今年の3月に刊行された、井上伸一郎氏による新書『メディアミックスの悪魔 井上伸一郎のおたく文化史』。
それを記念したトークイベント「井上伸一郎『メディアミックスの悪魔 井上伸一郎のおたく文化史』刊行記念トークショー」が、4月26日に東京・渋谷にあるLOFT9で開催された。
今回のトークイベントは2部制になっており、第1部には井上伸一郎氏に加えて、数々のアニメを手掛けてきたデザイナーの永野護氏と声優・歌手の川村万梨阿氏が登場。
第2部では、井上氏のほか星海社の太田克史氏とゲーム雑誌『コンプティーク』の元編集長としても知られる佐藤辰男氏、弊誌編集長の平信一、評論家の宇野常寛氏が登壇し、「KADOKAWAとサブカルチャー」をテーマにトークが行われた。
第1部は昼からの開催だったのだが、開場前にはすでに多くのファンが入り口付近に集結。
また、会場内では『メディアミックスの悪魔 井上伸一郎のおたく文化史』の販売が行われていたほか、井上氏のサイン会もあわせて実施されていた。こちらでは当日行われたトークショーの中から、一部を抜粋してご紹介していく。


日本のアニメ・特撮にくわえて「ハンナ・バーベラ」作品やディズニーも観て育つ幼少期
昔ながらの仲良しということもあってか、ここ2~3年はこの3人でトークショーを行っていることが多いという、井上伸一郎氏と永野護氏、川村万梨阿氏。今回は特にテーマを決めずフリートークというスタイルで行われていった。
今回のイベントが開催されるきっかけになった、書籍『メディアミックスの悪魔 井上伸一郎のおたく文化史』には、井上氏が子どもの頃から見てきたアニメや映画や読んできた本などに関することが導入部分に記されている。
世代的には、ちょうど幼稚園の頃に『鉄腕アトム』や『鉄人28号』、『エイトマン』が始まったということもあり、テレビアニメの定期番組が登場したころからアニメを見続けることができたため「1959年生まれはラッキー」だと井上氏は語る。
アニメだけではなく、人形劇の『チロリン村とくるみの木』や『ひょっこりひょうたん島』なども視聴していた世代であり、同時に『コンバット』など大人向けの海外ドラマも観て育っていったという。
「俺らの時代って、アニメって全然多くなかったんですよ」と語る永野氏。アニメは週に2本ぐらいしかなく、その合間に『マグマ大使』や『ウルトラマン』などの特撮が放送されていた。そのため、特撮とアニメをほぼ同じくらい見ていたのだが、それらの作品数を足した数よりもたくさん観ていたのがハンナ・バーベラやディズニーのアニメであった。
ハンナ・バーベラ作品が放映されていた頃は、まだ声優という職業が確立されるかどうかという時期でもあった。そのため、関敬六氏のような芸人が活躍していたのだが、井上氏によるとなかでも大活躍していたのが羽佐間道夫氏であった。
羽佐間氏は『宇宙怪人ゴースト』の声を担当していたのだが、かなりアドリブが入れられていたとのこと。例えば、腕に付けている6つのボタンを押して光線が出る仕組みなのだが、同じボタンを押しても出る光線の名前が回によって違っていたのである。
永野氏は、「ハンナ・バーベラ作品って、ほとんど原作がなくて、ほとんどその場の制作のアテレコだったんでしょ?」と、当時の制作の現場を予想した。同プロダクションの作品は、オープニングやエンディング曲も、日本側ですべて制作して放送していたのだ。
また、川村氏は同年代の仲間とハンナ・バーベラの「日本語の主題歌をどれだけ歌えるか選手権」をやってみたところ、めちゃくちゃ盛り上がったという思い出を語った。メインストリームのアニメとは少し異なるものの、「多くの人の脳の領域に染みこんでいる」ことに驚いていた。
一方、永野氏は幼少期に『仮面ライダー』を観ていなかったとのこと。
だいたい小学6年までは同じような番組を観て育つという共通の話題がありつつも、中学生になると子どもたちは部活など別のことを始めて、趣味も広がっていく。
そのため、永野氏の弟の世代は『ゴレンジャー』や『仮面ライダー』に夢中になっていたが、自らはそこから距離を置いてブルース・リーにハマリ、学校にヌンチャクを持っていって遊んでいたという。そのブルース・リーと同じ頃に流行ったのが、梶原一騎氏原作・つのだじろう氏作画(後に影丸譲也氏)によるマンガ『空手バカ一代』だ。
本作に関連して、川村氏が「バカの顔」に関する自身のエピソードを語った。大人になってから眉毛を剃るときに、手元が狂って片方をバッサリと剃ってしまったことがあったという。そのときに川村氏が思ったのが、「バカの顔だ!」という言葉であった。
『空手バカ一代』の主人公の大山倍達は実在する人物だが、同氏が山ごもりをしているときに里に帰りたくなったときに、その心を抑えるために片方の眉を切り落とすというシーンが登場する。それを水面に映った自分の顔を見て、「バカだ、バカの顔だっ」といいながら自分で笑うというのが元ネタだ。
川村氏は、「そういうセリフって染み付いていて、何かとポッと出てきますよね」とそのときの出来事を振り返っていた。
当時のアニメのセル画は、捨てる場所に困っていた?
井上氏が、先日実家の模様変えをするので整理していたときにサルベージしてきたというセル画を披露。こちらはなんと『重戦機エルガイム』のオープニングで使われていた「ガウ・ハ・レッシイ」のカットだった。同キャラクターは、川村氏が声優を務めている。
さらに川村氏によると、こうした綺麗なセルやいいシーンのセルは、後から使うかもしれないということからストックされており、すべての番組が終了したときの打ち上げの時に、声優陣などに配っていたのだという。
ちなみに、撮影が終わったセルは廃棄品であったため、捨てる場所に困っていたそうだ。あまり捨てると怒られてしまうため、とあるプロダクションは裏庭に穴を掘って埋めていたという。
また、都立府中高校に通っていた井上氏は、通学路にタツノコプロがあり、時々寄ってセル画をもらったことがあるという思い出を披露。自身は『キャシャーン』のルナが好きだったものの、たいていもらえるのは『けろっこデメタン』だったそうだ。
さらに、永野氏のキャラクターの原点のひとつは、間違いなくタツノコプロの吉田竜夫氏だという。『ガッチャマン』だとリアルになりすぎるため、『紅三四郎』の主人公や『ポールのミラクル大作戦』が好みだと語った。
これは、吉田竜夫氏自身がハイファッションだったからというのも理由とのこと。『紅三四郎』は、当時のモッズのパンツに襟の短い靴。『ガッチャマン』は、パンタロンとロン毛にナンバーTシャツ。『キャシャーン』は、1960年代のマリー・クヮント系のキャラであった。
『ファイブスター物語』トラフィックスは完結へ
井上氏が初代編集担当を務めた、永野氏によるマンガ『ファイブスター物語』(KADOKAWA刊)。本作は2026年3月で連載開始40周年を迎える。連載が始まってすぐにカラーページでヨーン・バインツェルが主人公っぽく前に出てきたが、彼のセル画をもらってから39年が経ち、「ようやく主人公らしくなってきた」と感想を述べていた。
永野氏によると、『ファイブスター物語』に関しては現在「黒いエスト」をドールで出そうとしているものの、ものすごい手間とコストが掛かってしまっているという。洋服の型紙のパーツが100近くなってしまっており、それをすべてミシンで細かくシルエットを出しているため、技術料も必要になってくるという、珠玉の仕上がりを目指しているようだ。
『ファイブスター物語』のストーリーについては、掲載誌『月刊ニュータイプ』7月号で、「トラフィックス」のエピソードが完結を迎える。「プロムナード」という大事なストーリーがまだ残っているものの、今夏にはベイジ解放戦に突入する予定だ。
さらに、『重戦機エルガイム』40周年を記念したBlu-rayのリマスターボックスが2月に発売され、今回登壇している3人のトークもブックレットに収録されている。実際に映像を観た井上氏は、第1話がかなり動いていることに、あらためて驚いたという。
永野氏によると、この『重戦機エルガイム』の1話には8000枚ぐらいセル画が使用されていた。当時の東映の平均は2500~3000枚程度だったということを考えると、かなり多い枚数であることがわかる。
また、『機動戦士Ζガンダム』の1話では、さらに枚数が多い1万2800枚も使用されていた。当時大手ではなかったサンライズが、ロボットモノのアニメにこれだけの枚数を使っていたというのだから、そのこだわりが垣間見える。
キックにも動じない、約100kgの『バーチャファイター』筐体を金庫代わりに使用
生粋のゲーマーだという永野氏。先日応募があったNintendo Switch 2に関しては、『ドラクエ』をプレイしていたということもあり、オンラインの加入期間が5年3ヵ月もあったため、すっかり当たるものだと思って応募したものの、残念ながら外れてしまったとのこと。
まだそのショックからは立ち直れていないようだったが、これだけ当落を世界中に注目されていることに感心している様子であった。
中でも永野氏がガッツリとハマっていたのが、『バーチャファイター』だ。
徹夜で原稿を書き上げてからゲーセンに行き、そこで英気を養った後で帰ってからネームを切るというルーティーンだったという。
そんなときに、友人のいのまたむつみ氏が自宅用に筐体を買ったことを知る。その当時メーカーとも付き合いがあったことから、SEGAのAM2研に電話したところ、巨大な12トンのトレーラーで送られてくることになったのだ。
そのころ、いのまた氏の自宅は一軒家を建てたばかり。玄関からは入れることができずに、窓を全部外してから入れることになった。永野氏も同様に『バーチャファイター』の筐体を購入したのだが、そのときは開発者自身が一緒に付いてきて、設定なども行ってもらえたそうだ。
この筐体はかなり頑丈な作りになっており、5ミリぐらいの鉄板が使われている。渋谷にあったゲーセンなどでは、リアルファイト真っ青の筐体を蹴りまくるような人もいたが、それでもビクともしない作りだ。そこで、永野氏がこの筐体で活用したのが、中に預金通帳と現金をいれておくということだった。
そもそも筐体自体が100キロぐらいあるため、持ち去られる心配はほとんどない。また、電子キーを使った特殊な方法でしか開けられないため、まさに金庫としてうってつけであったのである。しかし、いのまた氏は、最初の頃は面白がって100円玉を入れて遊んでいたそうで、単なる貯金箱となっていたというエピソードを披露していた。