なぜかこっちまで握力を消費する
このゲームって、必ずどれかの巨像が「苦手なギミック」に該当するように作られていると思うんですけど……自分が思い出深いのは、「3体目の巨像」ですね。
剣を地面に突き刺してきて、その剣をつたって身体を登っていくギミックの巨像。こいつ、すごい苦戦したんですよ。なんでこんなに苦戦したのか自分でもわからないくらいの激闘を繰り広げました。本当に1時間くらいコイツと戦ってたんです。
剣に掴まろうとしても、なぜか落下する。
なんとか剣を乗り越えて身体にしがみついても、なぜか落下する。
弱点に辿り着いても、握力がなくなって落下する。
正直、「こんなのを16体も倒すなんて無理だ」と、心が折れかけました。
『ワンダと巨像』の面白いところは、普通に自分の「心が折れる音」が聞こえるところだと思う。巨像から落下する。ポキッ。あ、もう無理。そういう瞬間が何度も襲いかかってくる。褒めてますからね?
この3体目の巨像と戦っている最中に感じていたのですが、このゲーム……明らかにプレイヤーとワンダが一体化する瞬間があるんですよ。俺はワンダで、ワンダは俺。確実に同化している瞬間がある。
たとえば、巨像に振り落されないように、ひたすらRボタンを押し続ける。
それを繰り返すゲームだから、コントローラーを握る手の握力がどんどん強くなっていくんです。ワンダが握力ゲージを消費している時、こっちまでなぜか握力ゲージを消費している! 手汗がすごいことになってくる!!
数年前に『ICO』を遊んだ時、同じく「Rボタン」の使い方に驚かされたのを覚えている。少女の手を握るために、Rボタンを押し続けなければいけない。だから、Rボタンを通して、「握っている」感覚が得られる。ボタンを介することで、現実とゲームを繋いでいた。
『ワンダと巨像』でも、Rボタンは同じ役割を果たしている。
ただ、ロマンチックな『ICO』の使い方と違って、こっちは命がけのボタンの握り合いなのだが。ヨルダと手を繋ぐためにRボタンを押してドキドキするのが『ICO』だとしたら、『ワンダと巨像』は「ウオオ意地でもしがみついてやらァ!!」みたいなテンションでRボタンを押し続けている。
同じ「Rボタンを介してゲームと一体化する」というアプローチなのに、ここまで温度感がある。方や、大切な存在を守るために。方や、眼前の命をなんとしてでも奪うために。どちらも熱中していることには間違いないけど、それが全く別のベクトルになっているのが面白いと思います。
相手を理解するから、「殺した」感覚がある
『ワンダと巨像』は、ボス戦に特化したアクションゲーム。
だから、「とにかく1体の相手と向き合い続けるアクションゲーム」とも言える。
巨像と戦っている最中に重要なこと、それは「相手の生態を見極める」こと。
ほとんどの巨像は、ただ愚直に突っ込んでいくだけでは倒せない。相手の生態や行動から、「隙」を見極めなければいけない。つまり、戦いのなかで、1個の生命として、相手を理解していく必要がある。
この「巨像を生物として理解していくターン」が、かなり独自の遊びだなと思います。
たとえば、馬のような姿をした4体目の巨像は、そのままでは背中に登ることができないし、そもそも身体に掴まることもできない。
だけど、一度お墓の中に逃げると、巨像はワンダを探すようにお墓を攻撃し始める。その最中に、巨像はちょっと頭を下げる。そこで、尻尾や頭に飛び乗って攻撃をしていく……と、ここまでの「巨像の生態を把握していく過程」まで含めて、『ワンダと巨像』なのだと思う。
どの巨像も、「生物」としてデザインされている。
ふと振り向いた瞬間。足を上げて歩き出す瞬間。それぞれの異様なモーションのこだわりに、「命」を感じる。だから、単純に「ボスを攻略している」のではなく、その過程が「ひとつの生物を理解していく」ように思える。
生命として理解していく過程を終えて、巨像の命を奪う。
ちょっと残酷な言い方かもしれないけど、このゲームは「ちゃんと殺した手ごたえがある」ところがすごいと思う。生物を理解しているから、その手で命を終わらせたときにも、「殺した」感覚がハッキリとある。
たとえば、5番目に登場する鳥のような姿の巨像は、両翼に弱点がある。
あの翼に剣を突き立てた時の感覚。鳥であることを理解して、翼を刺してしまえばいいと把握して、確実に命を断つ。生き物を殺すって、こういうことだ。構造を理解して、確実に壊す。
だから、命と向き合わなければならない。
向き合った果てに、その命を断たなければならない。
その過程をすごく丁寧に実行するゲームだから、「巨像を倒した瞬間」が、強烈な印象を残しているのだと思います。向き合ったモノを、理解したモノを、自分の手で終わらせる。そこに重みがあり、実感がある。気持ちよさと、残酷さと、切なさが、一度にやってくる。









