:
その前に『ライデンファイターズ』シリーズを、セイブ開発で3作品作りました。そのときはゲームデザインを担当していました。メインのプログラムもやらせていただいて、敵の配置とかボスの攻撃とか、その辺も全部やらせてもらいました。
『雷電III』はモスのタイトルですので、プロデューサーは駒澤(駒澤敏亘氏)さんというモスの社長さんが務めています。私はプログラマー兼ディレクターみたいな感じでした。

──セイブ開発が倒産し、その後モスに入社されるまではどういった経緯だったのですか?
齋藤氏:
モスを設立したのは、さきほどお話した駒澤さんです。じつはセイブ開発時代には、時期が重なっていなかったのでお会いしたことがなかったんですよ。
1999年にセイブ開発の開発部門が倒産し、そこで私も無職になり、ちょっと自由にしていたんです。その後、セイブ開発時代にお世話になった先輩がバイク事故で急逝いたしまして、お通夜に行ったときにセイブ開発の社長と1年半ぶりに再会したんですね。その際に「いま新しいことをやっているからちょっと手伝ってほしい」くらいの感じでお話をいただきました。当時は「キャッツ」というブランドで、麻雀ゲームをたくさん作っていたころで、その手伝いをさせていただいたというか。
ただ、あまり仕事もない状況ということもあり、「モスの仕事を手伝ってくれないか?」と社長に言われ、そこで初めて駒澤さんにお会いしてモスに入社したというのが経緯です。
──なるほど。その後、モスで『雷電III』を開発することになると。
齋藤氏:
私が入社したことで、モスがシューティングゲームを作れる状態になったと思うんですよ。細かな経緯は把握していないのですが、そこでセイブ開発の方からライセンスをお借りして『雷電III』を作ろうという話になった、という流れだと思います。
──ちなみに、TATSUJINにジョインされてから、弓削さんと『雷電III』以降のタイトルのお話をされたことは?
弓削氏:
いまの話は初めて聞きました。
齋藤氏:
話したことはなかったですね(笑)。
弓削氏:
私が聞いたのは、セイブ開発さんに入社する前に、齋藤さんが東亜プランに電話をかけていたというエピソードです(笑)。
齋藤氏:
そうなんです。先ほどお話したとおり、ゲーセンの店員だったころ、就職活動をしていたんですね。そのとき、まず連絡したのが東亜プランだったんです。「人材募集していないですか?」と。ところが一向に電話がつながらなくて(笑)。
当時、アルバイト雑誌に東亜プランが募集を載せていたのに、何日かけても電話がつながらない(笑)。それで諦めたんです。
弓削氏:
じつは、ちょうど東亜プランが倒産したタイミングだったんです。
齋藤氏:
でも、倒産の1年前だったんですよね。つまり、もうそのころからバタバタとしていたのかなと……。
ですから、30年越しに東亜プランに入社した気分です。やっと電話がつながった、というか(笑)。TATSUJINに入社時、社員の皆さんには、そう挨拶しました(笑)。
──(笑)。弓削さんのお話もいろいろとおうかがいしたいのですが、改めてゲーム業界に入るきっかけから話を聞かせてください。弓削さんは1981年にオルカ【※】に入社されて、最初はプログラムとサウンドを担当されていたということですが……。
※オルカ……1978年12月創業のアーケードゲーム開発会社。代表作に『リバーパトロール』(1981年7月発売)などがある。元スタッフがのちに東亜プランやホワイトボード、こみにけーと(のちのヒューマン)を設立するなど、その後のゲーム業界の発展を支えていく礎となった。
弓削氏:
パソコン自体がなかった時代ですから、ソフトとハードの違いすらわかりませんでした(笑)。オルカはコンピューターを使った業務、ということでスタッフを募集していたので「新しさがある会社なのかな」と思ったんですね。
ただ、試験を受けて面接まで進んだ時点でも、まだゲームを作っている会社とはわかっていませんでした。面接の際、「ソフトとハード、どっちがいい?」と質問されて、違いがわからなかったものですから「どっちでもいいです」と答えたところ「じゃあソフトね」と。履歴書の趣味のところにピアノと書いていたので、「ピアノができるんだ。じゃあ、サウンドもお願いね」と言われたんです(笑)。
入社後の研修でも何をやる会社なのかまったくわからなくて。研修後に「いまはゲームが儲かるから、ゲームを作っています」と言われました(笑)。プログラム言語はZ80から学んでいったんですけど、「2週間後にまた新しい社員が入ってくるから、弓削くんがその子たちに教えてね」と言われて(笑)。
──2週間前に入ったばかりの弓削さんに新入社員研修を任せると(笑)。
弓削氏:
プログラムに関しては、セガの元会長の中山さん(中山隼雄氏)の本があって、それを丸暗記しました。
──サウンドに関しては、どういう状況からのスタートだったのですか?
弓削氏:
3チャンネルしか使えないけど作曲してね、と(笑)。
最初はブレストを行ったり、研修も兼ねて企画の一部を考えたり、そういうこともやっていたんですが、半年経ったらいきなり「チームリーダーをやってくれ」と。
そのあとすぐ『マリンボーイ』というゲームを作りました。でも、インカム(アーケード機の売上=コイン収入)のテストを出してもぜんぜんお金が入らなくて。けっきょく会社の直営店のゲームセンターを作ったときに、無料でプレイできるように置くことになったタイトルです。
──『マリンボーイ』はディレクションを担当されていたのでしょうか?
弓削氏:
もう全部ですね。絵も描いていましたし、1ヵ月くらいで作ったのですが、ディレクションとプログラムとサウンドのすべてを手がけています。
──弓削さんはもともとゲームが好きだったのですか?
弓削氏:
そんなにハマってはいなかったのですが、子どものころからピンボールマシンが得意でした。ピンボールマシンがたくさん置いてある、商業ビルの屋上によく行っていたんですね。なぜなら、大会で上位に入ると賞金がもらえたから(笑)。ただ、同級生にすごくうまい友人がいて、そいつがいつも優勝していたので準優勝ばかりでした。
──音楽については幼少期からピアノをずっと学んでいらっしゃったのですか。
弓削氏:
中学ぐらいまではクラシックピアノを学んでいて、その後は独学です。洋楽にハマっていて、YES、LED ZEPPELIN、DEEP PURPLEが好きでしたね。
──そのラインナップですとブリティッシュロックが好きだったのですね。
弓削氏:
そうですね。若いころはブリティッシュロックが好きでした。ただ、年を重ねるごとにだんだんとアメリカンロックやブラックミュージックも聴くようになりました。
──オルカの倒産後、東亜プランに入社されるにあたり、何かきっかけがあったのですか?
弓削氏:
元オルカの営業の方がいて、その人が東亜プランの前身である東亜企画【※】の社長と知り合いだったんです。東亜企画には開発がなくて、ゲームのレンタル業務などをしていたんですね。
「オルカには優秀なスタッフがいるので、どうですか」という話をしていたらしく、まず別の3人がジョインしたんですよ。私はオルカを辞めたあとに別の会社に一度入っていたのですが、そのときに声をかけていただいて。
そのときに東亜企画に入社した3人は、タムソフトの元社長(太田俊昭氏)、ケイブの元社長(高野健一氏)、あとひとりは現在うちの財務を担当しています。
※東亜企画……オルカ倒産後に在籍していたソフトチームがクラックスを設立。そのクラックスが経営難を理由に再び倒産し、一部スタッフがアーケードゲームの販売代理店だった東亜企画(1979年4月設立)に移り、1982年9月に関連会社として株式会社東亜プランを設立。
──すごいメンバーが集まっていたんですね。その方々と東亜企画に入られて、開発部署をゼロから構築していったと。結果としてシューティングで名を馳せていくことになりますが、当初はどういう方向性を目指していたのですか。
弓削氏:
驚かれるかもしれませんが、何も計画はありませんでした。社長から「何が欲しい?」と聞かれたので「キーボードが欲しい」と言ったら、「じゃあ買いにいこう」とそのままヨドバシカメラにいってカシオトーンを購入し、翌日から作曲プログラムを始める、といった進め方でしたので(笑)。
もともとオルカにいた上村さん(上村建也氏)がサウンドとプログラムを手がけていて、彼がバイトみたいな形で東亜プランの第1作のサウンドを作っていたんですね。ただ、彼がバイク事故で入院してしまって、ちょうどそのタイミングで自分が入社したため、そのまま続きを作り、それからは私がサウンドを手がけることになりました。
──当時、弓削さんの役職はどういうものだったのですか?
弓削氏:
そういった肩書きはなかったですね。タムソフトの元社長、太田さんはオルカのときも半年ほど先輩だったので、彼がリーダーという形でした。





