「理」を欠損した世界だった。
きわめて異質な世界だった。
ある意味で、それはありふれた混沌に近かった。
万物が万物の体をなさず、まじりあってそこにある。
ただ、意味の上では限りなく「無」に近いその空間には、住人があった。
世界樹。
何らかの事情で他世界から持ち込まれたか、
あまりの存在強度ゆえ世界の混沌回帰にすら耐え抜いたか。
ともあれ、世界全体の容積と比しても遜色ないその巨大な樹木は、
他の全ての「無」を穿つ「有」として、厳然とそこにあり続けた。
総体としての世界樹は、他世界からの漂流物を混沌へと還す分解者としか評せまい。
しかし広大無辺な樹体を部分的に見れば、様々な異質な活動もみられた。
中でも格別、知性や感情といったものに相似した活動を行う枝葉があり、
これを仮に、「彼女」と呼ぶこととしよう。
彼女は疑問を持っていた。
この「有る」ことだけを享受する「在り方」について。
総体としての世界樹は、「有る」ことの平穏を自認し、喜んでいる。
枝葉も同じか、そもそも意志と呼べるほどの活動がない。
だから黙っていた。
ある時、異邦人がこの世界に流れ着いた。
滅んだ故郷を後にして、安住の地を探すという異邦人は、賢く洒脱な一方で、
残忍でおそろしい冗談を平然と口にする底知れぬ人物でもあった。
彼女はその対話に、生まれて初めての喜びを覚え、彼を分解から遠ざけた。
長い年月ののち、異邦人は『それ』の存在を彼女に警告し、世界を去った。
彼女はすっかり、自我、感情、思考、道徳――「秩序」と呼ぶべき諸活動を体得していた。
しかしそれを受け止める者は、この世界にもういない。
無念を、危機を、彼女は世界樹に訴えた。何度も何度も訴えた。
一度だけ、総体の思念らしきものから応答があった。
『理を捨てよ』
『それ』が訪れた時、
圧倒的な破壊が起きたとも言えるし、大したことは何も起きなかったとも言える。
世界樹は寿命よりも早い滅びに驚いたが、受け入れた。無数の枝葉たちも、受け入れた。
彼女だけが、受け入れなかった。
秩序を生みだすもの、あるいは、より洗練された優れた秩序、
『理』を拒んだから、滅びを甘受するのだと。
怒りにも似た無念を胸に、彼女は世界とともに枯れた。