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元KADOKAWA副社長・井上伸一郎、『ファイブスター物語』永野護らが語る、1980年代おたくの“ガチすぎる”思い出。『バーチャファイター』の筐体を金庫代わりに、通学路にあるタツノコプロでセル画をもらう──など驚きのエピソードが飛び出す

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『メディアミックスの悪魔 井上伸一郎のおたく文化史』制作の物語

お昼に行われた第1部から3時間ほどの休憩を挟み、17時半から第2部がスタートした。

こちらで登壇したのは、井上伸一郎氏と太田克史氏、佐藤辰男氏、平信一宇野常寛氏の5名だ。「KADOKAWAとサブカルチャー」というテーマでトークが繰り広げられ、まずは書籍の『メディアミックスの悪魔 井上伸一郎のおたく文化史』ができるまでの経緯が紹介された。

『メディアミックスの悪魔 井上伸一郎のおたく文化史』刊行記念イベントレポート:永野護らが語る、1980年代おたくの思い出_010
写真左から、太田克史氏、佐藤辰男氏、井上伸一郎氏、平信一、宇野常寛氏。

『メディアミックスの悪魔 井上伸一郎のおたく文化史』出版の計画は、結構以前からあったと語る宇野氏。

ある日突然井上氏から電話が掛かってきて「回顧録を出すので手伝ってほしい」と切り出され、宇野氏は「井上伸一郎のオーラルヒストリーをノーカットで聞けるチャンスを逃すという選択肢はない」と思ったという。その場でスケジュールの確認をすることなく「やります」と返事をしたものの、半年~1年ほど経過。

その間に冷静になった宇野氏は、井上氏の回顧録の聞き手としてクレジットされるということで、「すごいことに巻き込まれてしまったな」と思っていたころ、次は太田氏から突然電話が掛かってきた。

「井上さんの本、うちでやることになったから、宇野さんよろしくね」という内容であった。これを受けて、何かあったとしても太田氏がすべて「ケツを拭いてくれる」と思い安心したのだという。

宇野氏が本を作るときに、最初に始めたのが高校時代に函館中の古本屋を回って買い集めた『アニメック』を全部星海社に送ること。そこからさらに、打ち合わせを2回ほど重ねた際に「いわゆるビジネス本のフォーマットでやるような普通の作り方はしない方がいい」という話が出た。

1980年代のアニメブームからいわゆるアニメの冬の時代を経て、ホールディングスのKADOKAWAになっていく過程を全部見てきた井上氏の回顧録であるため、これ1冊で「オタク文化」をさらえるような形で読めるようにした方がいいということで話がまとまった。

そうしてスタッフをアサインし、収録が始まる。この過程で、宇野氏が井上氏を質問攻めにするといったことも4~5回あったそうだ。

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テープ起こしやそれらをまとめたものが上がってきたときに話し合い、オタク文化というオーラルヒストリー的な価値だけではなく、もうすこし縦のストーリーのようなものを考えたほうがいいのではないかという意見が挙がった。

そこで、「井上伸一郎」というひとりの青年がオタク文化というものの担い手に結果的になり、それが社会とどのように対峙していくか──。そんな、ビルディングスロマンのような側面をしっかりと見せていくことにしたのだ。そこで井上氏を説得し、最初に石原慎太郎氏との対決のエピソードを書いてもらうことになったのである。

推薦文は「永野氏しかいない!」ということで、原稿を送付。忙しい方なので相当待つことになると思っていたところ、なんとその日の夕方にはもう永野氏から推薦文が上がってきたという。

『コンプティーク』ができるまで

角川グループホールディングスの社長を務めていた佐藤辰男氏。1976年に大学を卒業してから6~7年おもちゃの業界紙で働き、その後角川から『コンプティーク』をはじめとして次々に雑誌創刊を手掛けた。

『コンプティーク』は1982年に佐藤氏が角川歴彦氏と出会い、企画書を提出するところから始まる。ある人の紹介で「角川がパソコン雑誌を出したい」と聞いた佐藤氏。自身はずっとファミコンやテレビゲームを業界識者として追いかけていたため、すでに主流となっていた技術系のパソコン雑誌は作れないし勝負にならないと思えた。

そんな中、アメリカではATARIなどが登場し、いろいろなゲームが出てきたことにくわえて、How To Winを売りにするゲーム攻略雑誌があったから、テレビゲームやパソコンゲームの攻略をメインにした雑誌には日本でも需要があるのではないか、そういう趣旨のプレゼンを行ったという。

角川歴彦氏が出したかったのは、『I/O』『ASCII』などの分厚い雑誌だった。「雑誌の半分が広告で埋まっているところ」に魅力を感じていたのだという。

しかし、佐藤氏のプレゼンを通して「テレビゲーム」というものを理解し、「面白いからやってみよう」ということになったのだ。なんと、その面接1回だけで「雑誌をやろう」という話が成立したのである。

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ちなみに、その当時の角川はまだモルタル4階建ての小さなビルだったという。その当時の角川書店は、文庫や全集などがメインの書籍出版社だった。雑誌と言えば『野性時代』『短歌』『俳句』などがある程度。ところが1982年の『ザテレビジョン』を皮切りに『コンプティーク』『ニュータイプ』など20誌ほどの雑誌が次々に誕生する雑誌の時代を迎えることになった。

グループSNEの安田氏が、その当時1970年代の終わりから1980年代のことをカンブリア爆発期と呼んでいた。井上氏の関わってきたアニメや、テレビゲーム、アップルのパソコンなどが一挙にこの時代に出てきて雑誌ブームが起こり、「オタッキー」なものを含めた新しいサブカルチャーが同時に増えていった時代でもあったのだ。

一方、出版などのコンテンツ業界がピークを迎えた2000年代前半に社会人として働き始めた、弊誌の平編集長。

その中で幸運だったのが、「ネット」というものにうまく乗ることができたことだという。4Gamer.netの起ち上げから業界に参加し、その時代は紙のパソコン雑誌がウェブに置き換わっていく時代でもあった。その後角川グループに合流して、電ファミニコゲーマーという2度目のメディアの起ち上げを行っている、自身の経験を語った。

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佐藤氏と井上氏の上司でもあった角川歴彦氏は、面白い人物でもあったという。

角川の文化として、「自分の批判をする相手と話したい」という考えがあるとのことで、井上氏によると、大塚英志氏が角川歴彦氏に呼ばれたのも角川の批判を書いたからであった。さらに、井上氏が宇野氏と出会ったきっかけも、「角川の批判をしている若い評論家がいると知り、会って話を聞きたいと思った」ことがきっかけであったというのだ。

書籍の中では、角川氏のことを「父のような人です」と書いたという井上氏。角川歴彦氏は厳しい父でもあったようで、井上氏や佐藤氏はトコトン指導もされたそうだ。

また、角川氏の「B級グルメマニア」という意外な一面も明かされた。佐藤氏と都心の超一流ホテルのレストランに行ったときは「今日はぼくのおごりだ。佐藤、ここはカレーがうまいぞ」と言われたというエピソードを披露していた。

川上量生氏は「カリスマ」。「角川とドワンゴの融合」というミッションは当初は難しかった?

続いて、話題はKADOKAWAの代表取締役社長である川上量生氏に移る。元々携帯電話向けの着メロサイト『いろメロミックス』でヒットを飛ばしてニコニコ動画を立ち上げ、そこから教育事業なども手がけている同氏。

KADOKAWAとドワンゴの経営統合を機に、佐藤氏は角川本社のある飯田橋からドワンゴ本社の銀座に拠点を移すことになった。

KADOKAWA側としては既に電子書籍事業を成功させ、両社融合のネットデジタル系の新規事業が求められていたが、両社のカルチャーの違いから融合事業立ち上げには難航した。佐藤氏から見るとドワンゴのカルチャーは川上氏が着想したサービスを次々に転換させていくスタイルであるのに、KADOKAWAは出版、アニメ、ゲームとメディアミックスによってIPを重層的に積み上げていくカルチャーがまったく違った

学校事業が数少ない成功例で、角川の文化的バリューとドワンゴの革新性がうまく融合できた。それ以外はたくさんの失敗例を積み重ねることになった。

宇野氏はドワンゴは大企業であるため巨大なシステムのようにも見えるが、氏の距離感でみると、「あまり一般社会には馴染めない、少し年上ぐらいのお兄さんたちが川上さんのカリスマ的な天才性に惹かれて集まっている集団」というイメージを持っているとのこと。ただ川上氏のビジョンがどんどん変わっていくため、「そこに付いていくことができる人は残り、付いていけない人は別の道へ行くように見える」と述べた。

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井上氏によると、出版社はひとりの作家や作品、IPを守り続けてずっと付き合っていくという文化を持っている。しかし、ネットサービスは一期一会のところがあるといい、それこそが最初にドワンゴの人たちと接したときに感じたことであった。しかし、そのふたつの違う文化は、いい意味で併走できると考えているという。

平氏が当時、佐藤氏から聞いた話で印象に残っているのが、角川側は「メディアミックスが基幹戦略でアニメやコミック、ゲームを統合していくのが夢だった」ということ。

アニメとコミックまでは実現できたものの、最後のゲームはなかなか難しく、難易度が高かった。そして、最前線にゲーム会社をグループ内に持っているのは、集英社でもなく小学館でもなく角川である。これを踏まえ、「なんとかならないかねぇ」と言われたことを覚えていると語った。

宇野氏は「継承すべきなのは世界観」だと語る。毎年4月に行われているニコニコ超会議は大会議から超会議になるころが一番面白かった。歌い手や踊り手などがたくさん登場して、テレビや雑誌に登場していないにもかかわらず、何万人も動員できるタレントやクリエイターたちが登場してきて、全く新しい世界がもうひとつ出来ているようなムードがあったのだ。

N高に関しては「めちゃくちゃ成功」しており、日本の中等教育を変えている。いわゆる通信制高校という、金で高卒資格を買うものから、攻めの選択にしたという意味でも、教育界に大きなインパクトを与えているのだ。

このN高とZEN大学が結びつき、1980年代前半から培ってきたオタク的な「世界観」を背景にした教育によって若者たちを社会に送り出すシステムが完成したときに、なにかもうひとつの世界がこの日本に出現するかもしれない──という夢が宇野氏にはあるという。

井上伸一郎氏のこれからの「野望」は、小説の執筆

10分間の休憩を挟み第2部の後半へ。ここで客席からお酒の差し入れがあったことから、乾杯からのスタートとなる。テーマに上げられたのが、井上伸一郎氏のこれからの野望だ。自分の会社であるENJYUを起ち上げ、ZEN大学などと業務委託契約をしている傍ら、自らの野望のひとつとして小説を執筆している。

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現在KADOKAWA系の投稿サイト「カクヨム」で1話を出し終えたところで、タイトルは『エンタメ霊媒師ナルの怪事件』。当初は3つほどホラー系の構想があり、とある出版社に持ち込みをしたものの、「まず投稿サイトに投稿してみたらいかがですか?」と提案され、そうすることに決めたという。

また、アニメや実写作品などに知見があることから、「ホラーではなくエンタメ系の話を書いたらどうか」とも提案されたことから、井上氏の脳内でホラーとエンタメが融合。エンタメ業界専門の霊媒師である「エンタメ霊媒師」というものを思いついたとのこと。すぐに2~3話分脳内でストーリーが出来上がった。これはすぐに書くしかないということで、3月から第1章を公開。第2章も5月から公開がスタートした。

さらにエンタメ霊媒師とは別に、ふたつほど同じ世界観でネタがあるとのこと。「いずれは平行して書きたい」と更なる野望も語られた。

井上氏は、2025年4月より東映株式会社とのアドバイザー契約も結んでいる。こちらは、アニメ事業とキャラクター事業のアドバイザーで、東映本体もこれから劇場アニメの配給に力を入れていくためとのこと。東映アニメーションの作品に加えて、劇場アニメを、どんどん開発・配給していくことに協力するとのことだ。

また、井上氏の夢でもあった、『仮面ライダー』や『スーパー戦隊』シリーズなどのアドバイザーにもなれたと語り、こんな嬉しいことはないと喜びをあらわにした。

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井上氏が現場で活躍していたころのオタクカルチャーは特撮や怪獣、SFといった世界観を持つものが多かったものの、幹部になった頃には美少女フィギュアなどが登場。

「これらについてどのように見ていたのか、どういったマインドで仕事をしていたのか」という質問に対して、井上氏は「美少女フィギュアはほとんどもっていないものの、そういうものを欲しがる人の気持ちはよくわかる」と回答し、過去、『涼宮ハルヒ』の一番くじを引いてA賞を当てたこともあるとエピソードを披露した。

当時の『ニュータイプ』についても話題は移る。「結構贅沢」だったと語られ、庵野秀明氏など、さまざまなアニメーターによる見開きカラーページが掲載されていた。そのときに、アニメーターではないとわからない用語も教えてもらうことがあり、「かなり勉強になった」と振り返った。

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イベントの最後に井上氏から、当日は他にもニコニコ超会議など様々なイベントが被っている中で、来場してくれたファンに感謝していると挨拶。「今日は楽しかったでしょうか?」という問いに対して、会場内から大きな拍手が沸き起こり、イベントが締めくくられた。

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ライター
ライター/編集者。コンピューターホビー雑誌「ログイン」の編集者を経て、1999年よりフリーに。 現在はゲームやホビー、IT、XR系のメディアを中心に、イベント取材やインタビュー、レビュー、コラム記事などを執筆しています。
編集者
3D酔いに全敗の神奈川生まれ99’s。好きなゲームは『ベヨネッタ』『ロリポップチェーンソー』『RUINER』。好きな酔い止めはアネロンニスキャップとNAVAMET。
Twitter:@d0ntcry4nym0re

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