※この文章ではなぜか『ゼルダの伝説 時のオカリナ』のラストシーンのネタバレが掲載されていますので、お気をつけください。「なぜゼルダが?」と気になる方は読んでください。
『グノーシア』というゲームをオススメする上で悩ましいのは、どうしても「ひとり用の人狼ゲームですよ」と言わざるを得ないという点に尽きる。
「ひとりでCPUを相手に何度も繰り返し『人狼』を遊ぶゲームだ」という説明では、全く面白そうに聞こえないのである。
私も実際に遊ぶまでは、どんなものなのか全然ピンとこなかった。複数人で実際に顔を突き合わせて遊んでなんぼの「人狼」を、CPU相手にぼっちプレイして何が楽しいのかと。
だが、それが面白いのだ。
2019年6月20日にVita版が発売され、2020年4月30日にSwitch向けにDL専用タイトルとして発売されながら、この度12月17日にSwitch向けのパッケージ版もリリースされるという、なかなかに変わった道のりを歩んでいるタイトル。それが今回紹介するゲーム、『グノーシア』である。
Vita版がリリースされてからすでに1年以上の時間が経っており、ある程度評価は固まりつつあるが、改めて言っておくならば、本作は紛れもない傑作である。もっともっと広いユーザーに遊ばれて欲しいと、心から思う。
というわけで、パッケージ版の発売という折角の機会でもあるので、なかなかに説明が難しい本作の魅力を改めて考察してみよう。
文/hamatsu
『グノーシア』は、「人狼」をキャラクター表現の手法として利用する
「人狼」というゲームが面白いのは、シンプルなルールで、1プレイ10~15分程度で気軽に遊べるにも関わらず、「プレイヤーそれぞれの人となりが見えてくる」というコミュニケーション性の高さにあるように思う。
親しい人同士でやってもその人の意外な側面が見えて面白いし、知らない人同士が手軽に親交を深める上でも使い勝手がいい。だからこそ、このゲームは幅広い層に浸透し、人気を博したのではないだろうか。
『グノーシア』というゲームがまず興味深いのは、「人狼」が持つ「プレイヤーのパーソナリティを浮き彫りにしてしまう」という特性を、キャラクターの「表現手法」として利用している点にある。
「人狼」がそうであるように、『グノーシア』に登場するキャラクターはゲーム上の「役割」とそれぞれのキャラクターの抱える「内面」にほぼ関連性が無い。なぜなら、それらゲーム上の役割は、ランダムに割り振られる“当番”のようなものでしかないからだ。
『グノーシア』の登場人物達は、みな個性豊かだが、彼ら彼女らは過去の因縁や恨みつらみのために周囲の人間を陥れたり、騙し合ったりしようとしない。ただその場で自分の与えられた役割を全うしようとするだけだ。
ゲーム上の「役割」と、キャラクターの「内面」を別々に区分けされたものとして扱うことで、『グノーシア』というゲームは、通常ではあり得ないほどの振り幅を持ってキャラクターを描写し、それぞれの個性を際立たせることに成功している。
なんせさっきまで共に協力していた仲間が、別のループでは急にこちらの命を狙う敵に変貌するのだから。幾度となく繰り返される人狼ゲームの「結果」ではなく、「過程」にこそ、このゲームの真価がある。
だから、正しいことを言っているにも関わらず皆からヘイトを集めがちなキャラ(主にラキオ)がいれば、役割がどうだろうとなんとも憎めないキャラ(主にしげみち)がいたりもするし、役割がどうであれ自分にとってはなんか嫌いなキャラ(筆者にとってはジョナス)が発生したりもする。
特に、ゲームの序盤から主人公をナビゲーションし導いてくれるセツは主人公のバディ的な存在であるが、本ゲームにおける人狼に該当する「役割」、つまりグノーシアになったときはさらに印象的だ。主人公含めた乗員達を容赦無く陥れようとするさまなどは、セツというキャラクターの生真面目さを際立たせるようで、なんとも可笑しい。
まったくジャンルも内容も違うが、『グノーシア』のキャラクターが持つ魅力は、『どうぶつの森』の住人達が持つ魅力に近い部分があると私は考えている。両者に共通するのは、それぞれのキャラクターが、「物語やゲーム内容に従属しない、独立した存在としてゲーム上に存在する」という点である。
たとえしげみちが何度となくコールドスリープ送りになったとしても、それは決して物語やゲーム上の都合によってではなく、それぞれのキャラクターがそれぞれのキャラクターらしく行動した結果なのである。それは『グノーシア』というゲームを考える上で非常に重要なことだ。
ゲームに縛られるキャラクターの抱える、圧倒的な悲壮感
しかし、『グノーシア』には主人公であるプレイヤーキャラクターを除けばたった一人、例外的なキャラクターが存在する。それは先に述べたように、主人公のナビゲーション役を務めてくれると共に、同じ状況が何度も繰り返されるループに主人公が陥ってしまったことを最初から把握している存在、セツである。
セツ以外のキャラクターを『あつまれ どうぶつの森』における住人だとすれば、セツは「たぬきち」や「しずえ」に近いキャラクターとも言えるだろう。
先に述べたように、本作の特徴を物語やゲーム内容に縛られない自由なキャラクターの創出にあるとするならば、セツというキャラクターはその真逆の位置に存在する。セツだけが、ゲーム中の物語や設定に思いっきり縛られているキャラクターなのである。
この主人公とセツを軸としたループを積み重ねながら、少しずつ状況を把握し、なぜこのような事態に巻き込まれたのかを解明していくのが、本作のもうひとつの軸となっている。
個性豊かなキャラクターと織りなす「人狼」ゲームを横軸とするならば、セツと共にループしながら自身のパラメータを強化し、次第に全貌を明らかにしていく過程は縦軸として機能している。
このふたつの軸が両立することで、『グノーシア』というゲームは「物語に縛られない自由度」と「強固な物語性」を同時に展開することに成功しているのである。控え目に言っても、これはすごいことだ。
そしてさらに素晴らしいのは、セツの抱える「圧倒的な悲壮感」だ。本作の物語性のキーとなるこの感情を見事に描き出したことで、『グノーシア』は歴史的な傑作になったと考えている。
セツの抱える悲壮感、それは『グノーシア』というゲーム単体に収まらない、「ゲーム一般に普遍的に存在する悲壮感」である。
たとえば、何度も例に出している『あつまれ どうぶつの森』のしずえというキャラクターに対して、「いつ休んでいるんだろう?」と考えたことはないだろうか。最近プレイしてない『どうぶつの森』の中で、「アイツは未だに臨戦態勢でスタンバっているんだろうか」と。
逆に、その悲壮感が解放される例もある。『ゼルダの伝説 時のオカリナ』のラストシーンで、ナビィとの別れに感傷的になりつつも、「役割を全うすることが出来て良かったね」と、どこかホッとしたのを覚えている。(別れの挨拶くらいしろよと思ったのも事実だけど。)
『グノーシア』におけるセツの抱える悲壮感とは、これらのキャラクターが抱えるものと同質のものだ。つまり、「プレイヤーをナビゲートする」という義務を背負ったキャラクターが、それゆえにゲームや物語に強固に呪縛されることによって生じる悲壮感なのだ。
この「ゲームに呪縛されたキャラクター」に対する決着のつけ方が本当に見事なのだが、ここからは実際に最後までプレイしてもらった方がいいと思うので、詳細は述べない。
ただ、ひとつだけ述べるとすれば、最後の展開が本当に素晴らしいということだ。「どうにかしてループ状況から脱出したい」というゲーム内のキャラクターの動機と、「ループ状況のゲームをプレイしたい」という我々ゲームプレイヤーの動機は、実はその根本において真逆の方向を向いているのだが、最後は「そのねじれが交わる一点に賭けた」としか言いようのない描き方だった。
プレイしていないとなんのことだかさっぱりだと思うが、もし気になるなら手段を選ばず最後までプレイしてみてほしい。
『グノーシア』は、これ以上ないほどに見事に“終わって”くれる
最近、ゲームの「終わり方」が難しくなっているのではないだろうか。
そんなことを考えるのは、昨今のゲームはなかなか簡単には終わってくれないからだ。スマホ向けにリリースされる多くのF2P形式のゲームなどは、人気が出ればキャラクターやストーリーが続々と追加されるし、コンシューマのゲームだって追加のダウンロードコンテンツが用意されていることなどは珍しいことではない。
逆に人気がなければ無情にサービス終了のお知らせが通知されてしまうし、続編が作られるはずだったのに唐突に打ち切られてしまうことだってある。これらが一概に悪いことだとは思わないが、よくも悪くもゲームが綺麗にスッキリと「終わる」ことがなかなか難しくなっているように思う。
そんな昨今において、これ以上ないほどに見事に“終わって”くれるのが『グノーシア』だ。
ゲームはやりたいのだけど、きっちり終わらせたいとも思っている人にこそ、オススメしたい。
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