かつて宮本茂から課せられた宿題。『スーパーマリオ64』で彼自身が出した完璧な答え──そのすばらしさに打ちひしがれたときに見えた『巨人のドシン』のアウトライン【飯田和敏連載】

イラスト/納口龍司

1990年代のアートは“サンプリング”が合言葉だった

 『アクアノートの休日』、『太陽のしっぽ』と、これまであまりなかったタイプのゲームを作ったことで、僕は有名になった。

 もちろん芸能人みたいなレベルではない。ただ、会うべき人と良いタイミングで会うことができるようになった。作品と作風によって認知されたことはありがたく、その恩恵はいまでも感じている。

 ただ、このときはムズムズとした思いもあった。それは任天堂電通ゲームセミナーで受け取った宮本茂さんからの宿題を先延ばししているという意識だった。

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 この連載で振り返ってきたように、僕はゲームをアートフォームと捉え、作品を作っていた。
 当時の美術の世界では“作家が作品を作る”という従来の常識はひっくり返っていて、「盗め!」(1980年に発刊した、美術批評家・椹木野衣の著作『シミュレーショニズム』の帯文。サンプリングするという意味)が合言葉だった。

(画像はAmazon|シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫) より)

 これから世に出ようとする作家たちは伝統的な作品制作の物語をなぞるのではなく、異なる文脈の組み替えにより新しい作品を作り出そうと奮起していた。
 この時期、ポップミュージックの世界ではサンプリングからハウスミュージックやヒップホップが生まれ、歴史を更新している。

前進を目指して会社を立ち上げた1996年。任天堂はNINTENDO64をリリースした

 僕が作ったふたつの作品は、美術とゲームのキメラを作るという形で実践した。ふたつの表現には文化的にも時間的には距離がある。
 その分、成功した際のインパクトはあると想定できた。次はその外へ行かなければ行けない! 前進、前進、3本目が正念場。

 3年間所属していた会社を離れ、3ヵ月後に会社を作った。メンバーは僕を含め3人。ここまでの数字を足すと12
 こうして数字を積み重ねていくことで、64へと近づける──根拠はないけれど、道なき道を進む中で人はゲンを担ぐぐらいしかできることはない。と同時に、NINTENDO64でゲームを作りたいという気持ちは誰彼問わず表明していた。

 1994年から1996年にかけてPlayStationが家庭用ゲーム機のトップに躍り出た。僕はプラットフォームが変わるどよめきの中で、デビューすることができた。任天堂は1996年に新ハード・NINTENDO64を発売して王座奪回を狙う。

(画像はWikipedia|NINTENDO64より)

 新しく作った会社では「インターネット1996ワールドエキスポジション」(世界規模で開催された超大型オンラインイベントなのだが、おそろしいことに記録がほとんどない! これは黎明期ならでは現象)の仕事を請け、自宅で作業をしていた。
 比較的時間の余裕があったので、1日の半分はNINTENDO64で3Dアクションゲームとして生まれ変わったマリオ(『スーパーマリオ64』)を遊んでいた。

 NINTENDO64の最大の特徴は、コントローラーの真ん中にそびえ立つ3Dスティックだ。

(画像は任天堂ホームページ|NINTENDO64ハードウエア紹介より)

 ジョイスティックの復活と思っていたが、触ってみるとそんなもんじゃなかった。64のコントローラーを持つとき、コントローラーを等しい力で両手で握るのではなく、一方の手を主とし、もう一方を補助的に添えるようにしてコントローラーを持つ。バットや竹刀を持つ感覚だ。
 この持ち方をすると自然と姿勢がよくなり、集中してゲームの世界に没入していける。実際のところ、横臥の姿勢では3Dスティックを扱うことは難しい。

(画像はWikipedia|振動パックより)

 後に発売された「振動パック」(1997年4月27日発売)を装着するとゲームコントローラーとしては無骨なものになるが、これによりNINTENDO64のコントローラーは現実世界と仮想空間を繋ぐインターフェイスとしての存在感を増した。

(画像はプレイステーション®オフィシャルサイト|“PlayStation 4”専用 ワイヤレスコントローラー DUALSHOCK®4|コントローラーの歴史より)

 ほぼ同時期に発売されたPlayStationの「アナログコントローラ」(1997年4月25日、DUALSHOCKに先行して発売された振動機能つきコントローラー)と合わせて、その後のすべての据え置き型家庭用ゲーム機に“アナログ入力と振動機能”が搭載されていることを考えると、影響力は大きい。

『スーパーマリオ64』を長時間プレイして見えてきた『巨人のドシン』のアウトライン

 宮本さんからの宿題は、ゲームのインタラクションに関するものだった。コントローラーの物理的な制限の中でゲームキャラクターは豊かな動作をする。
 現実ではありえない突飛な動作がたくさんあると楽しいのだが、プレイヤーの身体感覚と乖離してしまうとゲームは崩壊する。

 この問題について『スーパーマリオ64』は、完璧な答えを出している作品だ。宮本さんは宿題を自分で終わらせてしまい、次のステップへと進んでいく。「天才」、「神様」というのは本当にすごいなと脱帽した。

WiiU ダウンロード版『スーパーマリオ64』プレイ画面
(画像は任天堂|Wii U|スーパーマリオ64より)

 『太陽のしっぽ』の制作過程で地面のメッシュを動的にする実験をしていた。動作が重過ぎて採用はしなかったが、リアルタイムで地形がめりめりと変わっていく様子は、天地創造を目撃しているみたいで大興奮した。
 3D描画に優れている家庭用ゲーム機はゲームを遊ぶだけではなく、3Dデータ制作のツールになり得ると思った。

 次の作品ではツールとゲームを合成することにした。遊びながら作られたデータをどうやって保存するのかが課題だった。家庭用ゲーム機に大容量のストレージが搭載されるのは数年後だ。

WiiU ダウンロード版『スーパーマリオ64』プレイ画面
(画像は任天堂|Wii U|スーパーマリオ64より)

 『スーパーマリオ64』の素晴らしさに打ちひしがれ、また長時間ゲームをやりすぎていたことに疲れ、放心状態で64のコントローラーを眺めていた。

 やがて、その独特なフォルムが海の上に浮かぶ孤島に見えはじめた。そして3Dスティックを孤島の上に屹立する神秘的なタワーとして発見した。やがてタワーは右に左に揺れ、回転する。
 まるで生き物のようだ。連想は進む。南海の孤島をドシン、ドシンと歩く巨人がいた。『巨人のドシン』のアウトラインが見えた。さぁ、作ろう。

イラスト/納口龍司

 しかし、たった3人の小さな会社が任天堂とライセンス契約が結べるのか? 予算はどうやって確保するか? パブリッシュはどうするのか? などクリアすべき課題は多かった。
 ゲン担ぎの数字ですらまだ12だ。64まで残りは52。まさに「先は長い、深い、コトバにならないくらい」(by Tha Blue Herb/ILL-BEATNIK)という心境だった。(次回へ続く)

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著者
飯田和敏
1968年生まれ。多摩美術大学卒。卒業後アートディンクに就職、『アクアノートの休日』『太陽のしっぽ』を手がける。その後、独立して有限会社パーラム(現・有限会社バロウズ)を設立、『巨人のドシン』を制作。現在は立命館大学映像学部教授を務める。
Twitter:@iidakazutoshi
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