わたしが文を売り、彼が買う。
そのような関係を、わたしと弊誌編集部のIとは、十年にわたって続けてきた。
深い交友ではない。仕事上の、さっぱりとした間柄である。
彼は大柄だが、朴訥である。若いころに見かけた優しげな笑顔は、いまでもわたしの記憶にある。
その彼が、近年、しばしば体調を崩すようになった。
彼のツイートに、病院のベッドで撮った天井の写真が、断続的に並ぶようになったのだ。
— ishigenn (@ishigenn) May 19, 2025
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わたしは、しばらく売文から離れていたけれど、ちかごろまた書き始めた。
Iに連絡をとり、原稿を持ち込むと、彼は快く受けてくれ、かつてと変わらぬ誠実さで対応した。
諸々の企画の打ち合わせが終わり、わたしがDiscordからログオフしようとすると、彼は言った。
「ご報告があるのです。私的なことですが」
聞くと、種々の体調不良に併せて、目が悪くなった、という。
それも、矯正視力0.1未満である。
編集の仕事は、Windowsに標準搭載された拡大鏡の機能を用いてやっている。
陽の光が眩しすぎるので、日中はサングラスがなければ外出できないし、かけていても奥様の介添がないと、覚束ない。
つまり彼は、わたしとしばらく会わないあいだに、視覚障害者になったのだ。
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わたしは同情したが、湿っぽいのはいやで、かえってずけずけと、彼の視力の程度や、仕事のやり方などを聞いた。
彼もまた、悲惨や沈痛をひけらかすことなく、さわやかに答えてくれた。
彼自身、まだよく見えていたころ、『ドラゴンクエストⅢ』をプレイする全盲の人々のコミュニティに取材したことがあった。音を頼りに、攻略をめざすのだそうだ。
そういう経験もあって、心構えは、できているようだった。
わたしは、わたしが敬愛している、老年期に視力を失った、南米の作家のことばを引いた。
「徐々に失われていく視力は、悲劇ではない。それは美しい黄昏のようなものです」
彼は、それはいい言葉ですね、とつぶやいたあと、こう切り出した。
「藤田さん、『オーバーウォッチ』でスイカ割りをやりませんか」
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『オーバーウォッチ』は、2016年にBlizzard Entertainmentが発表した、一人称視点のヒーロー・シューターである。
以来、多くのアップデートが行われ、いまでは『2』の数字が冠されている。
この作品は、FPSにはめずらしく、その攻撃手段がほぼ百パーセント、近接攻撃であるようなヒーローがいる。
六十路のドイツ人、ラインハルト・ウィルヘルムである。

彼は鋼鉄のアーマーに身を包み、巨大なシールドで前線を張り、スレッジ・ハンマーを振るって戦う。
だからこのヒーローは、ほかのFPS作品にどうしても必要な「エイム」、つまり照準合わせの技術がなくとも、それなりにプレイすることができる。
そして『オーバーウォッチ』は五対五(かつては六対六)のチーム・ゲームであり、他の味方との連携が欠かせない。
だとしたら、Discordで通信しながら、右だ左だ、ハンマーを振れ、シールドを張れと味方に言ってもらえれば、それなりにプレイすることもできるのではないか。
目が見えなくとも、敵の頭をスイカ割りできるのではないか。
そう考えて、彼はわたしを誘ったのだった。
「それ、企画にしましょう」と、わたしは即座に言った。
「ぼくが原稿を書きます」
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結論から言うと、プレイはできた。
あまつさえ、数ゲームを勝利した。
しかし、どんなふうにプレイできたかについては、描写が必要である。
Iの言うところによれば、彼は、画面上の、よりまぶしい部分が、なんとなく見えている。
その光に向かっていけば、大抵はマップの目標物がある。
しかし、眩しすぎてもいけなくて、たとえば「エスペランサ」や「イリオス」といったマップは、日差しがきつくて見にくい。「レイコータワー」などは、ライトアップされた夜だから、丁度いい塩梅である。
目標物にたどり着いたら、ボイスチャットから聞こえてくる指示に従って、ハンマーを振り回したり、シールドを展開したりする。
自分が攻撃を受けているかどうかは、音で、なんとなくわかる。
わかったところで、射線をかわすことはできないのだが。
そうしているうちに、ぎゃあぎゃあと叫びながら必死にプレイする仲間たちの声が、高くなったり、低くなったりする。
高くなればいい感じで、低くなれば負けている。
しばらくすると彼は、慣れてきたのか、ヤマカンで地面を叩き割って敵チーム全員を転ばせもした。アルティメット・スキル、「アース・シャター」である。
スイカ割りの目的は、そのようにして果たされた。

この試みがうまくいった要因には、彼がまだよく見えているころに『オーバーウォッチ』をプレイしたことがあるのと、彼の事情をよく知る、四人の仲間がいたことが大きい。
仲間たちは、彼がプライベートでつるんでいる海千山千のゲーマーたちで、彼の視力について話すときにも、まったく遠慮がない。
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プレイ・セッションのあと、彼らと話した。
ゲーム中は、新顔の筆者がいるので、多少はいい子にしていたようだが、ふだんはもっとくだけた煽りを投げ合っているという。
「これくらいのタンクなら、日々キャリーしている」などと豪語するものもいた。
「目が見えていようといまいと、タンクを介護するゲームであることに違いはない」
するとIは応えた。
「きみたちは黙ってタンクをヒールしていればいいのだよ」
それなりにプレイでき、あまつさえ何勝かできてしまう始末なので、わたしたちはさらにハンディキャップを追加した。
外出用に用いている、濃いサングラスをかけて、プレイするのだ。
こうすると、ほぼ完全に、何も見えない。
キャラクターの選択画面でつまづき、リスポン地点のドアに引っかかり、マップの崖から落ちても、そのことに気づかない。
目標物のところまで出撃するのさえ一苦労で、右だ、左だと、歩く方向まで指示しなければならない。
いちど死亡すると自力では前線に帰ってこられないので、誰かが迎えにいく。
すると、事実上、四対六で戦うことになる。
これではさすがに「プレイできない」という結論になり、サングラスはやめにした。
べつのヒーローを試してみたり、コンポジションを変更したりして、われわれはもう数ゲームを楽しみ、解散した。
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それからしばらくのあいだ、わたしは、「プレイできない」というのは、どういうことなのだろうと、考えていた。
もちろんIは、開発者が想定したようには、プレイできない。
作り込まれた美しいマップや、キャラクターモデルを見ることはできないし、このゲームの持ち味である細密な連携も、あの状態では、できないだろう。
しかし、彼は、仲間の指示、声援、怒号などに囲まれて、にこにこと笑っている。
ランクマッチで、勝った負けたとやりつづけているガチ勢より、よっぽどゲームを楽しんでいる、とも言える。
だとしたら、発想は逆転する。
ゲームを遊ぶのではなく、遊ぼうとする態度こそがゲームなのだ。
彼はわたしに、なにをどう書いてもいい、と言った。
ただし、湿っぽくはしないでくれ、とも言った。
わたしにしても、お涙ちょうだいにするつもりは、はじめからなかった。
この、あっけらかんとした態度は、なんだろう。
ゲーマーは、しなやかで、我慢強く、度量の広い種族だ。
彼らは、人生そのものをゲームに見たて、それを遊び切ってやろうとしている。
演劇人が、人生を劇と見立てるように。
『オーバーウォッチ』でのセッションを終えたあと、Iはまた入院して、何らかの手術を受けたという。
この原稿を書いているいま、彼は術後のベッドのうえにいるはずだ。
彼はそこで、何をしているだろう。
ままならない身体を叱咤し、悔し涙を流しているだろうか。
もちろん、そういう日もあるだろう。
しかし、わたしには、彼が四六時中そんなふうでいるとは、どうしても思えないのだ。
彼はいま、きっと、ベッドのうえで、スマホなりSteam Deckなりにおもいきり目を近づけて、なんらかのゲームをプレイしているに違いないのだ。
これから、彼の盲目が進み、たとい全盲になったとしても、彼は大好きな落語を聞いたり、奥様と話をしたり、友人に電話をかけたり、しつづけるだろう。
目が見えなくてもプレイできるゲームを探すだろう。
なければ、頭のなかで、ゲームをひとつ作り上げるだろう。
それくらいのことは、簡単にやってのける人間なのだ。
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わたしは今回の取材で、ゲーマーの本質を、あらためて見た。
ゲーマーとは、どのような困難をも挑戦と見なし、どんな逆境にも楽しみを見出し、それを遊び尽くしてやろうという気構えをもった、楽天的な連中である。
彼は運命を自分の対戦相手と見なし、あるいは協力プレイの味方と見なし、これを全身で面白がってやろうと、目論んでいる。
だとしたら、ゲーマーにとって、人生ほどおもしろく、豊かで、やりがいのあるゲームはない、ということになる。
戦争で両手両足を吹き飛ばされた、上等だ。
妻と子を奪われて殺された、かかってこい。
目玉のひとつやふたつくらい、くれてやる。
丁度いい、ハンデだ──。
と、われわれゲーマーは、この身になにが起ころうとも、そのように考えるのである。
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セッション中のどこかで、こんな金言が出た。
「道のりの途中で出会った仲間たちこそが、ほんとうの『オーバーウォッチ』だったのだ」
その通りだ。視力を失いつつある彼を、人生の戦場に容赦なく送りこむ、われわれこそが『オーバーウォッチ』である。
そこで、狼狽えつつも楽しみきってみせた彼もまた、ラインハルトのように選択可能なヒーローのひとりなのだ。