平成14(2002)年にサーカスからリリースされた『D.C.~ダ・カーポ~』は、当時の美少女ゲーム作品としてヒットを記録。美少女ゲーム業界新聞『PC NEWS』によれば、初回出荷約3万8000本のセールスで、2002年の年間ランキングで6位に入るものとなった。
その人気に背中を押されるように、『D.C.~ダ・カーポ~』は積極的なファンディスクの展開や、ライブイベントの開催、さらにはアニメ化を経て、平成10年代を代表する美少女コンテンツのひとつへと成長していった。
物語の主人公・朝倉純一は、しっかり者の義理の妹・音夢とふたり暮らしの学園3年生。「かったるい」が口癖だが、じつは魔法の力を祖母から受け継いでいた。
それは自身のカロリー消費と引き換えに和菓子を手のひらに出現させたり、他人の夢を強制的に見せられたりなどの他愛のない力で、人には秘密にしていたもの。そこに夢で見た、いとこの芳乃さくらが帰国し……。こうして3人の関係性を軸に、華やかな学園の女の子たちに彩られながら物語は描かれていく。
ある意味王道で、くすぐったさが全体を包み込むこの物語は、癖のないテキストとイメージカラーの青と桜色の爽やかさをまとい、人気を博していったのだ。
その後、平成18(2006)年には『D.C.II~ダ・カーポII~』が、平成24(2012)年には『D.C.III~ダ・カーポIII~』がリリースされ、いずれも家庭用ゲームソフトやTVアニメという、より広い市場に展開されることで、美少女ゲームファンという括りにとどまらない、幅広い層のファンを獲得していった。
そんな『D.C.~ダ・カーポ~』シリーズを作品プロデューサーとして、制作からプロモーションまで、すべてを見てきたキーマンがtororo団長である。
ほかにもプロローグ版の制作に始まり、全国の店舗を巡る地道な販促活動、大小さまざまなイベントでの積極的なファンとの交流、さらにはアニメ展開まで、当時から独特のアプローチで『D.C.~ダ・カーポ~』シリーズを、当時の美少女コンテンツを代表する1本へと成長させていったtororo団長に、そのアプローチ方法やプロデュース論などを語ってもらった。
そこには『D.C.~ダ・カーポ~』というコンテンツをより幅広い層にアピールし、「多くの人に作品を知ってもらいたい」という純粋な想い、『D.C.~ダ・カーポ~』を応援してくれた多くのファンに対しての強い想い、そしていまだから語れる後悔などがあった。
取材・文/今俊郎
美少女ゲームから、生身の部分が希薄になっているような気がする
──今回お話を伺うにあたって『D.C.~ダ・カーポ~』の歴史を振り返っていると、このシリーズは「美少女ゲームが盛り上がっていく平成10年代半ばから、その後の市場が厳しくなっていく時期までを通して存在感を示したコンテンツ」だということが解ります。この時期は、制作者であるtororo団長には、どんな時代に見えていたのでしょう?
tororo団長(以下、tororo):
あのころのお客さん、そして美少女ゲーム業界全体を振り返ると、「自分たちがいいと思っているものを認めてもらうために誰もが一所懸命だった」時期だと思うんです。
これは、いまでいう承認欲求ともまた違うんですね。インディーズからメジャーになっていく過程でのポジティブな盛り上がりが生み出した熱のようなもの。それをリアルイベントを通じて作り上げていったのがサーカスという組織であり、その原動力になったのが『D.C.~ダ・カーポ~』だったと思います。
その後『ラブライブ』が登場し、ファンをごっそりと持っていかれるわけですが(笑)。
──(笑)。1作目から10年、平成24(2012)年の『D.C.III~ダ・カーポIII~』で、tororo団長はパッケージゲームのプロデュースから手を引きます。当時のいろいろな想いは後ほど語っていただくことになると想いますが、美少女ゲーム業界から少し離れ、その後業界をどうご覧になっていたのでしょうか?
tororo:
たぶん求められているものが、とりわけエロじゃなくても良くなってきていますよね。ジャンル自体が細分化したこともありますが、オタク趣味が草食化したということもあるでしょう。
かつて美少女ゲームが盛り上がった理由には、「秘密の共有」と「青春へのリベンジ」というキーワードが挙げられると思います。具体的には、「オタク仲間」という関係性の中で、お互いの性癖などという秘密を共有しながら、モテなかった青春時代のリベンジを美少女ゲームで果たそうと一緒に盛り上がっていたわけです。ですが、これらは昭和の価値観を引きずったもの。
ところが平成も20年を過ぎると、そうした人々と価値観を共有していない世代が入ってきます。彼らにとってネットワークはほぼ生まれたときからあるもので、生々しい人間関係はより希薄。
ですからそうした生身のグループには踏み込まず、コンテンツを外から見ているようになりました。『らきすた』や『けいおん!』などがそうですよね。ネット上では盛り上がっていますが、生身の部分が希薄になっているように思えるんです。
──なるほど。そうかもしれませんね。
tororo:
バトルもののコンテンツについて面白い話があります。
大昔は生身の人間が直接戦い、次はメカに搭乗して戦うようになった。そのあと遠隔操作の時代を経て、いまは召喚したものを戦わせてそれを見ていると。
つまり戦いなのに、主人公がどんどん肉体的な痛みを伴わなくなってきている。僕は、「なるほどそうだな」と思うとともに、美少女コンテンツも、それに近い感覚になってきているような気がするんです。
──コンテンツへの能動的なアプローチが減っているということですか?
tororo:
ええ。たとえば僕が子どものころは、「そこにあるもので、どうやって遊ぶか」を考えました。公園にボールを持っていったとき、サッカーをやるのかドッジボールをするのかは、その場でみんなで考えた。ときには新しい遊びが生まれたりもしました。
でもいまは、「こうやって遊びましょう」という枠の中で、どれだけ遊び続けられるかが重要になっている。
──そういうところが、美少女ゲームや美少女コンテンツの変化にも繋がっているわけですね。
tororo:
でも、しかたがないですよ。人類の寿命が延びていけば、「この短い人生の中で、たくさん冒険して、たくさん恋をして」というような価値観は薄れますから。そういう状況では、エンターテインメントに求められる形も、おのずと変化していくと思います。
──のっけから大きな話となりましたが、今日は『D.C.~ダ・カーポ~』の歴史を追いながら、平成の美少女ゲームの変化と、そのときどきにtororo団長個人が何を考え、どう作品を作っていたのかが伺えれば幸いです。
tororo:
よろしくお願いします。
「世界一になれることは何か」と考えてたどり着いたエロコンテンツの世界
──そもそもtororo団長が美少女ゲームに興味を持たれたきっかけというのは、なんだったのですか?
tororo:
じつは子どものころから、人の「欲望」というものにとても興味があったんです。
実家が理髪店なので、待ち時間のためのマンガ誌やスポーツ新聞が身の回りにある環境で育ったんですね。ところが当時はエッチな情報もそうしたマンガや紙面に結構あふれていたんですよ。そこに興味を持ったのが最初だと思います。
ただ、当時はそれが「欲望」だってことを理解しておらず、「この、もやもやする気持ちはなんなんだろう?」みたいな感じでした。
やがて中学生くらいになると、みんな「自分は何であれば世界一になれるだろう?」というようなことを考えますよね?
──はあ、まあ(笑)。
tororo:
まあ、僕は考えたんです(笑)。それで、当時は「人の心の動き」にとても関心を持った。だから僕は中学や高校の時分は、カードゲームや麻雀などで遊んでいたんです。
──賭け事に興味を持った?
tororo:
賭け事といっても、パチンコや競馬じゃない。全員同じ場所にいて、それぞれの心の動きが見えるようなゲームが好きなんですよね。だから同じ麻雀でもネット麻雀には、あまり興味を持てない。
そういうことをしながら「何だったら世界一になれるだろう?」と考え、「東京に出て麻雀のプロになる」と親に言ったら、「それだけはやめてくれ」と。「だったらゲームを作る人間になるか」と思ったわけです。
──なんだか唐突にゲームの話になりましたが。
tororo:
僕は1975年の4月4日生まれなんですが、これはビル・ゲイツとポール・アレンがマイクロソフトを創った日(※捉えかたに諸説あり)なんですよ。つまりデジタル時代が始まるエポック・メイキングな日に僕は生まれ、その後のデジタルと歩みを一緒に成長してきたとも言えるわけです。「PCゲームの仕事をしよう」と思うのも必然なのかなと。
──な、なるほど。それでゲーム制作の道に進もう、と。
tororo:
そこで先ほどの「自分は何であれば世界一になれるだろう?」という疑問に戻ります。
「数学や物理の授業は好きだけど、それを突き詰めてやり続けるのは無理だ」と思った。麻雀プロになるのは反対された。
親は家業の理髪店を継いでほしいようだけど、それを続ける自分の姿も想像できない──いまのように地方で仕事をしながら、何かを世界に発信できる時代じゃありませんでしたからね。
「じゃあ、自分には何が残っているか」と考えたときに浮かんだのが「エロ」だったんです。「エロならずっと勉強していても辛くない……これだ!」と。
そこで実際に「人間の欲望とは何か」、「どういうときに人は欲情するのか」というようなことを自分で学んでいったんですが、するとたとえば心理学など、いろいろ新しいことに出会うわけです。それが本当に楽しかったんですよ。
同時にエロ漫画の道も考えたんですが、やはりゲーム世代ですし、インタラクティブなエロコンテンツに興味があったからいまに続く道を選んだわけです。
──それで美少女ゲームの世界が視野に入ってきたわけですね。
tororo:
ええ。とはいえ田舎の高校生ですから、ゲーム会社にコネもなければ、地元の学校に求人も来ません。
「だったらまず専門学校に通ってコネクションを作ろう」と決めました。そうして専門学校を卒業した後に、コスモスコンピューターという会社に就職し、ルナーソフトというブランドで働くようになりました。
見つけ出したPCゲームのヒットの法則
──それでエロゲー制作を始めるんですね?
tororo:
いえ、最初は一般向けのソフトでしたね。大手から受託して開発する感じです。『ぷよぷよ通』のプレステ版の移植とかやってました。でも、それだと発注元の社内状況に左右されることが多すぎて、何もできないんです。
やはり好きなものが作りたいなら、自分たちで企画から始めなければならない。ならばと、流通会社と組んで平成10(1998)年に『悶 ーもだえー』という18禁ゲームを作りました。これは7000本くらい売れたかな。翌年には『RISE』という、これまた18禁のゲームを作り、これが累計で1万6000本ほど売れたんです。
──結構売れましたね。
tororo:
でも、当時の年間ランキングで100位に入るか入らないかですよ。それでも専門誌『E-Login』の「年間でもっとも面白かったゲームランキング」の6位くらいに入ったので、「やりたいことをやれば、それでも伝わるんだな」と手応えを感じましたね。それで独立し、サーカスを立ち上げました。これが平成11(1999)年11月11日ですね。
──覚えやすいですね(笑)。独立した当時は、市場をどのように見ていましたか?
tororo:
当時の美少女ゲーム業界は社会的な風潮に抗わないようにしているように感じられ、「閉鎖的で卑屈だな」と思っていました。
そもそも僕は、「欲望とは律するもので、その表現を規制するものではない」と考えています。作品に影響を受けて犯罪行為を行うなんてことはないし、そうならないように自分を律するのが人間ですから。
──エンターテインメントの第一線としてアピールしていないように思えた?
tororo:
そうですね。「もっと外に広げ、たくさんの人に認めてもらえばいいのに」と。そこからスタートして、「だったら自分の手掛ける作品は売りたい、アニメにしたい」と思うようになっていったんですね。
──サーカス立ち上げの最初から、漠然とそう感じていたんですね。
tororo:
そもそも漠然と考えるようになったのは『RISE』のころからです。それでその「売りたい、アニメにしたい」という想いを実現するにはどうしたらいいかを考えていたわけですが、サーカスを立ち上げたあとのあるとき、当時の美少女ゲームの「売れる法則」のようなものに気づいたんです。
──それは?
tororo:
たとえばリーフさんなら、『雫』、『痕』のあとに『To Heart』【※1】が大ヒットしました。KeyさんはTactics時代の『MOON』から『ONE』と続いた後に『Kanon』【※2】が大ヒットした。ちょっと後ですが、ねこねこソフトさんは『銀色』を出した後の『みずいろ』【※3】が大ヒット。
※1 『To Heart』
1997年にLeafから発売された学園ラブコメビジュアルノベル/アドベンチャーゲーム。発売直後から大ヒットとなり、キャラクターデザインやドラマの構成など、広い範囲で後の学園ものアドベンチャーに大きな影響を与えた。コンシューマー移植を経て、1999年にはTVアニメ化もされている。
※2 『Kanon』
1999年にKeyから発売された恋愛アドベンチャーゲーム。Keyブランドのデビュー作でもあり、その大ヒットでKeyブランドを美少女ゲームファンの中で揺るぎないものとした。また、本作の感動的なストーリーから、のちに「泣きゲー」と呼ばれるジャンルを生んだ。
※3 『みずいろ』
2001年にねこねこそふとから発売された恋愛アドベンチャーゲーム。ふんだんに盛り込まれたラブコメの王道設定や、やさしく感動的なストーリーでヒットとなる。コンシューマーへの移植や、18禁と全年齢両方でのOVA化などのメディア展開も行われた。
つまり、いい原画家を起用して「命」をテーマにした尖った作品の後に学園ものを出すと、ユーザーさんに届く。
これに気付いたのがサーカス3本目の『Infantaria』【※】のときで、そこで命をテーマにした『水夏』【※】に続け、学園ものの『D.C.~ダ・カーポ~』を出すことにしたんです。
──『To Heart』や『Kanon』の成功が大きなヒントだったんですね。
tororo:
そうですね……うーん……ヒントでもありますが、あの当時は「自分の作品も広く認められたい」という気持ちも強かったですね。それらがアニメ化されたり、コミケで盛り上がっていたりを見ていましたから、やっぱりうらやましかったんですよ。
ただ、サーカスも着実に前進していました。最初に手応えを感じたのは『Infantaria』の初回出荷版が完売し、通常版を出せたことです。「ここをステップにすれば『水夏』、『D.C.~ダ・カーポ~』もイケるかも」と思いました。
──その『D.C.~ダ・カーポ~』は平成14(2002)年6月28日リリースです。リリース当初から、『To Heart』や『Kanon』のようなメディアミックスは考えていたのでしょうか?
tororo:
もちろん意識しています。ゲームは僕が枠組みを作り、中身についてはスタッフを交えて組み上げていったもの。
枠組みの時点で僕が出したアイデアは、基本的にコミカライズやテレビアニメ展開といったメディアミックスを意識したものでした。
じつはそうした展開は前作『水夏』でも意識していたんです。そのとき「あれもやりたい」、「これも試したい」と奔走していたんですが、「実際に実現するには時間も人もお金も足りない」という状況でした。
ですが、おかげさまで『水夏』が高評価をいただき、セールス的にも好調でしたので、『D.C.~ダ・カーポ~』では実現できたんですね。
──なるほど。その『D.C.~ダ・カーポ~』の企画や展開を考えたときに、参考や目標にしたコンテンツなどはあったのでしょうか?
tororo:
企画時に制作チームとして参考にしたものはありませんが、僕がもともと漫画好きで、柳沢きみお、山田玲司、吉田聡などの漫画のように、「「青春の熱量」を作品に込めたかった」と言うのはありますね。
アニメでは『不思議の海のナディア』ですね。表面的に類似性のようなものはまったく感じられないかもしれませんが、ドラマの意外性や構成の部分では意識していました。
──そういうところに繋がるんですね。リリース当時の平成14年(2002年)は、まさに美少女ゲーム市場が一気に拡大していく時期でした。展開面で、そうした動向は意識していたのでしょうか?
tororo:
マーケティングやプロモーションはとても考えましたね。とくにタイトルロゴのビジュアルのイメージについて。
空と海の2色の青を配したタイトルロゴと、空の青から白へのグラデーションの中に桜のピンクを置いたメインビジュアルは、その前にどのキャラが立っていても「これは『D.C.~ダ・カーポ~』だ」と印象付けられるように作ったイメージです。
これが成功したから、プレイステーション版の『D.C.P.S.~ダ・カーポ~プラスシチュエーション』でピンクの熊を着たヒロインが出てきても、『D.C.~ダ・カーポ~』として成立したんです。
これがピタッとはまったので、『D.C.~ダ・カーポ~』だけでなく、現在の『D.C.4~ダ・カーポ4~』まで、17年を経てもブレないイメージが確立したんだと考えています。それと主題歌ですね。これらの組み合わせがあれば、お客さんがみんな「『D.C.~ダ・カーポ~』だ」と感じてくれるんです。
──確かに揺るがないイメージがありますね。
tororo:
そのイメージを定着させるためにも、いろいろなことを考えました。平成10年代半ばは、周辺の大小さまざまなものを含めれば、1年間に700本や800本……もっとかな【※】、それだけの美少女ゲームが出ていたんです。その中で埋もれないようにするにはどうすればいいか。そのひとつとして、「店頭から商品を切らさない方法を考えよう」としたんですね。
初期ロットが店頭で品切れしたら二次ロット、三次ロットと間髪入れずに出していく。しかもパッケージデザインを変え、新たに特典を付けることで、店舗さんに「これならまだ売れる」と思ってもらうようにする。
その結果、「曲芸商法」なんて言われたりもしたんですけどね(笑)。でも出し続ければ、ショップはポスターなどを貼り続けてくれるんです。そして商品があれば、お客さんは「買うか買わないか」を決めることができる。もし商品が切れていたら、お客さんは選択すらできませんから。
※平成14年のソフ倫審査PCタイトル数は2075本(編集部調べ)。
──当時はまだ美少女ゲーム取扱店も多く、そういった店舗展開も有効だったんですね。
tororo:
それもありましたね。あの時期だからできた曲芸商法なんですよ(笑)。
──店舗展開といえば、『D.C.~ダ・カーポ~』から、発売日に向けて全国で店舗イベントを継続的に行っていましたね。
tororo:
そうですね。サーカスは全国巡業が販促の大きな柱になりました。
ただ、僕の中では、全国巡業は営業活動ではないんです。僕は全国のお客さんと友だちになりたかった。友だちが一所懸命作った作品がそこにあれば買いたくなるし、ほかの人に薦めたくもなるじゃないですか。そういうコミュニティーを、全国の店舗さんごとに作りたくて、店舗イベントを始めたんです。
だからほかのスタッフにも「広報営業活動じゃなくて、お客さんと友だちになってきて」と言っていましたね。最終的には海外も回ったりしていますが、それでも僕は最後まで「友だち」になりに行っていたんですよ。
──それは『D.C.~ダ・カーポ~』という作品があってこそ芽生えた思いだったのですか?
tororo:
いえ、「ファンと交流したい」という思いは、ずっと前から持っていました。『RISE』のWebページに掲示板を設け、そこでファンとの交流はしていましたし。
そうそう、僕がコスモスコンピューターを辞める前くらいに、その掲示板に集まった人たちとオフ会を開いたんですよ。そのときに、「その掲示板で知り合った人どうしが結婚する」という話を聞いたんです。しかもその後、結婚したご夫婦からお手紙で「生まれた娘に、『RISE』の登場キャラと同じ「ななこ」という名前を付けました」と報告をいただいたんです。
それは僕にとって衝撃でした。昔から思っていた「人とコミュニケーションをとる」こと、それから「人の人生を変えるコンテンツを作る」ことにほかならない。
「それってできるんだ。それはこういうことなんだな」と、自分がやっていることが正しいんだと確信を感じられた瞬間でした。「その子が大きくなったときに名前の由来を聞いて、どんなことを感じるか」。そう考えたら、「僕はもう変なものは作ってはいけない。その子が誇らしくなるような仕事をしていかなければいけない」と思ったんです。
──いいエピソードですね。
tororo:
でしょう? それからサーカスとして1本目の『Aries』発売日に秋葉原でイベントを催したとき、ブランドデビューのイベントなのにたくさんの人に足を運んでもらえたんです。
そういう経験があったから、『D.C.~ダ・カーポ~』のときは、全国のできるだけ多くのショップでイベントを開きたかったんです。
──それが全国巡業という形になったわけですね。
tororo:
ええ。それともうひとつ、当時から僕の中で、「PCゲームを遊んでもらうことって、やはりハードルが高いものだ」という考えがあったのが巡業の理由になっています。
PCゲームは価格も高いし、インストールに時間もかかるし、ゲームそのもののプレイ時間も長い。だから本当は、そういうイベントで作品世界を体験してもらいたかったんですよ。理想としては、教室を再現し、制服を着たコスプレイヤーがいて、一緒に机を並べて……というようなもの。
ですが、さすがにそれは無理な規模だったので、実際にはコスプレイヤーを連れてクイズ大会やゲーム大会をやるような企画に落ち着いたんですけどね。
──ですが、そうした販促がヒットにつながったとも言えそうですね。
tororo:
DVD-ROM版とCD-ROM版を合わせて、初期ロットで3万本出荷していますから、当時としても悪くない数字だったと思います。すでにコンシューマー化の話も出ていました。ここで成功できたのはよかったですね。
アニメ化によって美少女アニメ市場の構造を理解した
──アニメ化が決まったのは、そのあとなんでしょうか?
tororo:
そうですね。でもきっかけは発売前にありました。アージュの吉宗鋼紀さん【※1】にランティスさん【※2】を紹介していただいたんです。そこで『D.C.~ダ・カーポ~』のお話をしたら、発売の数ヵ月前なのに「音楽を全部やらせてほしい」って言っていただきまして(笑)。
当時、ランティスさんは美少女ゲームにはほとんど関わっていませんでしたが、可能性を感じてもらえたんでしょうね。そのままお願いすることになり、そこからアニメ化へとつながっていくんです。
そういう意味では、吉宗さんが僕とランティスさんを繋いでくれたことが、『D.C.~ダ・カーポ~』という作品の大きな転機になったと言えるでしょうね。
※1 吉宗鋼紀
1967年生まれのゲームクリエイター。美少女ゲームブランド・アージュなどの代表を務め、同ブランドから発売された『君が望む永遠』、『マブラヴ』、『マブラヴ オルタネイティヴ』などの原作者でもある。
※2 ランティス
J-POP、アニメソング、ゲーム音楽などを幅広く手掛ける音楽レーベル。アニメの製作委員会などにも数多く参加。
1999年に創立し、2018年からはバンダイナムコアーツのレーベルとなっている。
──そして翌平成15(2003)年の7月から12月まで、テレビアニメ『D.C.~ダ・カーポ~』が放送されます。
tororo:
このとき僕は、「美少女アニメには、いわゆる美少女ゲーム系のファンと、学園もの作品のファン、そして少女漫画ファンが集まってくるんだな」とその構造を理解したんです。男性向けや女性向けという区分けではない。
『D.C.~ダ・カーポ~』は、その3つのファン層を集めることができたんです。当時ブロッコリーの代表だった木谷高明さんに、「『シスター・プリンセス』【※】のファンが『D.C.~ダ・カーポ~』に民族大移動している」って言われたのを、いまだに覚えていますね。
──そうしてアニメが成功したことで、『D.C.~ダ・カーポ~』は大きくブレイクし、業界にも大きな影響を及ぼすことになります。若いクリエイターや声優などに話を聞くと、アニメ『D.C.~ダ・カーポ~』で美少女ものに目覚めたという人もとても多いんですよ。
tororo:
『同級生』【※】や『To Heart』もアニメ化されたとき、当時は「すごいな」と感じていたんですが、その一方で「メジャーのアニメレーベルではないんだな」と思っていたのも事実です。
そういう作品がアニメ化された時期を経てこそですが、『D.C.~ダ・カーポ~』など平成10年代半ばの作品が、メジャー会社のアニメの原作になるという扉を開いていったと思っています。
※同級生
1992年にエルフから発売された18禁の恋愛アドベンチャーゲーム。ストーリーを追いながら恋愛関係を深めていくゲームシステムと、美麗なグラフィック、キャラクターデザインは、それまで市場を賑わせていた直接的なエロのみの18禁PCゲームの概念を一変し、その後の恋愛アドベンチャーゲームのひとつの形を作り上げた。
──確かにそう言う側面もある一方で、声優のキャスティングなどが原作とは違ってしまうことが批判されたりもしましたよね。
tororo:
それについては、当時の僕がアニメの声優を詳しく知らなかったからというのもあります。それと、やはりアニメ化ともなると関わっている会社も多くなり、原作側だけの主張を通すことが難しかったという理由もありました。
──大人の事情ですね。
tororo:
そうですね(笑)。
──『D.C.~ダ・カーポ~』、そしてのちの『D.C.II~ダ・カーポII~』をアニメ化する際にどういうことを意識したのでしょう?
tororo:
アニメは視点が客観的なので、やはり「ドラマに寄せて表現していこう」と思いました。
もちろんゲームとは違うメディアなので、そこで意識した部分もありますよ。たとえばアニメはゲームのように分岐ができないので、「メインに据えるのはどのヒロインのルートにするのか?」、「満遍なくヒロインを出せるのか?」など、そういう部分はかなり考えましたし、話し合いました。
──その結果、『D.C.~ダ・カーポ~』、『D.C.II~ダ・カーポII~』はともにアニメもヒットし、それまで本作を知らなかったファンを多く巻き込みました。この成功は、何が大きかったとお考えですか?
tororo:
タイミングと人と人の巡り合わせですね。後はそれが歴史に刻まれるように必死にアニメに関わったスタッフ皆が一所懸命にやったということだと思います。それもある種の「青春」なのかなと。