王 貞治、長嶋茂雄、田中将大、大谷翔平……球界のレジェンド・野村克也が『パワプロ』各選手&自身の能力データをボヤキながら分析してみた

王 貞治、長嶋茂雄、田中将大、大谷翔平……球界のレジェンド・野村克也が『パワプロ』各選手&自身の能力データをボヤキながら分析してみた

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野村克也、自身の能力データを査定する

──ここからは、野村さん自身のデータについて語っていただきます。
 最新作『パワプロ2018』には野村さんのデータが収録されていないので、たとえばご自身で査定する“公式データ”を作れたら、ファンにとっても面白いと思うのですが。まずは過去作のデータを参考に、進めていきます。

野村氏:
 これ、俺のデータ?

『実況パワフルプロ野球 2009』のデータより。
かつて1〜15、 (パワーのみMAX255)だったデータを、現在の0〜100のデータに直すと、単純計算で下記の能力となる。
(※パワー数値のみ、『実況パワフルプロ野球 2009』で近いパワーの数字を持つ選手との比較で概算)

弾道:4→弾道:4
ミート:B(12)→ミート:A(80)
パワー:A(198)→パワー:S(90)
走力:E(6)→走力:E(40)
肩:C(11)→肩力:73(B)
守備:C(10)→守備力:C(67)
捕球:D(9)→捕球力:C(60)
特殊能力:チャンスA、送球B、ケガしにくさB、安定度B、ささやき戦術、パワーヒッター、球界の頭脳、ブロック◯、固め打ち、サヨナラ男、逆境◯、威圧感

──はい。やはり三冠王ということもあり、「パワー」と「ミート」はトップクラスの数字です。

野村氏:
 肩は弱いでしょ。平凡な選手ですよ。あとは……女にモテないっていうの(能力)はないの?

──いやいや(笑)、三冠王まで取って、モテないなんてことは……。

野村氏:
 いやいや、俺は一番の記録がないの。唯一、3017試合出場っていうのがあったんだけど、谷繁(元信)【※】に抜かれちゃったしね。だから一番は、「女にモテない」ことだけ。

※谷繁元信
1970年、広島県生まれ。捕手。1988年、横浜大洋ホエールズにドラフト1位で入団。高卒1年目で開幕1軍入り。攻守の要として活躍、1998年、チームとして38年ぶりのリーグ優勝と日本一に大きく貢献。個人でも初のベストナインとゴールデングラブ賞、大魔神・佐々木主浩とともに最優秀バッテリー賞を受賞。2002年、中日ドラゴンズへ移籍。落合博満監督のもと、4回のリーグ優勝と日本一1回に貢献し、2014年からは選手権監督に就任。その後専任監督も経験した。通算出場試合数3021という歴代1位記録を持ち、谷繁が抜くまでは野村氏が1位であった(その差わずか4試合)。

──(苦笑)。

野村氏:
 まあ、俺の三冠王はラッキー。特に打率はそう。キャッチャーで高打率を残すのは、まずムリなんですよ。
 阪急(ブレーブス)に岡村(浩二)【※】ってキャッチャーがいたんだけど、彼からこう聞かれたことがあった。

 「ノムさん、正直に答えて」と。「何だ?」って聞いたら「1試合4打席、全打席で集中してますか? 今日はもういいや、って思う打席もあるでしょう」って聞くんだよ。

 「そりゃ、あるよ」と答えたら、「良かった。ぼくもあるから、ノムさんどうかなって聞いてみたんだけど」って言うんだけど、そりゃ守りで疲れちゃって、打つ気がしないときもありますよ。特に試合が決まったときには打つ気がしない。

※岡村浩二
1940年、香川県生まれ。捕手。1961年、阪急ブレーブス入団。1969年、ライバル捕手の野村氏を押しのけてベストナインを受賞(この年を除き、1956年から1973年まで常に野村氏が受賞、史上最多の通算19回受賞を誇っている)。その後、東映フライヤーズへ移籍。引退後は香川県高松市で「野球鳥・おかむら」などの飲食店を経営する実業家として活動している。

中学校までは足が速かったから、「走力A」だろう!?

──走力に関してはいかがでしょうか。少し低い数字になっています。

野村氏:
 ……若いときは速かったんだよ。誰も信用してくれないんだけどね。俺は小学校と中学校、リレーの選手だったの。アンカーじゃなくて、三番手だったけど。それでプロに入るときもテスト生でしょう。

 投げる、打つ、守るだけじゃなくて、走るのもテストがあるじゃない。50メートル、何秒だったか忘れたけど、確か6秒くらいで走らないと、テストに落ちちゃうもん。
 この話をすると、みんな「なるほど、速かったんだ」と。

──では、走力はAにしておきましょう! 三冠王を取った1965年には少し衰えていらっしゃったと。

野村氏:
 それはね、キャッチャーをやっていたら間違いなく足は遅くなりますよ。あんな変な格好でずっと座っているんだから。田淵も言ってましたよ。「大学までは俊足だったんだ」って。

 田淵は大学の同級生の富田(勝)【※】に「俺、足速かったよな?」って、わざわざ聞いてましたよ。まあ、每日每日座って球を受けてりゃ、そりゃ変なところに筋肉がつくんだろうね。

南海・富田勝。1970年、大阪球場
写真:日刊スポーツ/アフロ

※富田勝
1946年、大阪府生まれ、2015年没。内野手。法政大学で田淵幸一、山本浩二とともに「法政三羽ガラス」と呼ばれ活躍。1969年に南海ホークスへ入団。当時のホークス監督は野村氏だった。

キャッチャーは“頭のポジション”だ

──特殊能力では、野村さんの影響でできた「ささやき戦術」というものがあって、この能力を持ったキャッチャーと対戦するバッターは集中力が欠けて、少し力が落ちるんです。

野村氏:
 ささやき戦術はね、困ったらやるんですよ。自分のペースで進んでいるときは、なにも言わない。
 さっきも言ったけど、一番困ったのは長嶋ね。あとはだいたいみんな、ちょっとは影響しますよ、絶対に聞こえているんだから。聞こえていないふりをしているかもしれないけど。

 そんなにブツブツたくさんしゃべる必要はなくて、ひと言でいい。たとえばバッターが来たときに「あれ、お前なんか変わったな」って言う。
 実際は何も変わってないけど、言われると、「そうかな?」って気になるから。よく「なんか構えが変わったな」とか、そんなことを言ってた。

 で、ピッチャーとの会話も、聞こえているから。バッターが見逃したり、ファールを打ったりするでしょう? そうしたら、ピッチャーに「おーい、合ってるぞ」って言うんですよ。タイミングが合ってる、合ってないの話。

 バッターも、「もう同じ球は来ないかな?」と考えるわね。バッターに何かしら考えさせたりしないと。ピッチャーが一生懸命投げてるんだから、良い球が来れば「ナイスボール!」って言ってやる。キャッチャーっていうのは、黙ってやるもんじゃないの。

──そういった工夫を凝らしてリードをしたり、指導をされていたんですね。

野村氏:
 キャッチャーというのは“頭のポジション”だから。観察力、思考力。これがキャッチャーの主な仕事。監督になってからもキャッチャーに教えたのは、「ただ単にボールを受けているだけじゃダメ」

 バッターの目の前を通過するんだから。片方の目でボールを受けて、もう片方でバッターの動きをちゃんと観察する。バッターの目の前をビューンってボールが通過したときに「あぁ、タイミングが合ってる、合ってない」と察する観察眼を養えと。そこから配球術が身についていく。

 どんなときにバッターの考えが変わるのか。ひとつは追い込まれたとき。次に、エース級の良いピッチャーが出てきたとき。
 あとは、ランナーが得点圏にいるとか。まあ主にバッターの考えが変わるのは、そういう状況が考えられる。そういったことを考慮して、バッターを見る眼。これ、一番大事ですから。

──『パワプロ』では、そういったキャッチャーの良いリードなどを表す「キャッチャーA〜C」や「球界の頭脳」という能力があります。
 ピッチャーのコントロールやスタミナを補う能力なのですが、野村さんにもピッタリな能力だと思います。

野村氏:
 恐縮だね。俺も長いことキャッチャーやってるけど、今まで言われた言葉で嬉しかったのはね、広島で監督やってた古葉(竹識)【※】の褒め言葉。

 彼は、引退の少し前に広島から南海に移ってきた。俺がチェンジになってベンチに帰ると、未だに忘れられないんだけど「上手いこと投げさせるもんだなぁ」って。

 「南海のピッチャーをトレードするときには、リードするキャッチャーの力を考えたら、“マイナス5勝”計算にして評価しないと騙される」って。これは嬉しかったね。

※古葉竹識(こば・たけし)
1936年、熊本県生まれ。内野手。1958年に広島カープ入団。1年めからレギュラー定着。1963年にはオールスターでMVPを獲得、長嶋茂雄と首位打者を争いながらもケガのためシーズン終盤で離脱。遊撃手としてベストナインに選出された。1970年に野村氏が選手権監督を務める南海ホークスへ移籍、後の監督業につながる考え方を学ぶ。1974年から広島へ戻り、1975年に監督就任。球団史上初のリーグ優勝と日本一に導いた。1985年まで広島で監督を務め、3度のリーグ優勝と日本一を経験。“赤ヘル軍団“の黄金期を築いた。

──野村さんのリードが、南海のピッチャーを実際の力よりも“プラス5勝”させていたということですね。

野村氏:
 俺は貧乏性、苦労性っていう“星のもと”に生まれているのかね……現役時代、27年やりましたけど、良いピッチャーに恵まれなかった。ヘボピッチャーばっかり。

 杉浦(忠)【※】だけはすごかったけどね。1年に38勝もするピッチャーだから、彼のときはボールを受けていても、ひとつも面白くなかったね。
 困ったら真っ直ぐを投げて、空振りかファールになるし、カーブも大きいだけじゃなくギュギュっとブレーキがあって。

南海対近鉄 南海の杉浦忠投手(背番号21番)投球フォーム。1965年4月25日、大阪球場
写真:日刊スポーツ/アフロ

※杉浦忠
1935年、愛知県生まれ、2001年没。ピッチャー。立教大学時代に長嶋茂雄、本屋敷錦吾と合わせて「立教三羽ガラス」と呼ばれた。1958年に南海ホークス入団。1年目から開幕投手を務め、27勝で新人王。2年目には38勝という驚異的な成績で南海のリーグ優勝に貢献、シーズンMVPを獲得した。しかし、連投による故障で長いイニングを投げられなくなったため、晩年は抑えの切り札として活躍。

 まあでも、キャッチャーってポジションはモテないよ。ファインプレーのないポジションだからスポットが当たらない。ミスしないことが前提だから。先発が完投・シャットアウトすればヒーローはピッチャーだしね。

 お立ち台で「今日は何が良かったですか?」なんて聞かれて、「真っ直ぐが走ってて良かった」とか言ってるとね、ベンチに入って「何抜かしとんや」ってプロテクターを外しながらボヤいてたけど。「サイン出したのは俺やないかい」ってね。それがキャッチャーですわ。

 昔、(港東ムース【※】で)中学生に野球を教えていたことがあったんだけど、キャッチャーをやるのがひとりもいないんだわ。
 30人以上いたのに、こっちが「お前、やれ」って言うまで誰もやろうとしない。「しんどい」っていうの。これは将来、キャッチャー受難の時代が来ると思ったね。なり手がいない。

※港東ムース
かつて野村沙知代夫人がオーナーを務めた、少年野球チーム。チーム名は野村氏の愛称のひとつ「ムース」に由来する。年間数百万円かかる練習場の使用料はポケットマネーで支払われ運営は常に赤字だった。後にプロ入りしたG.G.佐藤や井端弘和が在籍していた。現在は解散している。

──ご自身のデータに戻りますと、「肩」は少し低い数値で、「守備」、「エラー回避」は並以上です。

野村氏:
 ヘボ選手ですよ。肩は弱いしね。

──「送球」は良いというデータになっています。投げるまでが速かった、ということでしょうか。

野村氏:
 強肩じゃなかったらどうカバーするか。内野手みたいに、捕って速く投げる。これを一生懸命練習するしかない。上体だけで投げても速くならないから、足が重要になる。
 足を速く動かせば、そのぶん上体も動くでしょ。だからフットワークの練習ばかりしていた。褒め言葉で「ノムさんは捕ってからが速い」って言われると、嬉しかったね。

──それが送球の良さにつながるんですね。フィールディングやキャッチングについて、ご自身ではどう評価されていますか?

野村氏:
 A・B・Cの3クラスに分けるなら……Cくらいかな。あんまり上手くないよ。
 さっきも言ったとおり、キャッチャーっていうのは、“頭のポジション”だから。観察力と思考力。これがキャッチャーの主な仕事。

──「ケガにも強い」というデータになっています。

野村氏:
 休むのは嫌いだった。ケガしても、いつも隠していたね。監督は知ってたと思うけど、使い続けてくれたもんで。晩年は、ひんぱんに肉離れをするようになって、ぐるぐるサポーターを巻いてやってましたけど。

 まあ、田舎の高校を出て、2軍でまるまる2年ボールを受けるだけの“壁”ばっかりやっていた体験が、いつも頭の片隅にある。休むのがイヤなのは、そこから来てると思うな。

「逆境に強い」のは、母親を楽にさせたい一心で、貧困をバネにしたから

──その他、「チャンスに強い」、「サヨナラの場面に強い」、というデータもあります。

野村氏:
 まあ、チャンスでは燃えたけど、結果がどうかは知らない。サヨナラも、途中までは俺が一番だったけど、抜かれたんじゃないかな?【※】

※サヨナラ安打、本塁打ともに現役中は1位、のちに清原和博に抜かれ2位

──負けている場面で能力が上がる、「逆境にも強い」と。

野村氏:
 それは育ちだよね。半端じゃない貧困家庭で育ったから。貧困がイヤだから、「大人になったら絶対に金持ちになってやる。何をすれば金持ちになれるのか?」って、そればっかり考えてた。
 最初はね、美空ひばりさんに影響されて、歌手になろうと思って音楽部に入った。ところが、てんでダメ。

美空ひばり、『映画と演劇』1955年10月号、時事世界社、1955年掲載の写真
(画像は美空ひばり – Wikipediaより)

 同じ部の同級生に「お前、一回声を潰してみい。音域が広がって高音も出るようになる」って言われたから、学校帰りに海まで行って、海に向かって腹の底から声を出してね。潰れるまで練習してたけど、ムダな努力。あれはウソだったね。

 その後に目指したのは、俳優さん。田舎の映画館でも連日満員で、すごかったから。時代劇では、片岡千恵蔵阪東妻三郎──そういう人たちは憧れだったもん。
 現代劇では佐田啓二と岸恵子さんの、『君の名は』【※】って映画がすごくヒットして、三部作までできた。当時の憧れは映画俳優しかなかったから、中学3年生のとき、俳優になろうと思った。

※映画『君の名は』……1952年に同名のラジオドラマが放送され人気を博したことで、1953年にメロドラマの名匠・大庭秀雄監督がメガホンを取り、松竹が映画化。岸恵子演じる氏家真知子のストールの巻き方が「真知子巻き」として大流行した。大ヒットとなり、三部作が製作された。あのアニメ映画ではない。
(画像は映画・アニメの世界|松竹株式会社より、『君の名は』のワンシーン。(C) 松竹)

 お金がないから、当時は映画を観るのも大変でね。タダで見るために、体の大きい人が来るのを待って、その裏からキュッと入ろうとして、館長さんに見つかったこともあった。
 館長さんは、俺の家の3軒となりのおじさんでね、「母には言わないでください」ってお願いして。田舎では「かっちゃん」って呼ばれてたんだけど、「かっちゃん、そう悪いことをしたらいかん」って言われたけど、母親には言わないでくれた。

 でも、俳優になりたいから、映画を観てマネしないといけないもんね。セリフを覚えて家に帰って、鏡の前でマネしてやってましたよ。
 でもある日、ふと鏡に映る顔を見て、「この顔ではムリだわ」と気づいて。藤山寛美さん【※】とかね、ああいう人が、わしらが子どもの頃に出てきてたら、俺も俳優になってましたよ。

藤山寛美、『拝啓天皇陛下様』(松竹、1963年)スチル写真
※藤山寛美……1929年、大阪府生まれ、1990年没の喜劇役者。長年にわたり松竹新喜劇のスターとして活躍。間の抜けた“阿呆役”を演じれば天下一品といわれ、戦後昭和を代表する上方喜劇をリードした。
(画像は藤山寛美 – Wikipediaより)

 当時は「映画俳優=男前」という固定観念があった。野球もそうだけど、固定観念は罪。

 以前、仲代(達矢)さんと対談することになって、そんな過去の話をしたんですよ。そしたら、あの仲代さんが真剣な顔して、「残念です」って。びっくりしちゃって。

仲代達矢
(画像は平成27年度 文化勲章受章者:文部科学省より)

 「映画界の損失だ」、「野球で成功された方だ、映画界に入っても成功しますよ」って言われて、調子に乗っちゃった。で、「もし私が映画界にいたら、どんな俳優になっていましたか?」って聞いたの。

 そしたら、「おそらく志村喬さん【※】のような俳優になってたでしょう」って。名脇役だよ。あれは嬉しかったね。

※志村喬……1905年、兵庫県生まれ、1982年没の映画俳優。巨匠・黒澤明の30作品のうち、21本に出演。黒澤映画に欠かせない存在であった。初期作では脇役を演じたが、『酔いどれ天使』では三船敏郎とともに主演を張り、『生きる』で単独主演、『七人の侍』では三船とのダブル主演を務めた。
(画像は志村喬 – Wikipediaより)

──そういった過去からプロ野球選手になったということは、雑草魂によって「逆境に強い」という証拠ですね。

亡き母、そして亡き妻・野村沙知代への想い

野村氏:
 とにかく貧乏から抜け出したいって、その一心ですよ。父親は俺が3つのときに戦争で死んでいるから、おふくろが苦労してる姿ばかり見て育った。金持ちになって母親を楽にさせてやんなきゃと。

 俺が小学校2年と3年生で続けて子宮がん、直腸がんをやって、戦争中のがんだから助からないって言われていたんだけど、そこが俺の運の強いところ。京都市内の、母が昔勤めていた病院に入院して、退院してきたときは嬉しかったなあ…。

 小さな町で、4回引っ越ししてるから。家賃が高くなると、安いほうへ安いほうへって。
 高校3年生のときに住んでいたところなんて、障子も閉まらない、地震が起きたらグシャっと倒れるようなところ。そんな家に住んでいたんだから、そりゃあ金持ちになりたいと思うわ。

──その後、テスト生として南海ホークスに入団、プロ3年目から1軍でレギュラーに定着しました。

南海・野村克也捕手。1959年撮影
写真:日刊スポーツ/アフロ

野村氏:
 プロになってから、おふくろがある日突然、京都の田舎から大阪に出てきたんだわ。2回もがんをやってそんなに健康じゃないのに、びっくりした。
 「お願いがある」って言うの。「ひとり住まいに適した家を見つけたから買ってほしい」って言うんだけど、兄貴は「買ったら、いよいよ都会に出てこないから」と反対した。

 俺は一緒に大阪で住もうと思ったんだけど、父方のおじいさんおばあさんが田舎にいるから、それを放っておいて「大阪には出られない」っておふくろは言った。京都の女だから責任感が強い。その一点張りでしょうがないから、買ってやったんだよ。

──ようやく親孝行ができたんですね。

野村氏:
 うん。まあ、おふくろも嫁と姑の関係をよく知っているから、兄貴の家に行くのもお嫁さんに気を使うし、ひとり暮らしが良いって思ったんじゃないかな。
 かわいそうな一生でしたな。結局は、健康第一ですよ。お金よりも、まずは健康だ。

 俺も奥さんに先立たれてね…。「俺より先に逝くなよ」って去年くらいから言ってたの。「俺をひとり残すなよ」って。母子家庭で育ってるから、女は強いと知っている。……でも、あんな簡単に死ぬとは思わなんだな……。

野村沙知代さんのお別れの会で、遺影の前であいさつする野村克也氏。2018年1月25日、ホテルニューオータニ
写真:日刊スポーツ/アフロ

──多くの人が驚いたニュースでした。

野村氏:
 ダイニングのテーブルに頭をつけて、動かなかったの。お手伝いさんが俺のところに来て、「奥さんの様子がおかしいです」って言うから、見に行って。
 背中をさすりながら「大丈夫か?」って聞いたら、「……大丈夫よ!」って。それが最後の言葉でした。

──最後まで強いイメージを崩さなかったんですね。

野村氏:
 うん。強い。でも、どう見ても大丈夫じゃないから救急車を呼んだけど、運ぼうとしたときにはもう息がなかった。
 苦しまずに、死に方としては最高だけど……ただ、俺より先に逝ったっていうのはなあ……。

──……昨年末、沙知代さんが急逝された直後にもかかわらず、野村さんは『ファン1万人がガチで投票! プロ野球総選挙』(テレビ朝日)に出演して元気な姿を見せてくれて、野球ファンを驚かせていましたね。

野村氏:
 いやあ、男の弱さを痛感していますよ。うちの母方はみんな短命なんですよ。母親の兄妹、4人くらいみんな50代で。おふくろがいちばん長生きして64歳だから。
 俺も早いかと思っていたけど、父方はみんな長寿なんだよ。じいさんばあさん、98歳とか96歳とか。

──当時で90代でしたら、本当に長寿ですね。野村さんはそちらの遺伝が強いんですね。

野村氏:
 「八つ墓村」どころじゃない、すごい田舎だよ。おふくろは滋賀県出身なんだけど、子どもながらに「どういうことで、こんな田舎の男と結婚したのかな」と思ってたの。
 本人たちは口が裂けても言わなかったけど、近所のおばさんに聞いたら「あんたのお父さんお母さんは、大恋愛の末に結ばれた」って聞いた。

 親父が大病をして、京都の府立病院に入院したときの、患者と看護師だった。親父も手が速かったんだね。家に帰ってそのことを話したら、真っ赤な顔をして「どこで聞いてきた!」ってすごく怒るの。
 明治生まれの女としては、恥ずかしかったんだ。昔は、恋愛なんて絶対にダメだったからね。俺は、手が速い親父の血を引いてるのかもしれない。

今後も大いに活躍していただきたい!

──大恋愛の末の結婚も、父親譲りだったわけですね。長寿のお父さんの血を引いているとなると、まだまだ元気にご活躍されることでしょう。

野村氏:
 もう83歳になるけど、兆候はないんだよね。もうちょっと生きるのかな。あとは息子【※】が心配だ。

※息子・野村克則
1973年、大阪府生まれ。捕手、内野手。明治大学で、東京六大学野球リーグで4回優勝、1993年には首位打者と打点王の二冠、ベストナイン(一塁手)を獲得。1995年に父である野村克也氏が監督を務めるヤクルトスワローズ入団、登録名は「カツノリ」。阪神タイガース、読売ジャイアンツ、東北楽天ゴールデンイーグルスを経て2007年に現役引退。二軍育成コーチ、一軍バッテリーコーチを経て、2013年からは東京ヤクルトスワローズで二軍バッテリーコーチ就任。2015年からは一軍バッテリーコーチを務めている。本記事の取材で野村氏は息子について「高校・大学と寮制のところ(堀越高等学校、明治大学)にいかせたのは正解だった、家から通わせたら一茂みたいになっとっただろう」と語っている。

──今や多くの教え子たちが監督・コーチとしても活躍されています。ヤクルトでコーチをされている宮本慎也さん【※】は、野村さんを「理想の監督」と語っていますね。

2006年WBC準決勝 日本対韓国戦にて、チームメイトと勝利を祝う宮本慎也。2006年3月18日、サンディエゴ
写真:AP/アフロ

※宮本慎也
1970年、大阪府生まれ。内野手。1994年にドラフト2位でヤクルトスワローズ入団。当初はショートの守備固め起用が多かったが、徐々に打率が上がり2000年に打率3割を記録。スワローズ一筋で、2013年に引退するまでに2000本安打を達成。アテネオリンピック日本代表、北京オリンピック日本代表ではキャプテンを務め、2018年から東京ヤクルトスワローズの一軍ヘッドコーチに就任している。野村氏との対談書籍『師弟』(講談社)がある。

野村氏:
 あいつには期待してるんだよ。良い監督になるんじゃないの。野球を研究して、よく知ってる。

 井端(弘和)【※】もそうだけど、守備がうまいのは、野球をよくわかってる。
 宮本は、歯に衣を着せないところがあるから、誤解されやすい。それだけが心配だな。早く監督になって、名監督を目指してほしいね。

2013年WBC 日本対キューバ戦での井端弘和。2013年3月6日、福岡 ヤフオク!ドーム
写真:YUTAKA/アフロスポーツ

※井端弘和
1975年、神奈川県生まれ。内野手。1997年にドラフト5位で中日ドラゴンズ入団。3年目までは守備固めや代走起用が多かったが、2001年から2番・ショートとしてレギュラーに定着した。翌2002年には初のベストナイン受賞。2004年に選手会長へ就任し、リーグ優勝に貢献。2009年にはプロ野球選手会の理事長に就任。二塁手・荒木雅博との「アライバ」コンビによる芸術的な守備が有名。現在は巨人で内野守備走塁コーチを務める。

──常にスポーツニュースや解説に加えて、書籍も毎年出版されています。まだまだご活躍は続きますが、どうかお身体ご自愛ください。

野村氏:
 いやいや、もうお声がかからないの。モテないし。銀座にいっても誰も相手にしてくれない。もう、お迎えを待つしかないですよ。
 それか、誰か紹介してくれよ。……冗談だけどね、最近は口に気をつけないといけないなと思うこともある。

 昔、「外野手出身に名監督なし」とコメントしたら、山本浩二【※】の批判をしたみたいで、ばったり会ったときに「ノムさん、ひどいよ」って言われたんだよな。
 みんな意外と見てるんだね。少しは気をつけないといけないね。

※山本浩二
1946年、広島県生まれ。外野手。1968年にドラフト1位で広島東洋カープ入団。1年目からレギュラーに定着し、中核打者として長きに渡って活躍。広島の英雄として『ミスター赤ヘル』と呼ばれる。史上二人目の「通算500本塁打・200盗塁」達成、大卒として歴代1位の通算536本塁打を記録している。

 今までは川上(哲治)さん【※1】西本(幸雄)さん【※2】とか先輩もいたけど、亡くなってね。もう後輩ばっかりだから、球界には怖い人が誰もいないんだよ。

 

※1 川上哲治
1920年、熊本県生まれ、2013年没。内野手、投手。1938年に東京巨人軍に入団。現役時代には「打撃の神様」と呼ばれ、プロ野球史上初の2000本安打を達成。戦時中、戦後におけるプロ野球のスターとして活躍し、終戦後は赤いバットを使用し、トレードマークとなった。巨人の監督時代には、O・Nなどを率いてV9を達成。

※2 西本幸雄
1920年、和歌山県生まれ、2011年没。立教大学時代、学徒出陣のため中国で終戦を迎えた。1949年には社会人チーム・星野組の一員として都市対抗野球で優勝。1950年、毎日オリオンズに入団し、リーグ優勝と日本シリーズ優勝に貢献。オリオンズ、阪急ブレーブス、近鉄バファローズの監督を歴任し、8度のリーグ優勝を経験している。

──一流の“ボヤキ節”、これからも楽しみにしています。本日はありがとうございました。(了)


 取材開始直後、「……帰らせてもらおうか」と言われたときには、心底慌ててしまった。しかし、いざ終わってみると、あれも野村氏のリップサービスだったのか……? そう思えるほど、熱心に、多岐に渡るエピソードを語っていただいた。
 どこを切っても、通底する揺るがない野球観が垣間見えるインタビューとなったのではないだろうか。また、『パワプロ』だけにとどまらない、野村氏だからこその“あのころのあの選手の話”は、野球ファン必読のものとなっているだろう。

 今回語っていただいた選手たちは、プロ野球史における重要人物ばかり。もはや“生き字引”である野村氏が“彼ら”をどのように見ていたのかという評論は、同時代を生きた重要な証言といっても過言ではない。

 辛辣にボヤキながらも、自分の話になると謙遜が止まらない。プロ野球の歴史を代表する選手でありながら「ヘボ選手ですよ」と笑う。
 しかし、自身の能力データを見て「本当は足が速かったんだ」とこだわる様子は妙に親近感が湧き、毒舌のレジェンドも人の子なのか、と妙に納得してしまった。

 最後に、読者プレゼントとして、キャッチャーミット1つと3冊の書籍にサインをいただいた。

 「野村克也=プロ野球の歴史」といえる、野村氏の歴史が網羅された『私のプロ野球80年史』、長きに渡ってライバルとして戦ったO・Nとのエピソードが語られた『オレとO・N』(ともに小学館)、野村氏の野球論が全て詰まった解説書『野村克也 野球論集成』(徳間書店)。

 このインタビューによって、プロ野球の歴史や野村氏の野球論に興味を持った方は、ぜひ応募していただければ幸いだ。
 また、最近は『パワプロ』シリーズから離れてしまった方々が、これをきっかけにまたプレイしようかと思っていただけることを願っている。

 インタビュー終了後にエレベーターまで見送ると、「こんなところまでわざわざ、恐縮です」とニヤリと笑った野村氏。
 『パワプロ』の「逆境◯」という特殊能力から、まさかの生い立ちの話題へ広がったり、奥様の悪口を言ったかと思えば「俺より先に逝くなよ……」と何度もつぶやき、毒舌の裏にある温かさを感じさせる一面も見せていただいたが、最後の一瞬にも、その人柄がにじみ出ていた。

【プレゼントのお知らせ】

 

 野村克也氏のサイン入りキャッチャーミット、書籍3冊(『私のプロ野球80年史』、『オレとO・N』、『野村克也 野球論集成』)を各1名様にプレゼント!
  なお、書籍のプレゼントは後日に電ファミニコゲーマー公式Twitter(@denfaminicogame)にて行います。お見逃しなく!

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取材・文
毎日ウルトラ怪獣Tシャツを着ているフリー編集・ライター。インドネシアの新聞社、国会議員秘書、週刊誌記者を経て現職。意外なテーマをかけ合わせた企画とインタビューが得意。守備範囲は政治・社会からアイドル、スポーツ、お笑いなどエンタメまで。30歳を超えてなお、相変わらず「マリオ」「ドラクエ」「パワプロ」「スパロボ」「ロックマン」の最新作をプレイしている現状に、20年前から精神年齢がまったく変わっていないことを痛感している。
Twitter : @mori_yusuke
取材・編集
「電撃セガサターン」、「電撃PS2」、「電撃オンライン」、「電撃レイヤーズ」、「iモードで遊ぼう!」、「mobileASCII」、「デンゲキバズーカ!!」と数々の媒体を渡り歩いて来た40代ファミコン世代の編集者。好きなハードは「ファミコンバージョンのゲームボーイミクロ」。2013〜2015年に配信されたパ・リーグ☓RucKyGAMES☓KADOKAWAによるカジュアルゲームアプリ『パ・リーグのやぼう2013』の仕掛け人。
Twitter : @nkjdfng

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