『バイオハザード』とはどのようなゲームか。
それは当然、本作が独自に確立したジャンルであるサバイバルホラーの名の通り、ド直球のホラーゲームである。
実際『バイオハザード』はめちゃくちゃに怖いゲームだ。だが、人間というものはまったく同じ内容であればどれほど怖かったとしても「慣れる」生き物でもある。ましてやどこで何が起こるかを把握しきっている2周目以降のホラーゲームなど、ホラーとしての機能は半分以上死んでしまっていると言ってもいいだろう。特に、びっくり箱的な仕掛けの妙で驚かせるタイプのホラーならなおさらだ。
しかし『バイオハザード』はシリーズの伝統として周回プレイが面白いゲームである。その伝統は最新作においても受け継がれている。
2026年2月27日、ファン待望の最新作『バイオハザード レクイエム』が発売された。
シリーズ第9作目にして、初代『バイオハザード』が発売されて30周年の節目の年を飾る。記念すべきタイトルである本作は発売されるやいなや好評に次ぐ好評を呼び、現在(2026年5月)においては世界で700万本を超える好調なセールスを記録している。
私も発売すぐに購入し遊び、すでにクリアはしているがまだまだ周回プレイで遊び続けている。やっぱり『バイオハザード』の周回プレイは最高だ。何周もプレイしたくなるバイオほど良くできた『バイオハザード』であると言っても過言ではないだろう。
だがここで考えてみて欲しい、なぜ『バイオハザード』は恐ろしさと同時に周回プレイの面白さを両立し続けることが出来ているのだろうか。周回プレイを重ねるほどに恐怖には「慣れる」筈なのに、なぜ周回してしまうのか。
その答えはシリーズが常に抱えてきた体験性の変容の中にある。そして『バイオハザード レクイエム』はそのことに対してもっとも自覚的な作品であることが、成功の要因となっている。
『バイオハザード』とは「火力でどうにかなるゲーム」である
『バイオハザード』の恐怖の根源はどこにあるのか。なぜバイオハザードは怖いのか。その答えは「心細さ」だ。

どこから何が襲い掛かってくるのかわからない不気味な建築物の中を、貧弱な武装と限りある弾薬を工面しながら探索を余儀なくされる不安さ、心細さに、本作の恐怖の根源がある。
特に初期装備のハンドガンは大抵の場合は複数発の弾丸を命中させないとゾンビすら倒せないので、常に周囲に気を配って適切な距離を保たないと、即やられてしまう。そんな恐ろしいことが起きる建物の中を探索したくないのに、探索しなければ先へ進めない。この「恐怖と好奇心のせめぎ合い」こそが『バイオハザード』というゲームを魅力的なものにしている。
だが、そんな恐怖の構造に変化が起きる瞬間がある。それはゲーム中でショットガンを手に入れた時だ。近距離で放てばゾンビの頭部を一撃で吹っ飛ばすことも出来るこの武器を手に入れた瞬間に、さっきまでどこに潜んでいるのか最大限警戒していたゾンビが火力で制圧出来る対象へと変化する。

ショットガンは銃の特性上、近距離から頭部を狙うほど効果的にダメージが入るため、さっきまで近寄ってほしくなかった相手へ「早くこっちにこい」と思うようにすらなる。それほどに、ショットガンのもたらす心理的転換は非常に大きい。
この持っている武器の火力や性能によって、対象との関係性が劇的に変化するという点に、『バイオハザード』が持つ最大の特徴が現れている。結局のところ『バイオハザード』とは、どれほど恐ろしい敵が登場したとしても、ほぼ「火力でどうにかなるゲーム」なのである。
とはいえ弾薬数という制限がある以上、どれほど強い装備が手に入ったとしても弾薬が乏しければそれは無力だ。『バイオハザード』はその敵キャラが登場するタイミングと数、そして途中で補給できる弾薬の数のバランス調整、リソースマネジメントに最大限気を使って作られていると言ってもいいだろう。

それでも、ショットガンを入手する以前と以降によって、このゲームが明確にモードチェンジすることは明らかだ。一撃で対象を撃破可能で複数の的にも範囲攻撃可能なこの武器は便利過ぎるのである。
ショットガンを手に入れて以降も、マシンガンやマグナム、ライフルなどショットガンを超える火力を誇る装備が手に入り、圧倒的火力による解決を図る傾向はますます高まる。そして最後に登場するのは『バイオハザード』における最強の火力にして一種の象徴ともいえる武器、ロケットランチャーである。
初代『バイオハザード』から登場し、周回プレイの果ての究極のご褒美として登場する「無限ロケットランチャー」。この武器を手にした時点で、「火力でどうにかなるゲーム」としての『バイオハザード』は完成に至る。
最後に手に入る「無限ロケットランチャー」にこそ、このゲームの本質が詰まっている。その本質とは何か、それは『バイオハザード』とは、入口がホラーで、出口が圧倒的火力で全てを蹂躙する無双状態で終わるゲームである、ということだ。
ナイフ、ロケラン、妙に植物の生い茂る洋館……これらから導き出される『バイオハザード』≒『コマンドー』説
さて、ここで私の持論を一つ述べさせてもらおう。
『バイオハザード』にほぼレギュラー的に登場する、ナイフ、ロケットランチャー、に加えて回復薬としてハーブが登場する。なんで回復にハーブ? そもそも初代『バイオハザード』は謎の洋館の中になんで妙に植物が生い茂っているの? など不思議に思っている人はいないだろうか?

その謎は『バイオハザード』のルーツを辿ることで明らかになるかもしれない。言うまでもなく『バイオハザード』には80年代のホラーやアクション映画の様々なエッセンスが詰まっているのだが、そのなかの一つとしてかなり深い影響を与えていると思われるのが、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の1985年の映画『コマンドー』である。
この映画のラストバトルの舞台となる敵の拠点がとにかく初代PS版の『バイオハザード』に出てくる洋館に酷似しているので、もし『コマンドー』を視聴できる人は試しに見てほしい。おそらく初代『バイオハザード』の最初の洋館が妙に植物が生い茂っているのは、『コマンドー』のラストの洋館をモチーフにしているからではないだろうか。地下に妙にメカメカしい地下施設がある点も共通している。
さらに『コマンドー』の中盤に印象的な形で登場するM202ロケットランチャーはほぼそのまんまの形状で初代『バイオハザード』のラストに登場している。
そして極めつけが謎の地下施設っぽいところでおこなわれる銃を捨てたナイフバトルである。これなどは確実に『バイオハザード4』におけるクラウザーとのナイフバトルのモチーフとなった戦いであろう。

ここまでの指摘はあくまでもトリビア的な表層の一致である。興味のある人は『コマンドー』と初代『バイオハザード』を比べてみると楽しいだろう。やたらと調度品の多い洋館のデザインとか本当に似てるから結構驚く。
しかし、私が指摘したいのは、そのような表層の一致を超えて、ゲーム体験の水準において、両者は共鳴しているということなのだ。つまり、『バイオハザード』はホラーとして作られたと同時に、自分でプレイ出来る『コマンドー』としても作られているということだ。
これはどういうことなのだろうか。ホラーと『コマンドー』が並び立つことなどあるのか。
はたして、『バイオハザード』はゲームというメディアを通してこの二つを両立させた。映画のシュワルツェネッガーは外から見るだけだが、『バイオハザード』ではプレイヤー自身がシュワルツェネッガーになっていくのである。
ゲーム開始時点において、何も知らないプレイヤーは最初はその理不尽すぎる状況に翻弄され、恐怖することしか出来ない。ここまでは完全に『バイオハザード』はホラーゲームとして機能している。この時点においては、プレイヤーとシュワルツェネッガーの距離は途方もなく開いている。彼の姿は微塵も見えない。
だが、人は成長するし理不尽な状況にも「慣れる」。プレイを続け、強力な装備を得ながら恐怖を克服する過程の中で、次第に目の前の脅威を一顧だにせず火力でねじ伏せるようになっていく。周回プレイで二周目を開始する頃にはナイフ一本でも状況に対応してしまったりもする。こうなるともうプレイヤーはほぼシュワルツェネッガーである。
その己が次第に状況に対応し、恐怖を克服していく道程の果てに待っているのが「無限ロケットランチャー」という圧倒的な火力なのだ。

このプレイ体験の変容に、『バイオハザード』の周回プレイがなぜ面白いのかという疑問に対する答えがある。「恐怖」から始まったゲームは、繰り返すほどに「火力で無双する」ゲームへと変貌し、最終地点においては最初にあったはずの「恐怖」が無となるほどの圧倒的な火力が待っている。
このホラーとアクションの二重構造こそが『バイオハザード』を単なるホラーゲームからは一線を画したゲームに位置づけている。そしてその構造は最新作『バイオハザード レクイエム』においても継承されている。ではここからは『バイオハザード レクイエム』がいかにしてこの二重構造を最新のものとして提示したかについて述べていこう。
『バイオハザード レクイエム』はホラーとアクションの二重構造に、シリーズ史上もっとも自覚的である
最新作『バイオハザード レクイエム』は、このホラーとアクションの二重構造に対して、シリーズ史上もっとも自覚的に作られた作品である。
本作はグレースとレオンという二人の主人公を登場させ、ただひたすらに状況に翻弄されまくるグレース編がホラー、異常な状況に対してもまったく動揺一つせずに目の前に迫るゾンビを始末するレオン編がアクションと、明確に役割を分担させている。
(画像は『BIOHAZARD requiem』Steamストアページより)
とくにグレース編において特筆すべきは、あの手に入れた瞬間に何より心強い気持ちになれるショットガンが最後まで出てこないことだ。非常に心もとない貧弱なハンドガンを中心としたゲームの進行を余儀なくされるため、とにかくゾンビ一体にすら気が抜けない。
一応途中で強力な「レクイエム」という最強のリボルバーこそ手に入るものの、こちらは弾薬数が余りにも乏しいため乱発は出来ない。
一方のレオンは、とにかく強い。ショットガンだってサクッと手に入るし、近接攻撃もナイフからより強そうな斧に変化し、ワラワラと沸いてくる敵を難なく撃破してしまえる。いきなり『コマンドー』状態である。

このホラーパートとアクションパートをそれぞれの主人公に分担させたことで、ゲームの流れに従来のシリーズとは異なる変化が起きる。
さっきまでバキバキのホラーだったものが、急に無双状態のアクションが開始され、それが一息ついたと思ったら、またもやホラーへと逆戻りという体験の緩急が起こるようになったのである。この変化は『バイオハザード』史上においても非常に大きい。
この体験の変化を可能にしているのは、主人公を分担し、それぞれの主人公にホラーとアクションを切り分けることで、作り手側が意図的にゲームの外側からの体験のコントロールをおこなうようになったからである。ホラーとアクションの二重構造に自覚的であるとはそういうことだ。

従来のシリーズで起きてきたホラーからアクションへのゲーム体験の変容は、主に途中で手に入る武器と、プレイヤーのゲームへの「慣れ」と技術の向上によって不可避的に起きたことだ。だが、『バイオハザード レクイエム』はその避けられない流れとしての体験変化を意図的にコントロールし、再構成している。
そうすることで、レオン編でチェーンソーで爽快に暴れまくった後に、グレース編で貧弱なハンドガン片手に恐ろしいエリアを探索させられるという最低で最高な体験の落差が生じる。この味変の巧みさによって、知っているのに常に新鮮という、集大成にして新たな『バイオハザード』がここに誕生したのである。
30年の歴史によって到達した高み
二人の主人公による、ホラーとアクションの切り分け以外にも『バイオハザード レクイエム』には様々な面で、シリーズが積み重ねてきたものの集大成的な側面が多くみられる。
中でも『バイオハザード4』以降に採用された三人称視点と、『バイオハザード7』以降に採用された主観視点がどちらも選べ、なおかつそのどちらもが良く出来ている点には非常に感心させられた。
まず最初に遊ぶならばゲーム側で推奨される「グレース編が主観視点、レオン編が三人称視点」が、私としてもお勧めである。この視点の使い分けもまた、ホラーとアクションの二重構造に自覚的であることの証だろう。
また、ストーリーのなかでレオンがラクーンシティに帰還し、悔恨を込めてかつてのラクーンシティでの出来事を振り返るくだりには思わずグッときてしまった。

なぜグッとくるのかと言えば、それは1998年に発売された『バイオハザード2』にて初登場し、本作に至るまでの四半世紀以上の時間が、プレイヤーだけでなくレオンというキャラクターにも同様に流れていたことの重みが感じられるからだ。
本作には、ゲームシステムの面においても、ストーリーやキャラクターという面においても、これまでシリーズを通して重ねてきた年輪が確実に刻まれている。その年月の積み重ねの果てにこそ、本作のクオリティは達成されたのだという、確かな手ごたえがある。
初代『バイオハザード』の時点において、このシリーズはホラーとアクションの両方を内包していた。『バイオハザード レクイエム』はシリーズ30年目にして、その構造を遂に「掴んだ」。
『バイオハザード レクイエム』は『バイオハザード』の本質を「掴み」、その本質を最も適切にディレクションすることで生まれた『バイオハザード』である。
これまで一作でも『バイオハザード』を遊んでその恐怖に震えた人なら、無限ロケットランチャーで無双しまくったことがある人なら、遊ぶべき一本だろう。


