2月10日・11日に幕張メッセで開催されるゲームの祭典「闘会議2018」に合わせて、電ファミニコゲーマーでは3本の記事を企画している。
テーマはいずれもeスポーツ。国内で初めてeスポーツのプロライセンスが発行されるからだ。
世界の「eスポーツ」ゲームいくつ言えるかな? いま熱い競技シーンから、eスポーツの条件を考えてみる
複数のeスポーツ団体が統合して新設された一般社団法人日本eスポーツ連合(JeSU)によるプロゲーマーの定義やプロライセンスの発行については賛否両論があり、いまなおあらゆる立場からの議論がなされているが、それらについては「闘会議2018」終了後に掲載する予定の記事で深く堀り下げていく予定だ。
さて「闘会議2018」連動記事の2本目となる本稿では、まだeスポーツやプロゲーマーという言葉が存在しなかった、20世紀に活動を開始したレジェンドたち──ゲームの「名人」や「鉄人」、そして“The Beast”と呼ばれている方々に焦点を当てた。
日本では1980年代のファミコンブームにより名人が、1990年代の『バーチャファイター』ブームにより鉄人が誕生。歴史に残る勝負「背水の逆転劇」で有名なウメハラ氏の名が全国に広まったのも1990年代だ。
つまり名人や鉄人とは、いまでいうeスポーツやプロゲーマーに繋がる文化をゲーム黎明期から作り上げてきた存在だと言えるのではないだろうか。
好きなゲームを仕事にした彼らに話を伺うことで、いまのeスポーツがもっと発展していくための何かが得られるのではないか──というのが本企画を意図した発端だ。
そこで編集部は、高橋名人、ブンブン丸氏、梅原大吾氏(以下、ウメハラ氏)の3名による座談会を開催。高橋名人のゲーム愛に溢れた活動や、ブンブン丸氏とウメハラ氏がそんな名人から受けた影響などの話を通じて、ゲームを仕事にすることについて伺った。
また、高橋名人は一般社団法人e-sports促進機構(現JeSU)の代表理事を務めていた人物であり、ブンブン丸氏は現在フリーライター、そしてウメハラ氏は現役のプロゲーマーとして活躍しているため、それぞれの視点からプロライセンス発行について思うところも語ってもらった。
文・聞き手/クリモトコウダイ
聞き手/小山オンデマンド
写真/佐々木秀二
“The Beast”誕生秘話
──さて本日は、eスポーツ以前の“ゲームプレイを人に見せる”活動についてお伺いできればとお集まりいただきました。お話をいただくのに誰が相応しいかと考えたとき、ファミコンを子どもたちに爆発的に広められた高橋名人、『バーチャファイター』(以下『バーチャ』)シリーズの「鉄人」として、そしてファミ通の編集者として活躍されていたブンブン丸さん、そしてプロゲーマーで“The Beast”というニックネームで知られている梅原大吾さんに伺うべきではないかと考えたわけです。
ウメハラ氏:
日本ではあまり“The Beast”って呼ばれてませんけどね(笑)。
ブンブン丸氏:
海外だけだよね。
──せっかくの機会なので伺いたいんですが、なぜ“The Beast”という名前が付いたんでしょうか。
ウメハラ氏:
世界でBeast と呼ばれるようになったのは、「EVO2004」の背水の逆転劇【※】がきっかけで、「BEAST is unleashed」と解説者が興奮して叫んだことに由来しているんです。聞けばBeastには、獣という野生という意味だけでなく、とんでもない生き物という意味や神秘性のあるというニュアンスが含まれているとのことですが……(笑)。
※背水の逆転劇
「EVO2004」の『ストリートファイターIII 3rd STRIKE』部門で起こった逆転劇。試合はウメハラ氏の操る「ケン」vs米国プレイヤーのジャスティン・ウォン氏操る「春麗」による戦いで、ケンの体力が残りわずかな絶望的といえる状況のさなか、春麗がトドメの鳳翼扇(スーパーアーツ、いわゆる超必殺技)を放つが、ウメハラ氏はこれを全てブロッキング(相手の攻撃が当たる直前にレバーを入れることで、ダメージを無効化するテクニック)し、逆転勝利を収める。
ブンブン丸氏:
「鉄人」は多分、当時流行っていた「料理の鉄人」から取ったと思うんだけど、それとあんまり変わらんね(笑)。
高橋名人:
「名人」は囲碁将棋からだね。インストラクター高橋とか高橋先生っていうのは変だからってことで、名人になったんだ。
──「名人」は分かりやすいですが、“The Beast”と「鉄人」はそこから来ていたんですね(笑)。
──ウメハラさんのお歳(1981年生まれ)だと、高橋名人が一大ブームとなった1985、6年ごろからは少しズレているのでしょうか。
ウメハラ氏:
いや、それなりに直撃ですよ。ちょうどファミコンが欲しいけど、持っていないという年齢でした。
ブンブン丸氏:
『スターソルジャー』が出たときって……。
ウメハラ氏:
まだ5歳ですね。当時名人の16連射にちなんで16個入ってるちょっとしたお菓子があって、それも食べていましたよ(笑)。
高橋名人:
明治チョコスナックの「ハイスコア」かな? 1秒間に16個食べろってCMに出たよ。
ウメハラ氏:
あ!それですね(笑)。あとファミコンの『高橋名人の冒険島』も遊んでいました。
ウメハラ氏:
ただ当時は、名人がプレイしているのを観ていても、まだゲームが上手いか下手かすら判らない年齢でした。だからむしろ、高橋名人の黄色いオモチャみたいなものがあったじゃないですか。
高橋名人:
連射測定機能付き時計シューティングウォッチ──『シュウォッチ』だね。
ウメハラ氏:
それですね! それをみんなで擦ったり定規で弾いたりして10秒間に300連射とかは出していたんですけど、正々堂々と指で叩いて1秒間に16連射はどうしても出なくて、「アレは本当なのか?」って思っていたんです。
そんなときたまたま観たテレビで名人が実演されていて、「本当にできるんだ!」って(笑)。そこから「連射の早い人」って理解しましたね。
──ブンブン丸さんはもう少し上の世代ですよね?
ブンブン丸氏:
ええ。僕はウメハラくんより少し上の世代(1975年生まれ)なんですけど、名人にはモロに直撃した世代で、小学生のころによく『スターフォース』のスコアアタックをしていました。
──小学校高学年でファミコン直撃。いちばんハマりやすいパターンですね(笑)。
ゲームが上手いとモテるのか
──そうやって皆さんに影響を色濃く残した名人は、当時はどのようなことに気を付けて活動されていたんですか?
高橋名人:
まずはどうやったらゲームが面白く見えるかですね。当時はいまのようにインターネットがあるわけではなく、テレビ番組や店頭でのプレイが中心。しかも店頭のイベントはデモプレイだから2、3分しか時間が取れない。さらに当時のファミコンって、信号が擬似NTSC【※】だから放送機材ではうまく録画できないんですよ。
だから「オープニング直後から2、3分のあいだに進んでいく場所をいかに面白く見せるか」ということを考えて、そこばかりすごく練習したかな。それこそ画面を見なくてもプレイできるぐらいには。
でもファミコンキャラバンのいちばん最初の年(1985年)は、それ以上に気を付けないといけないことがあって……。というのも1978年に『スペースインベーダー』がゲームセンターが日本中に広がって、それを受けて1983年にファミコンが発売されるわけなんだけど、当時のゲームに対する世間のイメージって“悪”だったのよ。「それを何とかしないといけない」って思って、とにかく明るく楽しそうにプレイすることに気を付けたね。「テレビゲームで遊ぶのはこんなにも楽しいんだよ!」って。
※擬似NTSC
NTSCとは映像信号の規格のこと。ファミリーコンピュータをはじめ、昔のゲーム機はNTSCに見せかけた擬似NTSCという信号で映像を表示していた。当時の一般的なキャプチャーボードは擬似NTSC信号に対応していなかったため、実際にプレイヤーが見る表示に比べて色のズレなどが生じ、そのままではうまく録画することができなかった。
──実際、それでイメージは変わりましたよね。
高橋名人:
ありがたいことに、『ゼビウス』の遠藤(雅伸)さんにはよく「最初の名人が高橋名人でよかった」って言われるよ。不良のイメージがなくなったって。
ブンブン丸氏:
『ストII』が流行っていたころは、まだゲームにもアングラな匂いが残っていたけど、そのあたり以降はゲーセンもイメージが変わりましたよね。
高橋名人:
そうだね。そのあたりからコンシューマーゲームとアーケードゲームの方向性が分かれていくんだけど、ゲーセンで言えば1986、7年ごろにUFOキャッチャーが登場してからは、女の子や親子連れがアーケードゲームを楽しむようになったからね。
デートの途中でゲームで遊んで、またデートの続きをするみたいなさ、そういうことを楽しむ場所にはなった印象があるかな。
ブンブン丸氏:
でも当時の僕らがゲーセンをデートで使うと、彼女のほうがつまんなそうにゲーム画面眺めるって感じだったよね(笑)。
ウメハラ氏:
まあそうですね(笑)。
ブンブン丸氏:
彼氏が練習しながらたまにキレそうになっているのを、女がつまんなそうに見てるっていう構図(笑)。
──いま女性の話が出たのでついでに聞いちゃうんですが、ゲームが上手いとモテるんでしょうか?
高橋名人:
俺、小学生にはチョコいっぱいもらったよ(笑)。
ブンブン丸氏:
確かトラック数台分が届いたんですよね?
高橋名人:
バレンタインのときは、赤帽のトラックで3台分ぐらいだね。
ブンブン丸氏:
僕はそんなになかったな……せいぜい段ボールぐらいでしたよ。ファミ通に届いていたヤツは。てかウメハラくんは凄いでしょ?
ウメハラ氏:
いやいや、全然ですよ(笑)。やっぱり時代が違うんじゃないですかね?あってもイベントのときに差し入れを頂く程度ですよ。
高橋名人:
そういえば昔ね、郵便物の宛先が「東京都 高橋名人」で届いたことがあったんだよ(笑)。「東京都 ハドソン 高橋名人」だったらまだ分かるけど、よくこれだけで届いたなぁと。
ブンブン丸氏:
本当によく届きましたね(笑)。
──それだけ世の中に名人やファミコンが認知されていたということですね。
ウメハラ氏が高橋名人から見出した可能性
──ここまでのわずかなエピソードからでも、やはり高橋名人は子どもたちをゲームに引き込んだ第一人者だとわかりますね。
ブンブン丸氏:
名人って完全にタレント化してましたよね。僕らも人にプレイを見せるという意味では似たようなことをやってきていると思うんですけど、間違いなく完全に先駆者ですよ。
ウメハラ氏:
じつは今回高橋名人にお会いして、気が付いたことがあるんですよ。
僕は20代前半まで1年のうち363日はゲーセンに通っていたんですが、そのことについてよく「なんでそんなに行ってたんですか?仕事になるわけでもないのに?」って聞かれるんです。
当時の自分としては、「こんなに熱中してやっているし、結果も出ているんだから、心のどこかで誰かが俺のことを見つけてくれるんじゃないか」と期待していたんですよ。「見つけてもらったら何かが変わるんじゃないか」って。
そう思うようになったきっかけは、思えば高橋名人だったんだなって。名人を見て“ゲームが上手ければ有名になれる”ってことを知ったんですよ。
──当時の名人は子どもたちにとってヒーローでしたからね。
ところで少し細かい話ですが、先ほど1年のうち363日と言っていましたが、残りの2日はどうされていたんですか?
ウメハラ氏:
うちは放任主義な家庭だったんですけど、「12月31日と1月1日だけは家に居ろ」と言われていたので(笑)。普段は何も言われないので、「それだけは聞いておこう」と(笑)。
ブンブン丸氏:
お盆は大丈夫だったんだ(笑)。
ウメハラ氏:
大丈夫でした(笑)。
高橋名人:
え、でも1年でどれくらいお金を使っていたの? 1日あたりでもスゴそうだよね?
ウメハラ氏:
いま思うと恐ろしいんですけど、両親が共働きで、祖母が食事の支度をしてくれていたので、両親からもらっていた食費を使い込んでいました。……だから凄く痩せていましたよ(笑)。
ブンブン丸氏:
そういうヤツっていっぱいいたよね(笑)。
高橋名人:
それで「限られたお金でいかに時間をもたせるか」となると、上手くなるしかないんだよね(笑)。
ブンブン丸氏:
しかも当時はプロ化なんて発想がなかったから、ゲーム以外からゲームのためのお金を得るしかなかったわけで。
──そういう状況下だと、高橋名人のようにゲームをすることが仕事に繋がる人は憧れになりますね。
ウメハラ氏:
ファミコンブームで高橋名人が活躍されたり、その後に『ストII』ブームで太刀川(アキラ)さんという方がコロコロコミックで漫画になったり、ブンブン丸さんのような『バーチャ』の鉄人たち登場したり……そういう方法があるんだということを意識するきっかけをくれたのは、間違いなく高橋名人だったといまにして思いました。
ブンブン丸氏:
僕は2Dのゲームもやっていたからウメハラくんのことは知っていたんだけど、ウメハラくんにはそういう機会がなかったんだろうね。
ウメハラ氏:
まったくなかったですね(笑)。ただそういう人たちが活躍するのは真横で見ていたので、「僕にも一回でいいからスポットライトが当たらないかなあ」という思いはあったんです。
ですがファミコンブームも『ストII』ブームも『バーチャ』ブームも、ぜんぶ僕の横を通り過ぎて行って(笑)。
──言われてみればそうですね。
ウメハラ氏:
だから22歳ぐらいで、一度ゲームから離れちゃったんですよ。
世の中に強く影響力のある人が「ゲームの世界も結構捨てたもんじゃないらしい」なんて言いながら、いつか自分に気づいてくれるという期待を持ち続けていたんですが、そこで諦めてしまったんです。
──ですが2010年にはプロ宣言され、再びゲームに戻って来られていますよね。
ウメハラ氏:
アメリカの有志たちが「ウメハラが帰ってきたらしいぞ!」と盛り上がってくれたことをきっかけに、2009年の「EVO」【※】に呼んでもらって。そこで優勝し、それを見たゲーム周辺機器メーカーのマッドキャッツが「思いっきりゲームをしてみないか」ってプロに誘ってくれたんです。でもそのときは「いやプロはきついですよ」って感じで(笑)。
でもさんざん考えたあげく、「これ以上得意なことも好きなこともないので、最終的にはこれ以上の仕事はないぞ」と思ったんです。プロに至るまでの悩みや苦労が全体の苦労の90%ぐらいを占めるので、プロになってからの苦労はどうってことないですね(笑)。
──そこまでしてスポットに当たりたかった理由はなんなんでしょうか。
ウメハラ氏:
それも先ほどの名人の活躍に繋がる話で、ゲームって風当りが強いものじゃないですか。誰も最初はみんな素直にゲームを楽しんでいても、思春期になると「ゲームってカッコ悪い」となって離れていきがちだし、大人たちは最初からゲームに対していい印象を持っていない。そういう社会からの評価の低さをずっと感じながらゲームをやっていたんです。
僕も21、22歳ぐらいのときにゲーマーにとって名誉のある「闘劇」や「EVO」といった大会で称賛されたりはしたんですが、でもそれも閉ざされた空間の中で褒められただけで、ゲームに偏見を持っている人たちからの見かたは変わらなかった。
だからテレビにまで出て16連射をしていた名人は、いまも昔も凄いなって思います。
──時代も移って昔に比べればゲームへの風当りはそれなりに弱くなったと思うんですが、ここ最近のeスポーツシーンはウメハラさんの考えていた理想のものに近づいたのでしょうか?
ウメハラ氏:
子どものころに思い描いていたのは、まさにいまのような状態だと思います。でも、いざこういう時代になってみると……ね(笑)。昔のままのアングラな匂いのするほうが僕の性には合っていたかなと思うときもあったりしますけど……子どものころの夢は叶ったと思います。
高橋名人:
でもそういうもんだよ。実際になんでもプロになったら、夢だけじゃなく背負うものもあるわけだし。