【分類2:ゲームプレイヤーマンガ】拡散していくゲームの舞台
対戦をくり返し、敵をつぎつぎと撃破していったゲーマーたちが入り込んだのは、戦いがすべてではないビデオゲームの細分化と深化の迷宮だった。
バーチャルリアリティやネットワークゲームなど、日々進化していくテクノロジーがマンガ家たちの想像力や創造力を刺激することは間違いない。そうして生み出された作品群は、ゲームの持つアーキテクチャーを物語のポイントに据えたもの、ゲームへのダイブを前提としてそこで描かれる人間関係を模索したものなど多岐にわたる。
一方、戦わないプレイヤーを描く日常系フィクションも増え続けている。これは、あずまきよひこの『あずまんが大王』(1999年・メディアワークス)の大ヒットによって生み出されたジャンル。’80年代に始まる、いしいひさいちや植田まさし以来脈々と続く4コママンガ誌の隆盛や、2007年のかきふらいによる『けいおん!』(2007年・芳文社)のムーブメントなどの影響下にあると言えるだろう。
『ワンダービット インサイダーケン編』──どこを切っても島本マンガ
映画、マンガ、ゲームなどを体験すると人一倍のめり込み、コンテンツ内で受けた傷や衝撃が実体に跳ね返ってくるという、怖ろしくも楽しそうな能力を持った人間。それがインサイダーだ。主人公の実体ケンは、インサイダーであり、同様にそれらの能力に目覚めてゲームに囚われた友人を助けるためなど、リアル同然の危険を冒しながらゲームに入り込んでいく……のだが、そこは『炎の転校生』(1983年・小学館)や『アオイホノオ』(2007年・小学館)などを手がける島本和彦によるマンガ。ゲームのマンガである以上に「全篇これ勢い」の島本節に彩られ、大ベテランが描くマンガの醍醐味が存分に楽しめる。
登場するゲームタイトルも当時のPCのもの。『ダンジョンマスター』(1987年)でモンスターを倒し、その肉を喰らうときにリアルな味がしたら? 架空の世界に入り込んだまま帰ってこないプレイヤーが抱える事情とは? これらがインターネット普及以前の’90年代前半で描かれていることが空恐ろしい(前者などは、2010年代に至って九井諒子の『ダンジョン飯』(2014年・KADOKAWA・エンターブレイン)などに繋がるわけだが)。
巻末に並録された“インターミッション”というオマケのマンガが、ゲームとはもはや関係ないながらも島本節を最強に楽しめるものとなっている。
『空談師』──MMOで入り乱れる利害と思惑
舞台となる架空のオンラインゲームの世界を丁寧に設定したうえで、その中での闘いを現実同様のリアルさで描く作品。タイトルは架空の話を語るジョブ=作者の意味か。
凄腕のPK(プレイヤーキラー)と、ゲーム内での殺しに過剰な反応をする“痛がり屋”と呼ばれるプレイヤーを狂言回しとして配置。虚実入り乱れたオンラインゲーム空間での抗争というルールのもとに、ふたつの陣営+αが互いに殺し合い、ときにはルールの隙を窺って傍若無人に跋扈する。
陣営の内部分裂、ウィルスによる荒し行為、サーバー内を自治する親衛隊と呼ばれるメンバーたち、周囲のプレイヤーの動向を意に介さない吃音の凄腕プレイヤー、ゲームマスターとトッププレイヤーのつながりなど、MMORPGプレイヤーであれば理解可能なさまざまな利害と思惑が入り乱れるさまは圧巻。
キャラクターの死亡によってステータスの低下や所持金のロストが起きたり、死亡した状態でログアウトしてキャラクターデータが消失してしまうことの怖さなど、「怖れ」が物語の駆動力となっており、そこから生まれるキャラクターどうしの駆け引きにリアルさがある。
惜しむらくは、驚くほど話の途中で放り出されて物語が終わってしまう。また、同名だが別内容の読み切り作品が、作者の短編集『篠房六郎短編集~こども生物兵器~』(2002年・講談社)で読める。
『ルサンチマン』──そう遠くないVR&AI彼女の物語
印刷所に勤める30歳のさえない男、たくろーを主人公に据えたこのマンガの舞台は2015年。ヘッドマウントディスプレイとグローブデバイス、そして触感を伝えるボディースーツに身を包み“アンリアル”と呼ばれる仮想空間に、一般人たるたくろーがその時点で跳び込んでいるのだから、現実は10年近く遅れているのかもしれない。部屋の四隅に設置するトラッキング用のカメラや、デバイスが視聴覚、手の触覚、大事な部位の順に普及しているところなど、『アイアムアヒーロー』(2009年・小学館)などでいまをときめく作者のデビュー作ながら、予言的なリアルさもある。
月子という名のヒロインの正体は、ゲーム中のNPCのプロトタイプである伝説のソフト「ムーン」で、ふとしたことからこの月子を手に入れたたくろーが、自分になつかない彼女の心と身体を求めるプロット、伝説のソフトだと気づいて彼女を追いかける陣営との攻防、彼女自身が持つおぼろげな記憶の謎の追究が話の軸になる。
仮想が現実を侵食する部分などは、いかにもマンガ的で、その意味では、思いっきり没入して読めるがゲームマンガという感覚は薄い。結末も、落としどころを考えると作品のような形になるのだろうけど、少なくとも現実のAIは物語で描かれているものまで追いついていないため、ここはマンガ的な説得力に身を委ね、ダイナミズムを楽しんで読むべきだろう。
『ナツノクモ』──つながりの距離感などに翻弄される人々を描く
前作にあたる『空談師』同様、オンラインゲーム内の世界を舞台に、ゲーム内外でのプレイヤーの苦悩、人間関係を中心に描いた作品。作者はかなりのオンラインゲームフリークだろう。
リアルで心に空虚を抱えたプレイヤーが操る、凄腕の殺し屋(むしろ破壊者)が主人公。大きく分けてふたつめのエピソード(全体の8割を占める)で、彼がメンタルのカウンセリングや治癒を目的としたオンラインセラピーと称するコミュニティに関わり、コミュニティ内の入り組んだ人間関係に戸惑う姿や、コミュニティを誹謗し、根絶を図る人々との攻防に寄与する姿が描かれる。この戦いで立案される戦術などは、完全にMMORPGのそれ。その裏で、さまざまな人の立場やエゴ、リアルでの葛藤、オンライン上だけに浮かび上がるペルソナ、つながりの距離感などに翻弄される人々の様子が生々しく美しい。
こうしたマンガ的な調和を優先したためか、過剰な説明が忌避されているあまり、コンテクストを読み取りづらくなっている部分もあるが、ふと連絡が途切れた仲間についてじつは何も知らないために生まれる、ほかではあまり味わうことのないオンラインゲーム独特の喪失感や、まれに跳び込んでくる劇中プレイヤーのリアルでの情景など、オンラインゲーマーであればグッと刺さる一流の描写がなされている。
登場人物たちの心の傷がそれぞれどう癒やされていくのか(あるいは癒やされないのか)、伏線的に張られたけっこうな数の謎など、さまざまなものを残しながら、こちらも作品が8巻で終わってしまったのが残念でならない。
『日がな半日ゲーム部暮らし』──じつはゲーム版『キャプテン』?
電撃プレイステーション誌が新たなニーズを模索して付けていた4コマ付録冊子に、企画の開始当初から連載されていた4コマ。女性の作者らしく、全体にあざとさのない普遍的なゲーム好きのメンタリティが流れており、いちいち言うことにけっこう納得できたりして、ゲームあるあるネタとしても、ほのぼの女子高生ライフものとしても読みやすい佳作となっている。そのユルさたるや、1巻では登場人物の解説がとくになされておらず、主人公ポジションの“みひろ”の名前も数回掲載分進んでやっとわかるほど(2巻では冒頭に紹介がなされるが)。
そのみひろが入学し、友人とともにゲーム部に入部するところからマンガはスタート。そして3年生が卒業し、新入生が現れ、自身は進級し……と、みひろが卒業するまで個性的な後輩たちが少しずつ現れ、やがて馴染んでいくこの感覚は、作者が意識しているかどうかわからないが、ちばあきおの『キャプテン』(1972年・集英社)そのもの。妙にしんみりするときもあって、哄笑を誘うわけではないが、読んでいて気分のいいマンガだ。
ちなみに件の4コマ付録からは、この作品以外にもゲーム系4コマが大量に刊行されている。つぎの機会には丁寧に追いかけてみたい。
『すこあら!』──濃さに驚く4コマ
女子高生3人を軸に描かれるシチュエーションコメディ4コマ(途中留学生が加わり4人組に)。作者は1984年生まれの女性とのことだが、説明なしで“汚れたフレスコ画”【※1】が登場したり、登場人物が何気なく手にしているのが“Nomad”【※2】だったり、『トリオ・ザ・パンチ』(1990年・データイースト)【※3】ネタが跳び出たりなど、チョイスの濃さやシブさが恐ろしい。さらに、そこはかとなくセクシュアルさが漂うネタなどのことも考えると、筆者同様のおっさんが描いていた疑惑も(笑)。最終的に主人公が渡米してプロゲーマーになる終わりかたも、4コマ誌掲載らしからぬ濃さだろう。
※1 汚れたフレスコ画
カプコンが1989年にリリースしたファミコン用タイトル『スウィートホーム』に登場する仕掛け。アスカという登場人物の持つ掃除機でホコリを吸い取ることにより、謎解きの手がかりが得られる。
※2 Nomad
海外版メガドライブ(ジェネシス)の亜種。1995年発売。航空機内でサービスの一環として楽しめるようにハンドヘルドタイプになったメガドライブの一種にメガジェットというものがあり、これに3.25インチのカラー液晶画面を付けたような形態。日本では流通していない。
※3 『トリオ・ザ・パンチ』
データーイーストが1990年にアーケードでリリースした、天下の奇ゲー。横スクロールアクションベースだが細かなステージクリアー型で、要件を満たすと登場するボスを倒せば、そのステージはクリアーとなる。特筆すべきは、同社のキャラクター“カルノフ”やピンクの羊、忍者、シャチホコ、カーネル・サンダースなど、登場するキャラクターのでたらめさと演出の奇抜さだ。
『神のみぞ知るセカイ』──物語そのものがゲーム性を帯びてからが圧巻
落とせない(二次元の)女性はいないとされる「落とし神」桂木桂馬が、ある日天から降ってきた駆け出し悪魔のエルシィの契約相手となり、現実の女性の心のスキマに巣くう悪魔「駆け魂」を捕獲すべく、現実の女の子をつぎつぎと「攻略」していくという物語。ただし、桂馬のワザはすべてギャルゲー攻略のテクニックに基づくもの。相手の気持ちをつかみ、最後に対象の女の子にキスをすると、攻略のあいだのその子の記憶はなくなるという仕掛けが、ひとつひとつのエピソードのクライマックスと切なさにつながり、唯一無二の読みごごちに繋がっている。
初めから完成されたアニメ調の絵だが、作者にとってじつはこれが連載2作目。話も『ドラえもん』(1969年・小学館)などに見られる典型的な「異世界からの客人との同居・交流譚」だが、たとえば現役アイドルである同級生の攻略などの使い古されたシチュエーションも、ゲーム的な考えかたを挟むだけで 新しく読める。何より京大を出て「20代の後半はひたすら家でゲームをしていた」と語る作者だけあり、理詰めで読み手を納得させる知性的な部分と、ゲーム的な「わかっている」感が作品の随所に見られ、これが全体に散りばめられている既存の人気マンガからの引用的な部分などと合わさり、読みやすさに繋がっている。
たとえば「親密度は出会いの数に比例する」、「好きと嫌いは変換可能」、「(相手の)悩みはキラカード」など、たまに出てくる桂馬の格言が、「そうかも?」と読み手を押し切るだけの説得力を持ち、それはメインストーリーのあいだに挟まるちょっとしたインタールード的な回で語られるような話の豊かさとあいまって物語に深みを与えている。
序盤から、女の子を単純に攻略する話だけでなく、ひとつの話を桂馬とエルシィの視点で別々に描いた回など実験性も見られるが、「攻略した記憶がじつは消えてないんじゃないか」という疑問が湧き始める中盤から攻略相手をいたずらに増やしていく展開が止み、物語そのものがゲーム性を帯び始める。女神編と呼ばれるエピソードで一度クライマックスを経た後、すべての物語をまとめるためのEXルートともいうべき過去編に至っては緊迫感も甚だしい。
ヒロインごとに分岐する物語とすべてを貫く大きな物語という、じつはこのマンガそのものがギャルゲーであるようなメタ構造をしているのも見どころで、それは作者がこの作品は名作アドベンチャー『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(1996年・エルフ)【※1】の影響を強く受けていると明言【※2】していることに由来する。読めば分岐やちょっとしたループ、エンディングの模索っぷりなどに、A.D.M.S.の影響やループものアドベンチャーのプレイ心地が感じられるだろう。そうしたすべてを「わかっている」作者が(あるいは桂馬が)、物語の果てにどういうエンディングを選んだかは一読の価値がある。アニメも製作されており、こちらで確認するのもいい。
※1 『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』
1996年にエルフから発売されたPC用アドベンチャーゲームで、剣乃ゆきひろ(=菅野ひろゆき・故人)がゲームデザインやシナリオからプロデュースに至るまでを担っている。歴史や宗教、哲学を始め、数学や物理にいたるまでの広範な知識に裏打ちされた、時空を股にかけるシナリオに加え、ゲーム中で主人公がたどった平行世界の分岐ルートを視角的に記録するA.D.M.S.と呼ばれるシステムに対しての評価が高い。のちに家庭用ゲーム機への移植がなされ、2017年にはPlayStation4およびPlayStation Vitaでリメイクがなされている。
※2
作者のブログの2014年8月6日ぶんに記されている。このブログは物語と並行して読むと味わい深い。
『BTOOOM!』──心理的な駆け引きでドリブンする物語
同名のオンラインゲームの世界に送り込まれた主人公は、ゲームさながらの孤島で目を覚ます。同様に、ある理由からそこへ送り込まれた32人でたった4名だけの枠を競い合い、島からの脱出と生存を賭けたバトルロワイヤルを繰り広げることになるのだ。各人が身につけた特定のアイテムを奪い合い、これを8つ集めたプレイヤーが勝者となるため、基本は参加者どうしの駆け引きや、生死までもを賭したアクションパートになる。
バトルの武器となるのが、BIMと呼ばれる爆弾アイテム。この使用法やバトル全体の駆け引きなどは、まさにビデオゲーム然としている。能力の違う爆弾を組み合わせて、そのときどきにもっとも効果的な戦いかたを模索するのもゲーム的だし、その彼らのサバイバルの舞台となるゲームを制作した人物は、どうみても某名人。そもそも単行本の表紙からしてXboxシリーズのソフトをモチーフにしているのは一目瞭然。それぞれの利益や思惑で集合離散し、心理的な駆け引きでドリブンしていくマンガ的な醍醐味も味わえ、連載中の現在も目が離せない。
現在はリアル世界のスマホ向けタイトルとして、8人で5分間のサバイバルを繰り広げる『BTOOOM!オンライン』というゲームがサービス提供されているのも、ひとまわり回って不思議な感覚だ。
『かくげいぶ!』──有名プレイヤーたちの女体…いや女児化
ウメハラ氏やときど氏など有名対戦格闘ゲームプレイヤーをなんとなくモチーフにした女子中学生6人が“格芸部”なるゲーム部で楽しむ姿を描いた4コママンガ。女子中学生とは言ったものの、作者はIKa氏。見た目は幼女で、キャラクターの姓はすべて岐阜・愛知の地名だったり、不思議な濃さを湛えている(同じ作者の別作品からゲスト登場の4コマなども豊富)。
恐る恐る読み進めると、それぞれのキャラクターがいい感じで立っていることなどに気づき、加えて無造作に投げ込まれた古いゲームネタや、格ゲープレイヤーなら耳にするようなリアル名言などがちょいちょい挟み込まれ、「これはこれで」とスルスル読めるからさらに不思議。2巻に突入すると、話にも流れが出始め、格芸部の皆でニコ生に出演したり、最終的には、物語が始まるきっかけとなった“さくら”がアメリカに転校、そして10年の歳月が過ぎるなど、思いも寄らない感傷的な気分にもなれる。
『ゆうべはお楽しみでしたね』──知らないチームをのぞき見している感覚
林静一の『赤色エレジー』(1970年・青林堂)や上村一夫の『同棲時代』(1972年・双葉社)で描かれた同棲は、ひとりで生きるにはあまりにも辛い世間で孤独を慰め合うように始まり、結婚とも違うモラトリアムな一時期ならではの儚い“どうすることもできない現状感”を孕んでいた。
’70年代終わりに登場した柳沢きみおの『翔んだカップル』(1978年・講談社)もその系統だが、主役のふたりはうら若き高校生。大学受験までの刹那的な同居中に、第三者も入り組みつつ、ときに近寄ったり、ときにすれ違ったりする、男女の機微が描かれていた。
これが’80年代に突入すると、同居人のひとりは女装した男の子に変化。陰鬱さなど微塵も感じさせない、時代の軽薄短小な気分をストレートに反映した江口寿史の『ストップ!!ひばりくん!』(1981年・集英社)となる。
これらの過程を経て21世紀のオンライン時代の同棲マンガがたどり着いたのは、『ドラゴンクエストX』(2012年・スクウェア・エニックス)をモチーフに展開する、スローなテンポの、ほんのりラブコメだった。
男性名だが、作者は女性。ドラクエ4コマ劇場の出身で、少しヒネったシチュエーションの恋愛ものなどを書くベテランだ。それだけに全編に『ドラクエ』愛が満ちているし、この手のコメディにありがちな性的な匂いが一切ない。
勘違いからルームシェアすることになった、プクリポ女を使う22歳男性とオーガ男を使うギャル系女子という関係から極めてマンガ的な設定かと思いきや、『ドラクエX』でなくてもオンラインゲームをプレイしている人ならわかる日常のプレイの感覚が丁寧に織り込まれており、設定はさて置いても、スキッとした絵の効果もあって心地よく読める。言うなら、知らないチーム(ギルド)をのぞき見している感にあふれ、読み続けるうちに、読者はいつしかチームメンバーどうしの関係性までを含めて楽しむことになる。
一方、MMORPGあるいは『ドラクエX』を知らないと、話中のゲームの情報は断片的なので、いまひとつ乗り切れない可能性もある(そこは掲載誌が掲載誌だけに杞憂というものだが)。
『百万畳ラビリンス』──良質なアドベンチャーゲームのような読後感
某誌の表紙などで人気を誇るイラストレイターによる、ゲーム的なSFミステリーチックなマンガ。空間がでたらめにつながり合う建造物に囚われた、女性ゲームデバッガーのふたりが、世界のルールを紐解きながら、彼女らを捕らえた相手の正体、世界の構造、脱出の方法などを、極めてゲーム的に模索していく。映画『CUBE』(1997年)【※】を想像するといいだろう。
※CUBE
1997年にカナダで公開された映画。死のトラップが張り巡らされた立方体(キューブ)の部屋の中に閉じ込められてしまった男女の脱出劇を描いたサスペンスもの。トラップの他にも、部屋にはさまざまな謎が仕掛けられており、それらを解くことで脱出へと近づいていく。低予算制作制作ながらも、アイディアの面白さでヒットを呼んだ作品として名前が挙がることが多い。日本では1998年に公開された。
美しいシンプルな線、たかみちブルーと呼ばれる印象的な色づかい、描き込まれながらも静謐な世界、ゲームプレイヤーなら飲み込みやすい世界のルールなど、大枠で考えたらゲームマンガと言い切れるものではないかも知れないが、読めば不思議と良質なアドベンチャーゲームをクリアーしたかのような読後感を与えてくれるだろう。話中の武器となるアイテムが、某モーションコントローラーそのものなのも、ゲーマー的には「おっ」となるところだ。
『廃課金四姉妹』──萌え軸じゃない、ソシャゲあるある(ないない?)話
奔放で放蕩な長女。しっかり者で怒りっぽい二女。基本的にヤジ馬で飄々とした三女。姉妹思いで心配性(だがプロレス好き)の四女。このうちの長女が、じつはソーシャルゲームの廃課金プレイヤーで、お金の使いかたを咎められてもどこ吹く風。ほかの姉妹にソーシャルゲームの楽しさを説くという大人物。二女をソシャゲの沼に引き入れたり、掲示版で晒し行為をするプレイヤーを突き止めたり、この長女を軸に物語は進む。
『若草物語』(1868年)【※1】以来連綿と続く四姉妹モノの文法をハズした姉妹の構成がヤケにハマっており、そんな感じでソシャゲーの話題に終始するかと思いきや、姉妹の暮らしに訪れるささやかなトラブルを、各人の気性で解決したり、余計に混乱させたりとソシャゲ描写以外のエピソードが大多数。リアルかどうかと問われれば、決してそうではないのだが、課金プレイヤーの心理や課金ぶり、課金プレイヤーのロジックと非課金プレイヤーのロジックなど、その周辺が描かれるときは、かなり実際の感覚に基づいていると言えよう。
よくある日常モノの体裁ではあるが、「萌えときゃいいんだろう」というレベルを軽く超えた読み応え。吉田秋生『海街diary』(2006年・小学館)【※2】とはまた違う方向に進んだ、現代のもうひとつの四姉妹マンガだ。
※1 若草物語
美しく華々しさに憧れる長女メグ、ボーイッシュで読書の好きな二女ジョー、内気で病弱だが芯のある三女ベス、社交的でおしゃれのうまい四女エイミーという、南北戦争時代を慎ましく生きる四姉妹の成長譚。1868年上梓。作者のルイーザ・メイ・オルコットの自叙伝的作品(ルイーザはジョーのポジション)。
※2 海街diary
吉田秋生による、鎌倉に住む四姉妹の暮らしの営みと心の機微を描く物語。コミック誌月刊フラワーズで2006年から不定期に連載。既刊8巻。2015年に実写映画化もされている。
『アヴァルト』──剣と魔法のファンタジー+宇宙ステーション!
「アヴァルト」と呼ばれる人智を超えた神々が支配する地で、人々がその神々に、あるいはモンスターに虫けらのように殺される世界。主人公のひとりタギはアヴァルトに母親を殺され、カエルの姿の剣士に助けられたのち、神への復讐を誓う……と書くと、いわゆる剣と魔法のファンタジーものの範疇だが、じつはこの地は、1万年ものあいだ稼働を続けているMMORPGの世界。カエルの剣士は、じつは地球のはるか上空に浮かぶ宇宙船で1万年のコールドスリープから目覚め、船にたったひとり生き残ったことを知る乗組員ネッドであり、1万年のあいだに文明を喪失した地球になぜMMOの世界だけが残っているのか、宇宙からログインをして謎を解き明かそうとしているのだ。
このように設定や謎が入り組み、ときには時間を遡行した物語が語られるため、いささか理解が追いつきづらい面もあるが、そんな些事は気にならないほどの底知れなさを感じる構成となっている。
アヴァルトとは何なのか? その力の根源は? 封印された地下迷宮とは? タギとネッド、そして人間をかばったばかりに神々から追放された女神シノアは、ゲーム世界のルールひとつひとつを紐解きながら、アヴァルトを倒すすべを模索していく。彼ら以外にも、じつはこの世界に生き残ってログインする者や、ゲーム中のNPCながら意識に目覚める者たちなど、現在は物語の役者が集い始めているところ。5巻に至って、ようやくアヴァルトを倒すための手がかりが判明し始め、それを手に入れるために各キャラクターが目下奮闘中。いまいちばん続きが気になるゲームマンガのひとつだ。