前回に続き、過去をがんばっていこうと思う。1990年代の初めの頃の話題からだ。
始まりは「少年マガジン」の歴史の編纂
ぼくは大学に通いつつゲームセミナーを受講しながら、「マルチメディアコンテンツ」やゲーム制作をしている会社でアルバイトをしていた。コンピューターの使い方を学びながら、開発現場を体験できるいい機会だった。
講談社の『週刊少年マガジンヒストリー』(講談社・1992)というマルチメディアコンテンツ制作に携わった。これは1954年の創刊号から当時の最新号までの「週刊少年マガジン」を網羅したデータベースソフトで、ぼくは主に本誌表紙のスキャニングや連載マンガを象徴するカットのセレクトをおこなった。
また、ソフト内の1メニューである「ミニシアター」という簡易アニメーションのスクリプト記述も担当した。マンガの純度を保ったまま映画化した大島渚の『忍者武芸帳』【※】を目指した。
制作過程で印象に残っているのは、『紫電改のタカ』【※】だ。戦闘機のアクションシーンは映像にすると栄えると思ったのだけれど、なかなかいい感じにはならず苦戦した。マンガの完成度が高く、空間の中での立体的な動きを描ききっていたからだった。それに気づいたぼくがどのように対処したのかは記憶がない。
ひたすらマンガに感服したことだけが鮮明に残っている。
作業場は講談社の社屋本館の1室。「週刊少年マガジン」の全てのバックナンバーが運び込まれていた。それは壮観で背表紙を眺めているだけでうっとり。1日に数度、担当編集者が様子を伺いにくるだけで、ひとりで黙々と作業をしていた。
マンガで育った世代としては夢のような環境だったものの、ぼくはまだ20代の若輩で見識も浅く、新興の「マルチメディア」とはいえ、一定の裁量で少年マガジンの歴史を編纂(へんさん)していくことに畏れ多い気持ちがあった。
グラフィッカーの経験をどう積んだか
この『週刊少年マガジンヒストリー』は、当時流行した「マルチメディア」概念が生んだひとつの具体例だ。このワードが成長分野だったソフトウェア産業の中心にあり、仕事はたくさんあった。
PCエンジンCD-ROM2用のソフト『コブラII 伝説の男』【※1】、『YAWARA!』【※2】、『ロードス島戦記』【※3】といった作品にもグラフィッカーとして参加している。
いずれもゲーム性は抑えめにしたテンポ重視のアドベンチャーゲームで、CD-ROM2の特性を活かした“アニメのようになめらかに動くゲーム映像”がウリだった。動画圧縮の技術はまだ確立されていなかったため、静止画を次々と描画していくというアニメーションの原理をゲーム機上で再現していた。
※1 コブラII 伝説の男
1991年にハドソンより発売。寺沢武一の漫画『コブラ』を原作とする、PCエンジン用アドベンチャーゲームの第二作目。同作の制作にあたり、寺沢氏は脚本と500枚の絵コンテ、3000枚の原画を新たに書き下ろしたという。
※2 YAWARA!
1992年にソフィックスが発売したPCエンジンCD-ROM2/SUPER CD-ROM2両対応のアドベンチャーゲーム。浦沢直樹作の柔道をテーマとした漫画『YAWARA!』を原作としている。TVシリーズのアニメーターが手掛けたグラフィックと、TVアニメと同じキャストによるフルボイスでストーリーが楽しめる仕様となっている。
グラフィックスに関する作業フローはこんな感じ。
まずシナリオと絵コンテがあり、発注先のアニメ制作会社からキャラクターの動画が送られてくる。これを1ドットの黒い点でトレースする。大まかに彩色し、輪郭線のギザギザが目立たないように中間色でなじませていく。
ここをあまりやり過ぎると、輪郭線が太ったり、色味がぼやけてしまい、アニメ特有のシャープさが損なわれる。ここに作業者のセンスが問われる。
いま思えば効率的ではない。せっかくコンピューターで作業しているのだから、ある程度は自動化できたはずだ。例えば一括処理でアンチエイリアスをし、適宜修正したほうがスマートだ。
コストをかけてアニメーション制作に準ずる方法を採用していた理由として、同僚にアニメーターが多く在籍していたこと、それが大きかったのではないかと思う。
1枚ずつ丁寧に仕上げていく彼らのストイックな姿勢からは、“地道な作業を積み上げる結果として、キャラクターに生命が宿るのだ”という信念を感じた。
PSの激動で生まれた『アクアノートの休日』
その後、3Dの描画を前提としたPlayStationの登場は、ゲーム制作の現場を劇的に変えた。これまでのスキルが役にたたなくなるという残酷な一面もあった。2Dでは名人級だったグラフィッカーであっても、3Dをイチから勉強しなければならない。しかし、まだ3Dソフトはシリコングラフィックスなどの高額なワークステーションが中心で触れる機会があまりなく……。
『アクアノートの休日』は、こうした状況での開発だった。これまでグラフィッカーは、自社開発のツールで作業をするのが普通だったが、3Dソフトとなるとそうもいかない。余裕のある会社はワークステーションを導入していたが、予算を考えると飛びつくわけにはいかない。
構想を実現するため、データ制作から実装までのプロセスは、ゼロから検討しなければいけなかった。必然的に、グラフィッカーとプログラマーが膝をつきあわせながらの作業となった。まだ3Dゲームの作り方は手探りで、グラフィッカーとプログラマーの領分はあいまいだった。これがいい効果を生むことになる。
ぼくたちはPCで動作する建築用CADソフトを用い、これで作ったデータをコンバートすることにした。グラフィッカーもプラグラマーも試行錯誤。コンバートの過程で座標が変わってしまったり、部分的に法線が裏返ってしまったり、なかなか安定しない中、“データはシンプルな方が扱いやすいはずだ”と大方針を立て、海中の生物は左右対称のフォルムのものに限定した。
左右の片方だけモデルデータを作る。PlayStation実機で描画する際に、モデルデータを複製して反転して合成する。モーションは、生物固有の座標を歪ませる。この状態では生物が膨らんだり潰れたりしているだけだが、移動させると“らしく”なる。衝突判定の形状も“球”のみにした。半径だけを入力すればいいからだ。
このように割り切ったことで、短期間に100種を超える生物を作ることができた。
また、海底はモデリングをしていない。メッシュを敷き詰め、頂点に“高さ”のデータを持たせて凹凸を表現した。近接する頂点に極端な差があると穴が開いてしまうため、PlayStationの実機でチェックしていった。
この探索的な作業は『アクアノートの休日』のプレイに近く、地形の確認と同時に海中を散策する浮遊感のキメができた。
ちなみに、メッシュによる地面のリアルタイム描画は、3作目の『巨人のドシン』へと発展していく。
「小さく作って豊かに見せる」
グラフィッカーもプログラマーも、それぞれ「こうしたらどうだろう?」とアイディアを持ち寄ることで、1粒で2度も3度おいしい、よい循環が生まれた。
合言葉は「小さく作って豊かに見せる」。このコンセプトは、マンガやアニメのマルチメディアコンテンツ化を通じ、ぼくの中で堆積していき、ゲームの現場ではじめて意識化されたものかもしれない。
現在、コンテンツ産業ということで、マンガ・アニメ・ゲームは同一のグループだと認識されることが多い。
しかし、ここには時系列として先行—後続の関係があり、先の文化資源を利用することで後続は成立してきた。ゲームコンテンツを作っていくことは、マンガやアニメに対する敬意と後ろめたさ、謙虚と野心のアンビバレンツがあった。
こうした機微をぼくは忘れずにいようと思う。
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