──東亜プランのシューティングとしては1985年の『タイガーヘリ』が最初のタイトルとなりますが『タイガーヘリ』はどのように生まれたのでしょうか?

弓削氏:
クラックス(オルカ倒産後、元スタッフが設立した会社)時代に『ジャイロダイン』というゲームを手がけていて、その感触がよかったというのがみんなの頭の中にあり、「ヘリっぽいのを作ろうか」という流れでした。
当時は、ちょうど3Dが話題になり出していた時期だったんです。「ポリゴン風の背景にしたらどうか」と、高野さん(元ケイブ社長)が言い出して、あのようなデザインになりました。
当時、企画書も何もなかったですし、作りながら形にしていったというか。プログラミングしながら「おもしろそうだからこの要素を入れてみよう」といった具合に、チームで話し合いながら作り上げていきました。市場調査などもまったくしていませんでしたね。
ただ、各々好きなゲームはあったので、「何がおもしろいか?」という部分はしっかりと考えました。もう四六時中、ゲームのことばっかり考えていて。飲みにいってもゲームの話ばかりで。でも、酔っぱらっているときのアイデアって、だいたいつぎの日には忘れちゃうんですよね(笑)。
──(笑)。
弓削氏:
個人的に考えていたのはプレイヤーが感じる「ストレス」、抑圧と解放です。ストレスがないと、解放されたときのうれしさも半減するじゃないですか。だから、ある程度のストレスと、その解放の落差みたいなところを重視しました。そこで「ボンバー」(ボム)【※】が生まれたんですね。
「この人が「ボンバー」の生みの親」という話ではなく、当時のチームリーダーの太田さんも同じような発想を持っていたので、チームの相違として実装したというか。
※ボンバー(ボム)……シューティングゲーム史上、初めてボムを実装したのは1980年の『ディフェンダー』。「スマートボム」を押すと、画面が閃光に包まれ一瞬にしてすべての敵と敵弾が消滅するというものだった。『タイガーヘリ』は縦シューティングで初めてボム(ゲーム中呼称は「ボンバー」)が搭載されたタイトル。ボタンを押すと小規模の爆発が巻き起こり、敵弾をかき消しつつ多くの敵に打撃を与えるというものだった。
──『タイガーヘリ』の手応えがあり、そこから「シューティングを作っていこう」となったのでしょうか?
弓削氏:
『飛翔鮫』の成功があってからですね。『スラップファイト』もそこそこ売れたんですけど、まだシューティング1本に振り切ることはしませんでした。
シューティングに絞っていったのは会社の判断というよりも、自分自身がシューティングゲームを作るのが好きだったというのが大きいです。シューティングは、プレイしている人の反応がすごくわかりやすいんですよ。
ゲームセンターにも頻繁に足を運んでいましたので、『タイガーヘリ』の筐体のレバーが折れているのを見たこともあります(笑)。
──東亜プランは硬派なイメージがあります。ゲーム内容やデザインはもちろん、タイトル名も「究極」や「鮫」といった文字のインパクトもあり……。
弓削氏:
漢字の名前をつけたかったんです。『飛翔鮫』開発時、いまもうちにいる『スラップファイト』からジョインしたスタッフに「タイトルは漢字にするから、いいタイトルを考えてきて」と伝えたら、つぎの日にロゴまで用意してくれて『飛翔鮫』と提出してくれたんですよ。
それで一発OKを出しました(笑)。おかげさまで『飛翔鮫』というタイトル名がかなり話題となったので「これでいこう」と考え、次作には「究極」と入れたと。
──「タイトルに漢字を入れよう」という発想はどのようにして生まれたのですか?
弓削氏:
それまで漢字タイトルのものが市場になかったからですね。あと、ゲームのイメージに合っていたからです。
「究極」とか「達人」という漢字は、その後ほかのゲームでも使われるようになったので、うれしい限りです。
──では、『TATSUJIN』のタイトル名は変化球だったわけですね。
弓削氏:
『飛翔鮫』、『究極タイガー』と2作続けて漢字にしていたので、「じゃあ、つぎはローマ字でいこう」と(笑)。
ただ、ゲーム雑誌に掲載されるときは、『TATSUJIN』って書きづらいんですよね。だから漢字のほうが使われやすいというか。

──東亜プランは『タイガーヘリ』以降、ものすごいペースでシューティングを開発・発売しています。これは「まだやり切っていない」という情熱があり、「つぎはこれを進化させよう」という衝動があったからこそなのでしょうか?
弓削氏:
まさにそのとおりです。というのも、当時の東亜プランはソフトだけではなく、ハードウェアもオリジナルものを自社で作っていたんですね。
新しいタイトルを開発するときに、「あれをやりたい、これもやりたい」とハード担当に伝えると「それを実現するとなると費用がかかりすぎる」とか、「いまの技術では無理」といった反応があり、そこから議論を交わしながらちょっとずつハードウェアが進化していくという時代だったんです。
──ソフトウェアとハードウェアを両輪で作り上げていった時代だったのですね。
弓削氏:
新しいハードを使うときは、まだチップ化されていない状態でしたので、ハードのデバックを行いながらソフトウェアを組んでいったり。
時間的にも圧迫する作業でしたが、それができたのも楽しかったんです。なぜなら、ゲームの仕組みがすべてわかるから。「このハードにこういう命令を出すとこういう見え方をするんだ」というのがわかるわけです。そういった経験が「じゃあ、こういう企画を入れたらおもしろいんじゃないかな」と次作以降につながっていきました。
──当時、ほかのゲームメーカーもハードとソフトの両方を手掛けていたのでしょうか。
弓削氏:
ハードウェアを持っている会社さんは少なかったと思います。
ただ、それでも「思っていることの50パーセントぐらいが実現できればよかった」という時代でした。「本当はもっとこうしたいのに」と思いつつ、制限があるのですべては実現できない。「オブジェクトはこれだけしか出せません」とか。だからこそ、たとえば10個しかオブジェクトが出せない、ハード的には出ていないんだけど「20個出ているように見せるためには」を実現するのはソフトウェアのほうで工夫でどうにかする。そういうことを考えるのも好きでしたし、楽しかったですね。
──制約があるからこそ、どうクリアしていくかが、クリエイター的にはモチベーションになったと。
弓削氏:
そうすることで他社との差別化が出てくるわけです。東亜プランの教育では、「ハードウェアの能力を120パーセント引き出せ、それはソフトの役割だ」とずっと言っていました。
──東亜プランのスタッフ数はどれくらいだったのですか。
弓削氏:
最終的には60人ぐらいです。毎年ふたりずつくらいは入れていたのですが、新卒を入れるようになったのは『TATSUJIN』発売時期ぐらいからです。
東亜プランは、とにかく自由な発想がありましたね。杓子定規ですとシステマチックになってしまい、いいものは発想できない。ですから「とにかく遊ぼう」と言っていました。
スタッフ数が5、6人のころは、朝にタイムカードを押したら「今日はボーリングにしよう」とか「映画がいいな」とか、そういうことを繰り返していましたから(笑)。
ほかのエンタメの楽しさをゲームに取り入れたほうがいいと思っていたので、他社さんのゲームは逆に遊んでいませんでしたね。映画がすばらしかった時代でしたから、たとえば『ブレードランナー』からはいろいろな影響を受けています。
──シューティングは「スコアラー文化」があった時代ですし、ストイックに腕前を競っていた印象があります。
弓削氏:
そうですね。『究極タイガー』では何周もする人が出てきたり。「もう君たちは達人だ」と思って、『TATSUJIN』というタイトルを作ったんです。『TATSUJIN』のタイトル名はプレイヤーさんを指しているんですね。

──インカムとのバランスは、どのように考えていたのでしょうか。
弓削氏:
そこがやっぱりいちばん苦労したところです。長く遊ばれると、インカムも下がるわけで。
でも、ただ難しくすればいいわけではなく、お客さんが不満を感じないものにしなければいけない。
だから、ゲームオーバーになったときにプレイヤー自身が「自分のせいでゲームオーバーになったんだ」と思える「納得感」が必要だったんです。
コンティニューも含めて、いかにまた100円を入れていただけるか。「もう一度プレイしたい、チャレンジしたい」という気持ちにさせるのは本当に難しかったですね。
一応、難易度はディップスイッチで設定できたのですが、変えている店舗はほとんどなかったですね。
国内の場合は、8割がゲームセンターの時代でしたが、アメリカはそれが逆だったんです。ゲーセンは2割もなかったと思います。アメリカでは、バーのカウンターの横に置かれていたり。あとは空港。待ち時間が発生するからアーケードゲームが重宝されたんですね。
──『究極タイガー』は縦スクロールシューティングのスタイルのひとつを確立させたタイトルです。なぜ東亜プランは『究極タイガー』を生み出すことができたのでしょうか?

弓削氏:
『飛翔鮫』発売後、プレイヤーや購入者からの反響や感触で、ミリタリーでリアルなタイプが欧米で受けるとわかったんですよ。当時、売上の3分の2は海外でしたから。市場として、アメリカがいちばんだったんですね。
「次回作もミリタリーを意識して市場に合うものを作りたい」と考えたのですが、『飛翔鮫』と類似した内容だと飽きられてしまう。あと、自分は続編を作るのがイヤだったんです。そこに甘えると新しいものが生まれなくなってしまうので。
まず、自機をヘリコプターにすれば、後ろに移動しても違和感ないですし、いろいろとやれることの幅が増えると考えました。つぎにコンセプトを定めていったのですが、アメリカはもちろん、日本でも夜中にゲームを遊ぶ人がいるからお酒を飲んでのプレイを想定したんですね。そこで「酔っぱらっていても満足できるプレイが可能で、シラフだったらより深い攻略が楽しめる」ものにしようと考えて。
そのために、自機の弾がたくさん出るものにして、弾も派手にしました。ボムで全破壊する爽快感を『飛翔鮫』から引き継いでいたので、開発時に私たちは「バリバリシューティング」と呼んでいたんですね。「バリバリシューティングを作るぞ!」とA4用紙1枚に書いた。それが初めて自分が書いた企画書です。
周りは「『飛翔鮫』っぽく、それでいて違うもの」が、なんとなくできるんだろうと思っていたと思うんですけどね。
──売上的な手応えはどのタイトルからだったのでしょうか?
弓削氏:
『究極タイガー』ですね。ただ、コピー基板(無断複製された海賊版の基板)が3倍〜5倍ぐらい出ちゃったんです。おそらく、5万枚ぐらいはコピーだったと思います。

──当時のアーケードでは、コピーとの戦いがつねにありましたよね。
弓削氏:
そうですね。ただ、意外かもしれませんが、アメリカはコピーが出回らなかったんですよ。でも、ほかの国に出しちゃうと、そこでコピーされて売れなくなってしまう。だから「まずはアメリカから出させてくれ」と販売戦略を練りました。
ハードウェアは2週間もあれば解析されてしまうんですけど、ソフトでの対策はある程度していたんです。コピーさせておいて、プレイして時間が経つと暴走するような仕組みを中に入れておくんです。そうすることで、コピーを買った人は「最後まで遊べないから、もうコピーを買うのをやめよう」となると。
最近、過去に自分が作ったゲームを最新のハードで発売するために元データを使って開発し直す、という展開があるじゃないですか。コピー対策をしていたタイトルを扱う場合は、変にプログラムをいじると、そのコピー対策の仕組みに引っかかってしまうことがあるんです。その解析がすごくたいへんなんですね。
──売上がすごかったときの東亜プラン社内はどんな雰囲気だったのですか。
弓削氏:
インカムテストをやってコインボックスを開ける瞬間は、いつもドキドキしていました(笑)。
売上でいうと『究極タイガー』が群を抜いてよかったですね。『TATSUJIN』も当初は『究極タイガー』レベルまでぐっと伸びたんですよ。海外ではあまりピンと来ていなかったのですが、メガドライブ(北米名:ジェネシス)用ソフトとしてコンシューマーに移植されたときにかなり伸びました。
──『究極タイガー』以降、『TATSUJIN』、『達人王』、『ヴイ・ファイヴ』と続き、『BATSUGUN』で敵弾も増えて、いわゆる弾幕シューティングの基礎を生み出されたと感じているのですが、各タイトルで弓削さんがとくに意識されたのはどういったところだったのでしょうか。

弓削氏:
『TATSUJIN』を作ったあと、ちょっと休憩したかったので『洗脳ゲーム TEKI・PAKI』というパズルゲームを作ったんですね。その後、『鮫!鮫!鮫!』を作ったんですけど、パズルをやろうというきっかけは、迷走し始めたからなんですよ。
「自分が考えることが、自分で気に入らない」と思い始めて、「これは休まないとダメだ」と。パズルゲームのことを考えるようになって、精神状態が安定していったんですね。
『達人王』では、私はサウンドだけに携わっています。唯一メンバーにクレームを出したのはサウンドだったんです。
それまでは別の独立したチップで動かしていたので、メインのチップが処理落ちしても、サウンドは同じ速度で出ていたんです。でも、それがコスト削減のために、メインのチップにされてしまって……。そうなると、処理が落ちるとサウンドのシーケンスも遅くなるわけです。「このままだとサウンドがめちゃくちゃ気持ち悪くなるから、絶対に処理落ちはさせないでくれ」と、ずっと文句を言っていました(笑)。
だから私が東亜プランのシューティングで最後に手がけたのは『鮫!鮫!鮫!』です。その後は、『フーピー!!』とか『えんま大王』とか、変なものばかり作っていました(笑)。

──それぞれのディレクターがシューティングを引き継いで作っていたのですね。
弓削氏:
開発に関して、口出しすることはしなかったですね。
──弓削さんは『BATSUGUN』までのシューティングタイトルを、どうご覧になっていたんですか。

弓削氏:
『TATSUJIN』は、「その名前を使う限りは変なモノを作らないでね」と言っていました。『ヴイ・ファイヴ』は新人のメンバーが作っていたので、開発のやり方を教えたくらいです。『BATSUGUN』に至った経緯は、ちょうどそのころにGPUが登場して処理能力が向上したことで、さまざまな表現ができるようになり、オブジェクトの数もたくさん出せるようになったんですね。それを活用して「弾幕」が生まれた、と自分は思っています。私は開発に関わっていないので、「いい発明をしてくれたな」と感じています。
──当時、弓削さんは「東亜プランらしさ」をどう定義されていたのでしょうか?
弓削氏:
とくにはありませんでした。ただ、お客さんからすると「これ東亜プランのゲームだよね」というのはあったと思います。画面の発色やデザインとかでそう感じていただいていたのかなと。
『TATSUJIN』のデザインをしたスタッフがいたのですが、開発の中で師匠みたいになっているところもあって、似たような作り方をしていく、というのもありましたからね。
音楽もぜんぜん意識していなかったんですけど、「東亜節」と毎回言われるようになって(笑)。「上村くんのことを言っているのかな、俺のことを言っているのかな、どっち?」と思っていました。
──弓削さんからすると、上村さんサウンドと弓削さんサウンドは違うわけですよね。
弓削氏:
違います。
──そこを言語化したいのですが、弓削さん的にはどう分析されているのですか?
弓削氏:
昔のインタビューか、CDのライナーノーツか忘れてしまったんですけど、そこで解説したことがあるんです。自分は演奏するところでいうと「ピアノ」がベースになっているんです。一方、上村さんは「エレキギター」。だから、ギターで作った曲は「上村東亜節」だし、ピアノで作ったものは「弓削東亜節」。そう落ち着いたというか(笑)。
──齋藤さんは東亜プランのシューティングをどう見ていらっしゃいましたか?
齋藤氏:
当時の認識として、「シューティングといえば東亜プラン」というぐらいにはなっていたと思うんですよね。だからもう、シューティングの最先端を何作も駆け抜けていった、と感じていました。
セイブ開発に入社したあとも東亜プランタイトルはプレイしていて、いちばん好きなのは 『TATSUJIN』です。『TATSUJIN』を好きになるきっかけがありまして。ゲームセンターでアルバイトを始めた初日に、閉店作業後に「好きなゲームをプレイしていいよ」と言われたんですね。そこに発売したばかりの『TATSUJIN』があったんです。だから、ゲーセンで初めて「タダゲー」したゲームが『TATSUJIN』なんです(笑)。
当時は連射装置もなかったので、擦ってプレイをして。照明を落とした閉店後の真っ暗な状態の中、ゲームの明かりだけが付いている。『TATSUJIN』をプレイしたら、青レーザーの光がめちゃくちゃ眩しくて、自分の顔がもう真っ青になっているのがわかる(笑)。その風景も相まって「すごく派手な色のシューティングだな」と印象に残ってますね。



