【全文公開】伝説の漫画編集者マシリトはゲーム業界でも偉人だった! 鳥嶋和彦が語る「DQ」「FF」「クロノ・トリガー」誕生秘話

【全文公開】伝説の漫画編集者マシリトはゲーム業界でも偉人だった! 鳥嶋和彦が語る「DQ」「FF」「クロノ・トリガー」誕生秘話

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 鳥山明の名作漫画『Dr.スランプ』に、則巻千兵衛博士のライバルとしてアラレたちに立ちはだかるDr.マシリトなるキャラがいたのを皆さんは、覚えているだろうか。

 このキャラのモデルになった人物こそが、今回インタビューする白泉社代表取締役社長・鳥嶋和彦氏にほかならない。
 彼の編集者人生は数々の伝説に彩られている。新人賞にかすりもしなかった新人漫画家・鳥山明を一から育て上げ、何百枚にも及ぶボツ原稿を出したあげくに、『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』などの名作をタッグで世に送り出したこと。鳥山明のみならず多くの漫画家にネタにされてきた、その“悪魔のような”強烈なキャラクター。そして90年代後半、週刊少年マガジンにジャンプが追い越された「暗黒期」に編集長として呼び戻され辣腕をふるい、『ONE PIECE』『NARUTO』『テニスの王子様』などの作品を次々に世に送り出し、再びジャンプを王者の座に返り咲かせたこと――。

 とはいえ、そんな漫画史における最重要人物の一人とも言える鳥嶋氏ではあるが、なぜこの連載に登場してくるのかと不思議に思う人もいるかもしれない。
 だが、この連載を始めてからというもの、不思議に多くのゲームクリエイターから鳥嶋氏の名前が挙がってくるのである。それも、単に有名媒体の編集長であるにとどまらない、相当に深いレベルでゲームというジャンルに関わってきたことがうかがえる話ばかりなのだ。

 一体、伝説の漫画編集者とゲーム業界との関わりはどんなものだったのか? ほとんどメディアに姿を現さない氏に、長年の友人というカドカワ会長・佐藤辰男氏の紹介で我々が出会ったのは、とある都内の老舗ホテルの一室。
 白髪頭におしゃれなブランド服の出で立ちで現れた鳥嶋氏は……確かにマシリトの面影がある。そして話し始めてみると、60歳を超えた人間とは思えないほどの俊敏な頭の回転で、カミソリのような切れ味鋭い言葉が次々に飛び出してきた。
 ――かくして我々はその日、『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』『クロノ・トリガー』など数々の名作ゲームたちが生まれるに至った、ゲーム業界黎明期における知られざるエピソードと人間関係の逸話の数々を、その中心人物の口から聞いていくことになったのであった。

鳥嶋和彦さんの取材を行うにあたって、編集部が作成した取材用メモの年表を公開中です。

聞き手/TAITAI稲葉ほたて
文/稲葉ほたて
カメラマン/佐々木秀二


「漫画は好きじゃないけど、ゲームは好き」

――今日はよろしくお願い致します。鳥嶋さんご自身はゲームはお好きなんですか?

鳥嶋和彦(以下、鳥嶋)氏:
 それこそ、アタリの『PONG』からプレイしていたよね。
 最初はどこかの温泉のゲームコーナーだったと思うけど、球を角に当てる角度を調整するとあっという間に穴に消えていくでしょ。もうそれがとにかく面白くて、だいぶハマった記憶がありますね。そうしたら、今度は『インベーダーゲーム』の登場ですよ。一番ハマっていた時期は、神保町のどの喫茶店に何台あって、どのくらい待ち時間があるかまで全部知ってたよね。

――それは大学時代の話ですか……(笑)?

鳥嶋氏:
 いや、会社に入ってからだよ。日本で『PONG』の後継である『ブロック崩し』が流行ったのが、たしか1977年頃だから、新入社員の時期だね。

佐藤辰男(以下、佐藤)氏:
 そんなに遊んでたんだね(笑)。

鳥嶋氏:
 で、そのうちに新宿に新しいゲームのロケテストの店があると分かったから、さくまあきらさん(※)たちと一緒によく遊びに行っていたんだよ。100円玉を積んで、みんなでゲームを指定して点数を書いて一番になった奴が総取りするとか、まあそんな遊びをしてたよね。

※さくまあきら
1952年生まれのゲームライター。立教大学経済学部卒。
1982年から1995年に渡り『週刊少年ジャンプ』の読者投稿コーナー『ジャンプ放送局』の構成を担当。友人の堀井雄二に誘われてゲーム製作の道へ。1987年に『桃太郎伝説』、1988年に『桃太郎電鉄』を世に送り出した。

 そんなふうにさくまさんと遊んでいたら、ある日、彼が「ゲーム好きな面白い奴がいる」と言って、友人を紹介してくれたんだよ。
 そしたら、会うなりそいつがズダ袋のカバンから『BASIC』という分厚い本を取り出してきて、「これをやってるんや」とニヤッと笑ったの――それがまだゲームをつくる前、ライターだった時代の堀井雄二さん(※)との出会い。で、その日からは堀井さんもゲーム仲間だったね。

※堀井雄二
1954年生まれのゲームデザイナー、作家。早稲田大学第一文学部卒。
大学時代にフリーライターとして活動を開始。パソコンゲームにハマってからは独学でゲームを製作し始め、当時のエニックスが主催したゲーム・ホビープログラムコンテストに『ラブマッチテニス』を応募、入選プログラム賞を獲得する。その後『ポートピア連続殺人事件』「ドラゴンクエスト」シリーズといったヒット作を手がける。

――まだ無名時代の堀井雄二さんですか……! その後、堀井さんはパソコンゲームで有名になりますが、一緒にプレイされたりしてました?

鳥嶋氏:
 もっと後の話になってしまうけど、堀井さんと一緒にジャンプでパソコンゲームの連載をやったんです。そのときは、もう二人で徹夜して遊んだりしたものですよ。ただ、当時のパソコンゲームは操作性が悪くて、あまりプレイできるものはなかったかな。マトモに遊べた日本のソフトで覚えてるのは『南極大冒険』くらいだったね。

佐藤氏:
 当時の日本のパソコンゲームはカセットテープでしたね。稚拙なゲームが大半でしたが、ハドソンや光栄なんかはそこで基盤を築いて、ファミコンに行くわけですね。

鳥嶋氏:
 ジャンケンして負かすと女の人が服を脱ぐとか、そんなのばっかりだったからね(笑)。でも一方で、当時エニックスにAppleのイベントに連れていってもらって、AppleIIを知ってみたら、もう世界が違っていたの。『ロードランナー』、『ウィザードリィ』、『ウルティマ』みたいなゲームがあって、全然レベルが違ったんだよね。

――『ウィザードリィ』まで遊ばれているのですか。

鳥嶋氏:
 『ウィザードリィ』は『3』までは遊んでますね。

 『ドラクエ』をつくる直前の時期なんかは、堀井さんと会うたび、『ウィザードリィ』と『ウルティマ』の情報交換ばかりしてたんだよ(笑)。でも結局、パソコンゲームでやり込んだのは、その二つくらいになるね。ただ、『ウルティマ』は世界観こそ月まで行くような広がりがあるけど、戦闘が退屈なんだよ。

佐藤氏:
 Appleのゲームにはまった人は僕の周りにもたくさんいました。『ウィザードリィ』や『ウルティマ』、『ミステリーハウス』なんかに衝撃を受けて、雑誌の周辺に集まってくる。そういう人たちがゲームライター、小説家、ゲームクリエイターに育っていった時代ですね。
 で、すぐにファミコンが登場するわけだけど、そっちはどのくらい遊んだの?

鳥嶋氏:
 ファミコンは十字キーの操作性も素晴らしかったし、面白かった。十字キーの操作の通りにキャラクターがキチンと動いて、ピタッと止まるでしょう。あれがパソコンゲームにはなかったんですよ。当時は仕事なんて21時くらいに終えて、朝までファミコンを遊んでたな(笑)。

――先ほどからだいぶゲームをされている返答で、ちょっと驚いているんですが……(笑)。

鳥嶋氏:
 僕はね、よく「漫画は好きじゃないけど、ゲームは好き」と言うんですよ。

一同:
 えええ(笑)。

佐藤氏:
 大丈夫? そんなこと言って(笑)。

鳥嶋氏:
 ついでに言うと、ジャンプも嫌い(笑)。僕は新人時代、あまりに当時ジャンプに掲載されていた漫画がつまらないものだから、小学館の資料室にこもって他誌の漫画を山ほど読んでいたくらいだもん。

――なんか、いきなりすごい告白を聞いているような。というか鳥嶋さんって、ジャンプ編集部のエリートみたいな印象だったのですが、なかなかに不良サラリーマンですね。

鳥嶋氏:
 だって、編集者の仕事は、担当している作家に一円でも多く稼がせることにあるわけじゃない。そうやって現場で仕事をしていたから、自然と会社とぶつかっていたよね。

 それに当時の僕は、ゲームクリエイターに親近感を抱いていたんだよね。これまでのカルチャーでは見たことのない連中だったし、一方で同じゲーム好きの仲間という気持ちもあったしね。

――ううむ……もしや漫画業界の人たちよりもですか?

鳥嶋氏:
 まあ、当時の漫画編集者や漫画家に、ゲーム好きなんてまずいなかったというのはあるね。
 それに大御所の漫画家なんて、ひどい人は本当にクリエイターとして終わってたから、嫌いなやつも多かったしね(笑)。そんな連中に比べればゲームの方は、堀井さんや中村光一さん、あるいは坂口博信とか、本当にやる気満々のギラギラした若者ばかりで、やっぱり面白かったよね。

堀井雄二が小学生の苦情係をしていた?

――今回、鳥嶋さんにインタビューしたのは、往年のゲームクリエイターにインタビューすると、鳥嶋さんの名前がよく挙がるからなんです。それこそ、先ほどのさくまあきらさんや、彼の周囲にいた堀井雄二さんなどの漫画研究会の人たち(※)がゲーム業界に入り込んだキッカケは、明らかにジャンプじゃないですか。

※漫画研究会の人たち
学生時代、堀井氏は早稲田大学の漫画研究会に、さくま氏は立教大学の漫画研究会に所属していた。当時、大学間の漫画研究会同士で交流があり、堀井氏とさくま氏はそのつながりで親交を深めていった。連載の第2回では、その時の様子が語られている。

鳥嶋氏:
 ジャンプに彼らが来たのは、確かに僕がキッカケですね。

 集英社の8階で当時、夜になると雑誌の『セブンティーン』とかの色んなライターが集まってきて、仕事をしていたんですよ。そこでさくまさんだとか土居さん(※)が『セブンティーン』の仕事をしてたの。それである日、さくまさんが鳥山明インタビューを『プレイボーイ』でやりたいと言ってきて、確かそれが出会いだったと思う。

※土居孝幸
1955年生まれ。漫画家、イラストレーター、キャラクターデザイナーとして活躍。『桃太郎伝説』や『桃太郎電鉄』で作画・キャラデザインを手がける。『ジャンプ放送局』ではイラストを担当した。

――彼らって、ジャンプ放送局の前身の『月刊OUT』の寄稿家たちでもありますよね。

鳥嶋氏:
 そうそう。
 僕としては、さくまさんたちが漫画にものすごく詳しいことは気づいていたから、一緒に仕事をしたかったんだけど、当時のジャンプ編集部はかなり閉鎖的な場所で、外の人間をなかなか入れたがらなかったんですよ。
 そうしたらある日、副編集長から「読者ページをやってくれ」と言われたんだよね。僕はあまり気乗りしなかったので、ダメ元で「今までの編集プロダクションと取り替えて、思い通りにやらせてくれるなら」と答えたら、なんとOKが出ちゃったんです。それでさくまさんたちと作ったのが『ジャンプ放送局』ですよ。

――『ジャンプ放送局』を仕掛けたのは、そもそも鳥嶋さんだったんですか。

鳥嶋氏:
 そうそう。しかも、さくまさんたちに替えてページをリニューアルするなり、読者コーナーは一気に人気が出てね。

佐藤氏:
 なるほどね。あと、ジャンプはゲームの宣伝媒体として大きなポジションに育っていくでしょう。あれも鳥嶋さんなのかな?

鳥嶋氏:
 あれは、そもそも堀井雄二さんのゲーム特集のコラムが最初なんだよね。

 あるとき、プレゼントコーナーで任天堂の『ゲームウォッチ』をプレゼントするという話になったの。それで編集部内でゲーム好きとして知られていた僕に、特集ページが回ってきた。そこで僕は一計を案じて、いっそ単なるプレゼントページじゃなくて、堀井さんにコラム的なゲーム解説をお願いすることにしたんだよね。

――堀井さんのゲーム特集コラムは、プレゼントページにくっつく形で始まったものなんですか?

鳥嶋氏:
 そう。
 ちょうどその頃、パソコンが売られだして、家庭用ゲーム機もどんどん出てきたんだよ。トミー、タカラ、バンダイあたりまで出していた時代だったからね。そこでジャンプでもパソコンゲームの特集から始めてみたんだね。

佐藤氏:
 そんなことをジャンプがやっていたんだねえ……。でも当時といえば、団塊ジュニアの子たちが小学生5・6年生でしょう。そうなるとPCを買ってもらっていた子は……あれ、いたのかな?

鳥嶋氏:
 いや、買えなかったと思うよ(笑)。当時のジャンプの読者は小学校高学年、中学生のあたりだもん。それなのに国産のパソコンなんて一番安いPC60シリーズでも、まともに周辺機器を揃えようとしたら20万円を超えていたでしょう。絶対に、ムリムリ。


一同:
 (笑)

――じゃあ、ゲーム仲間でジャンプ誌面を乗っ取ってパソコンゲームの宣伝をしたようなものじゃないですか、ひどい(笑)。

鳥嶋氏:
 でも、記事の評判は良かったんだよ。

 ただ、当の僕らもパソコンを高くて買えないんだよね。だから秋葉原のパソコンショップの店頭まで行って、ダンボールを繋げて、カメラで写真を撮っていたんだね。ショップは朝の10時にスタートするから、8時くらいに行ってね。しかも、編集部の予算から謝礼が出せなくて、代わりに鳥山明さんに書いてもらった色紙を渡して帰ってきてさ(笑)。

佐藤氏:
 それは今となっては、豪華すぎるお礼だなぁ(笑)。

――そういえば、佐藤さんたちが『コンプティーク』で裏技を掲載していたのは有名ですが、ジャンプでもそういうコーナーがあったと聞きました。

鳥嶋氏:
 ああ、それはまさにその後の話だね。結局、売上につながらない以上は厳しくなるのは目に見えてたので、ひとまずゲーム特集は一区切りさせたんですよ。

 ただ、その最終回でMSX(※)とファミコンを対決させる特集をしたときにファミコンを知って、もうあまりに面白くてね。当時はひたすら早く帰っては朝まで遊ぶ日々を送ってた(笑)。ところが、また副編が「鳥嶋くん、『コロコロコミック』(※※)がファミコン特集で売れてるから研究してくれないか」とか言い出すんだよ。で、見たら裏技の特集がウケてるんだよね。

※MSX
1983年に米マイクロソフトと当時のアスキーが提唱した8ビット・16ビットパソコンの共通規格。いくつものメーカーがMSXの仕様に沿ったパソコンを発売した。

※※コロコロコミック
『月刊コロコロコミック』。1977年に創刊された、小学館のコミック誌。小学生がメインの読者層であり、『ミニ四駆』や『ポケモン』、『ビーダマン』『ベイブレード』『甲虫王者ムシキング』などメーカーとタイアップした漫画を連載。これらのブームの火付け役となった。

佐藤氏:
 当時はどこの雑誌も載せてたからねえ。

鳥嶋氏:
 でも、よく見たらメーカーに配慮して、本当の裏技のコマンドをちゃんと掲載してないんだよ。「じゃあ、こんなの簡単に抜けるじゃん」と思ってね。
 それで編集部に二つだけ約束してもらったの。まず、コロコロは2色の特集だけど、こっちは4色で特集する。小さい誌面でもいいから4色にしてくれ、と。もう一つは、コロコロはハドソンと組んでるからゲームの内容に対する率直な評価はできないけど、我々はどことも組まないでミシュラン的な点数評価を入れる。ただ、メーカーからクレームはつくと思うから、広告部からのクレームは全てハネてくれ、と。

――それを編集部に飲ませたんですか?

鳥嶋氏:
 うん。それで堀井雄二さんをライターにして始めたのが『ファミコン神拳』(※)ね。始まってみたら、ジャンプの読者アンケートでも大人気でさ、『ドルアーガの塔』を特集した号なんて、ついに3位になっちゃった(笑)。1位:ドラゴンボール、3位:ファミコン神拳みたいな状態ですよ。

※『ファミコン神拳』
1985年頃から週刊少年ジャンプに不定期掲載された、ゲーム紹介コーナー。堀井雄二がライターを担当して、他のゲーム雑誌がメーカーへの配慮から控えていたようなバグ技なども積極的に公開して、話題を呼んだ。

 しかも、子供はみんなコマンドの入れ方とかよくわからないから、質問の電話が来るの。編集部の電話が鳴り止まなくなって、編集部内で大ブーイング。仕方ないから、ライターの堀井さんと、アクションゲームが上手でマリオの回を手伝ってくれてた宮岡寛さん(※)にお金を払って、電話の対応をしてもらったんだ。

※宮岡 寛
1958年、山口県に生まれる。ゲームクリエイター。「ドラゴンクエスト」シリーズのロト三部作の製作に参加して、シナリオのアシスタントなどを行う。1988年にはクレアテック社を設立。90年代に入ってからは「メタルマックス」シリーズを制作した。

――堀井雄二さんが、小学生のカスタマーサポートセンターを(笑)。

鳥嶋氏:
 まあ、そんな感じだから、ファミコン特集の仕事からは逃れられなかったな。あれも、僕は数回で終えるつもりだったんだけどね。

――ゲーム三昧の日々に戻るつもりだったのに、と(笑)。でも結局、メーカーから裏技へのクレームは来たんですか?

鳥嶋氏:
 エニックスなんかはむしろ無敵コマンドをあえて仕込んで売りだして、それを特集したくらいだったけど、やっぱりハドソンやナムコみたいな会社からクレームは来たね。

佐藤氏:
 僕もゼビウスのときに、『コンプティーク』で開発用キーの数字の連なりを掲載したら、ナムコからクレームが来ましたよ。しかも、ナムコの法務部は厳しいことで有名なんです。電話がかかってくると「あなたの発言はこれから録音されます」とか言われるんだよね。

鳥嶋氏:
 そうそう。
 で、僕も編集長と一緒に呼び出された。そのときは、まず「報道の自由」を主張しましたね。製品として世に出たものをどう解説しようが、これはメディアの自由でしょ、というわけ。あと、そもそもクレームになるくらいならなぜ製品の中に残すんだ、と言ってね。

佐藤氏:
 まあ、その鳥嶋さんの主張は完璧で、メーカー側はこの言葉には対抗できないんです。だから、その後の歴史を言うと、メーカーは画像の著作権を主張することで、裏技を抑え込みに行ったんですよ。

――ああ……。それが現在の日本のゲームメディア特有の、必ずメーカーにチェックのお伺いを立てる独自慣行に繋がってるんですね。

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