2026年10月9日より公開され、現在話題沸騰中の映画『バイオハザード』。
『バーバリアン』や日本でも話題を呼んだ『WEAPONS/ウェポンズ』のザック・クレッガー監督の最新作という点でも注目を集めていた本作だが、やはりポイントは、これまで何度となく映画化されてきた『バイオハザード』を気鋭の監督がいかに映像化するのか、という点にある。
そんな今回の映画版『バイオハザード』は、「ゲームを題材にした映画史上、最高傑作」とも評される一方で、シリーズの熱心なファンからは“酷評”と呼んで差し支えないであろう厳しい声も同時に届いてくる。間違いないのは賛否はあれどもとても話題を呼んでいる映画であるということだ。
まず最初に、結論から述べてしまうと、私は今回の映画『バイオハザード』は最初から最後まで大変楽しく観賞することができた。今作に対して圧倒的に「賛」の側にいる人間である。そういう人間の意見だと思って読んで頂きたい。
2026年はシリーズ最新作『バイオハザード レクイエム』が発売され、高い評価と好調なセールスを記録した。同じ年に映画も公開され、こちらも非常に高い評価と興行収入を海外では既に記録しており、今年はすっかり『バイオハザード』イヤーと言って良い年となっている。ちなみに、『バイオハザード レクイエム』もまたシリーズナンバリング最新作にふさわしい堂々たる傑作である。
シリーズ第1作目が発売されて30年という節目の年に、全盛期を迎えようとしている『バイオハザード』というIPの底力には驚かされるばかりだ。というわけで本稿では、まだまだ公開されたばかりの映画『バイオハザード』が、如何にゲームを題材とした映画として画期的な出来であるかについて考えてみよう。
なお、本稿には映画『バイオハザード』の一部ネタバレが含まれる。記事執筆時点でまだ劇場上映中の作品ということもあり、特に重大な部分については詳細を伏せているが、完全に初見の状態で映画を楽しみたい方はまずご自身の目で作品を鑑賞したのち、本稿へ戻ってきていただけると幸いだ。
「入口」と「出口」でジャンルが変わる
そもそも、『バイオハザード』とはどのようなゲームかといえば、私なりの言葉で言うならば「ゲームの『入口』と終盤の『出口』で、体験の質が変化するゲーム」、ということになる。
ゲーム冒頭ではたった一体のゾンビにすら恐怖し、乏しい火力でなんとか立ち向かっていたのに対して、終盤では強力な火力でゾンビなどは瞬殺、もしくは相手にする価値すらないと横を素通りし、自分のやるべき目標に向かうようになる。
『バイオハザード』とはそんなゲームである。「入口」がホラーで始まり、「出口」では圧倒的な火力で無双する、映画『コマンドー』の如き内容へと変貌する。『バイオハザード』はそのようなプレイする過程で起きる「変化」にこそ、その本質がある。
そして今回取り上げる映画『バイオハザード』がどのような映画なのかと言えば、まさしくこの本質に則った作品である。プレイヤーの内側に起きる体験の「変化」こそが、この映画の主題なのだ。ゲームだからこそできる体験を映画という形式に見事に翻案することに成功している。だからこそゲーム映画史上最高傑作と呼ばれているのだ。
前置きはこのあたりにして、本作が映画という、ゲームとは異なるメディアでどのようにして『バイオハザード』の本質である「変化」を描いたのかについて、考えていこう。
「ゲーム的」に語られる物語
多くの人が既にSNSなどでも語っているように、今回の『バイオハザード』は主人公が特殊な技能などを持ち合わせない普通の一般人であり、まるで初めてゲームをプレイするゲームプレイヤーが劇中に紛れ込んでしまったかのような形で物語が進行する。

だから銃を持っても最初はまともに扱えないし、撃っても全然当たらない。まるで私が初めて『バイオハザード』をプレイしたときのように、目の前で起きる現実に狼狽えるばかりでまともに対処することができない。
さらに映画の『バイオハザード』が徹底しているのは、物語が常に「現実に翻弄される主人公の視点」へとほぼ固定する形で進行していくという点である。
この点こそが、本映画へと非常に「ゲーム的」な印象を与えているのだ。
どういうことかと言えば、劇中に登場する警察官やエージェント的な人物などが主人公の前に登場するのだけれども、基本的に脇役である彼らの目線で見た何かが、この映画の中で描かれることがないということである。

だからこの映画は常に唐突に何かが起きるし、信じられないくらいにあっさりと人が退場していく。それは事態が常に、起きた当事者の視点ではなく、それを目撃する主人公の視点から描かれるからだ。
普通の映画だったらもうちょっと別の場所にいる登場人物の視点が描かれたり、過去の回想などがインサートされたりするものだが、この映画は94分という短い上映時間を主人公一人の視点で走り切ってしまう。
その構造を象徴するのが、ある人物の退場を車の中から見つめるシーンだ。ほぼ固定されたカメラで状況を眺める車内の二人が会話してるだけなのに、そこで「何か」が起きてしまったことだけは予感出来てしまう。そしてそこに主人公が赴かなければならないであろうことも。

この映画は、ここで視点を移して車外に出た人物から観た景色を見せることをしない。かなり意識的にそれを抑えている。あくまでも主人公に近い場所、近い視点にカメラを維持することによって、観客と主人公の見ている景色、持っている情報を等しくしている。
目の前の空間で「何か」が起きているのだが、それを自分で能動的に探索しなければその「何か」の正体がわからないし先にも進めない、という状況におかれる。
この状況、この感覚を「ゲーム的」と呼ばずしてなんと呼ぼう。だからこの映画を観ていると、自分の足で動き、自分の目で確かめようと動く主人公の、一種のゲームプレイを見つめているような感覚に陥る。
本作が「ゲーム実況者的」とも指摘されるのは、物語の視点を主人公に固定しているという点が大きい。
そして、視点を固定しているからこそ、その人物に起きる変化に、映画を観ている我々は否応なく敏感にもなっていく。
