クトゥルー神話は聖地巡礼できる! だが、引き返せなくなる可能性も
──ここからはより森瀬さんの研究やお仕事について伺っていきたいと思いますが……それにしても、森瀬さんはどうしてここまでクトゥルー神話にのめり込んでいらっしゃるんでしょうか。
森瀬氏:
もともとクトゥルー神話は趣味として好きでしたし、仕事として本も書かせていただきましたが、本格的な深みにハマったのは、2008年にラヴクラフトのいわゆる“聖地巡礼”に行ったことがきっかけなんですよね。
マサチューセッツ州を中心とするニューイングランド地方、いわゆるラヴクラフト・カントリーと言われている地域に2週間ほど滞在しました。
ラヴクラフトは「引きこもりで故郷から出なかった」とよく言われていたんですが、じつはかなりの旅行好きで、それを小説のネタにしていたんですよ。
たとえば、彼が旅行先で書いた紀行文の情景描写や、知り合いに送った手紙の文章などは、その直後の小説にほぼそのまま出てきたりします。
さらにアメリカは日本に比べると乾燥しているので、とくに東海岸の家は何百年前から変わっていないことが多いんですよ。
結果としてラヴクラフトが当時に見ていた街並みというのが、いまもある程度残っているんです。
実際にそれらを見に行ってみたところ、「なるほどね」と初めて解ったことが大量にありました。
これはもう『クトゥルフ神話TRPG』でいうアイディアロールを次々と成功させてしまったような状態。「今後10年間ぐらいこれで食えるなと……というか、引き返せないところまで来てしまったな」と思いました。
もうそれから10年が経ってしまいましたが(笑)。
──「クトゥルー神話研究家」を名乗られたのはそのころからなんでしょうか。
森瀬氏:
自分からそう名乗ったわけではないんですけどね(笑)。ちょうどアメリカから帰ってきた後にお受けした仕事に、『クラシックCOMIC』(PHP研究所)という、ラヴクラフト作品をコミカライズしたシリーズがありました。そのうち最初の3冊の解説を僕が担当したときに、編集担当さんが僕の肩書を「クトゥルー神話研究家」と書いてくださいまして。
そのころ、自分の収入の75%がクトゥルー神話関係の仕事によるものでしたので、「これはもうプロと名乗っていいんじゃないか」となったわけです(笑)。
ですので、そんなにアカデミックな立場として研究しているわけでもないのですが、ただ、こういうアプローチをしている方というのは、国内にもそう多くはいらっしゃらないので。
──そこまで極められて、それでもまだ名乗ることに若干抵抗を感じられているのがヤバいと思います(笑)。
その設定、実は『クトゥルフ神話TPRG』のオリジナル設定かも
──執筆活動を精力的にされていますよね。まず代表的なものを挙げると……『ゲームシナリオのためのクトゥルー神話事典』(2013年発売・ソフトバンククリエイティブ)でしょうか。
森瀬氏:
これは『ニャル子さん』の第2期が終わる2013年6月ぐらいに刊行した本です。ある意味これが深入りした僕の一旦の到達点ですね。
当時、クトゥルー神話として知られている設定群は、みんなふわっとは知っているけれど、「それらの設定が具体的に誰のどんな作品に出てきたものなのか」というところまでは、あまり触れられていなかったんです。
この本ではそこを細かく分解し、ひとつひとつ解説したんです。たとえばこのクリーチャーの外見はこの作品で、このクリーチャーの異名はこの作品で──みたいな話を一個一個区分けして、「ここから先は、じつは『クトゥルフ神話TRPG』の独自設定です」というような作業ですね。
──先ほどビジュアルは『クトゥルフ神話TRPG』の設定に引っ張られている、というお話がありましたが、そういうことを解説されているわけですね。例えばどういった設定がオリジナルなんでしょうか。
森瀬氏:
たとえば、ニャルラトホテプの化身のひとつである〈月に吠えるもの〉を三本脚に描くのは、『クトゥルフ神話TRPG』の関連製品のイラストが発祥です。
それと、有名どころではハスターがらみですね。ハスターはしばしば黄色いボロを被った姿でイラストに描かれます。
ハスターが〈黄衣の王〉という化身を持つという設定に由来する姿なのですが、この設定は『クトゥルフ神話TRPG』のとあるシナリオに由来します。
ラヴクラフトやダーレスらの小説には、そういう話はまったくないんですよ。
──それってつまり、ひとつひとつ根源を調べていくってことですよね……凄く大変な作業じゃないですか。
森瀬氏:
誤った情報をお伝えするわけにもいかないので、『図解』を執筆したころからずっと作り続けてきた自前のデータベースをフル活用し、すべての情報を最新のものにしようと挑みました(笑)。すると、いくつか見えてきたものがあります。
ひとつは『クトゥルフ神話TRPG』の影響力が思った以上に強いということ。
ビジュアル・イメージを標準化したというお話をしましたが、クトゥルー神話小説がもともと持っている設定だと多くの方が考えていたものが、じつは実質的に『クトゥルフ神話TRPG』で作られた独自設定だったということは結構ありました。
もうひとつは、『クトゥルフ神話TRPG』の設定を通して日本でも広く知られているけれど、まだ日本語に訳されていない作品が結構残っているということです。日本で翻訳されているのは全体の7割ぐらいでしょうね。
──元の作品が翻訳はされていないけど、『クトゥルフ神話TRPG』のルールブックで知らないうちに知っている設定があるわけですね。
森瀬氏:
そういうことです。ワールドワイドという見地から見ると、確かに『クトゥルフ神話TRPG』の設定が集大成になっていますが、日本では知られていない作品も多いので、日本人にとってのクトゥルー神話というのは、『クトゥルフ神話TRPG』から入った人と、昔から小説類を読んでいる人のあいだに結構なギャップがあると思われます。
この残りの3割に関しては、どこかのタイミングで紹介や翻訳をして行こうと思っています。
──全体の3分の1と考えると、まだまだ訳されていないものも多いですね。翻訳が楽しみです。
新訳されていくクトゥルー神話の作品たち
──そして最近では、『新訳クトゥルー神話コレクション』(星海社)というシリーズも手掛けられていますよね。なぜいま、ラヴクラフトの新訳を手掛けているんでしょうか。
森瀬氏:
じつはひとつ感じていることがあるんです。
というのも、『クトゥルフ神話TRPG』がニコニコ動画で流行り、『ニャル子さん』のアニメが放送され始めた2010年ごろ、「原典の小説は読みにくいものなんだ」というミームがニコニコ動画のコメントやツイッターを通じて広まり、「興味はあるんだけど読みにくいんでしょ?」という先入観が生まれてしまった気がしているんです。
──実際、クトゥルー神話の小説ってそんなに読みにくいんでしょうか……?
森瀬氏:
それがですね、回答がちょっと難しいところでして(笑)。僕は中学生ぐらいからずっと読んでいますが、「読みにくい」と思ったことは一度もないんですよね。ただし、読みにくいと言っている方たちの理屈はわかるんです。
実際のところ、ラヴクラフトが使う英語は、確かに持って回った表現が多いんです。言葉の関係がスゴくハッキリしている、くっきりとした文章を書く人なので、間違いなく「悪文ではない」と僕は思っているんですが、彼自身の趣味も相まって、いまの日本人が読むには古く感じてしまうんです。
──18~19世紀ぐらいのイギリス人が使っていそうな単語が使われていると言いますよね。
森瀬氏:
「なぜその言葉を選んだ」という単語をラヴクラフトは結構好んでいて、その凝った言葉遣いが古いと言いますか……僕はそれを「辞書が古い」という表現をしているんですけど(笑)、その言葉を忠実に日本語に置き換えようとすると、確かに普段見たことがないような言葉になってしまうんです。
あとは日本語と英語の文章の書きかたの作法の違いですね。英語の文章って、あまり改行しませんよね。
ですので、縦書きの日本語に持ってくると、文字がごちゃっとなってしまう。僕はそれを見ているだけで幸せになれるんですが、普通の人はそうじゃないですよね(笑)。
──ああ、なるほど。それで新訳が必要と感じたんですね。
森瀬氏:
ええ。いま僕が新訳という形でお出ししているのは、そういった文章を現代の言葉遣いと現代の語彙に合わせたうえで、なおかつ改行をたくさんしたものなんです。
その際にコアな方が気にされるのが、いわゆる抄訳(部分的に省略・要約しながら翻訳すること)がされているかどうかでしょうが、僕は一字一句省略しないようにしています。どちらかというと直訳に近いぐらいのものになっていまして、ちょっとでも解りにくい言葉があった場合は、解説や注釈を入れています。
とはいえ、じつのところ新訳はおまけでして。
──それ以外に狙いがあるんですか?
森瀬氏:
クトゥルー神話に限らず、これから読もうというときに、物語の関係性というか、「どういう順番で読めばいいのか、何から読めばいいのか」という疑問が湧きますよね。
それに対して、僕の中で「こういう風なものを提示すればいいんだ」と確信があったものを出しているのが、このシリーズなんです。
第一弾の『クトゥルーの呼び声』には、『ダゴン』、『神殿』、『マーティンズ・ビーチの恐怖』、『クトゥルーの呼び声』、『墳丘』、『インスマスを覆う影』、『永劫より出でて』、『挫傷』を収録していますが、これは単に書かれた順番ではなく、『ダゴン』から始まる“海の恐怖”を扱っているラヴクラフトの作品を書いた順に並べているんです。
その結果、これらは個々の独立した作品ですが、まるで連作のように読むことができるんです。設定に関しても、ちゃんと順を追って発展していきます。
巻末に年表を付けているので、解説と合わせて読むことで、読者としてはクトゥルー神話の物語の流れをちゃんと解ったうえで理解できるようになっています。
──商品説明に「エントリー・ノベルブック」という一文が書かれていましたが、そういう意味だったんですね。シリーズということは今後も続いていくんでしょうか。
森瀬氏:
2冊目は禁断の書物『ネクロノミコン』関連、3冊目はちょっと違った感じのテーマ、そして4冊目はミスカトニック大学の予定です。このようにテーマごとに作品を並べていくことで、作品を飲み込みやすい形で提供しています。
またこのシリーズでは、ラヴクラフト以外の作品も扱っていきますし、逆にラヴクラフトの作品だとは思われていない作品に関しても、モノによってはしっかりとラヴクラフトの作品として紹介していきます。
──えっと、ラヴクラフトの作品ではない作品をラヴクラフトの作品として?
森瀬氏:
ラヴクラフトが、仕事として他人の小説作品の添削をやっていたというのは有名な話ですが、添削と言いつつ「実質はラヴクラフトが全部書いた」作品というものが結構あるんですよ。
これはいわゆる“代作”で、たとえば『クトゥルーの呼び声』に収録した『墳丘』と『永劫より出でて』は、青心社さんの『クトゥルー』シリーズでは別の著者の作品として収録されていますが、じつはラヴクラフトが手を入れているどころか、全部書いたものなんですね。
より正確に言うなら、アイデアだけいただいて、そのアイデアをもとに勝手にラヴクラフトが書いた作品なんです。
これらの作品についても、「ちゃんとラヴクラフトの作品として読んでほしい」という思いがありましたし、実際にそれを踏まえると、作品の関係性や時系列が違って見えてくることもあるので、このシリーズでは改めて翻訳し、「ラヴクラフトの作品」の中に並べています。
──なるほど。すると、これまでとはまた違った感覚で楽しめそうですね。
森瀬氏:
もちろん読み直しをするだけでなく、ここからクトゥルー神話に触れてくださる方にこそ読んで欲しい本ではあります。そもそもクトゥルー神話というものが『クトゥルフ神話TRPG』発祥のものだと思っている方も結構多いんですよ。
ラヴクラフトや、彼らの書いた小説がもとになっているということを知らない方です。ラヴクラフトのことを知って、「小説も出ていたんですね」と驚かれる方もいらっしゃるんですよ。
──それは「そこまで広がった」と好意的に捉えるべきものですよね。
森瀬氏:
そうなんです。これは凄いことですよ。「あのマイナーだったクトゥルー神話が、ついに、ごく当たり前の知識になったんだ」──という意味です。
「これがクトゥルー神話ものだよ」といって渡されたものを読めばいい
──今日はいろいろと伺ってきましたが、クトゥルー神話というものがだいぶ整理できた気がします。いまから踏み込もうと言う人にも、いい道しるべになったのではないでしょうか。
森瀬氏:
そうだとありがたいですね。ただいろいろ言いましたけど、結局何を面白いと思うかは人それぞれになるので、迷うくらいなら、「これがクトゥルー神話ものだよ」といって渡されたもの、あるいは手に取ったものを読むのがいいと思います。
──何でも構わないと。
森瀬氏:
『ニャル子さん』でも大丈夫ですし、『クトゥルフ神話TRPG』でもいい。大事なのは、その中で面白いと思った要素を大切にすることです。それはたとえば、1920年代のアメリカの雰囲気でもいいし、いわゆるSANチェック的なものでもいい。現代怪奇ものとしてのクトゥルーが好きでも当然構わないんです。
そしてぜひ、クトゥルー神話好きの友達を作ってください。TRPG仲間でもいいし、ちょっとした茶飲み友達でもいい。
彼らと話して楽しんでください。繰り返しになりますが、これがクトゥルー神話の楽しみかただと僕は思います。
──そういう楽しみかたを助けるアイテムとして、森瀬さんは『All Over クトゥルー -クトゥルー神話作品大全-』(三才ブックス)という本も書かれていますね。
森瀬氏:
そうですね。これは日本国内で発売された、クトゥルー神話だ題材のさまざまな作品のカタログでして、本当にクトゥルフの“ク”ぐらいしか登場しない作品も紹介しています。そうした作品の選びかたについて不満を感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、さきほど言ったように「何を読んで何をクトゥルーと感じるか」というのは、人それぞれでいい。
そのうえで、僕がヘタにあれこれ選り好みをして、「あれがない、これがない」と後から言われるくらいなら、全部入れてしまったほうがよほどいいと思っています。
またこの本では、クトゥルー神話の世界観の中での設定や年代記、年表などを教科書的にまとめていますし、いろいろなゲームやラヴクラフト以外の作家さんの作品なども含めた年表も付けていますので、ガイドとして使っていただければ嬉しいですね。
──これを見ると、クトゥルー神話ってめちゃくちゃ広がっているのだと、改めて思いますね。
森瀬氏:
そうなんですよ。だから「クトゥルー神話というのはこういうものだ」というのは、なるべく言わないようにしているんです。
ですから『All Over クトゥルー -クトゥルー神話作品大全-』では、「この作品でこうあるのはこういう意味だよ」という解説はしていますが、批評はしていません。「あなたの感じたものがクトゥルー神話だ」でいいんじゃないかと。
そのうえで僕は「原典にも興味を持ってくれたら嬉しいな」ぐらいの気持ちでまとめています。僕自身、1980年代に菊地秀行先生から「本当にどこから入ってもいいんだよ」と仰っていただいて救われたので。
──クトゥルーの物語と同様に、楽しむ側の気持ちもシェアされ、引き継がれていくんですね。本日はありがとうございました(了)
「クトゥルー神話というものは、もう想像を凌駕するほどに広がっています」──まさにそのとおりだ。ゆえに今回のインタビューでは、日本での広まりかたや体系化について話を伺ったが、感覚では解っているがなかなか言語化できなかったクトゥルー神話というものを、おおよそは整理できたのではないだろうか。
そして何より印象深いのは、森瀬氏のようにクトゥルー神話の分野において著名な人物が「“あなたの感じたものがクトゥルー神話だ”でいいんじゃないか」としたうえで、クトゥルー神話の面白さと楽しみかたを改めて示してくれたことだ。
クトゥルー神話はコミュニケーションツールであり、人それぞれのクトゥルー神話像がある。だから魅力的で面白い──そういう意味では、この記事もまたコミュニケーションの一環を担うものであり、森瀬氏の活動はそれを支えるものだと言える。
2017年でクトゥルー神話は誕生100周年を迎えたが、この楽しみ方だけは今後も変わらずに親しまれることだろう。
【H・P・ラヴクラフト聖誕祭】
阿佐ヶ谷ロフトAでは毎年、H・P・ラヴクラフトの誕生日(8月20日)と命日(3月15日)に、ラヴクラフトとクトゥルー神話にまつわるトークイベントを開催していて、森瀬とライターの朱鷺田祐介氏が毎回出演している。今年の8月20日にも、作家の新熊昇氏をゲストに迎え、H・P・ラヴクラフト聖誕祭が開催される予定だ。
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普段の「ゲームの企画書」とはだいぶ毛色の違う回であるが、ぜひホラーファンではない人もこの独自の世界に、この機会に触れてみてほしい。