「ゼルダの伝説」、それは世界で最も高く評価されているゲームタイトルである。
NINTENDO64で発売された『ゼルダの伝説 時のオカリナ』はファミコン通信によるクロスレビューで史上初となる40点満点を獲得、海外のレビューサイトからの得点を集計し、その平均値をスコア化するMetacriticというサイトにおいても現時点における最高得点(99点)を獲得している。
なぜ「ゼルダの伝説」はここまで、日本を含めて全世界的に高い評価を獲得しているのだろうか。こうも国境をやすやすと超える面白さの根源はどこにあるのだろうか。今回はそのことについて考えてみよう。
「ゼルダの伝説」における「探索」と「成長」
まず、結論から述べよう。「ゼルダの伝説」とは「探索」と「成長」のゲームである。
「ゼルダの伝説」とは「探索」に次ぐ「探索」のゲームだ。だからプレイヤーは常に世界を「探す」必要に迫られる。謎を解き、障害を克服し、次への扉を開くための鍵を得ることで、また新しい障害へと立ち向かう。それが「ゼルダの伝説」である。
一方で、「ゼルダの伝説」とは、主人公リンクの「成長」を描くゲームでもある。最初は敵とまともに戦うことすらおぼつかなかった少年が、一つ一つ障害を乗り越えながら新しい力を得てゆき、やがて世界を大いなる危機から救う伝説の勇者となるまでを、ゲーム的な形で体験させる。したがって、「ゼルダの伝説」は紛れもなく「成長」のゲームである。
「探索」と「成長」、この2つは「ゼルダの伝説」において欠かすことのできない、非常に重要な要素だ。
例えば、「ゼルダの伝説」シリーズにおいて、主人公のリンクが、ほとんどのタイトルで剣を持たない状態でゲームがスタートすることにお気づきだろうか?
それもまた、このゲームが冒頭も冒頭からプレイヤーに対して「探索」をするように誘導しているからである。敵とすらまともに戦うことができないほぼ無機能な状態から始まることで、「探索」の重要性と、敵と戦う手段の獲得という、ゲーム中最大の「成長」が同時に体験できるように巧みに設計しているのだ。
この点について、初代『ゼルダの伝説』を作った宮本茂は以下のように述べている。
宮本 初めて「ゼルダ」を作った時、「スーパーマリオ」とか、当時出てきたゲームを遊んでクリアするということに慣れていた人が多くて、モニターを取ってみたら「このゲームはいったい何をして良いのかわからない」という意見が多かったので、そのときはまだリンクは剣を持っていたんですけど、じゃあ剣も外して本当に何もわからないことから自分で考えて遊ぶと言う風にわかりやすくしようと思って、剣をおじいさんがくれると言う風に変更した歴史があるんです。
何をしていいのかわからないなら、いっそもっとわからなくするため、剣すら持たなくしたという理由がふるっているが、宮本茂自身が『ゼルダの伝説』というゲームを作る上で、意図的にリンクに剣を持たせなかったことがわかるエピソードだ。
最初は敵と戦う手段すら奪い、移動すること以外ほとんど何もできない状態からゲームを開始する。そのことで、「ゼルダの伝説」は「探索」と「成長」のゲーム――もっと詳細に言えば、「探索」を通じて主人公が自ら力を獲得することによって「成長」するゲーム――になったのである。
「成熟した身体」のマリオと「未成熟な身体」のリンク
そのことは、『ゼルダの伝説』のリンクと同様に宮本茂によって作られたキャラクター・マリオと比較することでよくわかる。
『スーパーマリオブラザーズ』におけるマリオというキャラクターは、ゲームをクリアするために必要な機能をゲーム開始時点でほぼ内包している「万能型のキャラクター」である。マリオには必要最低限の機能はゲーム開始時点で搭載されていて、その意味において成長はしない。その後に起きるのは、あくまで既にある能力の一時的なパワーアップであり、パワーダウンである。
対照的に、リンクというキャラクターはゲーム開始時点で極めて「無機能な身体」としてゲームに登場する。なにせ先ほど述べたとおり、最初は剣すら持っていないのだから。だからこそ、彼は絶えず新しい力を獲得し、成長する必要性に迫られる。そうでなければ、目の前の障害が突破できない。
そして、この両者の違いはビジュアル表現において、象徴的に示されている。マリオが髭を生やした「成熟した大人」のルックスであるのに対して、リンクはほぼ伝統的に「未成熟な少年」として表現されてきた。このように『スーパーマリオブラザーズ』と『ゼルダの伝説』はまったく別のゲームのようで、キャラクターのあり方が完全に対の関係をなす作品なのだ。
これらの作品が一人のクリエーター・宮本茂によって立て続けに生み出されたことは決して偶然ではない。目標達成のための手段の全てを「持っている」キャラクターがマリオなのだとしたら、目標達成のための手段の全てを「持っていない」のがリンクなのである(ただし、マリオの圧倒的な無双感は、実は3D時代の到来と共に終焉を迎えている。だが、この辺の解説は長くなるので、またこの連載の別の機会に譲ることにしよう)。
では、次はこの「持たざる」キャラとしてのリンクがいかに「成長」をしていくのか、を考えてみたい。実のところ、成長という概念はいくらでも解釈可能な曖昧な概念である。例えば、経験値というゲームでしか存在しえない架空のパラメータは見事に「成長」という抽象的な概念を表現した、間違いなくゲームの歴史に残る偉大な発明だ。ゲーム中での振る舞い(主に戦闘)によって得られた経験値という数値の蓄積によって「成長」させるという仕組みなくしてRPGというジャンルが生まれることはなかっただろうし、国内においても「ドラゴンクエスト」に代表されるRPGの大ブームは起きていなかっただろう。
しかし、「ゼルダの伝説」にはこの経験値という概念は存在しない。ハートのうつわやハートのかけらといったアイテムを得ることで、ライフパラメータが数値的に成長したりはするものの、経験値を一定の数値まで蓄積することで発生するレベルアップというシステムも存在しない。
では、「ゼルダの伝説」は「成長」という単純なようで、いくらでも解釈可能な曖昧な概念をいかにゲーム的な仕組みに落とし込んだのだろうか。
なぜ我々は夢中で草刈りしてしまうのか
それは、新しい力を獲得することによって生まれる、新しい世界との関係性によって表現されているのではないだろうか。
ゼルダでは「道具」を獲得した瞬間に、それまで自分を取り巻いていた「世界」と「自分」の関係性が変わる。
入手した剣をただなんとなく振って、ルピーやハートが特に欲しいわけでもないのに無心にフィールドの草を刈るとき、あるいは手に入れたばかりの爆弾を携えて、破壊できそうかどうか地形を凝視するとき――私たちは、その感覚を覚えている。そして、これまで手の届かなかった場所や、何かがありそうな可能性だけは感じていたものの素通りしていた場所に、もう一度行ってみたくなる。たった一つのアイテムを得るだけで、見慣れていたはずの世界が変わって見えるのだ。
例えば、それは現実で初めて自転車に乗ったときに、つい行ったことのない場所まで行ってしまい、そこから普段の場所に帰って来ると、見慣れていたはずの世界が違って見えた「あの感じ」に近いのではないだろうか。
「ゼルダの伝説」が非常に優れた「成長」のゲームになっているのは、プレイヤーが新しい機能を獲得することで、世界が広がって感じる「あの感じ」を極めて「ゲーム的」な、言語によらない体験の形で提示したゲームになっているからである。「ゼルダの伝説」が世界的に多くの熱狂的なファンを獲得する根源的な理由はそこにこそあるのではないだろうか。
「ゼルダの伝説」に登場する、こうした多彩なアイテムの多くは、ゲーム内の機能としては、障害を突破するための「鍵」であると言えるだろう(実際、このゲームには閉ざされた扉を開くための「鍵」そのものが多数登場する)。
だが、扉を開くための「鍵」を獲得したこととプレイヤーの「成長」を一直線に結びつけることは難しい。なぜなら「鍵」はあくまでその「鍵」に対応している扉を開くという極めて限定された機能しか持っていないからである。このゲームが「探索」を通じてただただ「鍵」を探すゲームとなっていたのならば、「成長」という要素は欠落した内容になっていただろう。
シリーズでレギュラー的に存在し、冒険の過程でリンクが獲得していくことになる「弓」や「爆弾」、「ブーメラン」といったアイテムは、障害を突破するための「鍵」である以上に、敵との戦いをより有利にしてくれる「武器」であり、世界をより深く探索するための「道具」として存在し、リンクと世界との関係性を変え、リンクの成長を促す触媒としての働きをしているのだ。
だが、圧倒的な完成度の高さが故の刷新の困難さもある。
「探索」を通して「成長」を体験させる「ゼルダの伝説」というゲームの持つメカニズムの強さはあまりに強固だが、その強固さゆえにぶつかる困難さもまた同時に存在するというわけだ。ブーメランや弓、爆弾といったアイテムがほぼ常連状態でゲーム中に登場するが、これらのアイテムに付随する形で存在する探索要素が半ばシリーズのお約束のような形になっている側面は否定できないだろう。
最新の「ゼルダの伝説」シリーズにおいては、これらのゼルダの当たり前を見直すことから作り始めるということが半ば常態化しつつある。2013年に発売された『ゼルダの伝説 神々のトライフォース2』では弓や爆弾などのシリーズおなじみのレギュラーアイテムがダンジョンで獲得するのではなく、レンタルでいきなりまとめてゲットできるという大胆な変更を加えることで、マンネリ感を払拭しようとする試みがなされていたし、現在も開発中の最新作、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』においても、同様の試行錯誤は継続されているようだ。
宮本 「ゼルダ」の当たり前を見直す、壊すということですが、「風のタクト」が出て、「スカイウォードソード」に進化していったことで、「ゼルダ」がもともと持っていたアドベンチャーゲームとしての自由度が損なわれて、シーケンシャルなもの(規則に沿った遊び方)になりすぎたということで、それを元に戻そうと言うことです。前の「ゼルダ」は何もないところから始まったんですが、今回の「ゼルダ」も裸の状態から始まります。
「ゼルダ」の系譜
最後にまとめよう。「ゼルダの伝説」とは「探索」を通じた「成長」をユーザー自身が己の経験のように疑似体験できるゲームである。
行動の一歩目に「探索」があるため、常にそこにはプレイヤーの能動性が要求される。だからこのゲームの経験は自分の実体験のように記憶に刻まれ、この謎を解けたのは自分だけなのでは? というゼルダ特有の麻薬のような錯覚が多数のプレイヤーの間に生まれる。
そうやって獲得したアイテムは、新しい機能をプレイヤーにもたらすことによって、世界との関係性に変化を与える。その変化していくプロセスの経験こそが、「成長」をプレイヤーに実感させてくれる。反面、そこにはマンネリという落とし穴が付きまとう。ゼルダの伝説には大体爆弾や弓が登場するし、一種様式化しつつもある。
そういった困難さに直面しながらも、そこからさらに前進しようとし続ける「ゼルダの伝説」シリーズは今日においては孤高の存在になっているのかもしれない。
今回の話はここまでだが、この探索を通じた機能獲得型の成長システムをもったタイトルが現在も人気シリーズとして継続中であることをご存知だろうか?
そのタイトルは――「ポケットモンスター」。
実はここまで「ゼルダの伝説」の面白さの根幹について解説して来たのは「ポケットモンスター」と「ゼルダの伝説」が文脈上の繋がりがあることを明らかにするためなのである。「ゼルダの伝説」の文脈を継承することで、「ポケットモンスター」は何を表現することに成功したのか?
ということで、今回は少々普段に比べて短いが、ここまでにしておこう。次の回では、この内容を踏まえて「ポケットモンスター」について本格的に考えてみたい。
というわけで次回、「ポケットモンスターはなぜ面白い?」 ご期待ください。
文/hamatsu