東京オリンピックの開会式の入場曲に、『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』をはじめとするゲーム音楽が使用されたことについて、ネットではその是非を巡って、さまざまな意見が飛び交っている。
ゲーム音楽が、ひいてはゲーム文化が国際的な場で使われる=認められたことは喜ばしいことであるとか、自分の好きな曲が流れてきて嬉しい!だとか。その逆に、愛するゲーム文化が政治的に利用されるのが許せない、という意見も見受けられる。
まぁ、人それぞれ意見はあってよいと思うし、それを表明するのも自由だと思うので、こうした議論が起こること自体は、とても興味深いことだと感じる。
そうした一方で、今回の一連の動きで、個人的に改めて再認識したのが、
今の世の中──少なくともネット上において、本当に「分断」が顕著になってきているなぁ
ということかもしれない。
というのも、「ゲームが好き」という共通の趣味嗜好を持つ者同士でさえ、こうまで分かりやすく分断が起こってしまうのかと、個人的には少しショックでさえあったからだ。
昨今、新聞やテレビなどでは「分断」という言葉が踊りがちだ。アメリカにおける保守とリベラル、労働者とエスタブリッシュの対立。国内でも、オリンピックやコロナ問題、ひいては原発についての是非などが取り沙汰されがちだ。
いま我々が直面している「分断」という問題は、何も政治の話だけではない。本当に身近な話題──それこそ、ゲームやアニメを語る場においてすら、起きていることなのだと思う。
もちろん、多種多様な意見があるのはとても良いことだ。
しかし、それぞれの意見が決して相容れず──というより、議論にすらならずに、ただひたすらそれぞれのコミュニティの中での“たこつぼ的な賛同”に終始してしまうことが、ここ最近はとても多いような気がしていて、それについては「うーん、どうなんだろう?」とはよく思ってしまうのである。
こうした現象は、なぜ起こっているのだろうか?
先に結論じみたことを言わせてもらえば、近年のインターネット──中でもTwitterやFacebookなどのSNSの存在が、こうした分断を加速させている可能性は高い。インターネットの持つ利便性や快適さこそが、我々の分断を助長する要因になってしまっているからだ。
文/TAITAI
なぜ、近年のインターネットは分断を加速させるのか?
どういうことなのか?
これは、現在のインターネットのテクノロジー&構造が、利便性や快適さ、あるいは“気持ち良さ”を重視していった結果、「情報のフィルタリング」や「パーソナライズ」という方向性を発展させてきたことに起因する。
Googleの検索結果や、TwitterやFacebookに表示されるタイムラインが、フォローしているアカウントで絞られているだけでなく、さらに個々人に最適化(パーソナライズ)されているのは、多くの人が知る通り。YouTubeやNetflixのレコメンド機能も同様で、自分が見た履歴に基づいて、オススメの動画を表示してくれる。非常に便利だし、快適な機能だと言えよう。
しかし、それらが何を引き起こしているのかというと、「自分の望む情報」ばかりが目に入るようになってしまい、得られる情報や所属コミュニティがたこつぼ化する。結果として、考え方や意見、肌感覚が、特定の方向に先鋭化されてしまうという現象が起こるわけだ。
ちょっと専門的な用語でいうと、見たい情報ばかりを見て視野が狭くなる現象を「フィルターバブル」現象といい、閉じたコミュニティの中で、同じような意見の人々とのコミュニケーションを繰り返すことによって、自分の意見や考えが増幅・強化される現象を「エコーチェンバー効果」という。
ことの大小はあれど、これは、ネットを使っているほぼすべての人に起きている事象だろう。
つまり、現代を生きる我々は、快適なインターネット社会にどっぷりと浸かりきってしまった結果、普通の日常生活の中で、とても自然な形で、得られる情報や思想が先鋭化されていくという、そういう構造の中で生きているわけだ。
ネットこそが分断を乗り越える革命だったはずが
インターネットが内包するこうした危険性は、2000年代初頭から指摘されてはきたが、当時はまだSNSもなかったし、情報の取得が“能動的”であるがゆえに、その危険性は限定的であったと言える。
しかし、現在はどうか。
情報の取得は“受動的”になり、多くの人は情報が選別されていることに対しても無自覚的である。そうなると、上記で書いたような問題というのは、とてつもなく危険なものになってくる。とくに、みんなあまり自覚がないというのが、本当に質が悪いというか、恐ろしい。
ネット上の議論が平行線を辿りがちなのも、バッシングの嵐の中でも意外と当事者がケロリとしているのも、こうした「情報のフィルタリング」が背景にあるということは、そろそろもっと多くの人が自覚的であってよいのでは、と最近よく思う。
9年ほど前に、こういう記事を書いたことがある。
ネットとリアルの断絶の終わり──「ニコニコ超会議」が示したものを考えてみた(4Gamer)
それまで「現実(リアル)」とは別ものとして扱われてきた「ネット」というものが、これからは現実と区別ないものとして扱われていく、そうした時代の節目に立っているよね──という趣旨の内容だ。
それから約10年近くが経ち、インターネットはスマートフォンなどの爆発的な普及を受けてさらに身近になり、ネットとリアルは文字通りイコールのものになった。しかし、それが人々の分断を加速させているのだとしたら……。
そもそも。
黎明期のインターネットこそ、世界の分断を乗り越えうるツールとして喧伝されていた歴史を持つ。文字通り、世界を跨いで情報のやり取りをする“インターネット”には、国や人種という壁を打ち壊し、人類の相互理解と協調性を強化してくれるはずだ!……という“夢”があったのだ。
しかし。現実としてはどうか。
インターネットが真に社会に定着し融合していった結果が、より人々の分断を加速させたのだとしたら、それは本当に皮肉としか言いようがない。
「分断」を煽るのではなく、なるべく建設的な記事、意見が世の中に増えてほしい
で、結局、お前は何が言いたいんだ?という話なのだが、要点はふたつ。
ひとつは、上で解説したような現在のネット社会の構造を、もっと多くの人に認識・自覚してほしいと思っていて、それを今さらではあるが、整理し書いておこうと思ったということ。
もうひとつは、それを踏まえたうえで、「分断」を煽るのではなく、なるべく建設的な記事、意見が世の中に増えてほしいなぁということである。
建設的な意見とはどういうものか?
それは、「ただ仲間内で反芻しあう内容」にするのではなくて、もっと外向けに、むしろ自分のコミュニティの外にいる人に向けて、分かりやすい、伝わる情報発信を心がけてほしいということだ。ただ、感情的なものを拡散・増幅させるだけの発信には、注意を傾けるべきだということだ。
どんなに反響があっても、それが“内側で響き合う”だけのメッセージでは何も変わらない。「いいね」がいっぱい付いて気持ち良くはなるかもしれないが、それは結局のところ、“すでにそう思っている人”のリアクションを引き出しているだけで、実は何も伝わっていないのである。
相手に誠意をもったうえで、ちゃんと「伝えよう」「分かってもらおう」とする姿勢こそが、いまの分断の時代を乗り切る、重要なポイントだと思う。
というわけで。
筆者は、ゲームメディアの編集者であると同時に、ネット黎明期から“ネット民”として生きてきたネットウォッチャーでもある。今回は、その観点からみた現在のネット社会のありようと、それについての解説を行ってみた。
直接的なゲームの話題というわけではないが、まぁたまには、こういう記事を書くことも許してください。ちょっとでも、何かの参考になれば幸いだ。
最後に。
とある番組の中で、思想家の東浩紀氏が、以下のような発言(05:35〜)をしていて、それは本当にその通りだなと思ったので、それを引用して終わりとしたい。
東氏:
僕のやりたいこととして、僕は人にモノを伝えるんじゃなくて、「考えさせたい」んですよね。考えるというのは、定義上、時間を取ることなんで。伝えるというのはけっこうシンプルで、「AがBですよ」ということを言う、このためにどう効率よく伝えるかということなんだけど。「考えさせる」というのは、効率性ということと真っ向から反することがあってね。時間を取って考えさせるということをどうするか、というのが僕にとって課題なわけですよ。
結局、人って自分が想定していることしかわからないから。だからそもそも知識って伝達しているのかどうかも怪しくて。受け手が思ってることしか伝わってないんですよね、実は。
だから「テキストが読まれない」というのは、そういうことで、新しいことを伝えるというのは、「伝える」んじゃなくて「考えさせる」ということをしないと、新しいことが伝わらないんですよ。ノータイムで伝わることというのは、向こうが知ってることだから。僕がハッシュタグとかが嫌いなのもそうで、ハッシュタグは基本的に全部知っていることを反復しているだけなんで、あれ何も起きてないんですよね。
最初からたとえば五輪中止にしたいと思ってる人が、五輪中止にしろと言っているだけで。実はそのハッシュタグを見て、五輪中止に意見が変わる人っていないわけですよ。多分、いちばん厄介なのは政治がそうなっちゃったということで。
もともと政治というのは市民ひとりひとりが多少、考えなきゃいけないんだけど、結局市民に考えさせるよりも、ハッシュタグで動員したほうが票になるというのが、みんなが気がついてしまった世界が今なわけですよ。だから結局、今の政治的なキャンペーンというのはとにかく考えさせなくなっているんですよね。「敵はあいつ、以上」みたいな感じになっていて、そうすると考えないので、すごい効率よくリツイート数も稼げるし……。
(中略)
──背景は何があると思います?
東氏:
背景?たぶんトランプですね、簡単にいうと。なんにでも使えるツールじゃないというわけです、SNSって。政治とか民主主義に使うと、SNSはやっぱり功罪だと罪のほうがけっこう大きいんじゃないかと。
Twitter上で論争とかをしている人たちというのは、根本的に勘違いしているような気がしますね。論争なんかしたって何も変わらないし、誰の意見も変わらないんですよ。
文化の多様性って、価値観の多様性なんですよね。SNSはそういう意味で、次世代の文化的多様性というのはかなりネガティブな影響を与えかねないと、実は僕は思っている。だから僕の話は、あんまりビジネスの役に立たないんですよ。
ちなみに。筆者は、「ゲームを語る」ということにおいて、とにかくいろいろな意見が飛び交って、盛り上がってほしいと思っている。
その意味では、以前、東浩紀さんが編集を務めた『ゲンロン8』がゲームの特集をしたとき、それについての論争が巻き起こったわけだけど、その時、力及ばず「分断」を防げなかったことを、とても申し訳なく思っている。
個人的には、むしろ『ゲンロン8』への批判を防ぐ方向で動きたかったのだが……。東さんの発言を引用させて頂いた手前、この場を借りて、東さんおよび関係者の方々に、お詫びを申し上げたい。そして、また東さんがゲームについて語ってくれると嬉しいなと思う次第です。
今度こそ、最後にひと言。
今回のゲーム音楽使用に関する嫌悪感って、政治利用がどうこうというより、どちらかというと「雑である」ことに尽きると思っていて、要するにクオリティの問題はけっこう大きいんじゃないかという気はしています。選曲の趣旨が分かりづらい、ということも含めて。
いやー、だって、せっかくゲーム音楽をここで使ってくれるんであれば、もっと普段は出来ないような豪華な演出(演奏)でやってほしかったよね、とは個人的には思ったりはするのでした。でも、ゲーム音楽をピックアップしてくれたこと自体には感謝しかないし、いちゲーマーとしては、素直にありがとうと言いたい。
参考文献:
『インターネットは民主主義の敵か』 キャス・サンスティーン 毎日新聞社出版、2003年
『数学者が検証! アルゴリズムはどれほど人を支配しているのか?~あなたを分析し、操作するブラックボックスの真実~』デイヴィッド・サンプター 光文社、2019年