野球盤の開発者がアイデアを出したシステム10
1977年8月、エポック社は開発に2年数ヵ月をかけて新機種のシステム10を投入。本体セットは10000円を切る9800円。
鮮やかなフルカラー画面と全方向に動くラケットが、まず人目を惹く。しかしそのウリはもちろんゲーム内容だ。
システム10のボールゲームは、ラケットの上端にボールを当てると速球が、下段に当てるとジグザグ魔球が打てるのが最大の特徴で、そのタイミングは難しいが、練習すればするほど快感が味わえるようになっていた。また4人で遊ぶことにより、速球と魔球を組み合わせたフォーメーションの攻防が楽しむこともできた。
システム10の仕様は野球盤の開発者でもある前田竹虎社長(当時)がみずからアイデアを出したという。同氏はその昔、青山にただひとつあったボーリング場に通いながら、1961年にはボーリングゲームを開発。
しかし、このときもあっという間に類似品が蔓延してしまったという。
「ゲームが儲かりそうだというので、最近おもちゃメーカーの参入も多いが、遊びの幅と深みのないゲームを乱発していると、子どもたちからも親たちからも不信を買ってしまう。野球盤のように繰り返して飽きの来ない商品を開発しなければ。テレビゲームに乗り出せるのも言ってみれば野球盤のおかげなのです」
(日経流通新聞 1977年8月18日号)
任天堂テレビゲームの原点──テレビゲーム15、テレビゲーム6
そして任天堂も、すぐれたボールゲーム機を1977年6月に発売していた。鮮やかなフルカラー画面と6種類の多彩なゲームが楽しめるテレビゲーム6は9800円という超低価格だった(このわずか2ヵ月まえに出た松下電器のGIチップ製白黒テレビゲームが24800円である)。
この時期の乱売合戦に終止符を打ったといわれるハードである。
そして15種類のゲームが遊べるテレビゲーム15。両者は同一のゲームLSIを搭載しており、10000円以下という玩具として妥当な価格を打ち出すため、スイッチを加工してセレクトできるゲームの数を削った低価格のテレビゲーム6と、正常な利益の出るテレビゲーム15に分けられ発売されたのは有名なエピソードだ。
意外にも消費者の多くは、15000円と高価だがゲーム数の多い後者を選び、結果的に、2種類合わせてこの時期最大の70万台以上のヒットを飛ばすことになる。
テレビゲーム6と15に搭載された三菱製のLSIチップは、そもそもある電卓メーカーが三菱電機に開発を依頼していたものの、在庫調整の失敗から倒産し、宙に浮いた状態のものを任天堂が引き受けたものだ。
テレビゲーム6や15にも、ボールゲームを熱くプレイする技のバリエーションがふんだんに盛り込まれていた。パドル操作でくり出すカットボールやスマッシュ、そしてパドルを消してしまう裏技など、多彩なテクニックが可能だった。
ハンデ機能や、ご近所迷惑にならないテレビ側のサウンド出力など、家族や友人と長く楽しめる工夫がなされていた。
ちなみに、筆者の母親は電子機器といえば電子レンジしか触らないほど、大のIT機器嫌いだ。往時の『脳トレ』や『Wii Fit』のブームにも、まるで興味なし。
そんな母と子どものころ唯一いっしょに遊んだのがテレビゲーム15だった。片手でできる手軽さに、美しい画面、そして爽快なゲーム内容が、嫌われなかった理由だろう。
そんなテレビゲーム15の心臓部であるLSIを開発した三菱電機北伊丹製作所の半導体チームは、財閥系の三菱グループにありながら、新しいことはどんどんやろうというベンチャー気質に溢れる人々だった。
そこには、さらにおもしろいボールゲームを開発しようと、嬉々として開発に取り組む若手技術者たちと、そんな彼らを背後から見守るベテラン技術者たちの姿があった。彼らの何人かはその後にリコーに移り、数年後、任天堂と運命の再会を果たすことになる。彼らこそ、のちにファミコンを作る男たちだ。
技術は好奇心の手段である
テレビゲーム産業の父と呼ばれ、ブームの渦中にいたATARI社のノーラン・ブッシュネル会長(当時)は、1976年のボールゲーム狂想曲をこう分析している。
「将来、半導体メーカーはビデオゲーム市場から引っ込むだろう。
理由は価格変動の激しさにある。5ドル値下すればお客は飛びつくだろうが、半導体メーカーの根本の間違いは、あくまで半導体を売っていると考え、玩具を売っていると考えられないところにある」
(電子技術1976年12月号)
少々回りくどい言い回しだが、つまり消費者はゲームを買っているのであって、エレクトロニクス技術や製品を買っているのではない、という主張である。もちろん、テレビゲームとは半導体技術があってこそ初めて成り立つものであるが、技術はあくまで遊びを作るための手段だ。
娯楽業とは、いかに相手を楽しませるかというサービス業というわけだ。テレビゲームという娯楽は、カスタムLSIという数億円規模の投資リスクがあり、競争相手も多く薄利商品だ。
それでも“自分たちが遊びを作る”という意識にブレがなかった任天堂とエポック社は、娯楽を作る企業としての気骨があった。いや、好奇心に溢れていたというべきか。そしてこの2社こそが、ファミコンが登場するまでの日本のテレビゲーム市場を牽引していくことになるのである。
【次回ダイジェスト】現実世界を超えて~野球ゲームからブレイクアウト
ボールゲームの人気が去ったあと、ゲームデザイナーたちは新しいゲーム作りに苦心する。機能の弱いハードでどうやって娯楽を生み出すのか? 現実の遊びやスポーツを電子化したシミュレータゲーム、そして現実世界にはないブレイクアウト系のマシンが登場する。
しかし“侵略者”の影は、すぐそこまで迫っていた……。
参考文献:
日経産業新聞1976年3月17日号 ポストカラーのつなぎ? テレビゲーム
日経流通新聞1977年8月18日号 顔:ポスト電卓にぴったり・10面相テレビゲーム
トイズマガジン1977年5月号 特別企画 今年のエース!テレビゲーム
電子材料1977年7月号 家庭用ビデオゲーム
週刊新潮1978年1月13日号 新聞カクザイに転落した・・・
毎日新聞1977年12月29日号 景品人気no.1 テレビゲーム業界ニッコリ
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