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わたしたちは運ゲーを揶揄するが、ほんとうは運ゲーが大好きだ

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タイトル名:『Q-UP』
プラットフォーム:PC(Steam)
開発元:Everybody House Games
発売日:2025年11月6日
価格:1,200円
概要:
架空のeスポーツをテーマとしたゲーム。ただし、勝敗はすべてコイントスで決まる。

文/藤田祥平
編集/実存


Coinflip(コイントス)

坂田の名文句として伝わる言葉に「銀が泣いている」というのがある。悪手として妙な所へ打たれた銀という駒銀が、進むに進めず、引くに引かれず、ああ悪い所へ打たれたと泣いている。銀が坂田の心になって泣いている。阿呆な手をさしたという心になって泣いている──というのである。

──織田作之助、『可能性の文学』

 Coinflip、という言葉がある。
 日本語で、コイントスだ。

 コインを投げて、表か裏かを見る。あらかじめどちらが出るかを予想して、賭けたり、占ったりする。確率は両面五十パーセント。出し方の技術があるじゃんけんよりも、公平だ。

 しかしこの言葉は、英語圏の、それもeスポーツの文脈で用いられると、べつの意味を帯びる。

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 たとえば、あなたのお気に入りの海外のストリーマーが、対人型ゲームのランクマッチをプレイしていて、望んだような結果にならないとき、吐き捨てるように、

 Coinflip. (コイントスだ。)

と言うのを、聞いたことがないだろうか。

 対人型ゲームと運の因縁はあまりにも深く、もはや腐れ縁と言っていい。
 わたしが二十年前にプレイしていたFPS、『Wolfenstein : Enemy Territory』にも、思い返せば、ランダム要素はあった。サブマシンガンを打ちっぱなしにしたときの集弾と、敵味方チームのグローバル・リスポンタイムの周期である。

 しかし、あのころはまだ、Coinflipなどという言い回しは、誰も使っていなかった。
 誰が言ったのかは知らない。
 だが、いつ言ったのかはわかる。
 チームゲームに、ランクマッチというシステムが導入されたあとだ。
 
 ランクマッチとは、ある試合に参加するプレイヤーたちの技量が、なるたけ近いものになるよう設計されたシステムだ。
 このシステムは、プレイヤーにある数値を与える。
 おなじくらいの数値を持ったプレイヤー同士が、おなじ試合に参加する。
 勝ったほうはいくらか数値が上がり、負けたほうは下がる。
 もとはチェスのELOシステムから借りてきたそうだ。

 誰しも、あるゲームにはまって自分の成長を実感したら、おなじくらいの実力を持った相手と戦いたくなるものだ。
 だけど、そんな相手をいちいち探すのは骨が折れる。
 ならば、実力を数値化して、システムにマッチングさせよう。
 名案に見える。

 だが、結論から言うと、ELOシステムは、チェスのような一対一の完全情報ゲームにおいてしか、機能しない。
 実力の数値化は、ゲーム内外の偶然性を排除した結果ではないからだ。
 いちばんわかりやすいランダム要素は、味方である。
『VALORANT』でも『League of Legends』でもいいが、これらは五対五のチーム・ゲームだ。

 むろん、マッチメイキングのシステムは、敵だけでなく味方にも、おなじ実力の数値をもったプレイヤーを配する。
 当然だ、そのためのシステムなのだから。

 問題は、それがチームゲームであるかぎり、他人の運までは、コントロールできないことだ。
 ここでわたしは自分の胸に左手のひらをあて、右手のひらをみなさんにひらいて見せながら、告白せねばならない。

 わたしはランクマッチに泥酔して参加したことがある。
 それも一度ではない。何度もだ。

 とうぜん、わたしのパフォーマンスは落ちる。
 するとその時点で、ランクマッチのシステムが標榜している、「実力の均衡した者どうしの公平な戦い」は、成らないことになる。

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 あるいはそれが、キャラクターごとの相性のあるゲームだった場合はどうだろう。
 試合がはじまったあと、各人が使用するキャラクターを選ぶ。
 そのときたまたま、あなたの使えるキャラクターが、相手方の選んだキャラクターたちと相性が悪い、ということになれば、ますます分が悪くなるだろう。

 そんなことはそうそう起こらない、とあなたは思うだろう。

「わたしはお酒を飲んでランクマにインキューしたりしない!」

 しかし、しかし。
 そのゲームに参加しているのは、十人のあなたなのだ。
 十人もいれば、そのうちの一人くらい、泥酔とまではいかずとも(ごめんなさい)、風邪を引いていたり、カウンターピックされたり、理由もなく調子が悪かったりするだろう。

 ランクマッチのシステムは、その偶然を排除することができない。

「読み合い」という名の「じゃんけん」

 では、格闘ゲームの場合はどうか。
 あれは、一対一だ。
 
 残念ながら、あれも完全に公平ではない。
 ここまで話したのは、おもにゲームの外側の偶然性だ。
 格闘ゲームのばあい、外側の偶然性は比べて少ない。
(結論を先取りすると、だから人口も少ない。)

 だが、その構造上、ゲームの内側に、確実に「じゃんけん」が含まれている。
 いちばん目立つのは、いずれかのプレイヤーがダウンしているとき。その起き上がりにはじまる、格ゲープレイヤーたちのスラングの、「読み合い」だ。

 これがどういうものか話し始めると、原稿がむちゃくちゃ長くなるので、たとえて言うと、「じゃんけん」である。

 むろん、ただのじゃんけんではない。出せる手は十種類くらいあるし、手を出すタイミングも六十分の一秒のレベルで正確でないと、手の意味をなさない。それをいかに正確にインプットするかが、格ゲープレイヤーの腕の見せ所だ。
 しかし、しかし。

 プロゲーマーは、ほとんど一生涯をかけて、めまぐるしく動く展開のなかで、インプットをますます正確にしていく。
 見ていて、ほれぼれするくらいだ。
 だが、彼らがいくら腕を磨いても、結局、彼らのやっていることは「じゃんけん」に到達する。

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 その瞬間、わたしは中空に投げられたコインが、くるくると回っているところを幻視する。
 
 あわててことわるが、わたしはウメハラさんやときどさんには、逆立ちしたって勝てない。
 一本先取なら一万分の一だが、十本先取ならつつしんで辞退する。彼らの貴重な時間をむだにしたくない。
 
 しかし、わたしは訝しむ。
 なぜ、一万分の一もの勝利の可能性があるのか。

 格闘ゲームにおいては、どうしてここまでころころと、世界王者が変わるのか。
 マグヌス・カールセンのような、圧倒的な王者が、なぜ存在しないのか。

 それはやっぱり、格闘ゲームが、突き詰めたいちばん最後のところで、プレイヤーにじゃんけんを強いるからだとわたしは思う。
 あと、キャラ差。

 さて、このあたりで、わたしたちは自分を解剖せねばならない。

「そこまでわかっていて、なぜ、完全情報ゲームに行かないのか?」

「チェスや将棋をやればいいじゃないか?」

 とても、とても、答えにくい。
 だけど、ほんとのことを言わなければならない。
 わたしたちは、言い訳がほしいのだ。

 味方が弱かった、ピックが悪かった、読み合いで負けたという、言い訳がほしいのだ。
 試合が終わったあとのリザルト画面で、成績の悪かったプレイヤーを指さし、こいつのせいで負けたのだと、つるし上げにしたいのだ。
 自分のちっぽけなプライドを守りたくて、たまらないのだ。

 

* 

 

 わたしの友人に、囲碁がすごく上手いやつがいる。そちらでは到底かなわないので、チェスに誘った。十分もしないうちに、彼は駒の動かし方を覚えた。何度目かの三分早指しで、彼はわたしを負かした。

 そのときわたしは、チェスを二十年間遊んでいた。けっこういろんな教本を読んだし、毎年の世界大会は欠かさず見ている。これでも地元じゃ負け知らずだ。
 そのわたしが、ついさっき駒の動かし方を覚えたようなド素人に、チェックメイトされる。

 この友人が、本業の囲碁で、どれくらいの実力かというと。
 中学生のとき、関東大会準優勝だ。
 優勝ですらない。
 日本ですらない。
 大人の大会ですらない。
 そして十年以上前の話で、彼はその十年間、まいにち碁石を打っていたわけでさえない。

 むろん、準優勝だって、十分すごい。
 しかし彼に言わせれば、

「かりに囲碁の日本一になったって、韓国のプロの最低ランクにも勝てない」

 のだそうだ。

わたしたちは運ゲーを揶揄しながら、ほんとうは運ゲーが大好きなのだ

 認めよう。
 わたしたちは、あたたかな偶然が好きなのだ。

 完全情報ゲームの盤上に吹き荒れている、身を切るような極寒の数学的事実に、わたしたちは耐えられないのだ。
 あらゆることが完全に自分の責任であるという極限状態に、わたしたちは耐えられないのだ。

 わたしたちは、いますぐにでも偶然という焚き火にあたり、凍えた身体をあたためながら、おれではなく、味方が、世界が、運が悪かったのだと、じぶんのちっぽけなプライドを慰めたいのだ。
 
 だから、チェスよりも『League of Legends』が流行る。
 だから、囲碁よりも麻雀が流行る。

 認めなければならない。
 わたしたちは運ゲーを揶揄しながら、ほんとうは運ゲーが大好きなのだ。

 と、いうようなことを、なぜくどくどと話しているかというと。
『Q-UP』というゲームをプレイして、感を得たからだ。

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 現代から、そう遠くはない未来。わたしを含む大衆は、種々のeスポーツがもっているわずかな運では飽き足らず、とうとう完全なランダム・ゲーム……コイントスそれじたいを、eスポーツとするに至った。
 あなたはそのゲームをなんとなくダウンロードしてはじめてみたNOOBとして、やがてマインドゲーム・オリンピアンの道を歩みはじめる、という筋書きである。

 ルールはかんたん。量子コンピューターの魔法によって、正確にフィフティ・フィフティなコインの面が、あなたの側に三度落ちたら勝ち。
 それのどこがスポーツなんだ、と思ったあなた、スルドイ。こんなのはスポーツでも何でもない、ギャンブルだ。

 だが、それをスポーツっぽく見せかけるシステムは作中にちゃんと用意されているし、何ならそこがゲームプレイの主たる部分である。

 具体的に言うと、負けたときの負けをカバーするスキルとか、勝ったときの勝ちを伸ばすスキルだとかを、論理幾何学的にビルドする。ただしコインの裏表を変えたり、いずれかの面を出やすくしたりするようなスキルは、存在しない。

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 思ったのは、これは人生を語ろうとしたのではないか、ということだ。

 どちらの面が出るかは、わからない。だからといって、コイントスをやめることはできない。コイントスをやめることは、すなわち死ぬことだ。

 しかしわたしたちがいくらコインを投げようとも、コインそれじたいは、わたしたちの望みと関係なく、出る。
 だとしたら、どちらの面が出ろと望んで投げること、そして、出た面に対してどのように動くかあらかじめ決めること。

 責任を引き受けること。
 それこそが人生ではないか。

 この無限のゲームプレイ・ループこそがおもしろく、そしてまた、ゲームを極めたあとに獲得する称号が「初心者」であることは、諧謔でもなんでもなく、真理なのではないか。

 そのようなことを考えてしまうほど、よくできたゲームだ。
 だが、eスポーツの肌感がないと、わけがわからないだろうと思った。

 それで、原稿がこうなった。
 書き終えて思うが、はたして『Q-UP』が先だったのか、この原稿が先だったのか。

ライター
1991年大阪府生まれ、文筆家。 Website : https://github.com/rollstone1/fujitashohei/wiki
Twitter:@rollstone
デスク
電ファミニコゲーマーのデスク。主に企画記事を担当。 ローグライクやシミュレーションなど中毒性のあるゲーム、世界観の濃いゲームが好き。特に『風来のシレン2』と『Civlization IV』には1000時間超を費やしました。最も影響を受けたゲームは『夜明けの口笛吹き』。
Twitter:@ex1stent1a

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