『TATSUJIN』と『雷電』は、縦スクロールシューティングを代表するシリーズである。
その両作のメイン開発者が、現在は同じ会社で机を並べている──。
東亜プランの創世記から関わり、シューティングゲームの礎を築いた弓削雅稔氏。
かたや、セイブ開発で『ライデンファイターズ』シリーズを手がけた齋藤貴幸氏。
縦スクロールシューティングの全盛期に、それぞれの看板タイトルを引っ提げて同じ時代を走ってきたふたりが、新作『TATSUJIN EXTREME』で初めてタッグを組んだ。
『TATSUJIN EXTREME』発売に際し、電ファミ編集部は弓削氏と齋藤氏へインタビュー取材を実施。『TATSUJIN EXTREME』開発に関する話はもちろん、弓削氏がいかにしてゲーム業界に飛び込み、「東亜プランシューティング」のムーブメントを生み出したのか、40年以上にわたる縦シュー開発秘話をうかがった。
語られたのは、単なる新作の開発秘話にとどまらない。A4用紙1枚の企画書から生まれた『究極タイガー』、「達人」と呼ばれるほどの腕前を誇るプレイヤーへの敬意が込められた『TATSUJIN』の命名、ボムの誕生、漢字タイトルという発明──。『怒首領蜂』以前、縦スクロールシューティングの源流にあたる時代の話が、ここで掘り起こされる。

聞き手・編集/豊田恵吾
執筆/kawasaki
撮影/佐々木秀二
──本日はよろしくお願いします。個人的な印象となりますが、『怒首領蜂』が「弾幕シューティングの起点」として語られることは多いものの、それまでの礎を築いた東亜プランシューティングについてはあまり広く伝わっていない気がしています。
今回、新作『TATSUJIN EXTREME』のインタビューではありますが、せっかく弓削さんと齋藤さんにお話をうかがえる機会となりますので、東亜プラン、セイブ開発【※】時代のことを含め、おふたりがゲーム業界に入られるきっかけから現在に至るまでのお話を聞かせてください。弓削さんと齋藤さんのお付き合いは長いのでしょうか?
※セイブ開発……1982年に有限会社セイブ電子として発足。1984年にセイブ電子のアーケードゲーム関連部門を有限会社セイブ開発として分離独立した。1990年に販売された縦スクロールシューティングゲーム『雷電』およびそのシリーズ作品が代表作。
弓削氏:
しっかりと話をしたのは、じつは齋藤さんがうちに入社してからなんです。齋藤さんが入社したのは4年前くらいですか。
齋藤氏:
2021年にTATSUJINに入社しました。最初にお会いしたのは2017年ごろだったと思います。
──弓削さんは業界歴40年、齋藤さんは30年といったイメージですが、意外にもつながりが生まれたのは最近なのですね。
弓削氏:
ゲーム業界歴はもう44年になります。
齋藤氏:
私は33年くらいです。当時、私は弓削さんのことを一方的に知っていましたが(笑)、あのころの時代はメーカーの垣根を越えたつながりはあまりなかったんですよね。
──齋藤さんがTATSUJINに入社されたきっかけは?
齋藤氏:
共通の友人の紹介ですね。
弓削氏:
シューティングが得意な人を探していたところ、紹介していただいて。まさにタイミングがバッチリ合いました。
──齋藤さんは東亜プランにどういったイメージを持っていらっしゃったのですか?
齋藤氏:
東亜プランのシューティングがアーケードでたくさん出ていた時代は、ちょうど私もゲームセンターに通ってシューティングをやり込んでいたころでした。ゲーマーとしてだけでなく、じつはゲームセンターの店員もやっていたんです。
当時、神保町に「ハイテクノーベル神保町」というお店があって、1988年ぐらいからの5年間ほど、そこで店員をやっていました。タイトルで言うと『TATSUJIN』から『達人王』ぐらいまでですかね。スコアラーが集まるお店で、そこでシューティングに揉まれた感じですね(笑)。
「横シュー」も好きではあったのですが、あまり得意ではなかったので、どちらかというと縦シューをプレイしていました。
──弓削さんは、『雷電』のことをどう見ていらっしゃったんですか?
弓削氏:
『究極タイガー』を出したあとに『雷電』が発売されたんですね。内容が若干似ていたようで、「これ大丈夫なんですか?」と周囲からよく言われました(笑)。
で、プレイしてみたらすごくおもしろくて。設計がちゃんと考えられていて、プレイヤーの心を揺さぶるシーンもある。出来がすごく良かったので、「これは文句を言っちゃいけない」と(笑)。
大事にしてゲーム業界のイメージが悪くなったり、ゲームクリエイターが減ってしまうのは損失になりますから。シューティングゲームは業界全体で盛り上げたいと思っていました。

──齋藤さんが最初に『雷電』シリーズの開発に関わられたのは……。
齋藤氏:
『雷電II』からですが、開発というか、プレイヤーとして意見を伝える業務というか。セイブ開発に入社したのが1993年の半ばぐらいで、ちょうど『雷電II』開発の終盤だったんですね。入社からほぼ半年後の12月に発売になりましたので、本当に佳境でした。入って最初にやったのが、デバッグを兼ねて「『雷電II』を攻略してくれ」ということだったんですよ。
努力の甲斐があって1周クリアまでできたのですが、その結果、難度がすごく上がっちゃって(笑)。
そのときは「難しいゲームじゃなかったのかな」とは思ったんですけど、後日「齋藤くんがクリアしたから製品版は難度が上がったよ」と直接言われて(笑)。冗談なのか本当なのか、ちょっとわからないですけども、もしかしたら私のせいで『雷電Ⅱ』の難度が上がってしまったのかもしれません(笑)。
──(笑)。齋藤さんがゲーム業界に入ろうと思ったきっかけはあったのですか?
齋藤氏:
ゲームセンターでアルバイトをしていたときの先輩が、私よりも前にセイブ開発に入社していたんです。その方から「プログラマーを募集しているからうちに来ないか?」と声をかけていただいたのがきっかけでした。
もともとコンピューター系の専門学校に通っていて、以前からプログラムはやっていたんですね。当時は「ゲーム専門学校」はなく、情報処理の学校だったのでCOBOLやFORTRANを学んでいました。ただ、バイト代でX68000を買ってC言語とアセンブラを独学で学んでいたので、知識としてはなんとなくはあったというか。
『雷電II』はそのまま開発には関わらず、そのつぎの『雷電DX』でいくつかアイデアを出させていただきました。「こういう「稼ぎ要素」がいっぱい欲しい」と意見を伝えていたら、どんどん実際のゲームに取り入れられて(笑)。ちゃんと企画を立てたわけではなく、本当にゲーマー目線の意見をバンバン言っていただけだったんですけども(笑)。
──『雷電III』から、本格的に開発に関わるようになったのですか。
齋藤氏:
その前に『ライデンファイターズ』シリーズを、セイブ開発で3作品作りました。そのときはゲームデザインを担当していました。メインのプログラムもやらせていただいて、敵の配置とかボスの攻撃とか、その辺も全部やらせてもらいました。
『雷電III』はモスのタイトルですので、プロデューサーは駒澤(駒澤敏亘氏)さんというモスの社長さんが務めています。私はプログラマー兼ディレクターみたいな感じでした。

──セイブ開発が倒産し、その後モスに入社されるまではどういった経緯だったのですか?
齋藤氏:
モスを設立したのは、さきほどお話した駒澤さんです。じつはセイブ開発時代には、時期が重なっていなかったのでお会いしたことがなかったんですよ。
1999年にセイブ開発の開発部門が倒産し、そこで私も無職になり、ちょっと自由にしていたんです。その後、セイブ開発時代にお世話になった先輩がバイク事故で急逝いたしまして、お通夜に行ったときにセイブ開発の社長と1年半ぶりに再会したんですね。その際に「いま新しいことをやっているからちょっと手伝ってほしい」くらいの感じでお話をいただきました。当時は「キャッツ」というブランドで、麻雀ゲームをたくさん作っていたころで、その手伝いをさせていただいたというか。
ただ、あまり仕事もない状況ということもあり、「モスの仕事を手伝ってくれないか?」と社長に言われ、そこで初めて駒澤さんにお会いしてモスに入社したというのが経緯です。
──なるほど。その後、モスで『雷電III』を開発することになると。
齋藤氏:
私が入社したことで、モスがシューティングゲームを作れる状態になったと思うんですよ。細かな経緯は把握していないのですが、そこでセイブ開発の方からライセンスをお借りして『雷電III』を作ろうという話になった、という流れだと思います。
──ちなみに、TATSUJINにジョインされてから、弓削さんと『雷電III』以降のタイトルのお話をされたことは?
弓削氏:
いまの話は初めて聞きました。
齋藤氏:
話したことはなかったですね(笑)。
弓削氏:
私が聞いたのは、セイブ開発さんに入社する前に、齋藤さんが東亜プランに電話をかけていたというエピソードです(笑)。
齋藤氏:
そうなんです。先ほどお話したとおり、ゲーセンの店員だったころ、就職活動をしていたんですね。そのとき、まず連絡したのが東亜プランだったんです。「人材募集していないですか?」と。ところが一向に電話がつながらなくて(笑)。
当時、アルバイト雑誌に東亜プランが募集を載せていたのに、何日かけても電話がつながらない(笑)。それで諦めたんです。
弓削氏:
じつは、ちょうど東亜プランが倒産したタイミングだったんです。
齋藤氏:
でも、倒産の1年前だったんですよね。つまり、もうそのころからバタバタとしていたのかなと……。
ですから、30年越しに東亜プランに入社した気分です。やっと電話がつながった、というか(笑)。TATSUJINに入社時、社員の皆さんには、そう挨拶しました(笑)。
──(笑)。弓削さんのお話もいろいろとおうかがいしたいのですが、改めてゲーム業界に入るきっかけから話を聞かせてください。弓削さんは1981年にオルカ【※】に入社されて、最初はプログラムとサウンドを担当されていたということですが……。
※オルカ……1978年12月創業のアーケードゲーム開発会社。代表作に『リバーパトロール』(1981年7月発売)などがある。元スタッフがのちに東亜プランやホワイトボード、こみにけーと(のちのヒューマン)を設立するなど、その後のゲーム業界の発展を支えていく礎となった。
弓削氏:
パソコン自体がなかった時代ですから、ソフトとハードの違いすらわかりませんでした(笑)。オルカはコンピューターを使った業務、ということでスタッフを募集していたので「新しさがある会社なのかな」と思ったんですね。
ただ、試験を受けて面接まで進んだ時点でも、まだゲームを作っている会社とはわかっていませんでした。面接の際、「ソフトとハード、どっちがいい?」と質問されて、違いがわからなかったものですから「どっちでもいいです」と答えたところ「じゃあソフトね」と。履歴書の趣味のところにピアノと書いていたので、「ピアノができるんだ。じゃあ、サウンドもお願いね」と言われたんです(笑)。
入社後の研修でも何をやる会社なのかまったくわからなくて。研修後に「いまはゲームが儲かるから、ゲームを作っています」と言われました(笑)。プログラム言語はZ80から学んでいったんですけど、「2週間後にまた新しい社員が入ってくるから、弓削くんがその子たちに教えてね」と言われて(笑)。
──2週間前に入ったばかりの弓削さんに新入社員研修を任せると(笑)。
弓削氏:
プログラムに関しては、セガの元会長の中山さん(中山隼雄氏)の本があって、それを丸暗記しました。
──サウンドに関しては、どういう状況からのスタートだったのですか?
弓削氏:
3チャンネルしか使えないけど作曲してね、と(笑)。
最初はブレストを行ったり、研修も兼ねて企画の一部を考えたり、そういうこともやっていたんですが、半年経ったらいきなり「チームリーダーをやってくれ」と。
そのあとすぐ『マリンボーイ』というゲームを作りました。でも、インカム(アーケード機の売上=コイン収入)のテストを出してもぜんぜんお金が入らなくて。けっきょく会社の直営店のゲームセンターを作ったときに、無料でプレイできるように置くことになったタイトルです。
──『マリンボーイ』はディレクションを担当されていたのでしょうか?
弓削氏:
もう全部ですね。絵も描いていましたし、1ヵ月くらいで作ったのですが、ディレクションとプログラムとサウンドのすべてを手がけています。
──弓削さんはもともとゲームが好きだったのですか?
弓削氏:
そんなにハマってはいなかったのですが、子どものころからピンボールマシンが得意でした。ピンボールマシンがたくさん置いてある、商業ビルの屋上によく行っていたんですね。なぜなら、大会で上位に入ると賞金がもらえたから(笑)。ただ、同級生にすごくうまい友人がいて、そいつがいつも優勝していたので準優勝ばかりでした。
──音楽については幼少期からピアノをずっと学んでいらっしゃったのですか。
弓削氏:
中学ぐらいまではクラシックピアノを学んでいて、その後は独学です。洋楽にハマっていて、YES、LED ZEPPELIN、DEEP PURPLEが好きでしたね。
──そのラインナップですとブリティッシュロックが好きだったのですね。
弓削氏:
そうですね。若いころはブリティッシュロックが好きでした。ただ、年を重ねるごとにだんだんとアメリカンロックやブラックミュージックも聴くようになりました。
──オルカの倒産後、東亜プランに入社されるにあたり、何かきっかけがあったのですか?
弓削氏:
元オルカの営業の方がいて、その人が東亜プランの前身である東亜企画【※】の社長と知り合いだったんです。東亜企画には開発がなくて、ゲームのレンタル業務などをしていたんですね。
「オルカには優秀なスタッフがいるので、どうですか」という話をしていたらしく、まず別の3人がジョインしたんですよ。私はオルカを辞めたあとに別の会社に一度入っていたのですが、そのときに声をかけていただいて。
そのときに東亜企画に入社した3人は、タムソフトの元社長(太田俊昭氏)、ケイブの元社長(高野健一氏)、あとひとりは現在うちの財務を担当しています。
※東亜企画……オルカ倒産後に在籍していたソフトチームがクラックスを設立。そのクラックスが経営難を理由に再び倒産し、一部スタッフがアーケードゲームの販売代理店だった東亜企画(1979年4月設立)に移り、1982年9月に関連会社として株式会社東亜プランを設立。
──すごいメンバーが集まっていたんですね。その方々と東亜企画に入られて、開発部署をゼロから構築していったと。結果としてシューティングで名を馳せていくことになりますが、当初はどういう方向性を目指していたのですか。
弓削氏:
驚かれるかもしれませんが、何も計画はありませんでした。社長から「何が欲しい?」と聞かれたので「キーボードが欲しい」と言ったら、「じゃあ買いにいこう」とそのままヨドバシカメラにいってカシオトーンを購入し、翌日から作曲プログラムを始める、といった進め方でしたので(笑)。
もともとオルカにいた上村さん(上村建也氏)がサウンドとプログラムを手がけていて、彼がバイトみたいな形で東亜プランの第1作のサウンドを作っていたんですね。ただ、彼がバイク事故で入院してしまって、ちょうどそのタイミングで自分が入社したため、そのまま続きを作り、それからは私がサウンドを手がけることになりました。
──当時、弓削さんの役職はどういうものだったのですか?
弓削氏:
そういった肩書きはなかったですね。タムソフトの元社長、太田さんはオルカのときも半年ほど先輩だったので、彼がリーダーという形でした。
──東亜プランのシューティングとしては1985年の『タイガーヘリ』が最初のタイトルとなりますが『タイガーヘリ』はどのように生まれたのでしょうか?

弓削氏:
クラックス(オルカ倒産後、元スタッフが設立した会社)時代に『ジャイロダイン』というゲームを手がけていて、その感触がよかったというのがみんなの頭の中にあり、「ヘリっぽいのを作ろうか」という流れでした。
当時は、ちょうど3Dが話題になり出していた時期だったんです。「ポリゴン風の背景にしたらどうか」と、高野さん(元ケイブ社長)が言い出して、あのようなデザインになりました。
当時、企画書も何もなかったですし、作りながら形にしていったというか。プログラミングしながら「おもしろそうだからこの要素を入れてみよう」といった具合に、チームで話し合いながら作り上げていきました。市場調査などもまったくしていませんでしたね。
ただ、各々好きなゲームはあったので、「何がおもしろいか?」という部分はしっかりと考えました。もう四六時中、ゲームのことばっかり考えていて。飲みにいってもゲームの話ばかりで。でも、酔っぱらっているときのアイデアって、だいたいつぎの日には忘れちゃうんですよね(笑)。
──(笑)。
弓削氏:
個人的に考えていたのはプレイヤーが感じる「ストレス」、抑圧と解放です。ストレスがないと、解放されたときのうれしさも半減するじゃないですか。だから、ある程度のストレスと、その解放の落差みたいなところを重視しました。そこで「ボンバー」(ボム)【※】が生まれたんですね。
「この人が「ボンバー」の生みの親」という話ではなく、当時のチームリーダーの太田さんも同じような発想を持っていたので、チームの相違として実装したというか。
※ボンバー(ボム)……シューティングゲーム史上、初めてボムを実装したのは1980年の『ディフェンダー』。「スマートボム」を押すと、画面が閃光に包まれ一瞬にしてすべての敵と敵弾が消滅するというものだった。『タイガーヘリ』は縦シューティングで初めてボム(ゲーム中呼称は「ボンバー」)が搭載されたタイトル。ボタンを押すと小規模の爆発が巻き起こり、敵弾をかき消しつつ多くの敵に打撃を与えるというものだった。
──『タイガーヘリ』の手応えがあり、そこから「シューティングを作っていこう」となったのでしょうか?
弓削氏:
『飛翔鮫』の成功があってからですね。『スラップファイト』もそこそこ売れたんですけど、まだシューティング1本に振り切ることはしませんでした。
シューティングに絞っていったのは会社の判断というよりも、自分自身がシューティングゲームを作るのが好きだったというのが大きいです。シューティングは、プレイしている人の反応がすごくわかりやすいんですよ。
ゲームセンターにも頻繁に足を運んでいましたので、『タイガーヘリ』の筐体のレバーが折れているのを見たこともあります(笑)。
──東亜プランは硬派なイメージがあります。ゲーム内容やデザインはもちろん、タイトル名も「究極」や「鮫」といった文字のインパクトもあり……。
弓削氏:
漢字の名前をつけたかったんです。『飛翔鮫』開発時、いまもうちにいる『スラップファイト』からジョインしたスタッフに「タイトルは漢字にするから、いいタイトルを考えてきて」と伝えたら、つぎの日にロゴまで用意してくれて『飛翔鮫』と提出してくれたんですよ。
それで一発OKを出しました(笑)。おかげさまで『飛翔鮫』というタイトル名がかなり話題となったので「これでいこう」と考え、次作には「究極」と入れたと。
──「タイトルに漢字を入れよう」という発想はどのようにして生まれたのですか?
弓削氏:
それまで漢字タイトルのものが市場になかったからですね。あと、ゲームのイメージに合っていたからです。
「究極」とか「達人」という漢字は、その後ほかのゲームでも使われるようになったので、うれしい限りです。
──では、『TATSUJIN』のタイトル名は変化球だったわけですね。
弓削氏:
『飛翔鮫』、『究極タイガー』と2作続けて漢字にしていたので、「じゃあ、つぎはローマ字でいこう」と(笑)。
ただ、ゲーム雑誌に掲載されるときは、『TATSUJIN』って書きづらいんですよね。だから漢字のほうが使われやすいというか。

──東亜プランは『タイガーヘリ』以降、ものすごいペースでシューティングを開発・発売しています。これは「まだやり切っていない」という情熱があり、「つぎはこれを進化させよう」という衝動があったからこそなのでしょうか?
弓削氏:
まさにそのとおりです。というのも、当時の東亜プランはソフトだけではなく、ハードウェアもオリジナルものを自社で作っていたんですね。
新しいタイトルを開発するときに、「あれをやりたい、これもやりたい」とハード担当に伝えると「それを実現するとなると費用がかかりすぎる」とか、「いまの技術では無理」といった反応があり、そこから議論を交わしながらちょっとずつハードウェアが進化していくという時代だったんです。
──ソフトウェアとハードウェアを両輪で作り上げていった時代だったのですね。
弓削氏:
新しいハードを使うときは、まだチップ化されていない状態でしたので、ハードのデバックを行いながらソフトウェアを組んでいったり。
時間的にも圧迫する作業でしたが、それができたのも楽しかったんです。なぜなら、ゲームの仕組みがすべてわかるから。「このハードにこういう命令を出すとこういう見え方をするんだ」というのがわかるわけです。そういった経験が「じゃあ、こういう企画を入れたらおもしろいんじゃないかな」と次作以降につながっていきました。
──当時、ほかのゲームメーカーもハードとソフトの両方を手掛けていたのでしょうか。
弓削氏:
ハードウェアを持っている会社さんは少なかったと思います。
ただ、それでも「思っていることの50パーセントぐらいが実現できればよかった」という時代でした。「本当はもっとこうしたいのに」と思いつつ、制限があるのですべては実現できない。「オブジェクトはこれだけしか出せません」とか。だからこそ、たとえば10個しかオブジェクトが出せない、ハード的には出ていないんだけど「20個出ているように見せるためには」を実現するのはソフトウェアのほうで工夫でどうにかする。そういうことを考えるのも好きでしたし、楽しかったですね。
──制約があるからこそ、どうクリアしていくかが、クリエイター的にはモチベーションになったと。
弓削氏:
そうすることで他社との差別化が出てくるわけです。東亜プランの教育では、「ハードウェアの能力を120パーセント引き出せ、それはソフトの役割だ」とずっと言っていました。
──東亜プランのスタッフ数はどれくらいだったのですか。
弓削氏:
最終的には60人ぐらいです。毎年ふたりずつくらいは入れていたのですが、新卒を入れるようになったのは『TATSUJIN』発売時期ぐらいからです。
東亜プランは、とにかく自由な発想がありましたね。杓子定規ですとシステマチックになってしまい、いいものは発想できない。ですから「とにかく遊ぼう」と言っていました。
スタッフ数が5、6人のころは、朝にタイムカードを押したら「今日はボーリングにしよう」とか「映画がいいな」とか、そういうことを繰り返していましたから(笑)。
ほかのエンタメの楽しさをゲームに取り入れたほうがいいと思っていたので、他社さんのゲームは逆に遊んでいませんでしたね。映画がすばらしかった時代でしたから、たとえば『ブレードランナー』からはいろいろな影響を受けています。
──シューティングは「スコアラー文化」があった時代ですし、ストイックに腕前を競っていた印象があります。
弓削氏:
そうですね。『究極タイガー』では何周もする人が出てきたり。「もう君たちは達人だ」と思って、『TATSUJIN』というタイトルを作ったんです。『TATSUJIN』のタイトル名はプレイヤーさんを指しているんですね。

──インカムとのバランスは、どのように考えていたのでしょうか。
弓削氏:
そこがやっぱりいちばん苦労したところです。長く遊ばれると、インカムも下がるわけで。
でも、ただ難しくすればいいわけではなく、お客さんが不満を感じないものにしなければいけない。
だから、ゲームオーバーになったときにプレイヤー自身が「自分のせいでゲームオーバーになったんだ」と思える「納得感」が必要だったんです。
コンティニューも含めて、いかにまた100円を入れていただけるか。「もう一度プレイしたい、チャレンジしたい」という気持ちにさせるのは本当に難しかったですね。
一応、難易度はディップスイッチで設定できたのですが、変えている店舗はほとんどなかったですね。
国内の場合は、8割がゲームセンターの時代でしたが、アメリカはそれが逆だったんです。ゲーセンは2割もなかったと思います。アメリカでは、バーのカウンターの横に置かれていたり。あとは空港。待ち時間が発生するからアーケードゲームが重宝されたんですね。
──『究極タイガー』は縦スクロールシューティングのスタイルのひとつを確立させたタイトルです。なぜ東亜プランは『究極タイガー』を生み出すことができたのでしょうか?

弓削氏:
『飛翔鮫』発売後、プレイヤーや購入者からの反響や感触で、ミリタリーでリアルなタイプが欧米で受けるとわかったんですよ。当時、売上の3分の2は海外でしたから。市場として、アメリカがいちばんだったんですね。
「次回作もミリタリーを意識して市場に合うものを作りたい」と考えたのですが、『飛翔鮫』と類似した内容だと飽きられてしまう。あと、自分は続編を作るのがイヤだったんです。そこに甘えると新しいものが生まれなくなってしまうので。
まず、自機をヘリコプターにすれば、後ろに移動しても違和感ないですし、いろいろとやれることの幅が増えると考えました。つぎにコンセプトを定めていったのですが、アメリカはもちろん、日本でも夜中にゲームを遊ぶ人がいるからお酒を飲んでのプレイを想定したんですね。そこで「酔っぱらっていても満足できるプレイが可能で、シラフだったらより深い攻略が楽しめる」ものにしようと考えて。
そのために、自機の弾がたくさん出るものにして、弾も派手にしました。ボムで全破壊する爽快感を『飛翔鮫』から引き継いでいたので、開発時に私たちは「バリバリシューティング」と呼んでいたんですね。「バリバリシューティングを作るぞ!」とA4用紙1枚に書いた。それが初めて自分が書いた企画書です。
周りは「『飛翔鮫』っぽく、それでいて違うもの」が、なんとなくできるんだろうと思っていたと思うんですけどね。
──売上的な手応えはどのタイトルからだったのでしょうか?
弓削氏:
『究極タイガー』ですね。ただ、コピー基板(無断複製された海賊版の基板)が3倍〜5倍ぐらい出ちゃったんです。おそらく、5万枚ぐらいはコピーだったと思います。

──当時のアーケードでは、コピーとの戦いがつねにありましたよね。
弓削氏:
そうですね。ただ、意外かもしれませんが、アメリカはコピーが出回らなかったんですよ。でも、ほかの国に出しちゃうと、そこでコピーされて売れなくなってしまう。だから「まずはアメリカから出させてくれ」と販売戦略を練りました。
ハードウェアは2週間もあれば解析されてしまうんですけど、ソフトでの対策はある程度していたんです。コピーさせておいて、プレイして時間が経つと暴走するような仕組みを中に入れておくんです。そうすることで、コピーを買った人は「最後まで遊べないから、もうコピーを買うのをやめよう」となると。
最近、過去に自分が作ったゲームを最新のハードで発売するために元データを使って開発し直す、という展開があるじゃないですか。コピー対策をしていたタイトルを扱う場合は、変にプログラムをいじると、そのコピー対策の仕組みに引っかかってしまうことがあるんです。その解析がすごくたいへんなんですね。
──売上がすごかったときの東亜プラン社内はどんな雰囲気だったのですか。
弓削氏:
インカムテストをやってコインボックスを開ける瞬間は、いつもドキドキしていました(笑)。
売上でいうと『究極タイガー』が群を抜いてよかったですね。『TATSUJIN』も当初は『究極タイガー』レベルまでぐっと伸びたんですよ。海外ではあまりピンと来ていなかったのですが、メガドライブ(北米名:ジェネシス)用ソフトとしてコンシューマーに移植されたときにかなり伸びました。
──『究極タイガー』以降、『TATSUJIN』、『達人王』、『ヴイ・ファイヴ』と続き、『BATSUGUN』で敵弾も増えて、いわゆる弾幕シューティングの基礎を生み出されたと感じているのですが、各タイトルで弓削さんがとくに意識されたのはどういったところだったのでしょうか。

弓削氏:
『TATSUJIN』を作ったあと、ちょっと休憩したかったので『洗脳ゲーム TEKI・PAKI』というパズルゲームを作ったんですね。その後、『鮫!鮫!鮫!』を作ったんですけど、パズルをやろうというきっかけは、迷走し始めたからなんですよ。
「自分が考えることが、自分で気に入らない」と思い始めて、「これは休まないとダメだ」と。パズルゲームのことを考えるようになって、精神状態が安定していったんですね。
『達人王』では、私はサウンドだけに携わっています。唯一メンバーにクレームを出したのはサウンドだったんです。
それまでは別の独立したチップで動かしていたので、メインのチップが処理落ちしても、サウンドは同じ速度で出ていたんです。でも、それがコスト削減のために、メインのチップにされてしまって……。そうなると、処理が落ちるとサウンドのシーケンスも遅くなるわけです。「このままだとサウンドがめちゃくちゃ気持ち悪くなるから、絶対に処理落ちはさせないでくれ」と、ずっと文句を言っていました(笑)。
だから私が東亜プランのシューティングで最後に手がけたのは『鮫!鮫!鮫!』です。その後は、『フーピー!!』とか『えんま大王』とか、変なものばかり作っていました(笑)。

──それぞれのディレクターがシューティングを引き継いで作っていたのですね。
弓削氏:
開発に関して、口出しすることはしなかったですね。
──弓削さんは『BATSUGUN』までのシューティングタイトルを、どうご覧になっていたんですか。

弓削氏:
『TATSUJIN』は、「その名前を使う限りは変なモノを作らないでね」と言っていました。『ヴイ・ファイヴ』は新人のメンバーが作っていたので、開発のやり方を教えたくらいです。『BATSUGUN』に至った経緯は、ちょうどそのころにGPUが登場して処理能力が向上したことで、さまざまな表現ができるようになり、オブジェクトの数もたくさん出せるようになったんですね。それを活用して「弾幕」が生まれた、と自分は思っています。私は開発に関わっていないので、「いい発明をしてくれたな」と感じています。
──当時、弓削さんは「東亜プランらしさ」をどう定義されていたのでしょうか?
弓削氏:
とくにはありませんでした。ただ、お客さんからすると「これ東亜プランのゲームだよね」というのはあったと思います。画面の発色やデザインとかでそう感じていただいていたのかなと。
『TATSUJIN』のデザインをしたスタッフがいたのですが、開発の中で師匠みたいになっているところもあって、似たような作り方をしていく、というのもありましたからね。
音楽もぜんぜん意識していなかったんですけど、「東亜節」と毎回言われるようになって(笑)。「上村くんのことを言っているのかな、俺のことを言っているのかな、どっち?」と思っていました。
──弓削さんからすると、上村さんサウンドと弓削さんサウンドは違うわけですよね。
弓削氏:
違います。
──そこを言語化したいのですが、弓削さん的にはどう分析されているのですか?
弓削氏:
昔のインタビューか、CDのライナーノーツか忘れてしまったんですけど、そこで解説したことがあるんです。自分は演奏するところでいうと「ピアノ」がベースになっているんです。一方、上村さんは「エレキギター」。だから、ギターで作った曲は「上村東亜節」だし、ピアノで作ったものは「弓削東亜節」。そう落ち着いたというか(笑)。
──齋藤さんは東亜プランのシューティングをどう見ていらっしゃいましたか?
齋藤氏:
当時の認識として、「シューティングといえば東亜プラン」というぐらいにはなっていたと思うんですよね。だからもう、シューティングの最先端を何作も駆け抜けていった、と感じていました。
セイブ開発に入社したあとも東亜プランタイトルはプレイしていて、いちばん好きなのは 『TATSUJIN』です。『TATSUJIN』を好きになるきっかけがありまして。ゲームセンターでアルバイトを始めた初日に、閉店作業後に「好きなゲームをプレイしていいよ」と言われたんですね。そこに発売したばかりの『TATSUJIN』があったんです。だから、ゲーセンで初めて「タダゲー」したゲームが『TATSUJIN』なんです(笑)。
当時は連射装置もなかったので、擦ってプレイをして。照明を落とした閉店後の真っ暗な状態の中、ゲームの明かりだけが付いている。『TATSUJIN』をプレイしたら、青レーザーの光がめちゃくちゃ眩しくて、自分の顔がもう真っ青になっているのがわかる(笑)。その風景も相まって「すごく派手な色のシューティングだな」と印象に残ってますね。
──ここから『TATSUJIN EXTREME』の話をうかがわせてください。さきほど齋藤さんからもお話がありましたが、弓削さんはオリジナルの『TATSUJIN』をどう思っていらっしゃったのでしょうか?
弓削氏:
「やり残したことをやりたい。その続きを作りたい」と思ったんですよ。それがいまの会社を作ったきっかけでもあります。当時は技術的に実現できなかったものも、いまだったらできるんだろうなと。

──オリジナルもすばらしいゲームですが、それでも「やり残し」があったんですね。
弓削氏:
ありました。それは『究極タイガー』だろうが『飛翔鮫』だろうが、全部そうです。
──そのやり残しについて、詳しく聞かせてください。
弓削氏:
まず、「見せ方」ですよね。たくさんのオブジェクトが画面いっぱいに広がるとか、そういう表現は当時は叶わなかったんですよ。それによってゲーム性も変わってくるし、そこをブラッシュアップできるだろうと。
あとは音楽。音楽に関しては、『TATSUJIN EXTREME』で劇的な進化を遂げています。いい意味でまったく違うものになっている。東亜プラン時代はいつも不完全燃焼でリリースしていたので、「どこかで整理しておかないといけないな」と長年考えていたんですよ。
──自分が手がけた過去作に向き合うにあたり、気恥ずかしいみたいなところはあったのでしょうか。
弓削氏:
いや、恥ずかしさはありませんでした。逆に、改めてプログラムを解析してみて「これすげえな」って(笑)。「いい仕事してるじゃん」と(笑)。
齋藤氏:
弓削さんからは「『TATSUJIN』シリーズの続編ではなくて、あのときの続きを作りたい」という想いを聞いています。
──ちなみに、本作はTHQ Nordic Japanが販売元で、TATSUJINが開発元となっています。弓削さんは、サウンドとプロデュースを担当されているのでしょうか。
弓削氏:
あとは企画にも参加しています。ディレクションや敵の配置を齋藤がやっているんですけど、それぞれがやりたいことというか、得意なことをやっている感じですね。
──齋藤さんがジョインされて約5年ということですが、『TATSUJIN EXTREME』をいっしょに手がけてみて、お互いの印象はいかがですか?
弓削氏:
自分はもう感謝とリスペクトしかないです。ただ、彼は自分のことを「歯がゆい」と思っていますよ。なかなか私が「捕まらない」し。
──「捕まらない」というのは?
齋藤氏:
言葉どおりなのですが、弓削は代表取締役なので社長業が忙しいんですよ。ですので、捕まえるのがまずたいへんなんです(笑)。入社して最初の1年くらいは、ほぼふたりだけで制作を進めていたんですね。「企画をまず最初に固めよう」と。どんどんアイデアは出していくんですけど、それを弓削に聞いてもらう時間を作るのがたいへんで(笑)。
弓削氏:
その後、毎週1回、強制的に拘束されるようになりました(笑)。
齋藤氏:
それまでは、空いている時間にスケジュールを入れても別の予定が入ってダメになる、というのをずっと繰り返していて。そこで「この曜日のこの時間の1時間だけは、絶対に空けてください」と、強制的に毎週話をするようにしたんです。
──企画の骨子を作るにあたり、もっとも重視されたのはどの部分だったのでしょうか?
齋藤氏:
最初に「『TATSUJIN』らしさは残したい」と私のほうから提案しました。つぎに、「何が『TATSUJIN』らしいか」を話し合ったんですね。でも弓削は、「『TATSUJIN』らしさは全部捨ててくれ」と言ってきたんです。
「『TATSUJIN』の続きというか、やり残したことをやるんじゃないんですか?」と聞いたら「それにこだわっていたら、新しいものは作れない」と言うんですよね。それもわかるんですけど、「それだと『TATSUJIN』という名前じゃなくていいじゃないですか?」となるじゃないですか。その問答をかなりしましたね。
弓削氏:
私は開発に入ると矛盾したことを言うんですよ。
齋藤氏:
たとえば、「3種類のショット」はそのまま出したいと思ったんですね。そこはまず主張したところです。『TATSUJIN EXTREME』の「『TATSUJIN』っぽさ」は私から「入れたい」と打診して入れたものが多いです。それがなければ、まったく別のシューティングになったと思います。
──ちなみに、『TATSUJIN』の、ボムが即発動して敵の攻撃を相殺するという発想は、どのように生まれたのですか。
弓削氏:
そのほうが楽だろうな、と思ったからです。ラグがあると、ボムを落とすあいだに死んじゃったりする。即爆発できる達人ボムだったら生き延びられる、と。緊急回避ボタンの意味合いも当然あるものです。
ショットも空中と地上、上下の撃ち分けが当たり前の時代だったんですね。空中の敵にはこのショット、地上の敵には別のショットでないと当たらないという。この「上下の撃ち分け」をなくしたときも、バイヤーの方を集めて初めて見せたときに、みなさんから「なんでひとつのショットで上下どちらの敵にも当たるの?」と突っ込まれたんですよ。そのときに、「ゲームだからです」と答えて(笑)。生意気な20代でしたね(笑)。
あまり理屈で考えたことはなくて、私のやり方としては「こういうプレイができたらうれしいだろうな」ということを優先しています。
ただ、「ゲームをやるときにどう考えるか」ではなく、日常生活で「こういうことが起きたら、人はこう思うだろうな」ということを基準にしています。

──話を『TATSUJIN EXTREME』に戻しますが、弓削さんが捕まるようになってからはスムーズに進んでいったのでしょうか?
弓削氏:
齋藤とは短い言葉ですぐ意思疎通できるのがすごかったですね。多分、過去のゲームの作り方や、消化する能力が似ている部分があったんだろうな、と。
齋藤氏:
企画での話と、実際にプレイしてみての感触はまた別のものなので、そのときに「こうしたほうがいいんじゃないか?」といった話は何度もありました。その繰り返しでしたね。
──弓削さんが遊んで指摘が入って、ということですね。
弓削氏:
指摘というよりも、自分の好き嫌いを言っただけですよ。どれが「正しい」というのはないので。
齋藤氏:
完成まで、3年近くかかっていると思いますが、こういった泥臭いやり方でした。企画書も何度も書き替えているので、最初の企画アイデアは残っていないかもしれません(笑)。実際、ボツにしたものもたくさんあります。
──『TATSUJIN EXTREME』の見どころをぜひ聞かせてください。
弓削氏:
ひと言で言うと、シューティングをやったことない初めての人から、マニアックな人まで楽しめるように、いろいろなものが用意されています。かなり派手にしていますし、まだ公開していない隠し要素もいろいろあって、それもド派手にしています。
──もう弓削さんの「やり残し」はない?
弓削氏:
いや、やればやるほど新たに出てくるので、困ったもんです(笑)。
サウンドは全部で78曲。過去の楽曲の音源もダウンロードコンテンツとして26曲用意しました。
ステージBGMだけで16曲あるのですが、作るのが本当に楽しかったですね。『TATSUJIN』と『達人王』の楽曲アレンジをすべて行い、それでも足りなかったので新曲として5曲作っています。

──この弓削さんのパワフルさについて、齋藤さんはどう感じられましたか?
齋藤氏:
もうすごいですよ、本当に。『TATSUJIN』アレンジ楽曲の制作を横で見ていましたが、「昔、作曲した時点ではここまでの曲が頭の中にできていた」というのを具現化されたというか。当時はハードウェアのせいで実現できなかったけど、30年経ってできるようになって、それをようやく世に出せる、という作業をやられていたんですね。ですので、「あのときの続きを作りたい」という想いは、収録されている曲に込められていると思っています。
弓削氏:
作成したアレンジ曲をBGMで流しながらクルマを運転していたんですけど、「ん? ここを直したいな」というのがいっぱい出てきて(笑)。
──(笑)。齋藤さんからの見どころや、ここをぜひ体験してほしいというところはいかがですか?
齋藤氏:
『TATSUJIN EXTREME』というタイトルのとおり、『TATSUJIN』というシューティングゲームを蘇らせたい、というのはあります。弓削がどう思っているかは置いておいて、私としてはそういう方向でやりたいと思ったので。
遊び方としては、『TATSUJIN』そのものを触っているような感覚になるゲームにしたかった。「いまの時代だからこういうシステムはいるだろう」とか、「新しいゲームシステムじゃないと受け入れられないだろう」という考えは徹底的に排除して、逆に「昔のゲームを遊んでください」というぐらいの気持ちで作ったんです。
ですので、遊んでくれた人が「懐かしいな」と思ってくれれば、それが成功かもしれません。ただ、昔のゲームそのままではありませんので、新しい部分もありますし、「ここは進化したな」と思ってもらえる部分もあります。
『TATSUJIN』に限らず、私がいままでシューティングを作ってきた中でも「これがいちばん遊んでいて気持ちいいな」というところを出したつもりです。
──シューティングファンからすると、おふたりの組み合わせに「東亜プラン×セイブ開発」、「『TATSUJIN』×『ライデンファイターズ』」の掛け算を期待している部分もあると思うのですが、そこで意識されたことはありますか?
弓削氏:
そういった意識というよりも、「絶対にいい化学反応を起こすな」と確信していたんですよ。
私と齋藤の作り方を見ると、自分と違うところもあるし、共通する部分もある。自分ひとりで作るよりも絶対にプラスアルファになっているし、相乗効果が生まれているんだな、という実感があったんですね。
齋藤氏:
私も同じ感覚があります。もちろん違うところもあるのですが、『雷電』系の作り方と東亜プラン系の作り方の両方を経験させてもらって、根本はだいぶ違うな、という感覚があったんですね。私は『雷電』のオリジナルスタッフではないので、口伝で聞いてきた話にはなってしまうんですけども。
そうなってくると、私は『雷電』系のもとで開発の教えを受けて、自分なりの作り方を『ライデンファイターズ』や『雷電III』を作っていくうえで確立したものだったんですけど、弓削の考え方はまた違うんですよ。言葉にするのは難しいのですが……。
弓削氏:
言葉に置き換えると、私が「これがいい」と思っていることがあるとするじゃないですか。「なんで?」と言われると、答えられないことが多いんですよ。「なぜこれがいいのか」というのは、「自分がいいと思っているから」としか言えない。
おそらく『雷電』を作られた方は、多分「理由」が言えるんです。「こうだからこれは絶対受けますよ」と言える。
たとえば『TATSUJIN』のレーザーなんかは、私が夢で見たやつをそのまま映像化しただけなんです(笑)。「それがなぜ売れるの?」と聞かれても「派手だからいいんじゃない」としか答えられないというか。
齋藤氏:
だから言語化は難しいですね。
──ちなみにTHQ Nordic Japanさんから、ゲームの内容に関しての要望はあったのですか?
弓削氏:
何もありませんでした。こちらの人材が不足していたので、直前でパブリッシングをやっていただくことになった、というのが本当のところです。
──『TATSUJIN EXTREME』を作るにあたって、市場分析も行われたのでしょうか?
齋藤氏:
いまでもシューティングはふだんからプレイしていますので、これといった研究・分析はしていません。「いまっぽいシューティングだとこうなるだろうな」というのは感覚的にはあったんですけど、あえてそこを深掘りはせず。逆に『TATSUJIN』や『達人王』を現代でイチからやってみる、という感じでしたね。
『TATSUJIN』はプレイしましたね。当時の私は秋葉原に住んでいたんですけど、「HEY」というタイトーさんのゲーセンに『TATSUJIN』が入っていたんですよ。「ちょうどいいな」と思って毎日行って遊んでいたんですね。それで、『TATSUJIN』のプレイ感覚は取得できたというか。ユーザーとなって『TATSUJIN』をプレイして、開発に活かす、というサイクルを作ったと思います。

弓削氏:
繰り返し楽しんでもらいたいので、できるだけ奥深くしたかったというのもあります。スコアラーがチャレンジを楽しめるように、ランキング機能も入っています。
齋藤氏:
コンシューマーとアーケードの違いは、最初にお金を出すか、お試しでいくつかプレイできるか、その辺の違いになるかなと思っていて。内容的には、私はそんなに違いはないかなと思っていまして、作るうえでの違いはそこまで意識したことはありません。アーケードだからとか、コンシューマーだから、というのはあまり考えていなかったですね。
弓削氏:
強いて言うと「難易度」ですね。シューティングをやったことない人でも入りやすいようにしています。
齋藤氏:
「間口を広げる」という作り方にはしています。根本として作ろうと思ったのは、「アーケードモード」。本当に昔ながらのシューティングをひとつ作って、そこから派生としていろいろと広げていきました。
弓削氏:
シューティングの原点を知ってほしかったんですね。
「間口を広げる」ということでは、物語をコミック的に見せるようにしています。 コミックを担当されているのは、井上淳哉先生。じつは、東亜プランでデザイナーを務めていらっしゃったんです。その辺も、『TATSUJIN』好きの人には刺さるんじゃないかと思っています。
──根源的な質問となりますが、おふたりにとってシューティングゲームはどういう存在なのでしょうか?
弓削氏:
自分はプレイするよりも、作るのが好きなんですね。シューティングゲームに限らず、ゲームを作るのが好き。曲を作るのとすごく似ているんですよ。
曲ってどういう風に作るかというと、そのときの感情があり、そこにメロディーを乗せていく。だから「人生そのもの」なんですね。
齋藤氏:
深く考えたことはなかったですけど、「身近にあるもの」というか。私も「人生」なのかもしれませんね。こんなに長くシューティングを作っていくことになるとは思っていなかったですから(笑)。そもそも、ただのいちプレイヤーだったわけで。
──シューティングゲームの変遷・流行についてはどう捉えていらっしゃいますか?
弓削氏:
ゲームが作られるときって、「◯◯が流行ったから、そういうのを作りましょう」という考えが多いと思うんです。でも私は、東亜プランのときからそれをしてこなかったんですよね。作ったシューティングがたまたま受けたので、「シューティングの東亜プラン」と言われるようになっちゃったんですけど。
そこから衰退が始まっていったわけですが、まずは「難しすぎる」という点について。これはアーケードだからこそのインカムの問題です。プレイヤーがうまくなって「達人」になっていったので、長時間遊ばれてインカムが稼げなくなった。そこから難度を上げていったら、お客さんが離れていって衰退していく、というところだと思うんですけど。
対戦格闘ブームもそうですが、いろんなゲームが登場して多様化していって、シューティングの居場所がなくなってくる時代がありました。でも、シューティングゲームは「ゲームの原点」だと思うんです。
「モノを撃って壊す」というこの単純な爽快感は、すべてのゲームに繋がっているような気がしています。「そこをもう1回ちゃんと見直そう」と思っていて。みんなが諦めてシューティングを作らなくなっているから、なおさら衰退していってしまう。ですので、もっとほかの会社さんにもシューティングをたくさん作ってほしいなと思います。
齋藤氏:
シューティングって、その時代によっていろいろ変化してきたとは思うんですよね。「この時代だからこのシューティングが受け入れられた」というのは、もちろんあったと思うんです。
その変遷を経て、いまはいろんなシューティングの形がある。まさに多様化の時代だと思うんですよね。そうなってくると、「弾幕じゃないといけない」とか、そういう考えはなくなってきているんじゃないかと……。
ですから、あえて昔のプレイスタイルの『TATSUJIN』も受けるんじゃないか、と。むしろ、やったことはないけど、やってみたいという人もいる。そういったところを作れるのは我々しかいないな、と。
シューティングの変遷というより、結局は「自分が作りたいものを作った」というところに落ち着いてきちゃうのかなとは思いますね。「自分の作りたいもの」というところに帰ってきた。そんな気がしました。
──ちなみに、『TATSUJIN EXTREME』というタイトルは、弓削さんが考えられたのですか?
弓削氏:
そうです。「EXTREME」は「スゴいもの」という究極さですね。でも「究極」だと、『究極タイガー』とかぶっちゃう(笑)。
齋藤氏:
入社したときに、弓削が作った企画書を見せてもらったんです。そこには『TATSUJIN 極』と書いてあったんです。漢字で「極」と。そこから「EXTREME」に変わったんですね。
──なるほど。では最後に、本作を楽しみにされている方へ、おふたりからメッセージをお願いします。
齋藤氏:
いろんなゲームのジャンルがありますが、『TATSUJIN EXTREME』のような昔ながらの縦スクロールのシューティングでしか味わえない楽しさやおもしろさがあると思っています。それをぜひ今作で味わってほしいなと思っています。
弓削氏:
さきほど難度の話をしましたが、お客さんを追い詰めるような作り方は今回は一切していません。シューティングゲームの醍醐味が、肌で感じられるものとなっています。各プラットフォームで体験版が配信中ですので、気に入っていただけたら購入してもらえるとたいへんうれしいです。















