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「手を繋ぐまで3年」ボーカルあまねと結婚するビートまりおが爆発する前に、東方同人の濃ゆい歴史を聞き出しておいたよ

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 「東方Project」(以下、東方)という名前は、今やすっかりお馴染みだろう。
 この同人サークル「上海アリス幻樂団」が展開する弾幕系シューティングゲームは、コミケで独特の世界観が人気を博し、公式の音楽CDや漫画作品に加えて、数多の二次創作作品が生み出されてきた。

2015年に発売された東方紺珠伝。(画像は上海アリス幻樂団公式サイトより)
2015年に発売された東方紺珠伝。(画像は上海アリス幻樂団公式サイトより)

 さらにニコニコ動画登場後には、黎明期に「アイドルマスター」「VOCALOID系」と並ぶ、3大ジャンルの一角を形成。「ゆっくり」から最近の「クッキー☆」まで、東方を元ネタとする数々のネットスラングが生み出されてきた。近年では東方作品オンリーの同人誌即売会「博麗神社例大祭」が東京国際展示場で開催される一大イベントへと成長するなど、もはや日本のコンテンツビジネスを考える上で欠かせない“一大派閥”へと、東方は成長してしまったのである。

 さて、そんな東方を、初期から二次創作やアレンジ、作曲で盛り上げてきた立役者の一人が、ビートまりお氏だ。彼の名を知らない人も、以下の楽曲を聴けば「知ってる!」となる人も多いだろう。

 

 彼は上の『最終鬼畜妹フランドール・S』『Help me, ERINNNNNN!!』など、ニコニコを知る人なら誰もが聞いたことのある曲のアレンジや、オリジナル曲の作詞作曲を手がけてきた。ボーカルとしても、アニメロサマーライブ2008で声優界の大御所たちと並び、さらには最近ではPSO2に『ヨーコソ・アークス』を提供するなど音楽活動の幅を広げている。

 ……で、ここからが本題である。
 実はそんなビートまりお氏が、一緒に同人活動をしてきたボーカル、あまね氏と今回、結婚する運びとなった。「知らんがな!」という電ファミ読者も多かろうが、二人の結婚のツイートは夫婦で合計3万に及ぶRT数を稼ぎ、その日はインターネットの一角が大騒ぎになり、各種まとめサイトでも取り上げられたという大事件だったのである。

ビートまりお氏の結婚報告ツイート。
ビートまりお氏の結婚報告ツイート

 しかも、ビートまりお氏は11月22日(火)、結婚披露宴とライブを同時に行うという前代未聞のイベントCOOL&CREATE LIVE PARTY WEDDING 披露宴あまねりお」を開催することも発表。何が何だかさっぱり分からないが、とりあえず電ファミ編集部としてはこのビッグウェーブに乗っかって、披露宴をライブ中継することを決定した。

 というわけで今回そんなビートまりお氏に、電ファミでその活動歴を語っていただく。
 数々のミュージシャンを輩出したBM98に、00年代のコミケの急成長の中でもはや部外者には訳が分からないレベルで巨大化した「東方」――以下のインタビューを読めば分かるように、彼の活動史はそれ自体が、日本の00年代以降のゲームと同人文化の刻んだ歴史そのものである。

 ちなみに、そんな取材の最後には、なぜかビートまりお氏の妻となったあまねさんも登場。二人のなれそめや披露宴ライブへの意気込みを語ってもらっているので、ぜひファンの人は楽しみに、そしてファンでない人も「リア充(ry」と言わず、終わりまで読んでいただければと思う。

聞き手/斉藤大地
執筆/森祐介
カメラマン/増田雄介

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音楽ゲーム「beatmania」が始まりだった

——まず、ご結婚おめでとうございます! 披露宴とライブの準備で忙しいなか、本当にありがとうございます。

ビートまりお氏(以下、ビートまりお):
 ありがとうございます。いやあ、「結婚式の準備は大変だ」とは聞いてたんですが、本当に大変ですね。席次を決めて、ドレスを決めて……こんなに何もかもちゃんと決めないといけないのかって。

——しかも、ライブもありますからね。ライブで「席次を決める」という言葉は初めて聞きましたけども。

ビートまりお:
 そうなんですよ。あまねさんと「結婚式なのはわかるけど、これはライブじゃん!」「いや、ライブなのはわかるけど、これは披露宴でしょ!」ってプチ喧嘩がはじまったりして。「ああ、なるほど、ごめんね」って感じでワイワイやってます。

——いやあ……とりあえず「爆発しろ」と念じながら、インタビューを始めたいと思います(笑)。それにしても、最近の東方は本当に10代のファンが多いんですよね。みんなライブで不器用にタオルとか回してるじゃないですか。

ビートまりお:
 確かに、ライブに慣れてない感じがあってかわいいです。ここからまた新しい東方の文化ができていく予感がありますよね。ただ、最近は小学生も来ちゃうから「どうしよう……」って感じですよ(笑)。

――たぶん、まずこの事実をほとんどの人は知らないと思うんですよ。今の30代以上の男性オタクで「東方はニコ動で昔見たなあ……」程度の認識の人は多いと思うんですが、実は下の世代にかなり人気が波及しているんですよね。

ビートまりお:
 ステージ上で「初めてライブに来た人ー!」って言ったら、たくさん手が上がって「おお、マジか!?」ってなりましたから。例えば、YouTuberのHIKAKINさんが小学生に人気じゃないですか。ああいうのを他人事のように見てたんですけど、例大祭で集まってきてくれる子供たちに「まりおさん、サインください!」って僕も言われて、「あれれ」と。

——若い子たちが、ビートまりおさんの下ネタで喜んでました。

ビートまりお:
 「クッキー☆」ってわかります? ぼくは全然知らなかったんですけど、子どもたちがそのネタを知ってる前提で話しかけてくるんですよ。

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——なかなかに禁断の話題ですが、まあぶっちゃけ「淫夢ネタ」ですね。

ビートまりお:
 僕に「当然知ってるでしょ」みたいなノリで話しかけてくるんですよ、ホモガキたちが(笑)! あれって昔、ガチムチパンツレスリングシリーズが流行ったノリで流行ってるんですよね。その流れで東方を知る、みたいな層もいるみたいです。

——そんなルートが(苦笑)。まあ、淫夢ってあらゆる趣味が分断された現代における、男の子オタクの唯一の共通知識みたいになってますからね。もちろん、女子高生とかもだいぶ淫夢用語を使ってますけど。

ビートまりお:
 もう、ネットスラングにしっかり組み込まれてますもんね。

――そんな淫夢トークはさておき、ビートまりおさんと東方の歴史について、今日はお伺いしたいんです。そもそも音楽に興味を持ったきっかけは何だったのでしょうか?

ビートまりお:
 いや、実は高校生になるまで、音楽とはまったくの無縁です。せいぜい、母とカラオケに行くくらいです。ただ、高校時代にゲーセン仲間と「ゲーセン部」と称してつるんでたくらい、ゲームが子供の頃から大好きなんですよ。シューティングゲームの『怒首領蜂』が好きだったんですけど、あれって上手い人がやると待ち時間が長いんですよ。
 で、そんなある日、仲間から「DJになりきれるゲームが出たらしいぞ」と聞いたんですが、これがプレイ時間が短くて、とっつきやすいんですね。

――「beatmania」(以下、ビーマニ)ですね。

音ゲー普及のきっかけとなった「beatmania」。(画像はWikipediaより)
音ゲーが広まるきっかけとなった「beatmania」。(画像はWikipediaより)

ビートまりお:
 そう。それが始まりでした。まあ、今振り返ると、「本物のDJはボタン叩いたりしねえよ」って感じですけど、あそこから音楽クリエイターになった人は沢山いますからね。凄いゲームだったんだと思います。その後は、『Dance Dance Revolution』もガチでやってました。東北地方の初回ランキングでかなり上の方のスコアを出せて、「やったぜ!」って思ったのを覚えてます。

——もしかして、ずっと使われている「ビートまりお」という名前はビーマニに由来するんですか?

ビートまりお:
 そうです。友人と地元のラジオ番組にハガキを投稿するときに、「名前どうする?」と盛り上がって、そのときにビーマニ好きだし、任天堂のゲームのマリオをかけて、響きをビートたけしに似せて、「ビートまりお」にしたという。まあ、単なるノリですね。

――それにしても、もはや従来のミュージシャンの音楽への入り方とは違いますよね。実際に作曲やアレンジを始めたときには音楽の勉強はされたんですか?

ビートまりお:
 いや、全然。
 ビーマニにハマった後に、インターネット上で「BM98」の存在を知ったんです。そこで遊んでるウチに、自分でも作りたくなって譜面をいじってたら、作れちゃいました。高校時代のことですね。当時はまだMIDI文化があって、中学生の頃からパソ通でアニソンのMIDIを集めてたんです。それを作者の人に許可を取って改変しながら覚えていって、徐々に作曲の環境が整っていった感じです。

――ははは。BM98について補足すると、先ほど出てきた音楽ゲーム「beatmania」を模したシミュレータですね。当時はこのゲーム用に考案されたBMS(Be-Music Source file)というフォーマットとセットで、ネット上で一大ムーブメントを巻き起こしました。でも、その話は凄いですね。

ビートまりお:
 いや、こんな感じでビーマニやBM98で遊ぶところから作り手になっていった人は、僕の世代には多いと思います。
 世の中には「まず音楽理論を勉強しろ!」みたいな風潮があるかじゃないですか。僕、それが大っ嫌いなんです。よく「まりおさんみたいに曲を作るためには音楽理論とか勉強した方が良いですか?」って聞かれるんですが、毎回「まず触れてみるのが一番良いと思う」って伝えてます。ニコ動でも「音MAD」とかあるじゃないですか、ああいうのも曲を作るようになる、良い「入り口」ですよ。

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――まずはごちゃごちゃ理屈を学ぶ前に、手を動かして作っちまえよ、と。

ビートまりお:
 僕の場合は自分でイチから作ったのは、大学生になってすぐの頃ですね。最初に作った曲は、どこかで聞いたことのあるようなメロディーでしたけど、今でも「ビートまりおの原点だ」と思ってます。ちなみに、この曲は僕の「COOL&CREATE」のサイトにまだ残ってるんですよ。まあ、それは単にサイト更新を放置してるだけなんですけど。エロゲーのアレンジ曲『-雫- True “dAncing” End』です。

――オタクの中でもどういう界隈の方だったのか、大変によく分かりました(笑)。

ビートまりお:
 まあ、僕がネットをやってた理由が分かりますよね……男子高校生だもん、そりゃそうですよ!

 で、当時は「Re-Rise」という、アニメやゲームのアレンジ曲がたくさんアップされる楽曲投稿サイトに曲を上げてました。そこではレビュアーが「金・銀・銅メダル」と評価をつけたり、感想を貰えたりするんです。自分も登録してみたら、高評価をつけてもらえて、ものを作って評価してもらえる嬉しさを知りました。
 ネットでランキングがあって、評価がつく場があることって本当に大事なんですよ。ニコ動で再生数が伸びるのも同じですよね。そうして「どんどん次も作ろう」って気持ちになって、作曲を続けるようになりました。そうしたら、あるときRe-Riseで登録された楽曲で、過去最多インプレッション数と最多金メダルをゲットできた楽曲『約束-HappyHyperStarmiX』が出たんです。自分でも「この曲はイラストも譜面もイケてるぞ!」と思って出したらそうなって、これは僕の中で大きな自信になりました。今でも誇りに思っています。

BMSとは何だったのか?

――でも、当時のBMSの文化はもう少し聞きたいですね。その後、BMSからはボーカロイドでも有名クリエイターが何人も飛び出したわけじゃないですか。今の若い人は「ニコニコ動画」登場以降のCGM史しか知らないけど、例えば有名な歌い手の多くが2ちゃんねるのカラオケ板の住人だったり、初期のゲーム実況がネットラジオで育った歴史があったりするように、実はCGMの作曲文化にもBMSという「前史」があると思うんです。

ビートまりお:
 当時は、中高生が多かったんじゃないですかね。とりあえず、僕の高校のクラスの友達連中はCrankyさんが新曲を出すと、「うおおおおお」と盛り上がってましたけどね。

――Crankyさんは凄まじかったですね。いや、でも、やっぱりだいぶ周囲がコアな子供たちだったのでは……。

ビートまりお:
 いやいや、そういう人は全国にいたと思いますよ。
 ただ、当時はパソコンを持ってる人も少なかったし、しかもインターネットを使ってファイルをダウンロードして、ZIPを解凍して、というハードルもありましたからね……。ちなみに、当時のBMSでは「フロッピーディスク1枚に収まらない容量のデータは嫌われる」という風潮があったんですよ。「1MB以下じゃないと許せん」的な。でも、そんな中に凝縮された世界が広がっていたんです。

――当時は「まだアングラだけど、ここには新しい音楽があるんだ!」みたいな熱気はあったんでしょうか。

ビートまりお:
 まあ、僕の場合はゲーム曲アレンジ畑だったので、「このアニメの曲好きー、このゲームの曲カッコいいー」みたいなことしか考えてなくて、「意識が低い」側だったので(笑)。オリジナルは「意識が高い」人たちのもので、格式が高いという風潮があったんですよ。
 当時BMSの投稿サイトは二大巨頭があって、一つは僕が投稿していたアニメ・ゲームのアレンジ曲が多い「Re-Rise」。で、もう一つはオリジナルの楽曲を投稿するサイトで、「Club Stubborn」です。この「Club Stubborn」(クラスタ)の人たちは、今でも愛着を持っていて、古参が集まるとその話題で盛り上がってます。

Club StubbornのHPのログ。
Club StubbornのHPのログ

 ただ、確かにそういう熱気はあったかもしれませんね。だって、こんなに気軽に音楽を作って楽しめるようになったんです。ゲーセンの「音ゲー」からの盛り上がりがここまでの文化を広げていったのは、本当にスゴいと思います。今、当時のBMSクリエイターたちが脚光を浴びているのを見て、僕は改めて「ああ、あの時代は間違ってなかったんだな」って思ってます。

――当時、有名だったのはどんな人たちですか。

ビートまりお:
 色んな人がいましたけど、やっぱり僕の憧れはCrankyさんです。
 彼はさっき言った、1MB以下のファイルしか許容しない風潮を打ち破って、最高の音質を追求していったんですよ。格好良かったなあ。もうね、彼が楽曲を公開するたびに「Crankyの曲が来たぞ!」と祭り状態になるんです。僕も、彼がクリスマス限定で曲を公開したときには、パソコンに張り付いてなんとかゲットしたものです。
 当時から格好いい曲をたくさん作ってた方々は、今でも活躍してる人も多いですよね。sasakure.UKさんとかもそうです。憧れの存在は本当に沢山いました。

――でも、ビートまりおさんも、明らかにその有名人の一人ですよね。

ビートまりお:
 東京の人たちはオフ会を通した繋がりがあったんです。今でもIRCのチャットがあると聞きました。自分は地方出身なので、なかなか参加できなくて……ちょっとさみしかったですね。
 ただ、BMS関連の選ばれし人たちだけが参加できる大会「B-1 ClimaX “the Revenge”」があって、そこに呼んでいただけたことがあったんですよ。そのときに作った曲「Destined Marionette」が、大会で一番インプレッション数が多くて、「がんばったな、自分!」って思いましたね。

——BMSのトップランカーに名を連ねたわけですね。

ビートまりお:
 自分で言うのは、ちょっと恥ずかしいですね。でも、多くの人に評価されて、ずっと見上げていた憧れのCrankyさんと同じステージに立てたとき、おそれ多くもありながら、本当に嬉しかったです。

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――それにしても、ビートまりおさんは多くの人を惹きつける譜面作りに長けていたんですかね。なにか秘訣はあったのでしょうか?

ビートまりお:
 楽しいかどうかは大事にしてました。自分でプレイして楽しくなかったら、他人がプレイしても絶対に楽しくないはずですよね。だから、音も聞いていて楽しいように作ります。
 あとね、僕のビーマニの腕前が、平均よりちょっと上くらいだったのは大きいんです。僕の腕前に合わせて作ると、「あとちょっとでクリアできる」と思えるくらいの、ちょうど何度もトライしたくなる難易度になるんです。逆に上手すぎる人が作ると、いわゆる「クソ曲」になりがちなんです。

――なるほど……! ちなみに、ネットで他にも活動ってされてたんですか。

ビートまりお:
 実はニュー速VIPのテーマソングを名前を出さずに歌ったことがあるんですよ。最近になって、「これビートまりおじゃね?」ってザワついてて、「ついに発見されたな!」って。「みんなでテーマソング作ろうぜ」っていうスレがあって、タイトルはアンカーで7で……って決めて進んでいったんですが、7の人が「7」って書いたから曲のタイトルが『7』になっちゃったという。最終的にはFlash(PCからのみ)が作られて、今でもニコ動に上がってますね。

――その曲、読者でも知ってる人は多いと思いますね。

コミケに参加した経緯とは

――そろそろ東方のお話を伺っていきたいのですが、そもそもコミケにサークル参加した経緯は何だったのですか?

ビートまりお:
 まあ元々オタクなので、高校時代には東北から夜行バスで参加してたんですよ。
 確か2001年に、BMS界隈の人から「CD作ってコミケで売るから、参加しないか?」って誘われたのがキッカケですね。そのうち、自分でサークル参加してみようと思って、過去に発表して人気が出た曲をCDにして参戦したのが2003年冬の「コミケ’65」でした。初めて同人CDを作ったのがこのときに出典した「Beat鍵」ですね。

――その名前は……(笑)。00年代初頭は渡辺製作所(現在は「フランスパン」として活動)の格ゲーもあったりして、まさに二次創作は「葉鍵」【※】全盛期でしたよね。それをまさに置き換えていったのが東方だったわけですが。

Keyの代表作『Kanon』。
「Key」の代表作『Kanon』。(画像は公式サイトより)

※「葉鍵」
美少女ゲーム史の一時代を築き上げた二大ブランドである、アクアプラスのゲームブランド「Leaf」とビジュアルアーツのゲームブランド「Key」の総称。

ビートまりお:
 いやもう、「葉鍵」は大好きでしたね。『To Heart』に出てくるHMX-12 マルチ【※】が大好きでした。イラストもいっぱい描いてましたから! 『雫』や『痕』とかも好きで、ネットにもいろんな画像がアップされていたので、全部ダウンロードして“日々の糧”にしてました。あと、他にもTacticsから出てた『ONE 〜輝く季節へ』に出てくる茜っていうキャラが大好きで大好きで……しばらく現実に戻ってこれなかったですね。「茜ー、茜ー」って泣きながらネットでいろんな画像探して。当時はゲームで泣くなんて思ってなかったな……。

『To Heart』のキャラクター、マルチ。(画像は公式サイトより)
『To Heart』のキャラクター、マルチ。(画像は公式サイトより)

※「HMX-12 マルチ」
美少女ゲーム『To Heart』のメインキャラクターの1人。開発者に心を持たされたメイドロボットで、このキャラのシナリオは“泣きゲーシナリオ”のはしりとされている。

――ええと、話が限りなく脱線していきそうなので戻しますが(笑)、初めて同人CDを出してみた評判はどうでしたか?

ビートまりお:
 CD-Rを手焼きして、ジャケットも手で切って、中身も全部手で切って、ブックレットも自作して、友人も巻き込んで手間暇かけてがんばったので「ちゃんと売れるかな?」って、ちょっと心配してたんですが……もう瞬殺で売り切れました。しかも、そのときの配置が、「お誕生日席」だったんですよ。「BMS界隈でちょっと名の知られてるビートまりおだから」ってことだったと思うんです。

――コミケの人って、本当に色々とよく調べてきますよね。その後はどうなったんですか?

ビートまりお:
 「葉鍵」の次は『ラグナロクオンライン』(以下、RO)にハマって、それを出しました。ちなみに、ROがきっかけで大学を留年、休学までしてしまったんですよ。大学を辞めたきっかけの一つでしたね。

――ネトゲで大学中退! どのくらいハマってたんですか?

ビートまりお:
 いやもう一日中布団から出ないでゲームをやりっぱなしで、疲れたらモニターを横に倒して寝ながらゲームを続ける感じですね。でも、当時みんなそうだったと思いますよ。さすがにペットボトルにおしっこはしなかったですけど。でも、ROのCDはコミケで壁に配置してもらえたんで、ムダじゃなかったかな、と思ってます。

――うーむ。それにしても、大学に行かれていたんですね。

ビートまりお:
 AO入試で受験して、自分のホームページに上げた絵とか、BMSの曲をCD-ROMに収めて提出したんです。「インターネットの最先端を行く活動をしています!」ってアピールしたら、合格できました。「(爆)」とかいっぱい使ってあって、今見るとイタいんですけど。

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――黒歴史をさらして進学した挙げ句に、ネトゲで退学。

ビートまりお:
 で、大学では『げんしけん』に憧れてサークルを作ったんですけど、特に何もしていなかったような……。
 ただ、大学で今でも一緒に活動しているmyu314と出会ったんです。彼は「Club Stubborn」で高い評価を受けていた憧れの人で、確かインターネットの掲示板で「同じ大学じゃん!」と繋がったのがきっかけだったんだと思うけど、そこから意気投合して一緒に活動するようになりました。

――それが同人サークル「COOL&CREATE」の活動のきっかけなんですね。しかし、本当に人生がインターネットの活動で構成されてますね。

そして東方へ

――2003年冬にシューティングゲーム曲のアレンジCD「STG×STG」を出してますよね。キッカケは何だったんですか?

(画像は公式サイトより)
シューティングゲームアレンジCD 「STG×STG」。(画像は公式サイトより)

ビートまりお:
 当時、コミケでROと入れ替わるように東方が流行り始めた頃で、他のサークルさんから「東方のCD出すから一緒にやらないか」って誘ってもらったんです。ちなみに、その作品は初の東方の創作アレンジCDなんで、僕は最初の作品に参加してるって言い切れるんです。ちょっとした自慢ですね。

——東方の情報は、どこで知ったんですか?

ビートまりお:
 実は、『東方紅魔郷』のちょい前くらいなんですよ。大学の研究室の先輩に「シューティングが好きなら『秋霜玉』ってゲームがおもしろいよ」って教えてもらって、もうドハマリしたんです。しかも「曲を作ってるZUNさんってすげー!」と思って追いかけたら、夏コミで『東方紅魔郷』の体験版が出るという話になったんです。

2002年にリリースされた『東方紅魔郷』(画像は公式サイトより)
2002年にリリースされた『東方紅魔郷』。(画像は公式サイトより)

――『紅魔郷』は東方初のWindows版でしたよね。広く東方が知られるきっかけになった作品だと聞いています。

ビートまりお:
 ちょうどZUNさんが会社を辞めるか辞めないかでふわふわしてた頃ですね。その頃の同人誌は奥付に住所を書く約束になっていたので、ZUNさんの本名も載ってたんですよ。僕の最初のCDにも、本名とともに岩手県のアパートの住所が載ってますから、平和な時代でしたね。

――当時の東方って、どのくらいの人気があったのでしょうか?

ビートまりお:
 当時、「渡辺製作所」代表の、なりたのぶやさんがHPで書いている雑記が、同人ソフト界で影響力があったんですよ。そこで「『東方紅魔郷』がスゴい」と書いているのを見て、みんながざわざわ群がっていったという印象です。実際、東方がなぜ盛り上がったのかを周囲と話すと、あの雑記をみんな挙げますからね。

なりたのぶやさんの雑記(現在は閉鎖)。
なりたのぶやさんの雑記(現在は閉鎖)。

――確かに、あの雑記から話題になった同人ゲームは多いですからね。00年代初頭の同人ゲーム文化を考える上で、最重要のサイトですよね。

ビートまりお:
 で、その次に出した「東方ストライク」は、自分で言うのもなんですけど、試聴版の頃からネットで評判が良かったんです。コミケのあとも、当時は2ちゃんねるの影響力が大きかったんですが、書き込みで褒められていたのを覚えてます。
 それに、今でこそ沢山のサークルが東方のアイテムを出してますが、当時はまだ少なかったんです。だから、「東方の二次創作ならこれを買って聴くべきだ!」と言ってくれる方が多かったですね。それで自信がついて、大学を中退して東京に出てくる決断が出来たのはあります。

――あと、これの隠しトラックで初めて歌モノに挑戦していますよね。

ビートまりお:
 昔、高校の文化祭のカラオケ大会で3年連続で優勝したりとかはあったんですけど、さすがに自分のボーカルが評価されるなんて思ってもみなかったです。
 その後、2006年に東方のライブイベントをやるという話が出てきたときに、僕はインストしか作ってなかったので、主宰のどぶウサギさんに「じゃあ歌詞をつければいいんじゃないか」って言われたんです。それがキッカケで、「Help me,ERINNNNNN!!」に歌詞を付けたんですよ。

――そのイベントは「Flowering Night」【※】ですよね。当時はそもそもオタク文化の中に、あまりライブカルチャー自体がなかったですが、ここから歌モノの文化が盛り上がっていきました。

※Flowering Night
2006年から開催されている東方Projectに関連する同人音楽イベント。ライブ演奏が特徴。

ビートまりお:
 東方界隈も歌モノを聞きたいというニーズがあったんでしょうね。その波に乗れた部分はあるんだと思います。

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