東大卒、元弁護士、元プロ雀士、アメリカ合衆国出身、小説家──。
まるで本人がフィクションかのごとく「設定盛りすぎ」な作家、新川帆立(しんかわ ほたて)氏。第19回『このミステリーがすごい!』大賞、第38回山本周五郎賞を受賞。社会派ミステリーからSFまで、主に一般文芸の世界で確かな評価と実績を積み重ねてきたガチの文芸作家である。
そんな新川氏がいま、真正面から「ライトノベル」を書いている。
想像以上に、ラノベだ……。
新川氏による新作『魔法律学校の麗人執事』シリーズ(イラスト/悌太 幻冬舎刊)は、書籍の佇まいだけではなく、その中身まで正真正銘のライトノベルだ。我々が親しんできた“あの味”──魔法バトル、学園、そして濃厚なキャラクター同士の関係性──が、最初から最後まで詰まっている。
なぜ一般文芸出身の小説家が、これほどまでに「ガチなラノベ」を書けるのか?
それを解き明かすための取材で目の当たりにしたのは、新川氏による圧倒的な物語の分析力だ。彼女はライトノベルという形式を徹底的に研究し、読者がどこで快感を得るのか、その構造をロジックで解き明かそうとしていた。
「現代におけるライトノベルは、マンガを文字で代替する試みであり、いわば『マンガの濃縮還元』である」
「悪役令嬢モノは、『古い器』を現代的に再利用した発明」
「『なろう系』のフォーマットは、70代の読者すら熱狂させる普遍的な救いである」
次々に飛び出す刺激的な持論が、一見、対極にある一般文芸とラノべの境界線に、ロジックという巨大な橋を架けていく。
新川帆立という知性が、本気で「ライトノベル」に向き合った結果、何が見えたのか。その知的興奮に満ちたインタビューをお届けする。
編集・聞き手/anymo
撮影/永山亘
文芸作家・新川帆立はなぜ「ライトノベル」を書こうと思ったのか?
──新川さんは一般文芸作家へのイメージがありますが、なぜ今回ライトノベルを執筆されることになったのでしょうか?
新川帆立氏(以下、新川氏):
自分が小さい頃に読みたかったようなお話、年少者向けの物語を書きたかったんです。
私自身、小さい頃から本を読むのが大好きだったんですが、今の10代、特に中高生くらいの子たちが読める小説って、意外と少ないんじゃないか……という問題意識がずっとありました。児童書や絵本はたくさんあっても、それらを卒業していざ小説を読もうとすると、いきなり大人向けの文芸作品しかない。
大人向けの小説は、中高生の関心から外れた内容が多いので、結局若い読者は小説から離れてしまうのではないか。
実際のところ、今の若い読者の興味の多くは小説ではなくマンガに向いているように思います。
── たしかに、「ヤングアダルト」向けの本は少ないように感じます。
新川氏:
現状でいちばん若者にリーチしているテキスト媒体は何かと考えると、やっぱりライトノベルだと思います。
今の若い子たちに小説を読んでほしい、物語を届けたいと思ったときに、彼らが手に取りやすくて馴染みのあるフォーマットを使うべきだと考えました。


──本作はすごく濃厚なラノベ味がしますよね。オタクネイティブな感性を感じるのですが、新川さんはどんな「オタク」なんでしょうか?
新川氏:
それがですね……、私はそんなにオタクじゃないんです。
──いやいやいや。えっ、本当ですか?ちなみに、いままでどんなコンテンツを通ってきたのですか?
新川氏:
マンガはメジャーどころは大体読んでいると思います。小学1年生くらいのときにちょうど『ワンピース』のアニメが始まった世代なので、当時から今に至るまでのジャンプ作品や、ドラマや映画になった少女漫画はだいたい読んでいます。
当時は『ポケモン』とかも流行ってたので、以降の任天堂作品もけっこうプレイしてはいますが……。
──それは、けっこう「オタク」なのでは?キャラクターは好きですか?
新川氏:
普通に暮らしてるリアルの人間よりは、2次元のキャラのほうが好きです。キャラコンテンツも、他の娯楽よりは好きです。そのぐらいをオタクの定義にしていいんだったらオタクなんですが……。
ただ、やっぱり世の中には寝食を忘れて全てをつぎ込んでる「真のオタク」みたいな方がいらっしゃるじゃないですか。そういう方々を見ていると、私はそこまでいけていない気がするんです。
──それは、新川さんの「オタク」を名乗るハードルが高すぎる気がするのですが。
新川氏:
もうひとつの理由があるんです。実は、「二次創作」にあまり興味がなくて。他の人が作ったキャラクターを借りて、自分で別の物語を作りたいという欲求があまり湧かないというか……。
──それでいうと、新川さんは『ジョジョの奇妙な冒険』のノベライズ(『杜王町のシンクロニシティ』)を執筆されていますよね。あれはまさに、他者のキャラクターと世界観を扱う、高度な二次創作的なお仕事だと思うのですが、いかがでしょうか。
新川氏:
あれは私の中では、二次創作というよりは時代小説を書く感覚に近いんです。
原作の『ジョジョ』という確固たる正史(世界史)があって、そこに矛盾が生じないように、膨大な資料を読み込んで、歴史の隙間を埋めていく作業というか。 なので、いわゆるキャラ萌えで動かしていくというよりは、史実に基づいた時代小説の手法で書いていました。
……あっ、『シャーロック・ホームズ』と、ファンタジー小説のオタクではあります!
──なるほど。では、ぜひそこを深掘りさせてください。何歳ぐらいから、どんな本を読まれてきましたか?
新川氏:
『シャーロック・ホームズ』シリーズは隅から隅まで読んでいます。当時のロンドンの地図を買って、ホームズがどこをどう歩いたのかいちいち確認するタイプの読者でした。小学生の頃、ベイカー街にファンレターを送りましたが、返事はなかったですね。
ファンタジー小説にハマったきっかけは『ハリー・ポッター』シリーズです。私が8歳のときに『ハリー・ポッター』の日本語版が発売され、すっかり夢中になりました。日本語訳が発売されるまでタイムラグがあり、日本では英語圏より刊行が遅れるため、シリーズ後半は原書を取り寄せて読んでいました。英語の勉強になりました。
──8歳で、あの分厚い『ハリー・ポッター』に……?ハマる……?原書を取り寄せる……?
新川氏:
私が小学生〜中学生くらいのとき、当時はいろんなファンタジーや海外小説が日本に入ってきていたんです。『ダレン・シャン』【※】とか『アルテミス・ファウル』【※】とか……本当に無限にあって。リアルタイムでどんどん発売されてたもの以外にも、それより前の名作として『指輪物語』【※】や『ナルニア国物語』【※】など、古典のようなファンタジーも読んでいます。
※『ダレン・シャン』…友人を救うため半バンパイアになった少年ダレン・シャンが、奇怪なサーカス団に身を寄せ、過酷な運命と壮絶な戦いに立ち向かうダークファンタジー小説。
※『アルテミス・ファウル』…天才少年アルテミスが妖精を誘拐して身代金を要求し、ハイテク装備の妖精警察と攻防を繰り広げるファンタジー小説。
※『指輪物語』…世界中で愛されるファンタジーの金字塔。魔王の指輪を壊すため、ホビット達が滅びの山を目指す壮大な冒険譚。
※『ナルニア国物語』…ファンタジーの原点として世界的人気を誇る傑作。衣裳だんすを抜け、異世界の国で獅子と冒険を繰り広げる物語。
──小学生の頃から『指輪物語』を楽しまれていたのですか?そんな重厚な小学生、いないのでは?
新川氏:
国内だと、氷室冴子【※】さんや荻原規子【※】さんといったような、少女小説の系譜も読んでいます。
アガサ・クリスティ【※】にもハマって読んでいました。アガサ・クリスティなんて海外の作品ですし、ちょっと昔のものなので、もう日本の小学生からすると、ほぼファンタジーなんですよ。伯爵とか御令嬢とか出てきますし、私はファンタジーとして読んでたところがあります。
※氷室冴子…「コバルト文庫」黄金期を築いた、少女小説界のレジェンド。『なんて素敵にジャパネスク』など、少女の自立や恋を軽妙に描く。
※荻原規子…『空色勾玉』などから成る日本神話をベースにした「勾玉三部作」等で有名な、和風ファンタジーの先駆者。
※アガサ・クリスティ…『オリエント急行の殺人』、『そして誰もいなくなった』などを生み出した、イギリスの世界的な推理作家。「名探偵ポワロ」ことエルキュール・ポワロや、ミス・マープルといった名探偵キャラの生みの親でもある。
──ファンタジーでいうと、最近は術式を展開して計算するなど、魔法を科学で説明するSF的な作品も多いですよね。ファンタジー小説オタクの新川さんからするとどのように思われますか?
新川氏:
私の視点からの意見ですが……。日本の文脈で言うと『鋼の錬金術師』の影響は強いんじゃないかなって気がしています。科学技術をベースとした現象をファンタジーとして取り扱うみたいなのは、『ハガレン』がやって一気にメジャーになった印象があります。
現代において魔法なんてものがあれば、当然それを科学的に解明しようって人は出現するはず。現代を舞台にしたファンタジーで魔法が出てくる以上、魔法と科学との折り合いはつけなければならないし、なんらかの説明が欲しくなるのだと思います。科学的な技術のひとつとして整理すると分かりやすいから、科学技術ベースのファンタジーは受け入れやすいのだろうと思います。
ただ、私みたいなファンタジー好きからすると、魔法は魔法のまま存在してほしくて、それを可能にする筆力が要求されるのがファンタジー小説だと思っています。魔法に科学的な理屈をつけた時点で、それはもう魔法ではないわけです。小説ジャンルとしても、ファンタジー小説ではなく、SF小説になると思います。なので、本作『魔法律学校の麗人執事』も、自分で書いておいてなんですが、SF小説であり、ファンタジー小説ではないと私は思ってるんです。
──なるほど、「ファンタジー小説オタク」たる所以が、すごく感じられました。
今の時代の「モテる男」って、相手の意思を尊重できる人
──新川さんの作品の多くではジェンダーに関する問題を取り扱われているように感じます。だからこそ聞いてみたいのですが、ジェンダー的観点を「ライトノベル」というジャンルにどのように落とし込んでいますか?
新川氏:
私は、作品を通して何かを訴えたくて書いているわけではないので、ジェンダー的なテーマのために書いているわけではないです。ですが、ネガティブチェックとしてジェンダー的観点を大事にしています。
──ネガティブチェック、というと。
新川氏:
自分が想定している読者を大事にするということです。誰に届けたいかを考えて、その人が嫌な気持ちにならないようにする。
私自身がいち読者として本を読んでいる時に、ジェンダー的に偏った表現や、女性を軽視したような描写が出てくると、そこでスッと冷めてしまうことがあるんです。物語の世界から、現実に引き戻されちゃうというか。
だから自分が書くときは、読者の方にそういった気持ち的なノイズを感じさせないようにしたい。特に今回は若い女の子たちにも読んでほしいので、彼女たちが読んでいて嫌な気持ちにならない、心理的安全性を確保することをすごく意識しています。
──手放しでキャラや関係性に萌えるには、「この作品では嫌な気持ちにならない」という心理的安全性も必要ですよね。
新川氏:
今の時代の「モテる男」って、相手の意思を尊重できる人だと思うんです。
たとえば、登場人物のイケメンたちが、主人公に対して強引に迫るシーン。昔の少女漫画だと「強引なのが男らしい」とされていたかもしれませんが、今の感覚だと普通に怖いだろうと思います。
本作には麗矢(れいや)というモテモテのキャラクターがいるのですが、彼はすごく体格がいい男性なので、もしそんな人が強引に迫ってきたら、女子目線では恐怖でしかない。それはイケメンだから許されるというものではありません。
──たしかに。2メートル近くある男性が迫ってきたら、かなり怖いですね。
新川氏:
だから、私の書くキャラクターは、どれだけ俺様系であっても、モテ男として書くならば必ず同意を取らせるようにしています。
キスする前にも「いい?」って聞くし、断られたら「そっか」って引く。断られてぐちぐち言う人はモテないわけで、モテる人であれば「またタイミングを見て誘おう」と気持ちを切り替える余裕があるはずです。
逆に、恋愛に慣れていないキャラは何も言わずに主人公にキスをしようとして、普通に断られて、気まずい関係になるような描写を入れています。
──ライトノベルと文芸では、人間関係の描き方に違いはあったりするんでしょうか?
新川氏:
そうですね。いざライトノベルを書き進めてみて楽しかったのは、人間関係をよりミクロに書けることです。より丁寧に、人と人の関係性の変化を追っていくことができる。この点において、すごく贅沢な媒体だなと思います。
──“ミクロに書ける”とのことですが、具体的にどのくらいの粒度なんですか?
新川氏:
たとえば2巻の冒頭で、とある少女が主人公に告白してくるシーンがあるんですが、この日告白するまでの場面だけで原稿用紙60枚分ぐらいあるんです。
──えっ、60枚(2万4000字)もですか?たしか、あのシーンって作中時間では6時間くらいしか経ってませんよね?
新川氏:
はい。一般文芸なら60枚(2万4000字)なんて、とても割けません。
──ちなみに、一般文芸だとどのくらいで書くものなんでしょうか。
新川氏:
一般文芸なら9枚(3600字)までですね。それ以上はたぶん許されません。
──60枚と聞いたあとだと、9枚はすごく少ないように感じますね。ましてや、このシーンは「敵対関係だった少女」が「主人公(性別を偽った少女)」へ告白する場面ですよね?メインのカップリングではない。
新川氏:
そうなんです。でも、ライトノベルなら許される。むしろ読者はそれを求めている。「たった6時間の、たったふたりの場面を、こんなに丁寧に書いていいんですか!?」と新鮮な気持ちで、楽しいです。
サイドで進んでいく関係性にすら60枚も紙幅を割くことができる。キャラクター同士の感情の機微、ちょっとした視線のやり取り、関係性の変化を、これでもかというくらい贅沢に描写できる。「この関係性を永遠に見ていたい」という読者のニーズがある媒体だからこそだと思います。
ライトノベルは、「マンガを文字でやろうとする試み」であり「マンガの濃縮還元」
──今回の執筆を通して、新川さんは「ライトノベルの定義」とはなんだと思いましたか?
新川氏:
私なりの定義をひと言でいうと、現代におけるライトノベルは「マンガを文字で代替する試み」であり、その結果作られる「マンガの濃縮還元」のようなもの、と捉えています。
──「マンガを文字で」……。一見すると矛盾しているようにも聞こえますが、どういうことでしょうか。
新川氏:
まず、小説とマンガでは「読者にページをめくらせるエンジン(推進力)」の作り方が根本的に違います。
小説は、武器が文字しかありません。読者を飽きさせないためには、緻密な情景描写や複雑なトリック、あるいは知的好奇心を刺激する豆知識といった、圧倒的な「情報の物量」を本文に盛り込みながら、描写を重ねて物語を構築していく必要があります。
──文字だけで読ませるには、それだけの物量で殴る必要があるということですね。
新川氏:
一方で、マンガには「絵」という強力な視覚情報があります。
キャラクターの表情ひとつで感情を伝え、迫力ある構図で一気にページをめくらせることができる。絵が推進力を肩代わりしてくれるからこそ、マンガは物語自体をあえて複雑にせず、「王道ストーリー」や「キャラの魅力」といった、一番美味しい芯の部分(快感ポイント)だけで直球勝負ができると思います。
これはアニメになるとさらに言えることで、アニメの場合は絵に加えて、色、動き、音が付加されるので、ストーリー以外の情報量がさらに増えます。
──なるほど。絵があるからこそ、中身を「純度の高いエンタメ」に特化できると。
新川氏:
そうです。そしてライトノベルは、そのマンガやアニメ特有の美味しい芯の部分だけの構造を、あえて文字という器でやろうとします。
本来、マンガやアニメから絵を抜けば、当然推進力は失われるはずですよね。でも、ライトノベルはそこを「記号性」で突破します。あえて緻密な説明を省き、マンガ・アニメ的な型や、お約束を強調して書くことで、読者の脳内にあるマンガ・アニメ的な記憶にスイッチを入れるんです。
──読者のこれまでの経験を利用して、脳内で「絵」を補完させるわけですね。
新川氏:
マンガやアニメからテキスト以外の要素を削ぎ落とし、その分、エンタメとしての快感成分だけをギュッと煮詰める。いわば、読者の脳内でマンガ・アニメ的に再生されるための濃縮エキスを作っている感覚です。
ただ、それだけでは小説として成立しないので、やはりマンガやアニメよりは情報量を足していく必要があります。マンガやアニメの美味しい部分を抜き取って濃縮してから、それをコアに小説として仕立て直している感覚です。
だから、ライトノベルは「マンガの濃縮還元」なのではないかと思っています。
──器は文字(小説)だけれど、設計思想はマンガそのものであるということですね。
新川氏:
だから私の中で、一般文芸とライトノベルは「文字を使う」という共通点はあるものの、まったくの別ジャンルだと感じています。むしろライトノベルは、出版物としてはマンガに近いもの、マンガの仲間だと思っています。
──「ライトノベルはマンガの仲間」というお話でしたが、セリフの書き方についても、文芸とは違う「ライトノベルならではの作法」があるのでしょうか。
新川氏:
ライトノベルを書く時は、あえて「説明的で、青臭いダサさ」を恐れないようにしています。個人的に、ライトノベルのセリフって「そんなの口に出して言わないよ」と思うような、分かりすぎる説明的なセリフが多いです。書くのも読むのも、気恥ずかしさがあります。
──「気恥ずかしさ」ですか。
新川氏:
例えば、主人公が技を出した時に、周りのキャラが「すげー! あいつ、とんでもない技を繰り出したぞ!」とわざわざ解説する。あるいは、自分の決意を叫びながら戦う。
一般文芸の感覚でいえば、こういうセリフは「ダサい」もので、特に文学賞などではマイナス評価につながると思います。ただ、こういったセリフを「ダサい、気恥ずかしい」と感じるのは、ある種の大人のスノッブな感性であって、読者である若者にとってはそれが「分かりやすさ」なのだろうと思います。
──なるほど。
新川氏:
現実のリアリティラインで見れば、説明的すぎるセリフは現実的ではないですよね。でも、マンガ的な快感をテキストのみの媒体で生むには、この「ダサさ」こそが正解なんです。読者が状況を理解し、感情に乗っかるためには、情報の出し方を緩めて、分かりやすさと勢いに振り切る必要がある。それがライトノベルとしてのリアリティラインなのだろうと思います。
『ジョジョ』のノベライズを書いている時も、「もっとジョジョっぽく!」という要望に応えようとすると、マンガ的になりすぎてしまって、小説としてはダサくなってしまう。でも、それでいいのだろうと思います。文芸の脳で「もっと自然に……」なんてブレーキをかけたら、読者が期待するマンガ的な面白さがなくなってしまうからです。
──一般文芸とライトノベルでは、脳のギアが違うような感じでしょうか。
新川氏:
一般文芸の小説は、リアリティラインをきっちり高める必要があります。自然な会話、自然な心理、自然な距離感……みたいな。一方ライトノベルは、そこで求められる、派手さや分かりやすさが違うので、同じ感覚でやろうとすると書けなくなる。リアリティラインを思いきり緩めて、派手な演出や分かりやすいセリフを目指したほうがいいです。
なので、文芸の仕事をした後にライトノベルを書く時は、一度アニソンのヒットチャートを聴きながら散歩して、「ラノベ脳」にチューニングし直しています。正直なところ、アニソンの歌詞はテキスト表現としては分かりやすすぎてダサいものが多いです。でもその「ダサい分かりやすさ」を誠実に目指すのが大事だと思っています。









