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それはまるで、夢のなかで遊ぶ『マインクラフト』——奇妙と謎で満ちたゲーム『lucid blocks』を、夢中になってプレイした。なにもわからない世界を、幼子が蝶を追うように遊ぶ。それがどうしようもなく楽しい

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『lucid blocks』について書くことは、けさ見た夢について正確に書くこととおなじくらい、むずかしい。

どんな夢だったのかは覚えている、『マインクラフト』をプレイしていたのだ。

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しかし、その夢のなかの『マインクラフト』の、ふつうでない感じ、――地平線にあと少しのところで濃くなって見えなくなる霧、ふだんよりもさらに低い解像度、ふだんとは異なるが、しかしある種の法則性をもっているバイオーム――などなどは、語るそばから、克明さ、 lucidity が薄れていく。
 
とはいえ活写しておくべきだ。基本的なゲームシステムは、『マインクラフト』とほぼおなじである。一立方メートル――本歌ではそうだ――のブロックが、土や木や石を表象していて、プレイヤーはそれらをパンチして持ち運びできる状態に変換し、再配置したり合成したりして、アイテムをつくる。

それ以上のことはない。
にもかかわらず、歩いているだけで、まず、楽しい。
幼い頃、はじめて母の手を離れ、蝶々を追いかけていった野原のように、楽しい。

文/藤田祥平
編集/うきゅう


ワールド…ではなく「クオリア」に降り立ち、クラフト…ではなく「神格化」でアイテムを生成。説明はなく、意味もわからない世界を歩くのが、どうしようもなく楽しい

その遊び場は、本歌では「ワールド」とよばれる。「ワールド」は山河だ。これは「シード」――種――とよばれる固有値を、システムが参照してつくる。だからプロシージャルである。探索や冒険のためのダンジョンの場所も、この値から自動的に計算される。

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創出された「ワールド」から「シード」の値をつきとめることは難しいが、「シード」がおなじ場合には、確実におなじ世界が創出される。支点がふたつある振り子の、抵抗ゼロのカオスに近い。

これくらいの高さに振り子をつまみ上げて落とせば、時間値の増加に従って動きを計測できるが、振られた振り子のヴェロシティが不明な一点から第一原因に遡及することは、理論上は可能だが、現実的には不可能である。
 
『lucid blocks』のばあい、「シード」はあるが、「ワールド」にあたるものは「クオリア」とよばれる。この単語はじつにややこしいが、ひとことで言えば、赤いリンゴではなく、リンゴの赤さをあらわす。

リンゴに反射した光は800nmくらいの周波数をもつ。しかし、ふたつの魂が800nmの光をみたとき「おなじ赤さ」を感じているのか、という議論のとき、使われる言葉だ。

あなたとわたしの見ているリンゴの赤さが、おなじかどうか。科学的には確認不可能だが、赤いリンゴに唇を寄せる気持ちなど、常人なら誰でも知っている。われわれはいつも挨拶する、「きょうはほんとうにいいお天気ですね」。

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「クオリア」はラテン語で「質」を意味する「Qualis」に由来する。英語の「クオリティ」なんかの語幹だ。だから「質」をしらべれば、「クオリア」もわかる。

「質」は、何かにくっつかなければ、見えにくい。「品質」「性質」「物質」「形質」「気質」などいえば、よくわかる。「質が良い」とか「質が悪い」などともいう。「質がない」とは言わない。あり得ないからだ。

つまり「質」とは、あるものが、それそのものであるために欠かせないものである。クオリアなくして世界はないと、認知科学者たちが口をそろえて言うのも、うなずける。

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『lucid blocks』は、その「クオリア」で遊ぶ『マインクラフト』である。「ワールド」で遊ぶのとちがって、ある純粋な心的操作とでもよべるものが許されているが、とはいえ法則が存在しないわけではない。

棒と糸と鈎を組み合わせればグラップリング・フックができるし、剣に硫黄をまぜれば剣が火を噴く。正方形の土のかわりに段ボール箱が整然と並ぶ。それを掘るといろんながらくたが出てくる。あるいは深海の底に「希望」の正方形が敷き詰められている。

だから組み合わせられた正方形の角に十字架があらわれるのは、神秘ではなく幾何による。

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この作品のクラフティング・システムは Apotheothis と名付けられている。「神格化・理想化」の意である。アイテムとして存在しうるものなら何でも混ぜあわせることができるが、おなじものを混ぜることはできない。

法則は、完全には理解できないが、法則が存在することはわかる。白いプラスチックに土ブロックをまぜると土色のプラスチックになる。石ブロックをまぜると灰色になる。「希望」ブロックをまぜるとニコちゃんマークのついた積み木になる。

それを手にして、どこに積もうかと見上げれば、ひとつあたり一立方メートルの積み木が、とても遠くまで整然と無数に並ぶ。それらはイデア界から直接降りてきたように思われる。

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海の底には空があり、その空の底にはさらに海がある。「バベルの図書館」のように無限につづく部屋の連続もあったし、しいんと静まりかえった格子の希望もあった。

まだ試してみたことはないが、空にむかっていけば、空は透明なプラスチックで出来ているらしい。そしてその上には空があり、その上にはまた海があり、土があり、バイオームがあるらしい。

わからないことはただひとつ、なぜそうなっているのかだが、これはゲームクリアまで措(お)くとして、どうなっているかを調べることは、ほんとうに、とても楽しい。まったく夢中になる。

不思議な世界では、出くわす存在も謎だらけ。『マイクラ』でおなじみの、足元にブロックを積み上げて空へ昇るアレをし続ける“何か”……本当になに?わからない、でも少し、わかる気もする

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モンスターも、わかるような、わからないような感じである。胎児のみている夢のかたまりのようなのもいれば、半透明の幾何学模様がいたり、銀色にきらめく虹の蜘蛛がいたり、1ドル・ショップで売っている適当な人形みたいなのがいたりする。それぞれ敵対的だったり友好的だったりする。

筆者がはじめて出遭ったのは、『マインクラフト』でおなじみの、下を向いてジャンプしながら自分の足元にブロックを置くことで、どこまでも高く上っていくあの遊びをしている「何か」だったが、それが「何故」そこにいて、そんなことをしているのかは、もちろんわからない。言葉がないのもあるが、あったとしてもわからないだろう。

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だが、まったくわからないわけでもない。すこし、わかるのだ。

というのも、もしも「そういう条件」、つまりそこが正方形のブロックでできた世界であり、そのような「質」をもっているのなら、誰だってそういう遊びをするに違いないのだ。一歳児でさえ、高い段差を把握して、そこから落ちない。

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そのように「すこしわかる」ところを、この作家は狙い撃ちしている。もしも『マインクラフト』の世界がもうすこし幾何学的で、霧がかっていたら、どんな魂もこうしたにちがいないという、叙情的な懐かしさが、ゲームプレイに一本の芯を通している。

それは幼子のころの積み木遊びの記憶が無自覚に思い出されているのだと理屈をつけるのは、正しすぎるから詰まらない。前世の記憶だ、いや中有にいたころだと語るのも、正しすぎるから詰まらない。

問題は、なぜそれがあるのかだ。そして、それがあること自体が祝福ではないか、という、作家とプレイヤーの夢中の思いきりだ。

あらゆるものに夢中で触れ、遊んでいるときほど、三昧境であることはない。

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『ゆめにっき』はスーパーファミコンが、『LSD』は初代プレイステーションが眠っているとき見た夢だ――という表現が、正確である度合いだけ、『lucid blocks』はインディーゲームが眠っているとき見た夢だ。

しかし、そう表現してしまったとたんに、あんなに興味深かった夢が、語るそばから抜け殻になっていく。内田百閒の掌編や、夏目漱石の「夢十夜」を読んで、「これは夢の話だ」と理屈をつけることほど、正しくて詰まらないことはない。夢は実際に見るに限る。

そして恐るべきことに、『lucid blocks』という夢はいちおう物質化して、steamのダウンロードページから、ワン・クリックで手に入れることができる。そういう地平に現前している。それは作家の天才だが、天才など、どうでも良いことだ。

問題は、そうした地平が顕現する理由それじたいだ。
それはあのデカルトにさえわからなかったことだ。

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ボルヘスが書いている。われわれはスフィンクスを夢に見て恐ろしいと思うのではない。恐ろしいという気分がまず先にあり、それがスフィンクスという象徴として夢に現れる。

これは一見して納得がいく説明である。だが、それでは、そもそもどうして恐ろしいという気分があったのか、恐ろしいとはどういうことか、と問うてしまえば、先行する要件を順序通り定義していくことになる。

おだやかな河の流れの時空間に言葉の棹をさし、どんどんさかのぼり、神あるいはビッグバンに到達する。それが西洋理性による世界解釈の限界だ。

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『lucid blocks』にキリスト教的モチーフが頻出するのは——というより、すべての立方体の交差するところに十字架が現れるのは——作家がなにかを表現しようとし、主や使徒をみて感じた気分が夢に現れたからだ、というのは、わかりやすすぎて詰まらない。では、なんなのか。

ある決定的な気分のほうが先にあって、それが『lucid blocks』というゲームとしてあらわれたのだと、ボルヘスなら言うだろう。そこから、われわれが考えなければならないのは、その気分そのものとは、何であるかだ。

それは昔日に『マインクラフト』を夜遅くまでプレイしていた作家の思い出か。それとも四角張った学校などの公共施設にひとり取り残された幼年期の、ルミナリスティックな原体験か。しかしそうしたやり方ではだめだろう、原因を求めるやり方では、またしても第一原因に遡及せざるを得なくなる。

しかし、たんなる人の子であるわれわれに、ほかにどんなやり方があるというのか。「太始に言葉あり」なら、その形質を組み替えていくうちに神に到達できると信ずるのが信仰心だ。

愚直にならねばならない。われわれの生活の実感から第一原因までの距離は、無限とおなじだけ遠く、また近い。確言できるのは、一立方メートルの正方形が無限数含まれる空間の、端から端の無限の距離だけは、永劫不変であるというアプリオリな直覚のみだ。

ライター
1991年大阪府生まれ、文筆家。 Website : https://github.com/rollstone1/fujitashohei/wiki
Twitter:@rollstone
編集者
小説の虜だった子供がソードワールドの洗礼を受けて以来、TRPGを遊び続けて20年。途中FEZとLoLで対人要素の光と闇を学び、steamの格安タイトルからジャンルの多様性を味わいつつ、ゲームの奥深さを日々勉強中。最近はオープンワールドの面白さに目覚めつつある。
Twitter:@reUQest

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