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「ゼビウス」がなければ「ポケモン」は生まれなかった!?———遠藤雅伸、田尻智、杉森建がその魅力を鼎談。ゲームの歴史を紐解く連載シリーズ「ゲームの企画書」第一回

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 「ファミリーコンピュータ」が発売されてから30年以上、『スペースインベーダー』から数えると、いわゆるコンピュータゲーム市場なるものが産業として産声を上げてから、実に35年以上の月日が経過している。

 一時期は、文字通り世界を席巻した日本のゲーム産業。しかし、スマートフォンの台頭や、あらゆる分野がグローバル化の波に飲み込まれるなかで、「日本のゲーム」も、徐々にその影響力を低下させつつあるのは、今さら指摘するまでもない。
 大規模化、高度化するゲーム開発環境に、次々と台頭する新興ゲームメーカー。そんな中にあって、日本のゲーム産業の進むべき道、取るべきポジションはどのようなものになっていくのだろうか。

 この連載「ゲームの企画書」は、ゲーム史に名を残した名作ゲームのクリエイターの方々に、製作時のエピソードをお聞きして、まとめていく連載企画である。
 名作と呼ばれるゲームがどのように作られ、またそこにはどういった創意工夫があったのか。そして、その名作が、後の作品群にどのような影響を与えていったのか。
 クリエイターの目線や考え方を通しながら,ヒットする企画(ゲーム)とは何か? 時代を超えて共通する普遍性とは何かを探っていければと思い、本連載を企画してみた次第である。
 今、そうした日本のゲームのコンテクスト(文脈)を見つめ直し、整理していくことは、これからの日本のゲーム産業の行方を示す道標になるに違いない。
 
 その第一回目となる今回は、1983年に稼働を開始したシューティングゲームの名作『ゼビウス』を取りあげる。
 この『ゼビウス』というゲームがある世代の日本人に引き起こす感慨は、少し下の世代にはわかりづらいかもしれない。かつてゲームセンターが若者のたまり場になっていた時代、日本中の各地のゲームセンターに、さながら現在のSNSやネット掲示板のような、常連を中心としたコミュニティが生まれていたのである。
 ──そこに彗星のごとく登場したのが、『ゼビウス』だった。メタリックで無機質な質感の画面、まるで意思を持ったかのように動く敵、そして何度プレイしても飽きないゲームデザイン。当時のゲームの水準からは”異質”ともいえるクオリティの内容に、ゲーマーたちは熱狂した。

(C)BANDAI NAMCO Entertainment Inc.
(C)BANDAI NAMCO Entertainment Inc.

 この『ゼビウス』には、もう一つの伝説がある。熱くなった日本中のゲーマーたちが、やがて『ゼビウス』について様々な裏技や真偽不明のうわさ話の交換を始めてしまったのだ。中でも物議をかもしたのが、特定の条件で「ゼビウス星」なるものに行けるという噂である。
 実は、これはデマだった。そのため、この噂を検証しようと取材していた青年が、むしろデマを広めるのに貢献していると、開発者の遠藤雅伸氏から激昂されてしまったのである。当時のことを、彼はこう書き残している。

そして、僕は宣教師から一挙に詐欺師になった。(中略)僕は、非難され、石を投げられた。
ゲームセンターに足を運ぶと、今まで仲間だったはずのやつでさえ、うしろ指を差した。

『パックランドでつかまえて』(JICC出版局・1990)

 ところが、そんなある日、意気消沈してひとりゲームセンターで遊ぶ彼のもとに、開発者である遠藤雅伸氏が訪ねてきた。そして、遠藤氏は「君は謝らなくてもいい」と青年に語りかけ、そのゲームセンターに集っていた若者たちを呼び寄せたのである。

「僕は、ゼビウスの父だ」
仲間は全員、ええっといって驚いた。こんなところで会えるなんて信じられない、といった表情だ。
「サインをください」
仲間のひとりが言った。彼は、少し困った顔をして、
「まあ、ちょっと待って。どうだ君たち。彼をそろそろ許してやらないか。ずっと仲間だったんだろう」
と、僕を指さして言った。

 その後、遠藤氏とともにゲームセンターに集った仲間たちは互いの手を握り合い、仲直りをした。そして、この『ゼビウス』の開発者自らによる粋なはからいによって、その青年はゲーマーのコミュニティから赦しを得たという。
 しかし、この話にはまだ続きがある。実は、この文章を書いた田尻智という青年は、後にゲームを製作する側に回ったのだ。そうして彼が仲間たちと開発したゲームこそが、あの『ポケットモンスター』なのである。
 今回は、そんな株式会社ゲームフリークの田尻智氏杉森建氏を迎えて、制作者の遠藤雅伸氏と当時『ゼビウス』が巻き起こした熱狂や「ゼビウス星」の真相について語り合っていただいた。

聞き手/稲葉ほたて斉藤大地TAITAI
文/稲葉ほたて
カメラマン/佐々木秀二


「ゼビウス」がなければ「ポケモン」は生まれなかった!?———遠藤雅伸、田尻智、杉森建がその魅力を鼎談。ゲームの歴史を紐解く連載シリーズ「ゲームの企画書」第一回_001

ゲーセンがたまり場だった”あの頃”

──遠藤さんは、田尻さんと杉森さんにお会いしたのは何年ぶりですか?

遠藤氏:
 田尻くんは、CEDECに出てくれたときですよね。杉森くんはもっと前だな……確かそのとき、ちょうどアニメが始まって、あのピカチュウを見て「あんなのピカチュウじゃねえや」と言って、こう、もっと目がキリっとしたワルい雰囲気のピカチュウを描いてもらったんですよ。

杉森氏:
 ……え、そんなこと、ありましたっけ?

一同:
 (笑)

遠藤氏:
 あった、あった。「絶対に、ゲームのピカチュウのほうがカッコいいよ!」と言って、描いてもらったんですよ(笑)。僕は主人公キャラが好きな人間なんで、ピカチュウには思い入れがあったんですよ。

杉森氏:
 ありがとうございます(笑)。

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──田尻さんと遠藤さんがお会いしたのは、ゲームセンターだったという話をお聞きしました。

遠藤氏:
 新宿のゲーセンだよねえ。確か、「ゲームフリーク」の創刊号(※)が『ゼビウス』の特集を組んだ時点で、すでに知ってたと思いますよ。当時は、まだ風営法が改正される前で、ゲームセンターが24時間いつも開いてたから、夜に新宿なんかに行くと、本当に色んな人がいたんです。その中に、田尻くんがいたんですね。
 あの頃、僕は土曜日になると新宿の街を歩きまわって、見知ったゲーマーを見つけては、「どうなの? 何か新しいゲーム出た?」とか聞いて、「あそこの店に新作が入って、ちょうど今、アイツが攻略してますね」みたいなやり取りをしてたんです。まあ、今でいうところの、DJカルチャーみたいなものですよ。”パーティーピーポー”みたいな(笑)。

※ゲームフリーク
元々は田尻氏が立ち上げたゲーム攻略の同人誌。その同人誌を発行していたサークルが、のちの「株式会社ゲームフリーク」となり、世界的なヒット作となった『ポケットモンスター』を生み出していく

──あの……イマイチ当時のことがわからないのですが、そんなにプレイヤーとの距離が近いものだったんですか。向こうは遠藤さんと認識しているわけですよね?

遠藤氏:
 そりゃ、彼らも僕を知ってたけど、”遠藤雅伸”は別にエラい人でもなんでもなかったもん。
 僕も若かったし、特に”上から目線”な態度でもなかったよね。そもそも就職前の大学時代から都内のゲーセンには通っていて、その頃からの顔見知り連中だったんです。

田尻氏:
 あの頃は、「都内のどのゲームセンターに行けば、新しい試作品が遊べるか」みたいな情報がゲーマー同士で共有されていたんですよ。千代田区のゲームセンターなんて、セガの新作ゲームが置かれていることで有名で、よく足を運んだものです。

遠藤氏:
 セガのスポーツランドがあったんだよね。新宿だと「キャロット」とか「タイトーステーション」とかね。他にも、ATARIのゲームがなぜか置いてあるゲーセンがあったりしてね。みんなでそういう場所をグルグル回りながら、「あのゲームはあそこに入ったらしいよ」なんて言い合いながら遊ぶんです。 

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──そういう情報は、口コミで拡散するんですか?

杉森氏:
 よく若い人に、「メールも携帯ないのにどうやって広まるんですか?」と聞かれるんですが、まあ基本的には固定電話とか手紙ですよね(笑)。

一同:
 (笑)

田尻氏:
 そうそう。今だったら、ネットで出来ちゃうんだよね(笑)。

──やっぱり杉森さんと田尻さんも、そういうやりとりをされたんですか?

杉森氏:
 高校生の頃に、新宿の同人誌専門店で「ゲームフリーク」を見つけたんです。そこにゼビウスの攻略法が載っていたのですが、その中に「隠しキャラクター」の情報が書かれていたんですよ。もう当時の僕は驚いてしまって……(笑)。いま思えば、「その程度のことも知らなかったのか」という話なのですが、当時はもう「この人はゼビウスのことをもの凄く知ってるはずだ!」と思ったんですね。それで、さっそく「ゲームフリーク」に手紙を送ったんですよ。

遠藤氏:
 おっかない手紙ですねえ(笑)。

 まあ、でもあの同人誌は目立ってましたよ。だって、ミュージシャンの細野晴臣さんや宗教学者の中沢新一先生(※)も買ってたんだよ。中沢先生は当時、文化人類学の見地からゲームの新しさを擁護してくれたんです。あれは、本当にゲーム業界にとってありがたかった。

※中沢新一
日本の思想家。当時、自身のチベットでの修行体験などを元にした言説が、当時80年代のポストモダンブームの中で脚光を浴びていた。早い時期からテレビゲームに注目した評論家でもあり、『ポケモン』を論じた著作『ポケットの中の野生』などの文章がある。

ゲームライター時代の田尻智氏が書いた文章を収めた著作『パックランドでつかまえて』。巻末には、上で言及されている中沢新一氏のゲーム評論『ゲームフリークはバグと戯れる』が収録されている。
ゲームライター時代の田尻智氏が書いた文章を収めた著作『パックランドでつかまえて』。2002年にエンターブレインから発売された復刻版の巻末には、上で言及されている中沢新一氏のゲーム評論『ゲームフリークはバグと戯れる』が収録されている。

田尻氏:
 中沢さんは、ゲーム初期の「ブロック崩し」の頃にまで遡って、ゲームとは何かを議論してくださったんですよね。
 まあ、当時のことを言うと、やっぱり同人誌を置いてくれる本屋が少なかった上に、扱っている内容もマンガやアニメが多かったから、ゲームの本は目立ったんです。杉森くんもそれで見つけてくれたんですよ。出会うまでに、随分と手紙をやり取りしたよね。

杉森氏:
 やりましたね。やっぱり、『ゼビウス』が最も話題になってました。あと、地元のロケテスト情報の詳細をまとめて送ったりもしました。

田尻氏:
 もう、すっごく面白かったんですよ。だって、僕もかなりゲームをやったと思っていたのに、タイトーの『ナナハンライダー』みたいな自分が知らないゲームばかりを、杉森くんは書いてくるんです(笑)。一体、どういう人なんだろうと思ったんですよ。

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──それは、田尻さんが知らなそうなゲームを狙って書いていたんですか?

杉森氏:
 いや、たまたま僕が通っている近所に、タイトーのロケテスト場があったんです。

田尻氏:
 あとで杉森くんと見に行ったんですよ。そうすると、例えば『べんべろべえ』という、火事を消化するゲームが二台置いてあるんです。見てみると、ダイアルのレバーがボタンとしても押せる操作系と、普通のレバーとボタンが並んでいる操作系が置かれているんですよ。両方とも同じゲームなのですが、火を消すのに普通の操作系で行くか、「水を出しながら変えられるダイアル式」で行くかをテストしていたんだと思います。

杉森氏:
 ただ、僕の方は、「なんかインストカードが変だぞ」とは思いつつも、当時はロケテストとはしっかり認識できていないまま、田尻にゲームの報告を書いてたんですよ(笑)。

田尻氏:
 当時はちょうど「ゲームフリーク」以外の同人誌も出てきた時期で、そういう口コミが広がりやすいタイミングだった気がしますね。もちろん、リアルでの口コミもありましたしね。

遠藤氏:
 都内だと、やっぱり毎週末はみんな当たり前のようにゲーセンにいたから、「アイツがあの店でプレイしてるのを見たぜ」とか言い合って、口コミで情報が広がっていくんです。あと、ゲーセンノート(※)の存在は重要だったと思いますね。たぶん、登場したのは82年か83年くらいだったと思いますけれども。

※ゲーセンノート
ゲームセンターに置かれている、交流用のノート。攻略情報にかぎらず、様々な話題がやり取りされる。常連のやり取りなどもあり、ネットの掲示板に近い雰囲気も。

──ノートが流行りだすキッカケになったゲームとかがあったんですか?

遠藤氏:
 いやあ、そのゲームのタイトルは言いたくないなあ。異様に沢山の謎が散りばめられた、絶対に一人では解けないようなゲームがありまして……。

一同:
 (笑)

──……えっと、『ドルアーガの塔』(※)は、当時のゲーセン文化を前提にして作られていたわけですね(笑)。

※ドルアーガの塔
1984年にナムコ(現・バンダイナムコエンターテインメント)より発表されたアーケードゲーム。初見で解くには難しい謎が多く散りばめられていた。国産アクションRPGの先駆けと呼ばれることも。

遠藤氏:
 ええ、まあひどい話ですよね(苦笑)。
あれは、明らかにゲーマー同士の口コミでの伝播を想定したゲームなんですよ。少し前に『ひぐらしのなく頃に』が、ネットでの謎解きの議論がなければ成立しなかったという話があったけど、当時の僕は、まさにゲーセンノートを使ってそれをやろうと考えたんです。結果的に、ゲーセンノートが普及していくキッカケにもなりましたよね。

 ただ、『ゼビウス』の時点で、既にゲーセンノートはあったんです。でも、『ゼビウス』の場合は、うる星あんず(※)が攻略本を作ったのが、実に早かったんですよ。

※うる星あんず
『ゼビウス1000万点への解法』という同人誌を出版した、当時の有名ゲーマー。『ゼビウス』の攻略情報をまとめた上に、本来は表に出ないはずの開発情報が掲載されており、当時のゲーマーの間で話題を呼んだ。本名は、大堀康祐。現在は、『ネクタリス』などのゲームを開発したマトリックス社の社長を務める。

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『ゼビウス1000万点への解法』の真相

──マトリックス社の大堀康祐さんが若い頃に出した、『ゼビウス1000万点への解法』の話ですね。

田尻氏:
 僕が同人誌「ゲームフリーク」を始めた頃、日本のあちこちに同じことを考えている人が登場していて、うる星あんずさんはその一人でした。

 ただ、彼のグループは進学校に通っていたんです。それで、同人誌を作り続けるのが難しくなったときに、専門学校に通っていた僕らに「”ゲームフリーク”を続ける気があるなら、一緒に出してくれ」と委託してきたんですよ。そういう経緯で、僕たちが『ゼビウス1000万点への解法』の通販広告を、「マイコンベーシックマガジン」という雑誌の付録だった「スーパーソフトマガジン」に出すことになったんです。

 僕自身も「ゲームフリーク」の創刊時に『ゼビウス』特集をやったのですが、ナムコの公式資料や実際のプレイでわかる範囲での情報しか分からなかったんです。ところが、『ゼビウス1000万点の解法』には、開発のコードネームや絶対に出てこないはずの資料が載っているじゃないですか。驚きましたよね。

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遠藤氏:
 あれは、僕が渡した資料のせいですね(笑)。
 実は、『ゼビウス』をリリースして2週間目に、あのゲームを「クリアした」というヤツが連絡してきたんですね。それが、うる星あんずでした。
 でも、あのゲームって、そもそもクリアできるような作りになってないでしょう。それで、彼に「嘘こけ」と答えたら、「6時間プレイしたら、バグで飛んだ。これ以上は進まないんだから、クリアだろう」と言ってくるわけです。

田尻氏:
 そういう話がありましたね(笑)。

遠藤氏:
 で、さらに今度は「俺のクリアした様子を見てくれ!」と言って、VHS3倍モードの6時間のビデオを送ってきたんですよ。

一同:
 (笑)

──大堀さん、すごい情熱ですね。

遠藤氏:
 しかも、「ぜひナムコを訪ねさせてくれ」と言ってくるもんだから、会社から「お前が相手しろよ」と僕が呼び出されたんです。
 そうしたら、目がツンツンしている坊主頭のやつが、偉そうに「こんなゲーム、簡単すぎるんだよねー」みたいなことをひたすら言ってくるの。もうね、今で言うところの「中二病」の患者ですよ(笑)。

 まあ、こっちもビックリしてはいたから、「じゃあ、キャラクター名を書いたシートをあげるよ」なんて言って資料をプレゼントして、帰らせたようとしたんです。そうしたら、今度はそいつが「1000万点への解法」を書いた本を出したいと言い出したから、「好きにすれば」と答えたんです。そうしたら、本にその資料の内容がバッチリ書かれてたんだよね。

──一応、オフィシャルに渡したということにはなるんですか?

遠藤氏:
 いやあ、違うよねえ(笑)。

田尻氏:
 あの本には、ストーリー部分でも他では見かけない設定が入っていたんです。一応、遠藤さんが『ゼビウス』の小説を書かれていたのは当時から知られていたのですが、その内容は誰も知らなかったはずなんですよ。
 それで、大堀さんに聞き出したら、遠藤さんに小説を見せてはもらえたのだけど、「その場で覚えたことしか書いちゃダメ」と言われたというんですね。それで、家に帰ってから、一生懸命に思い出して書いた、と言ってました(笑)。

遠藤氏:
 そりゃ当時、まだ小説は完成してなかったもん。

──しかし、すごい熱気ですよね。田尻さんの本にも自転車をこいで、遠いゲーセンまで遊びに行く話があるじゃないですか。当時のゲーマーのモチベーションには驚かされるんです。

田尻氏:
 だって、行くゲーセンによって、遊べるゲームが全く違っていたんですよ。しかも、価格も1ゲームが50円の店もあれば100円の店もあったし、100円だけど入場するとコーラをくれる店もあった(笑)。そういう、各々のゲーセンならではの体験にすごく価値があった時代でした。

杉森氏:
 まさに、「場の体験」ですよね。レバーのコンディションが悪くて点が出ないとか、不良に絡まれて泣きそうになったとか、そういうのを全てひっくるめて、ゲームセンターの体験だったんだと思いますね。

遠藤氏:
 あとは、やっぱりコミュニケーションがあったんですよ。そういう意味では、当時のコミュニティに近いのは、今ならMMOの中じゃないですか。
 風営法以降、子供が安心して遊べるゲームはショッピングセンターが吸収して、路面店は大人を相手にする方へ向かったんです。そうなると、軒並み大型化していくし、インカムゲインも多く取らなきゃいけない。もう、アーケードは変わってしまいましたね。

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