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ゲームAIは「人間の良き遊び相手」となるか?【三宅陽一郎×山本貴光】


 近頃、巷でなかばバズワードになっている人工知能。ビジネスでは顧客のビッグデータを人工知能に解析させてサービスの改善に役立てたり、自動運転車で人間の代わりに運転するプログラムとして活用される一方で、その急激な進歩に脅威を感じる人たちもいる。

 例えば、今年の年末年始にかけて、ネット囲碁の界隈では「Master」という棋士が、中国・韓国のトップ棋士に全勝してしまい、大きく話題になった。実はその正体は、昨年イ・セドルに囲碁で勝った囲碁の人工知能「AlphaGO」の新バージョン。面白かったのは、年明け1月5日(日本時間)に、DeepMindのデミス・ハサビス氏が自身のツイッターで、実証実験であったと明かしたときの、ネット上の反応だ。「意外だ」という反応よりは、「やっぱり、あの強さは人工知能だったのね」という反応が多かった。

2016年に開催された第1期 電王戦では人工知能PONANZAが山崎隆之叡王を下している。
(画像は第1期 電王戦公式サイトより)

 だが、囲碁のトップ棋士がAlphaGOに負けたとしても、将棋電王戦でAIが将棋棋士を下したとしても、AIが常に優れていることにはならない。人工知能には、まだまだ苦手な分野は数多く残されている。そのことを示唆するのが、今注目され始めているゲームAIと哲学を巡る議論である。

 この記事では、大手ゲームメーカーでリードAIリサーチャーを務める三宅陽一郎氏と、元コーエーのゲーム作家・山本貴光氏が、10月7日に下北沢のブックカフェB&Bに行った対談イベント「山本貴光×三宅陽一郎『文系/理系の枠を超え、分化していく世界を つなぎとめる』」の模様をお届けしたい。

人工知能のための哲学塾』(ビー・エヌ・エヌ新社、2016)

 三宅氏は、昨年まさにゲームAIを哲学的に論じた書籍『人工知能のための哲学塾』が話題を呼んでいる気鋭の論客。山本貴光氏もゲームや遊びについての独自の考察をしてきた書き手であり、昨年8月に刊行した『「百学連環」を読む』では、江戸〜明治期の知識人である西周の講義録『百学連環』を紐解きながら古今東西の知を縦横無尽に論じている。
 二人の間に交わされた議論を中心に、ゲームAIの概要と現在の課題を解説する。

取材・文・写真/高橋ミレイ


ゲームAI、それは最高の接待プレイをしてくれる遊び相手だ

 対談は、まずは山本氏によるゲームAIの歴史の振り返りから始まった。

 今でこそネットワークを介して、遠く離れた人と一緒にゲームで遊ぶことは当たり前になっている。多くの人とチームを組み、そのチーム同士でリアルタイムに対戦することも可能だ。しかし、デジタルゲームの黎明期には、まだパソコンがネットワークにはつながっていなかったため、コンピューターのプログラムが人間の遊び相手になっていた。たとえば、麻雀ゲームの対戦相手、アクションゲームの敵キャラなどがそうだ。

 そんな黎明期におけるゲームAIの事情を振り返り、山本氏はその概要を次のように解説した。

 「おおざっぱな言い方をすると、ゲームの人工知能とは“人間の良き遊び相手になってくれる”プログラムのことを指します。たとえばオセロで言えば、人間が白いコマを置いてターンが変わるとします。そのときに『人間の良き遊び相手になるためには、どこに黒いコマを置いたらいいか?』という問題を考えて、最適な場所に黒いコマを置く。これがゲームAIの元の発想です」

 2007年にオライリー・ジャパンから翻訳が刊行された『実例で学ぶゲームAIプログラミング』には、「私達のゴールは知能を持っているような幻想を与えるエージェントを設計することであり、それ以上ではないのです」と書かれている。2000年代半ばぐらいまでは、ゲームAIはゲームデザイナーが意図したプログラム通りに動くものであれば、十分とされていたのだ。

『実例で学ぶゲームAIプログラミング』
(画像はO’Reilly Japan公式サイトより)

「強化学習」以降のゲームAIとは? 

 だが、現在のゲームAIは大きく事情が変わっていると、山本氏は指摘する。というのも、強化学習(人間がプログラムしなくてもAIが自律的に学習していくこと)と呼ばれるプロセスを経て、膨大なデータの蓄積から判断を下す方向に、AI開発の流れが変わってきたからだ。

 すると、デザイナーが事前に意図した通りに、キャラクターAIなどを動かせばいいわけではなくなる。AIには、次々にプレイヤーによるプレイデータや対戦データが送られてくる。しかも、現代のゲームともなれば、一つのマップの中にキャラクターAIで制御されたモンスターが、たくさん生息している環境だ。

 そこで山本氏が問題提起するのは、そのとき「個々のキャラクターAIをどう動かしたら、プレイヤーをよりよく楽しませられるか?」という課題に、ゲームAIのプログラマーは立ち向かわなければならなくなるということだ。

 例えば、「人間の良き遊び相手」であるべきゲームAIがあまりに強すぎると、かえってプレイヤーを興ざめさせてしまう。
 もしAIが制御するキャラクターと対戦する格闘ゲームで、本気で強化学習で最適解を導き出したAIを搭載したら、どうなるか。なにしろAIは、プレイヤーの経験値ではおよそ太刀打ちできない程の対戦データから学習し、あらゆる攻撃や防御のパターンを知り尽くしているのだ。そんな、まったく勝ち目のない相手と勝負してもつまらないだろう。
 あるいは、レースゲーム。プレイヤー以外のすべての車が、強化されつくしたAIで操作されていたら、どうか。それはもはやAI同士の戦いにしかならず、人間は完全に置いてけぼりなのは容易に想像がつく。

 では、人間はどんなときにゲームを楽しいと感じるのか。山本氏は、例として「相手と競っているとき」を挙げた。

 人間は「手に入りそうで、手に入らないもの」に対して、最も執着心を持つ。とすれば、その快感を最大化させるなら、そういうものが苦労の末に手に入る状況をつくればよい。ゲームで言うなら、あと少しで勝てそうだが油断すると形勢不利になる状態や、相手との勝負が見えない状態から勝利したときが、それに当たる。山本氏は、そういう例を挙げながら、現代のデジタルゲームで求められているゲームAIとは、「最強のAIではなく、最高の接待プレイができるAIである」とした。

良いゲームAIは優秀な「やられキャラ」

 これについて三宅氏は、山本氏の議論を受けるかたちで時代劇にたとえて説明をくわえた。

 「良いゲームAIを作ることは、時代劇の殺陣に出てくる、やられキャラを作るようなものです。わー、来るぞー! と思いきや、こちらの攻撃でグサッと刺されて華麗に倒れる」

 さらに、敵キャラだけではなく味方のAIと連動した演出も可能だと三宅氏は言う。

 「たとえば味方のAIと敵のAIを同時に動かす場合は、わざと敵のAIにプレイヤーの背中を攻撃させます。その時に、あたかも偶然居合わせたかのように味方のAIが『危ない!』と言いながらかばって犠牲になる。プレイヤーは「ううっ、なんていい奴なんだ……!」と思うけど、実は敵のAIも味方のAIも、みんなグルでの演出なんです」

 三宅氏によれば、現代のゲームAIには3種類あるという。ひとつ目は「キャラクターAI」。敵のAIや味方のAIといった個別のキャラクターのAIだ。2つ目は、「メタAI」。それらを制御したり、プレイヤーのスキルに合わせた難易度を調整したりするAIだ。そして3つ目は、地形や座標軸を認識する「ナビゲーションAI」。ゲームAIは、これら3つが連携することで成り立っている。
 そのようなAIのコンビネーションの例について、三宅氏は次のように解説した。

 「先の例で言うと、メタAIがキャラクターAIに『今からAはプレイヤーを攻撃しろ、Bはプレイヤーを庇って泣きながら息絶えろ』と指示するわけです。そうするとプレイヤーは、キャラクターAIに意志と感情があると騙されるわけです」

なぜゲームAIに哲学が必要なのか?

 さらに、三宅氏はゲームAIの開発者たちが昨今対峙している、もうひとつのやっかいな課題を指摘する。それは「ゲームキャラクターの内面を設計しなければならない」という問題だ。

 三宅氏によると、昔のゲーム業界ではキャラクターをプログラムして、ゲームプランナーの描いたストーリーや世界観に合わせて動かしていた。しかしゲームが複雑化してくると、それではプレイヤーが満足しなくなる。ゲームの世界で生きるキャラクターが周囲の環境から五感を通して情報を感じ、そこから意志決定をさせないと、どうしても不自然になってしまうからだ。

 「そうなると、キャラクター側に知能を移さなければならなくなりますが、その時に必要になるのがキャラクターの内面で、それを構築するには哲学が必要なのです」

 人工知能は数学をベースにしたアルゴリズムで構築され、ニューラルネットワークであれば神経細胞の仕組みをモデル化したシミュレーションを導入するなど、開発においては理系分野の知見を生かしたアプローチをとるのが普通だ。そう考えると、ゲームAIに哲学が入る余地はないように見える。

 だが三宅氏は「知能が世界を経験するとはどういうことか? ということを考えるのは、哲学であってサイエンスではありません」と強調する。「人間の内側にあるものを構築しようとした途端に、それまでの数理的なアプローチでは、先に行けなくなってしまいます。道のあった所に突然崖が現れるようなものです。そうなると、別の足場を探さないといけません。そのときに、哲学は人の内面を作るための足場を提供してくれるのです」。

 このようなサイエンスの限界と哲学の持つ可能性について、山本氏は次のように補足した。

 「精神がどう働いているかということは、サイエンスで捉えるには限界があります。厳密に言うと、自然界では同じことは二度と起きません。しかし、その中から同じことが再現していると言えそうな現象を法則化して抽出するのがサイエンスです。これはこれで、もちろん大変意義のあることです。
 一方で、決して再現性がない事柄もあり、その最たるものが人の心や精神です。サイエンスのように法則だけでは捉えられない心や精神がどう働くか、どういう性質を持っているかということは哲学者たちが探求してきたことです。なので、その足跡を足場にすることで、人工知能がもっと人間に近くなるということですね」

 昨年8月11日に刊行された三宅氏の著書『人工知能のための哲学塾』とは、まさにそのような背景と課題設定から生まれた本だという。この本は、2015年から開催されてきた連続夜話「人工知能のための哲学塾」を書籍化したものだ。フッサール、デカルト、ユクスキュル、デリダ、メルロ=ポンティといった数多くの哲学者たちが登場する。それらを人工知能やゲームAIと照らし合わせながら解説し、人間の知覚について考察しながら人工知能が主観性を持つ可能性について探るものだ。

ゲームAIと哲学の起源は中二病にあった?

 なお、三宅氏の哲学やサイエンスへの関心の起源は「中二病」にあるという。

 「当時の僕は『これが真理だ!』という答えが欲しかったんです。その頃読んでいたユークリッドの幾何学は、すごくエレガントな「5つの公準」がありました。哲学でそれと同じアプローチをとったのがデカルトです。
 それまでのヨーロッパでは約2000年に渡ってアリストテレスの哲学に支配されていたところに、若き日のデカルトが異を唱えた。たった20代の若者が2000年も続いてきた哲学を全否定するわけで、自分以外は世の中みな間違っていると思い込んでいる中二病の僕とシンクロするわけです。それで自分とデカルトだけは世の中の真理を分かっていると思い込んでいました」

 ユークリッド幾何学やデカルトを耽読する中学生も大概な気がするが、話はそこで終わらない。

 「たとえば毎日黒板を見ながら、『うーん、あの先生は真理とは何か分かっていない。あの生物の先生は“確からしい推論”をしていない、なぜなら無限の原因の要素が云々…』と、あらゆるものを疑っていました。そういうわけで、僕にとって数学とデカルトに対する関心はひとつながりのものだったんです」

 何というか、学校時代の先生の苦労がしのばれる。だがその結果、ゲームAIのパイオニアが一人生まれたので、結果オーライなのかもしれない。

ゲームAI開発者は「ホムンクルス」の末裔!?

 さて、最後は三宅少年の“天才エピソード”で(?)、少々不思議な雰囲気になってしまった本対談だが、筆者は以前に、三宅氏に理想とするゲームAIについて聞いたとき、こんなふうに語っていたのを記憶している。

 「僕は単なるAIのアプリケーションや機械仕掛けのロボットではなく、平たく言えばゲームの中に生きる人造人間を作ろうとしています。ホムンクルスや人造人間を作ろうとした人は、過去2000年の間に何人もいたと思いますが、僕はその末裔というわけです」

 この言葉だけを見ると、氏はだいぶアブない人のように思える。だが、このような不断の熱狂こそが、ゲームのキャラクターに心を与えるかたちで命を吹き込み、ゲームの世界をもうひとつの「現実」に育て上げることを実現させていく――そんな気がしてならない。

(了)

著者プロフィール
元ネトゲ廃人の編集者&ライター。関心分野はゲーム、テクノロジー、音楽、アート、科学史など。ジャンルをまたがって横断的に物事を見るのが好きです。記事の執筆傾向は、ビジネスやサイエンスといった堅めのネタからゴシップまで節操なく書き散らしています。
Twitter:@mikeneko301



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  • AIというと将棋も囲碁も現在は最強が求められているが、ゲームAIとしては、最適なバランスで“接待プレー”をさせてもらえるかが重要になってくるだろう。

    さて、AIというか基本的な機械学習を用いたゲームといえば、1998年発売の「アストロノーカ」を思い出す。主人公が丹精こめて作った野菜を狙う害獣・バブー対策として、トラップを仕掛けるのだが、彼らの学習スピードが速く、トラップがすぐに通用しなくなることもしばしば。当時は機械学習なんて知らなかったが、トラウマになった人も多かったのではないだろいか。

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