「こんなにかわいい肉塊は人類史上いない」。小岩井ことりが愛する、病院エンドにおける沙耶の去り際
──あらためて作品の中身についてもお聞きしたいのですが、小岩井さんが『沙耶の唄』の作中で、とくに印象に残っているシーンがあれば教えてください。
小岩井さん:
凉子さんが急にアクションの力を見せますよね。そこから作風が変わったように感じて、とてもおもしろかったです。
虚淵氏:
あれはね、書いている途中で辛抱しきれなくなったんです。最初はもっと「悲鳴をあげて追いかけ回されるキャラ」にするつもりでした。
でも、書いているうちに、人間ばかりがやられていく展開にだんだん腹が立ってきてしまって……。
やっぱり僕、ホラーに向かないんですよ。なんか仕返ししたくなったというか。根っこがアクションにあるんでしょうね。
小岩井さん:
いきなり本格的な銃が出てきて、もうびっくりしました。
虚淵氏:
ラヴクラフトの小説よりも、僕の原体験であるTRPGの「クトゥルフの呼び声」が下敷きになっています。恐怖に立ち向かう「探索者(プレイヤー)」の立ち居振る舞いが、そのまま反映されてしまったんです。
役になりきらずに、探索者として場慣れしちゃったプレイヤーですね。突然メタなプレイングをさせちゃったところはあります。「正気度が減っていれば、これくらいはやるだろう」と。
小岩井さん:
ファミレスのシーン以降、彼女の表情は輝いていましたよね。覚悟を決めた女性の目をしていて。
虚淵氏:
あれは完全に無茶振りの産物です。原画担当の中央東口に「いきなりショットガンを抜くキャラにしたいんだけど……」と伝えたら、新たな表情差分を描いてくれただけでなく、探索者衣装まで作ってくれたんです。
小岩井さん:
制作途中でそれほど大きな変更があっても、あれだけ完成度の高い作品になるというのは本当にすごいです。
虚淵氏:
最初から「ミニマムな規模で作ろう」という方針があったからこそ対応できた変更ですね。巨大なプロジェクトになるほど、途中で軌道修正できないことのほうが多いですから。
──『沙耶の唄』といえば、それぞれまったく毛色の違う3つのエンディングも印象的ですよね。
小岩井さん:
どのエンディングもすごく美しいと感じています。どれも必要で、どれもすばらしいです。これも、無駄を削ぎ落とした結果でしょうか?
虚淵氏:
構造としては、「誰が救われ、誰が犠牲になるか」を切り替えるだけで話が分岐するようになっています。
ルートごとに救済と悲哀の役割がすべて入れ替わっていくため、結果として各ルートへ均等に要素を配分できたなとは思っています。
──小岩井さんご自身は、その結末のなかでとくにどれに心惹かれましたか?
小岩井さん:
私が好きなのは、病院で迎えるエンディングです。
沙耶が携帯電話越しにメッセージだけ送って、姿を見せずに去っていく、あの去り際がとても印象的でした。
あのときの沙耶はおそらく肉塊の姿だと思うんです。でも、いじらしくてかわいい。「こんなにかわいい肉塊は人類史上存在しない」と思うくらい、素敵なシーンでした。
虚淵氏:
ストーリーとしては、途中で途切れるような中途半端な終わりかたですが、恋愛ものである以上、別れは別れでひとつのドラマになるんですよね。
小岩井さん:
令和になった今でも、ファンの方々が「『沙耶の唄』は純愛だ」と語り継いでくださっているのは、そういう部分があるからだと思います。
虚淵氏:
ただあれは、ガラケーの入力の仕組みを知らないと意味がわからないエンディングなんですよ。スマホのフリック入力では成立しない。時代を感じますね。
現実世界が過酷すぎるからこそ、今のお客さんは「毒物」を求めていないのではないか
──『沙耶の唄』のキャラクターたちは、どのように生まれていったのでしょうか?
虚淵氏:
最初にあったのは沙耶と郁紀の関係性です。どちらかといえば、まず「カップル」というひとつの概念が先にあって、それをふたりに切り分けてキャラクターに落とし込んでいった感覚かもしれません。
そして、その周囲を阻む三角コーンのような障害物として、他のキャラクターを置いていきました。彼らを取り巻く環境が壊れていく過程を描くためです。
──そんなふたりが作中でもっとも長い物語を経てたどり着くのが「世界が改変される結末」ですが、あれはハッピーエンドという位置づけですか?
虚淵氏:
ハッピーではなかろうと思います。おそらく、一番派手なバッドエンドですね。
そもそもホラー作品ですから、どう転んでも必ず誰かしらが犠牲になります。
どれがハッピーエンドとも言い難く、ある人にとっては救いであっても、別の人にとっては救いにならない。どれがハッピーエンドとは言えない物語です。
──どのルートもハッピーエンドとは言い難い、と。かつて「ハッピーエンドが書けない」と悩み、筆を折ろうとした時期があったとお聞きしましたが。
虚淵氏:
それはありましたね。昔のことなので正確な時系列は曖昧ですが、ちょうど『Fate/Zero』を書く直前あたりの話だと思います。
──どういったきっかけがあって立ち直られたのですか。
虚淵氏:
『Fate/Zero』執筆の際に、後々ハッピーエンドに繋がる物語の前日譚であれば、バッドエンドを描いても何の問題もないので、胸を張って書けるなと思ったんです。
自分ひとりで物語を完結させるのではなく、「誰かの物語を手伝う」というスタンスになれば、まだ作家として仕事ができるという気づきでしたね。
──以前、下倉バイオさんとの対談で、ニトロプラスらしさとは「安堵感よりも刺激」であり、それは「自然界でいえば毒物のサイン」とおっしゃっていましたが、そのスタンスは今も変わりませんか?
虚淵氏:
当時はたしかにそう考えていました。ただ、今のお客さんはもう「毒物」を求めていないのではないか、とも感じています。
現実世界が過酷すぎるからこそ、フィクションには「解毒薬」を欲しているのではないかと。
そして、そうした癒やしは若い世代が作ればいい。自分はもう一歩引いたところにいてもいいのかな、と考えています。
──そうおっしゃらずに……。去年、出演されていた他メディアのインタビューでは「ゲームを作る意欲がある」と語られていたかと思います。
虚淵氏:
ええ。ゲームは物語がすべてではなく、爽快感やカタルシスといった別の要素でお客さんを喜ばせることができますから、そうした面も含めて、いま改めてゲームという媒体に可能性を感じています。
何より「今こそゲームを作る甲斐がある」とようやく思えるようになったのは、Steamなどのダウンロード販売の普及で、作品がハードウェアから解放されたからです。
以前はハードが時代遅れになると作品も一緒に顧みられなくなる(心中する)しかなくて寂しかったのですが、時代を超えていつでも遊べる仕組みができたことは、僕にとって本当に大きいです。
ぽっと出の農民でも新選組のように一旗あげることができた、PCゲーム黎明期
──『沙耶の唄』が発売されたのが2003年になりますが、この当時のPCゲーム業界を振り返ってみて、いまでも印象に残っているタイトルはありますか?
虚淵氏:
まず、この業界に参入する大きなきっかけになったのは『痕-きずあと-』ですね。これでストーリー主体のゲームがビジネスとして成立するという勝算を掴めました。
ただ、僕たちが会社を立ち上げる際、スポンサーをやる気にさせたのは『ToHeart』の存在だったんです。だから僕は世間の流れとは逆に、先に『痕-きずあと-』をプレイして、その後に『ToHeart』を触るという順番でした。
タイプの違う両作品に触れたことで、「これだけ表現に幅を持たせることができるんだ」という期待感を持って活動を始められましたね。
──そこから2000年代にかけて、業界全体のトレンドはどう動いていったのでしょうか。
虚淵氏:
やはり『痕-きずあと-』の影響は絶大だったと思います。一方でアリスソフトの 『鬼畜王ランス シリーズ』のようにゲーム性を重視するベクトルもありましたが、2000年以降はそれらが減り、急速にストーリー推しの作品が増えていきました。
──その潮流の中で、とくに大きな転機や限界を感じた部分はどこですか?
虚淵氏:
ある時期から「ラノベがエロゲ化していったこと」ですね。それまでエロゲが8800円という価格で提供していた「擬似恋愛」という価値が、文庫本1冊(500円程度)で成立する時代が来てしまった。
架空のヒロインとの恋愛を疑似体験してもらう、というコンテンツを書籍で展開されてしまうと、自分たちの業界のアドバンテージは全部食われるぞと。正直、このころ以降はもうエロゲの方向で食っていくのは難しいな、と焦っていましたね。
──商業的な厳しさが増していく一方で、初期のPCゲーム業界にはあの時代特有の自由さと熱量がありましたよね。改めて、そこがクリエイターにとってどのような場所だったのか、教えていただけますか。
虚淵氏:
僕より上の世代がクリエイターになろうとした際、そこには筋道があったんです。
漫画家になるなら先生のアシスタントになり、編集者とつながりを持って企画を通す。アニメでも制作会社に入って、まずは制作進行として作りかたを学び、独り立ちしていく。修行の工程というか、クリエイターになるためのルールや筋道があったんですよね。
そのなかで「いきなり何もないところから始めちまおうぜ」が、かつてのエロゲ会社だったと思うんですよ。同人レベルで絵が描ける、物語が書ける、プログラムが組める。あとは審査さえ通せば秋葉原で商売ができた。
小岩井さん:
最高ですね。自分たちの好きなものを作ってしまえるわけですから。
虚淵氏:
あの時代、権力構造と言えるものはせいぜいソフ倫(コンピュータソフトウェア倫理機構)くらいでした。
そのため、アマチュアをかき集めて一旗あげるという、新選組のようなことができたんです。「ぽっと出の農民だけど、刀を振っていれば京都で暴れられる」というような。
──その「アマチュアが熱意と勢いを武器にして一旗あげる」という当時の熱気や文化は、いまの時代にも何かしらの形で受け継がれていると感じますか?
虚淵氏:
いまをときめくVTuberは近いですよね。あれは「自らがアマチュアであること」を観客と共有することで成り立っている芸能じゃないですか。
たとえば、人間国宝のような権威ある人が高尚なアートを語っただけでは、VTuberとしての人気は出ないでしょう。
アマチュアである観客と同じ目線に立ち、ゲームを遊んだり映画を見たりして感想を語りあう。まさに「アマチュアであること」じたいが芸になっているわけです。
それがVTuberの肝だと考えると、僕らの時代にあった「アマチュアであること」を武器とする方法論が、いよいよひとつの芸能として定着したのだと感じます。
小岩井さん:
たしかにそれ以前の時代は、権威ある誰かに認められるための修行期間を経て、初めて世の中に発信できるという構造が多かったように思います。
そうした枠に収まらない、「青く燃えている炎」をそのまま世の中に出せる時代になっていったのは、このあたりからなのかもしれないですね。
虚淵氏:
極端な話、キャラクターさえ立っていればVTuberとして成立するし、むしろそれがおもしろがられる。でたらめな発音がミームになったりもするわけです。
「Gペンで線の描き分けができなければ、プロの漫画家として成り立たない」みたいな、そういう時代じゃないんですよね。
裾野が広がる声優業界。変化する収録体制、音響監督によって求められるスキル、綺麗な発音だけでは生き残れない
──少し話題は変わりますが、小岩井さんが身を置かれている声優業界においても、昔と現在とでは環境や仕組みに変化があるのでしょうか?
小岩井さん:
プロになる筋道については少し前まではしっかり確立されていました。養成所や専門学校に1、2年通い、事務所所属のオーディションを経て、さらに各作品のオーディションに受かって初めてデビューできるという形です。
私がデビューした15年程前や、その少し前まではそういった形が主流でした。今はどうなんでしょうね。今は事務所の数も増え、たくさんの方が関わるようになっていますから。
昔は限られた事務所と少ない人数で回している、全員が顔見知りのような狭い世界だったんです。今は裾野が広がり、さまざまな方が声優に挑戦できる環境になっていると思います。
──先ほどの虚淵さんの「アマチュアが武器になる」というお話にも通じますが、声優業界でもそうした技術の垣根がなくなり、プロとアマチュアの境界線が少しずつ曖昧になってきている部分はあるのでしょうか?
小岩井さん:
そこはまた、少し違う広がりかたをしている気がします。
プロの声優として仕事をする以上、美しい標準語や「無声化」「鼻濁音」といった、発声におけるマナーのような基礎技術が必須になります。それができないと、プロとしての仕事は難しい面があるんです。
第一線で活躍されている方たちは、そうした「基礎技術を押さえたうえで、あえて崩したお芝居もできる」方なんです。
──まさに職人芸ですね。
小岩井さん:
一方で、「あえて声優さんっぽくないお芝居がほしい」というケースもあって、そういうケースでは専門技術を持たない方が選ばれることもあると思います。今はすごくいろんなパターンがあるという感じですね。
虚淵氏:
スケジュールをあわせるのが難しいこともあるので、バラバラに録って組み合わせる「別録り」の現場もありますし、音響監督によっては「かけあいが大事だから」と、絶対にみんなを揃えたうえで一度に録ることにこだわりを持つ人もいます。
ですから、その時々で声優さんに要求されるスキルもまったく違ってくるんですよね。
小岩井さん:
そこは本当に難しいところです。
虚淵氏:
相手の演技を受け取って返すスキルと、その場にいない人の演技を想像して喋るスキルでは、まったく別物ですから。どんなスタンスの音響監督に呼ばれるかで、現場が全然変わるわけでしょう。
色々な現場で全然違うポリシーの収録を見て、僕は愕然としましたよ。どの現場にも参加できている声優さんたちはとんでもないです。まったく違う要求に応えているわけですから、本当にすごいなと。
小岩井さん:
おっしゃる通り、音響監督さんによって求められるものは大きく変わりますね。
虚淵氏:
綺麗な発音や自分ひとりで完成させるテクニックを磨き抜いた声優さんが、別の現場では何度もリテイクさせられたりする。「もっと相手の演技を受け取って応えてくれ」と。
小岩井さん:
そうですよね(笑)。先ほどお話ししたように、正しく綺麗に喋れる技術を身につけたうえで、今度は「実際の人間は普段そんな喋り方はしない」と、自然な形に崩して調整していくんです。
その世界に生きる人間になるために、せっかく身につけた基礎技術をあえて違う形で出力する。まさに「データは捨てろ」ですね。本当に難しいですが、すごくやりがいがあります。
役者と演出家が対話してキャラを作る。現場での脚本を修正することも
──虚淵さんは、ご自身が手掛けられた作品の音声収録(アフレコ)現場には、基本的に立ち会われることが多いのでしょうか?
虚淵氏:
ええ、その場で脚本を修正しなければならないケースもありますから、基本的には立ち会います。ただ、最近は収録の手法じたいも変化していますね。
小岩井さん:
そうですね。最近はリモートでの立ち会いも増えています。作家の先生方にリモートで繋いでいただいてディレクションを受ける、という形もあります。
──これまで数多くの現場に立ち会われてきたなかで、印象的な出来事はありましたか?
虚淵氏:
とくに強烈な印象が残っているのは、大塚明夫さんですね。「イスカンダルはこう言わないと思う」と、ご自身が完全にキャラクターと同化されたうえで、セリフの違和感について指摘を受けたことがありました。
ですが、それこそが舞台の本質だと思います。役者と演出家が対話しながらキャラクターを構築していくスタイルですね。
こちらとしても「たしかにこのキャラクターならこうは言わないな」と納得できれば、台本は柔軟に変更します。そのときも大塚さんの提案通りに変更しましたが、結果としてそのほうが格段によくなりました。
小岩井さん:
素敵ですね……! 現場のスタイルはさまざまで、虚淵さんのように柔軟に受け入れてくださる方もいれば、台本の変更は受け付けないという方もいます。
ですから役者側としては、たとえ台本に少し不自然な言い回しがあっても「これには何か意図があるはずだ。このセリフを成立させる演技アプローチを探そう」と思考する場合もあります。みなさん、現場に合わせて多様なアプローチをされていますね。
虚淵氏:
結局のところ、観客は台本を読むのではなく、声優の演技が乗った「声」を聴いて作品を受け取ります。
つまり、演技まで含めて初めてキャラクターになる。その演技のプロが「言い回しを変えたほうが自然だ」と言うのであれば、それが正解なんです。
──虚淵さんが作品の脚本を手がけられる際、ご自身のなかで一番大切にされているのはどのようなことでしょうか?
虚淵氏:
それはもう、演者さんに物語構造を理解してもらうという点ですよね。
「このキャラ、わけわかんない」と言われてしまったらもうダメなんです。逆に、理解さえしてもらって、噛み砕いてもらえれば、その演者さんの中にキャラクターができあがりますから。
キャラクターが「何を考えて、何をしたくて、ここにいるのか」を掴んでもらえれば、しめたもの。あとは信頼してお任せするだけですね。
小岩井さん:
演じる側としても、そこさえ掴むことができれば、あとはカメラの前やマイクの前でそのキャラクターとして生きていくだけになります。その本質を掴めた瞬間は、本当に最高ですね。








