※本記事には『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』のネタバレとなる可能性の文章が含まれています。ご注意ください。
2021年3月8日、緊急事態宣言の発出とその延長につられる形で、延期に延期を重ねた『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(以下『シン』)が公開された。
今回の『シン』の前作にあたる『エヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(以下『:Q』)が公開されたのは2012年であり、直近の作品からですら9年もの時が経っているという事実に軽いめまいすら覚えそうになるが、本作が完成するためにはこの時間が必要だったのだろうと、観終わった今、実感としてそのように思う。
2007年から始まり14年の時をかけて完結を迎えた新劇場版プロジェクト、その完結編としての『シン』は、1995年に放映開始されたTV版、1997年に公開された劇場版(旧劇場版)すらをも包括し、終止符を打つ、「さらば、全てのエヴァンゲリオン」というコピーに偽りなしの堂々たる「完結編」である。
既にネット上にはさまざまな論評や感想、四半世紀を共に過ごした一大コンテンツに対する熱い想いのたけを(長文で)述べた文章が既に多くあげられているが、私なりの見解を述べるならば、今作には過去作との決定的な違いが存在し、その多くは劇中の前半部分で描かれる「第三村」に集中していると考えている。
『シン』における「第三村」が過去作と一線を画すポイントとはどこにあるのか、私なりの見解を述べていこう。
文/hamatsu
トウジ、ケンスケ、ヒカリが再登場する意味
『シン』と過去作との違い、それはトウジ、ケンスケ、ヒカリの3名が劇中において重要な「役割」を果たしているか否かという点にある。
TV版ではいつの間にか作品上からフェードアウトし、新劇場版においては生存すら危ぶまれていたこの3名のキャラクターが、シンジ、レイ、アスカという主要メンバー3人に対して、決して小さくない「影響」を与え、三者三様に変化や成長を促す起点となり、エヴァンゲリオンという物語に対して重要な「役割」を担うようになっているということ、そこに『シン』とTV版すら含めた過去作全てとを分ける決定的な違いがある。
「トウジ、ケンスケ、ヒカリの3名が過去作でなんの役割も果たしていない」なんてことを言うと、そんなことはないと反論する人もいるかもしれない。特にトウジに至ってはTV版における山場となるエピソード、十九話の起点となる重要な「役割」を果たしているではないかと。
だが、TV版においてトウジが果たした「役割」とはトウジ以外の人物にも置き換え可能な「役割」に過ぎないのである。事実、新劇場版においてはトウジの「役割」はアスカに変更されている。
このようにTV版においては、他者と交換可能な「役割」をあたえられる程度の、言ってしまえば、「そこそこ出番のある脇役」に過ぎなかった彼らが、最新作にして完結編である『シン』において、その成長した姿と共に再登場するのが、本作の冒頭における舞台となる「第三村」である。
TV版のエヴァンゲリオンを改めて見返して気づくのは、トウジ、ケンスケ、ヒカリの3人がそれぞれに「気立てのいい好人物」として描かれているにも関わらず、その影響がシンジ、レイ、アスカの3名にほとんど届いていないということだ。
三号機に搭乗し使徒に乗っ取られ、初号機にボコボコに撃破され自身の片方の足を失うという大けがを負いながらもヒカリや妹への気遣いを何よりも優先するトウジ、家出して目的もなく彷徨うシンジに対して、自身も母親の不在という境遇を打ち明けつつシンジの話も聞いてあげるケンスケ、自信を喪失し、行き場を失いつつあったアスカを快く受け入れるヒカリ。改めて確認してみても、どう考えてもこの3人は“とても優しい良い奴ら”なのである。
TV版のシンジはネルフを辞めようとする前に、同部屋で入院していたトウジと一度は言葉を交わすべきだったし、アスカは自信喪失してる自分を快く受け入れて居場所を提供するヒカリの優しさをもう少し有難く思うべきなのである。そしてこのタイミングでケンスケとアスカがちゃんとコミュニケーションをとっていたとしたら、この時点でエヴァンゲリオンは終わっていたのかもしれないのである。
「第三村」で再登場するトウジ、ケンスケ、ヒカリは、それぞれ立派に成長を遂げているが、彼らがすでに持っていた人間としての良い部分を変わらず持ち続けているという意味では、この3人は25年前のTV版からすら全く変わっていない。そして、その変わらぬふるまいこそが、シンジ、アスカ、レイという3名それぞれに変化を促し、決して小さくない「影響」を与えている点、このことによって『シン』は過去作と決定的に違う「受容」の物語へと変貌を遂げている。
※この「受容」という点については、3月22日にNHKで放映された『プロフェッショナル 仕事の流儀』の庵野秀明特集において明らかになった、自分の頭の中だけで完結するのではなく、絵コンテすら作らずに自分の外部の視点を出来る限り取り入れる、すなわち自分とは違う他者を「受容」しながらアニメーション映画を作るという、かなり異色の制作体制をとっていたことなどからも、本作を語る上では非常に重要な点となっていることは間違いないだろう。
キャラクターにも、制作者側にも必要なのは「時間」だった
なぜ過去作においてトウジ達のふるまいはシンジたち1軍メンバーには影響を与えることがなかったのだろうか。それは、「彼らが物語上でさほど重要なキャラクターではない」と制作者側からも見なされていたからだ。ではなぜ、『シン』において、彼らは物語に影響を与えうるほどの重要なキャラクターとして再登場してきたのか。
その答えは一つしかないだろう。物語を語り終えるためには今まで見落とし、語り落としてきた彼ら彼女らの存在こそが重要であり、必要だったからだ。制作者側のキャラクターの捉え方、世界の捉え方が根本から変化しているのである。
『シン』の構想がどのタイミングであったのかは、部外者の私には伺い知ることは出来ないが、おそらく『:Q』から『シン』に至るまでに9年もの歳月を必要とした最大の理由は(庵野監督の鬱による長期休養を加味したとしても)このような元々存在していたキャラクターをはじめとする、従来までの世界観全てに対する根本からの見直し、捉え直しという非常に困難な作業に真っ向から取り組んでいたからではないだろうか。
その意味において『ヱヴァンゲリオン劇場版:序』、『ヱヴァンゲリヲン劇場版:破』(以下『:破』)において、そこで生活するモブキャラクターやそこで稼働するインフラ設備、そしてTV版においては描かれることすらなかったトウジの妹、サクラが描かれることによって、より開かれた世界を描くという意図は新劇場版の開始当初から明確にあったのではないかと思われる。これらの要素はTV版では特に後半に進めば進むほど(おそらく制作スケジュールの都合などもあったと思われるが)省かれていった要素でもある。
しかし、すでに述べたように『:破』においてトウジは三号機への搭乗すらしなくなり、TV版十九話では主人公シンジが加持の説得もあり、皆を救うために一度は降りたはずの初号機に再度乗ることを決意するシーンは、再構築された『:破』においては新登場するキャラクター、マリによる促しはありつつも、「目の前で危機に瀕している綾波を助けるため」という形に変更された。
結果的にはより近視眼的な、視野の狭い構成になってしまうなど、新劇場版は『:破』の時点ではTV版よりも圧倒的に完成度が高く、しかし同時にTV版以上に閉じた物語に陥りつつあったのである。その矛盾に制作者自身が気づいてしまったのだろう。だからこそ続く『:Q』はああなる必要があったのだ。
「時間軸を一気に14年も飛ばしてしまう」という大技を冒頭から繰り出し、シンジと観客を同時に置き去りにしてしまう『:Q』という一大転換をへて、完結編の『シン』に至ることで、なぜ、トウジ、ケンスケ、ヒカリの脇役3人はシンジ、レイ、アスカの主要メンバー3人それぞれに重要な変化を促す「影響」を与える存在になること、言い換えれば当たり前の対等な「人間関係」を築く存在になることが出来たのだろうか。
それは、彼らが決して焦らず、ゆっくりと「時間」をかけて、他者を他者として尊重しながら関わり続けるということをしたからだろう。そして、言葉にしてしまうと簡単なようで実行することはなかなかに難しいこれらのことを実行できるだけの資質を、繰り返しになるが、TV版の時点ですでにトウジ、ケンスケ、ヒカリの3名は持ち合わせていたし、それを受け止め、「受容」するだけの「時間」が今作ではシンジ、アスカ、レイにも用意されていたのである。
この「第三村」でのハッとさせられる台詞、英雄的な活躍などは特になく、ただただ丁寧なキャラクター同士が関わり合う描写の積み重ねによってキャラクターに起きる小さいけれども確実な変化、どん底からの再生を描くこのシークエンスは本当に素晴らしい。
あまりにも切迫した余裕のない「時間」が流れ続けた過去作と『シン』の最大の違いはそこにある。TV版から25年、新劇場版開始から『シン』に至るまでに14年という歳月を要した。しかし、この劇中に流れる「時間」の流れを実感と説得力を持って描くためには、制作者側にもそれ相応の「時間」が必要だったということなのだろうと今では思う。
「梅干し」と「アニメ」、すなわち「不要不急のもの」の存在
さらに「第三村」について述べていこう。ここで結構な尺を使って描かれる農業描写に面食らった人は多いのではないかと思うし、ジブリアニメを想起した人も多いだろう。この「第三村」での描写に筆者が興味深く感じた点は大きく2つある。
ひとつは非常に丁寧に農業の過程とそこで育った作物が描写されながら、それを、シンジがほぼ口にしない点だ。
ここは正直どうかと思う点であると同時に、非常にホッとした点でもある。「生存すら危ぶまれていた友人に再開出来たんだからちょっとくらい食えよ」と正直思ってしまったし、その態度に怒るヒカリの父の発言は全くもって正論ではあるのだが、ここまできて急にシンジ君が「これが有機農法で作られた米本来の旨味……!」みたいなこと言い出したりせずに本当に良かった……。
「第三村」の田園風景は美しいし、そこで人の「手仕事」によって生産される食料は貴重であり尊いものだ。それを説明ではなく、丁寧に「手仕事」のアニメーションによって描かれるこれらシークエンスは本作の白眉と言っていいだろう。しかし、それはそれとして、「栄養を摂取するなら別にレーションでも構わない」という身も蓋もないリアリズムが同居している感じがとても良かった。
そしてもうひとつの興味深かった点は、「第三村」に置ける「嗜好品」の存在である。
旧友との再開を祝う場に持ち込まれる「酒」、電車の中に仮設的に設置された「図書館」とそこで貸し出される「絵本」、仕事を終えた後に皆で入る「お風呂」、アスカが空いた時間に遊ぶワンダースワンと『GUNPEY』、そして食卓の真ん中に鎮座する「梅干し」。
ここで描かれる生き残った人々の暮らしは決して裕福なものではない。最低限の食料の入手すらも楽ではないということが劇中で描かれる一方で、生きていく上での必需品ではないが、生活に確かな潤いを与えてくれる「嗜好品」やいわゆる「不要不急のもの」がさまざまな形で描かれている。
なぜ「嗜好品」や「不要不急のもの」を描く必要があったのか。
そこには、大きな災害や危機的状況に遭遇し、これまでの生活が大きく変化し、生きていくことがやっとの苦しい状況に陥ったとしても「人々は娯楽や心休まる瞬間を切実に求める」という制作者の実感が込められているように思える。そしてそれは、幾多の災害、危機に遭遇してもなお、というかそれだからこそ漫画やアニメ、ゲームといった「不要不急のもの」と共にここまで生きてきた我々の実感でもある。
『シン』を作っていく過程において制作者たちは「アニメーションとはトウジの食卓に鎮座する『梅干し』のようなものだ」という考えに至ったのではないだろうか。生活必需品ではないものの、誰かにとっては心の支えであり、生きる糧になるようなもの。
そのようなものとして、自分の生業であるアニメーション制作を等身大で捉えなおすことが出来たのではないか。それが出来たからこそ、後半部分において、あまりに巨大な存在になりながら、それが半ば虚像であることに誰しもが薄々は気づきながらも踏み込めなかった、等身大のゲンドウとの真っ向からの対峙、そしてそこから全てのエヴァンゲリオンの総括というシークエンスもまた可能になったのだろう。
新たなる「国民的」映画監督の誕生
ほぼ本作の前半部分にスポット当てる形の文章になってしまったが、それだけ『シン』における「第三村」の描写は重要であると同時に庵野秀明という作家にとっての大きな転換点だと私は考えている。
「第三村」でのシーンが素晴らしいのは、その世界にあるディティールや細かい所作、ひとつひとつが明確な意図と必然性を持って描かれているからだ。そして、そこにある全てものに対して出来る限り丁寧で誠実であろうとする制作者の姿勢がひしひしと伝わってくるからだ。そこには作り手側の自意識の発露であったり同好の士への目くばせといった過去のGAINAX作品等に頻繁に見られた内輪向きな姿勢は大きく後退している。(それでもワンダースワンでの『GUNPEY』の画面の色が赤黒なのはおそらくバーチャルボーイの赤黒画面のオマージュだろうとか知らない人は理解しようのない小ネタが全くないわけではないのだけど。)
このように人や物事を誠実に描ける成熟した映像作家に、まさかあの庵野秀明がなろうとは誰が予想しただろうか。
『シン』によって25年以上我々の心を捉えて離さなかったエヴァンゲリオンは見事に完結した。この25年という長いようであっという間だったようにも感じられる期間の間に我々にはさまざまな出来事が起きた。決して平坦でのっぺりとした何もない日常と呼べるようなものではなかったと、現在進行形で思う。
そのような時間の流れを共有し、エヴァンゲリオンという作品を通して共に歩めたことはとても幸せなことだった。
早くも6月に企画、脚本という形で参加している『シン・ウルトラマン』の公開が控えているが、庵野秀明監督の次回作に心から期待したい。
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