世の中には、ふつうの人には見えない何かが「視える人」がいるという。
そうした「視える人」の目に映る世界を、さまざまな写真を通して疑似体験してみようという展覧会、「視える人には見える展」が、8月28日から西武渋谷店にて開催されている。
展覧会の名前を聞くと、「つまりは心霊写真展!?」と思う人も多いと思うので、最初に言っておこう。少なくとも筆者にとって、本展は全然「ホラー展覧会」ではなかった。いわゆる「おどろおどろしいホラー展示」を想像していくと、良い意味で裏切られるかもしれない。
たとえば帰りの夜道で、街灯の下でふいに誰かの気配を感じてしまうとか、誰もいないはずの和室のふすまが妙に気になってしまうとか──そういった嫌な怖さがあとあとまで尾を引いてしまうような、そういう展示ではなかった。
むしろ筆者が感じたのはノスタルジーと少しの不思議さで、だから「怖いのはちょっと苦手……」という人でもじっくり楽しめるだろうと思う。
その上で、本展覧会は一枚の写真の中にどんな物語を見出すか?という展示だったのではないかと思う。
話は変わるのだが、本展覧会の会場となる西武渋谷店は、2026年9月30日に閉店する。
昭和43年、1968年にオープンしたこの老舗百貨店には、58年の歴史が積み重なっている。NHKの「放送100 大年表」によれば、その年は日本の国民総生産が西ドイツを抜いて世界第2位になった年であり、かの3億円事件が起きた年でもあるという。
「視える人には見える展」の入り口には、この西武渋谷店の中で撮られたとおぼしき写真が展示してある。
展示にはそれぞれキャプションと、小さなマルがついた透明なシートが用意されており、シートを写真に透かしあててみることで、そこに「居る」という何か──あるいは誰かを見ることができる。
どれも「心霊写真」という雰囲気ではないし、イラストの柔らかさもあって、ホラーっぽさもまったくない。
でも、「ここにいますよ」と言われると、人間そんな気もしてしまう。
じっと目を凝らす。特に何も見えない(少なくとも筆者には)。とはいえ仮に何か居たとしても、とくに怖そうな気配もない。視えないが、見た気にもなる。
西武渋谷店には58年の歴史がある。多くの人が来店したのだろうし、こういう人がいたとしても不思議はない。
あらゆる場所には歴史があり、過去があり、そこで暮らしていた人がいる。もしかすると、そうした人の──場所が持つ記憶の残滓のようなものを、感じ取れるかもしれない。
本展は、そうした“居るかもしれない”何かを見る展示会だ。
筆者/恵那
※この記事は「視える人には見える展」の魅力をもっと知ってもらいたいTwoGateさんと電ファミ編集部のタイアップ企画です。
注:筆者はぜんぜんまったくなんにも“視えて”ません
みなさんは、自分を「視える」タイプだと思っているだろうか?
実のところ、筆者はこれまで一度も霊感というものを感じたことがない「超・非体験派」だ。ホラー映画は大好きだが、怪奇現象はフィクションとして楽しめればそれでいい。つまりは「視えない」側の人間である。
冒頭でも「これはホラー展覧会ではない」と書いたが、それはあくまで筆者から見て(あるいは“視えず”)のことなので、本展覧会に参加して霊障に悩まされるようになった、夜にラップ音がひどい、どうも誰かに見られている気がする、なんだか最近眠りが浅い、便秘、脱肛、切れ痔その他諸々なにかしらのトラブルが発生したとしても、当方一切責任無用にてご容赦願いたい。
そんなわけで、以下から会場のレポートである。
本展覧会はいくつかのエリアに分かれており、さまざまな写真が展示されている。
日本をはじめ、中国の上海やタイのバンコク、アユタヤ、アメリカのラスベガスやセドナなど、世界各地で撮られた写真には、「視える人」にはそれがどのように見えているのか、解説がついている。
たとえば、以下は最初の「渋谷」エリアの写真。
並んでいるのは、街角の風景であったり、何かの建物や高架下であったり、一見するとごく普通の写真ばかり。
というか、筆者にとっては2回見ても3回見てもごく普通の写真である。怪しげな寒気も、おどろおどろしい波動もとくに感じられない。
その写真の中には、「視える人」がとらえたという誰かの姿が黄色い線で描かれている。
描かれているのは、みるからに平成初期なナウい(死語)青年であったり、気怠げに紫煙をくゆらせるお姉さんであったり、疲れた感じのおじさんであったり、その大半はごく普通の人たちである。
解説には「こういう人が視えました」といった説明が書かれているが、詳しい来歴までは分からない。ただなんとなく、「いまの時代の人ではないよね」という雰囲気はイラストからも伝わってくる。

またこのイラストが、絶妙にユルい。おどろおどろしさみたいなものが全然ない。
こう言ってよければ、世の中のホラー映画やゲーム、小説というものは、すべて作り物である。それらは、見る人、読む人を怖がらせるために作られているものだ。
が、本展覧会はあくまで「視える人」の景色をそのままお出しするというのが主旨。
怖がらせるための演出というよりは、そこにいた人の生活感がそのまま切り取られており、どこかクスッと笑えてしまうような親しみやすさもある。要するに、怖がらせようとする作為がないのだ。
むしろ筆者が感じたのは、「こういう人って、たしかにこの場所に居たかもしれないよね」という、その場所の記憶のようなものだ。

「ハチ公前って、たしかにこういう人いそう」「ひと昔前にこんな格好って流行ってたよな」「まあこの場所にいるとすれば、こんな人だよな」
別になにか怪しげな波動や電波を受け取っているわけではないけれど、ひとたび「そこに居ます」と存在を示されると、なんだか確かに「居てもおかしくないかも」という感覚が湧く。頭の中で、そうした人々が何をしていたのか、何を考えていたのか、前後の物語が勝手に立ち上がってくる。
けれどこうしたことって、多くの人が普段から想像していることなのではないだろうか?
筆者は歴史が好きなので、旅行に出るとしばしば古い城址なんかに立ち寄ることがある。
そうすると「たぶんかつてはこの辺に歩哨が立っていて……」とか、「この銃眼からはこうやって敵を見下ろした兵士が居たんだろうな」とか、あるいは天守閣の近くからあたりの景色を見下ろしてみて、当時の人がどんなものを見ていたのかを想像してみる。
いまの風景に、もう存在しない人間を配置してみる。今回の展示でも、たとえばアユタヤの遺跡であったり、上海の古い建物などに、そうした人影を「視た」という写真もたくさんあった。
風景の中に「かつていたであろう誰か」を置いてみる行為自体は、だからそれほど特殊なことではないのだろうと思う。
少なくとも筆者にとって、ほんとうにその「何か」がそこに居る──あるいは“居た”──かどうかは、あまり気にならなかった。この展示でやっているのは、そうした想像を「視える人」という他者の目を借りて行うことなのかもしれない。
とはいっても、実を言えば全部が全部そういう「安心安全な写真」ばかりというわけではないのだが……。
ラスベガスで“視える”もの、なんか強そう
さきほども紹介したとおり、本展覧会には日本だけではなくタイやアメリカで撮影された写真も多い。個人的におもしろかったのが、国によって“視えるもの”の雰囲気がけっこう違うことだった。
たとえば日本の渋谷では、先ほどのようなナウさ(?)を感じる人たちの写真が多かったが、タイでは自然や土地そのものと結びついた精霊のような存在や、あるいはそのまんま仏さまみたいなものが、「視えたもの」として展示されていた。
一方のアメリカ・ラスベガス。カジノのスロットを回している年配のおばちゃんらしき存在がいるというのだが、これがなんというか、妙に線が太い気がする。やたらギラついている。強そう。
金・暴力・SEX。人間の三大欲求(?)すべてを心ゆくまで満たしてくれるという欲望の街では、こうした存在さえエネルギッシュになるものであろうか。
実際にこうした「何か」が国によって違うのか、それとも「視える人」がそれぞれの土地の文化や歴史を通してそう認識しているのかはわからないけれど、土地が変わると説明される存在のあり方まで変わってくるのは興味深い。
今回の展示では「視える人」として霊視芸人ことシークエンスはやとも氏と、霊能力者の家系生まれであるというMiyoshi(みよし)氏が監修を務めているのだが、そのシークエンスはやとも氏自身が展覧会に寄せたコメントの中で、国によって宗教や「あの世」の考え方が異なり、「アメリカまで行けば主張の強さが激増したりします笑」と語っていたりもする。
繰り返すようだが筆者はまったく「視えてない」側で、視えてるというものをこれっぽっちも信じていないので、あまり「視えている」というものに肩入れしすぎるのは誠実ではないようにも思うのだが、そうした「何か」を感じられればおもしろいだろうなとも思う。
今回の展示の中には、そうした「視えている」感覚を体験できるものもあり、それがこちらのメガネ。
スクリーンに映し出された映像をこのメガネを通して見ることで、展示写真と同じような黄色い線で描かれた「何か」が、するっとまるっとお見通しになるという、ひと昔前の3Dメガネのようなしろもの。
がんばってカメラとメガネを組み合わせながら写真も撮ってみたのだが、おわかりいただけただろうか──?


「視る」ことでその世界の一部になるという体験
繰り返しになるが、筆者がこの展示会を回ってみて気になったのは、「幽霊ってホントにいるの?」みたいなことではない。
写真を見せられる。
「ここに居ます」と言われる。
視えるかもしれんと思いながら、イラストのあたりをじっと目を凝らしてみる(特に何も視えない)。
特に何も視えてはいないのだけれど、さっきまで何も居なかった場所に「何か」を見ている。
それがほんまもんのユーレイなのか、人間のイマジネーションから生まれた虚像であるのかは、さして関係がない。
どちらにしても一度「見た」ものは、その後の写真から完全には消えてくれない。
20世紀フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティは、見る者と見られるモノが完全に切り離された存在だとは考えなかった。見ることは、同時に見られることでもある。見る者は、自分が見ている世界の外側にいるのではなく、見るという行為を通じて「見える世界」の一部でもあるのだ。
こう書くといかにも大げさすぎるような気もするのだけれど、今回の展示はそうした感覚を思い出させてくれるものだった。本当に居るのかどうかを問うことには、さして意味がない。
写真の中に「何か」を見つけてしまった瞬間、我々は一方的に写真を眺めているだけの存在ではなくなる。「ここに何か(誰か)が居た」という物語を受け入れ、その写真の世界にほんの少しだけ参加してしまう。
その意味で、この展示は風景の中に物語を──あるいはその場所に残された歴史の残滓を見出すことで、自分がその写真に切り取られた世界を味わう展示といえるかもしれない。人間はいかにして風景の中に物語を見出してしまうのか。
展覧会の会場を出た後に歩く西武百貨店の中の風景にも、58年の歴史が積み重なっているのだと考えると、その感じ方も少し変わっているかもしれない。
そんなわけで、筆者はこの「視える人には見える展」はホラー展覧会ではないと思う。
とはいえ、何度も語ってきたように筆者は霊感ゼロ人間なので、本展覧会場でなにかが「視えて」しまったとしても、なんの責任も負えませんのであしからず。
会場出口では親切にお清めの塩も配布されているので、ぜひ記念に持って帰りましょう。
ちなみに展覧会の出口には、ちょっとしたミニゲームとして「視える人」診断機がある。
せっかくなので一応やってみたけど、まるでダメでした。視えた人がいたらぜひツイッターで自慢してください。
「視える人には見える展」は、2026年8月28日から9月30日まで、西武渋谷店B館3階イベントスペースにて開催中。開催時間は10時から20時までで、最終入場は19時。一般料金は平日1900円、土日祝2300円、小学生以下は無料となっている。






























