家庭用ゲームソフトやアーケード、PCゲームなどでレトロなものが見直されるムーブメントは以前からあったが、2016年11月のニンテンドークラッシックミニ ファミリーコンピュータ(通称ミニファミコン)の登場を皮切りに、ゲーム機のハードそのものが小型化され、プリインストールされたソフトとともに復刻される機会も多くなった。
だが、そういうときにもなかなかファミコン以前に流通したゲーム機について語られることは少ない。その知られざるファミコン以前の歴史を辿ろうとするのがこの連載だ。名付けてRoad To Famicom(ロード・トゥ・ファミコン)。ファミコンへの道だ。
前回の記事では、1972年に発売された史上初のテレビゲーム機MAGNAVOX社のODYSSEYについて調べ上げた。
今回はその孤高に輝く星座のようだったODYSSEYの少しあとの時代に、驚くほどの勢いで咲き乱れたボールゲーム機について見ていこう。全9回の連載をナビゲートするのは、プレファミコン期に明るい古参ライターの武層新木朗(むそうしんきろう)氏だ。
【第1回・公開済み】世界初のテレビゲーム機 ODYSSEYとは?
【第2回・今回】半導体技術が過当競争を生んだ時代 ボールゲーム狂想曲
【第3回】野球ゲームとブロック崩し、その先に見えた可能性 現実世界を超えて
【第4回】本格的マイコンゲーム機の登場 インベーダーゲームを家庭へ
【第5回】輸入テレビゲーム vs. 純国産ゲーム 感情を揺さぶるゲームデザイン
【第6回】ぴゅう太とホビーパソコンの時代 パソコンにもなるテレビゲーム
【第7回】テレビゲーム戦国時代・前編 ファミコン直前に発売されたゲーム機たち
【第8回】テレビゲーム戦国時代・後編 ファミコン直後に発売されたテレビゲーム機
【第9回】ファミリーコンピュータ誕生 時代と子どもとファミコン
じつはこの記事は、週刊ファミ通誌で2008年9月12日号から掲載された全9回にわたる短期集中連載だったもの。今回十余年の時を経てWeb化を試みた。
Web化に際し、時制および表現を最適化しているが、内容については、ほぼ当時そのままだ。(編集部)
国内向けテレビゲーム機第一号『テレビテニス』
1975年9月に玩具メーカーの老舗エポック社からリリースされた『テレビテニス』は、日本で初めて発売された家庭用テレビゲーム機だ。
その名のとおりテニスゲーム(ボールゲーム)の専用機で、まだ得点表示機能はなく、ゲームも1種類だけだったのだが、スクリーン内を自由に動かせるパドルと効果音により、熱い攻防が楽しめた。
ただし、これはエポック社が開発したものではなく、当時アメリカや欧州向けにトランシーバーや音響製品を作っていた白光無線という電子機器メーカーが製造を下請けしたものと言われている。
画面信号を無線で飛ばすなど機能上でも工夫がされていたが、ICやダイオードを使ったテレビゲームでは機能と価格的にこのあたりが限界で、エポック社が考えるところのプレイバリュー(遊びの価値)が打ち出しにくいものだった。
それでもエポック社がテレビゲームという未知の娯楽に踏み出した理由は何だったのだろう。
家電メーカーがスルーしたゲームライセンス
興味深い話がある。前回紹介した世界初のテレビゲーム機ODYSSEY(オデッセイ)は、意欲的な製品にも関わらず日本で本格展開されることはなかった。
じつはODYSSEY発売の約2年後、メーカーであったMAGNAVOX(マグナボックス)社は日本の大手家電メーカー数社にテレビゲームのライセンス契約をもちかけていたが、「利益が薄い」、「むしろビデオのほうが魅力」と、すべて断わられている。
機能第一主義の当時の家電メーカーらしいエピソードではあるが、ここではMAGNAVOX社の交渉相手があくまで家電メーカーであったことに注目しよう。MAGNAVOX社の意識の中には、子どものおもちゃ製造が中心で高度な電子技術を扱えそうにもない日本の玩具メーカーなど、眼中になかったのだ。
しかし当時3000万円の特許料を支払い、日本で早期にこのMAGNAVOX社のライセンスを取得したメーカーこそ、玩具メーカーのエポック社だったのである。しかもエポック社の意識は、すでにテレビテニスにはなかったと言っていい。
エポック社はNECに声をかけて開発チームを組み、つぎなるオリジナルゲームの開発に取り組むのである。テレビテニスは次世代機への布石だったのだ。
半導体量産が招いた過当競争
1976年、アメリカで突如としてテレビゲームの大ブームが起こる。きっかけはたった1個のLSIチップだった。
アーケードゲーム『PONG』の大ヒットに気をよくしたATARI社は家庭向けにも『PONG』を発売すべく、AMI社という半導体メーカーにゲームLSIの開発を依頼する。当時、電卓の世界的需要で急速にデジタル技術が進歩しており、『PONG』はたったひとつのLSIに収めることができるようになったのだ。
そのAMI社とほぼ同時期にボールゲームのLSIを開発した半導体メーカーが、GI(General Instruments)社だ。同社が開発したAY-3-8500チップに収められたボールゲームは、内蔵ゲームが1種類だけの『PONG』よりプレイバリューが高く、光線銃を含めた6種類のゲームが収められていた。
多くの玩具関連会社や商社がこれに跳びつき、日本や東アジアの中小電子機器メーカーなどを使ってテレビゲームを量産した。
消費者は遊園地のゲームコーナーなどでアーケード版『PONG』のおもしろさを認知済みであり、家庭のテレビで遊べるという新奇さも手伝ってボールゲームは爆発的に売れた。やがてほかの半導体メーカーも、GI社よりさらに高性能なボールゲームを開発するようになり、数ヵ月間隔で新チップが登場するようになると、白黒画面のような古いゲーム機はとたんに売れなくなってしまった。
こうして値下げ合戦が加速し、下請けを担っていた日本のメーカーは増加する在庫の解消に腐心した。そこで彼らは日本向けにそれらを売るようになるのである。
筆者が調べただけでも、1977年に日本で売られていたテレビゲーム機は約100機種。その多くが外見こそ違うが、中身は同じという商品だった。やがてアメリカでボールゲームのブームが終わると、資金繰りが回らず倒産するメーカーが続出することになった。
それにしても、外見は違うが中身が同じゲーム機なんて、現在では考えられない状態だ。いや、よく考えてみよう。
この記事に興味を持ってくださる皆さんなら、“FC互換機”という名前に覚えがあるはず。そのありさまは、1977年のボールゲームたちと変わらないではないか。
【コラム】 プレゼントにテレビゲームはいかがでしょうか?
「コーラを飲んで特製テレビゲームを当てよう」、「ラーメンの空袋10個集めてテレビゲームをもらおう」。1977年ブーム時のテレビゲーム機プレゼント合戦は壮絶だった。
食品、飲料水、歯磨き粉、カメラ用品、レコード針から子ども用衣料品と、さまざまな商品の販促品として数千台単位のゲーム機が用意されたのである。
ゲーム機メーカーは前もってLSIチップを数万個~数十万個単位で仕入れる必要があったため、とにかく売って売って売りまくらなければならなかった。ところが任天堂やエポック社が性能のよい低価格機を投入して以降は、旧タイプの白黒テレビゲームの売上げは激減した。
そこで、困ったゲーム機メーカーは消費財メーカーへの販促品用へと在庫を向けたのだ。白黒ゲーム機メーカーがほっとしたのも束の間、任天堂やエポック社のカラーテレビゲームも販促のプレゼントに採用されるのであった。