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『ドルアーガの塔』のキャラが40年後もボクセルで「バチッと立つ」理由は、ナムコ黄金期の「謎の裏方部署」にあった。『NAMCO LEGENDARY Mountains』を機に明かされる、設計思想の正体

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1980年代のナムコ(現:バンダイナムコエンターテインメント)に、「ゲームを作らない」部署があった。

「クリエイティブセンター」
社長室直下に置かれ、CI(コーポレートアイデンティティ)戦略を司り、ゲームセンターのイメージ向上に取り組んだ、ナムコ黄金期の裏方部署である。

そしてこの部署から、あの『ドルアーガの塔』のキャラクターデザインも生まれていた。

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THE TOWER OF DRUAGA™& ©Bandai Namco Entertainment Inc.

1983年、補欠採用で滑り込んだ新人デザイナー、篠﨑雄一郎
彼が新人時代に手掛けたギル、カイ、ドルアーガが2026年に新しい姿で帰ってくる。

6月25日にビサイドが発売した『NAMCO LEGENDARY Mountains』──ナムコ往年作品のキャラクター達をボクセル化したパズルゲームだ。

本作の開発者・南治一徳氏と、40年以上前にそのキャラクターデザインを担当した篠﨑氏の対談が実現した。
そこで明かされたのは、ナムコ黄金期を支えた「謎の部署」の物語と、40年を超えてもなお現代に通じる、キャラクター設計思想の正体だった。

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左から篠﨑雄一郎氏、南治一徳氏

聞き手・文/kawasaki
撮影/佐々木秀二

新人デザイナーがナムコで最初に担当したのは「ゲーム」じゃなかった

──今回は『ドルアーガの塔』を中心に、たっぷりお話しを聞かせていただきます。まずは、篠﨑さんがナムコに入られた頃から振り返っていただけますか。

篠﨑氏:
高校を卒業して、新宿にあるデザイン専門学校に入りました。そして2年目の年末頃、就職活動をしなければいけない時期になって、そこでナムコの就職票の張り紙を見かけたんです。

その頃の僕はゲームセンターで『ディグダグ』『ギャラクシアン』『ギャラガ』とかを遊んでいて、ナムコという会社も知っていました。ゲーム作りは面白そうで、しかも学校で学んだデザインの方面に進めるなら、ということで入社試験を受けました。
最終的に5次面接まで行って、なんとか受からせてもらった感じですね。

──当時のゲームセンターって、「不良の溜まり場」のイメージが強かったですよね。

篠﨑氏:
まだ風営法もなかった頃ですからね。僕もよく、友達と一緒に徹夜でゲームセンターで遊んだりしていました。
でも僕自身、当時は髪の毛が長くて、革ジャンとか着て歩いたような人間だったので、ゲームセンターが怖いという印象はそんなになかったかな(笑)。

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──ゲーム業界そのものが、社会的にまだ認知されていなかった時代だと思います。

篠﨑氏:
やっぱりデザインの学校なんで、基本みんなが目指す一番上は広告代理店だった。広告代理店に入るのが、デザイナーとして一番成功する道みたいなところがあって。
そういったなか、ゲーム会社に入るというのは誰も考えていなかった時代でした。

また、ゲーム会社にとっても、あの頃は「グラフィックデザイナーは数人いればいい」みたいな状況だったんじゃないかなと思います。

でも、ナムコは少し違いました。僕が入社する前には『パックマン』などゲームが立て続けにヒットして、プランナーとかプログラマーとかデザイナーを大勢入れていこう、という時期だったんです。

──デザイナーとしてナムコに入られた篠﨑さんは、最初にどういった業務を行われたのですか?

篠﨑氏:
研修が終わった後は、社長室の直下にある「クリエイティブセンター」という部署に配属になりました。この部署はナムコという会社の「CI」(コーポレートアイデンティティ)を司るためのイメージ戦略を練ったり、企業広告を展開していくような事を行う部署でした、基本的には。

──同じデザイナーでも、ゲーム開発ではなく「ナムコそのものをデザインする部署」だった、と。当時のナムコの雰囲気を教えてください。

篠﨑氏:
僕が入社した頃のナムコで、一番の花形といえる事業は実はビデオゲームではなく、ロボット関連の事業だったのではないかと思います。ロボットを持って全国をキャラバンで回ってイベントをやったり、みたいな。『「マイクロマウス」マッピー』などがヒットしていた頃ですね。

おっしゃるように、あの頃のゲームといえば、どうしても「不良のたまり場」みたいなイメージがあった。でも、ナムコが手掛けていたロボットは子どもを含めた全世代に人気があって、今でいうアミューズメント的な華やかさがあった印象があります。

その一方でナムコはゲームセンター展開も行っていて、『パックマン』が大ヒットして、ゲームの方もこれから売れていくんじゃないか、と。そうしてビデオゲームにも次第に注力し始めていた時期だったんでしょうね。

──クリエイティブセンターでは、具体的にどういった業務を担当されていたのですか?

篠﨑氏:
部署的にはナムコという会社のイメージ戦略的なもの、今でいうところのブランディングの作業全般を行っていました。

僕が最初に任された仕事のひとつとして、ゲームのロゴとかを「紙焼き(※写真の現像と同様、暗室の中に元原稿を置いて撮影し複製)」して、各メディアの会社さんにお渡しするということを行っていました。
当時はデジタルでデータを受け渡すような時代ではありませんでしたので。

ほかには、広告やマーチャンダイジングで出す商品のデザインチェックや、その企画提案などもあったかと思います。

それらのなかでも僕にとって大きな位置を担っていたのが、僕が入社する年に創刊されたばかりのPR広報誌『NG』【※】に、第3号から編集スタッフとして加わったことです。

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※『NG』:
正式名称は『namco COMMUNITY MAGAZINE NG』。1983年、『ゼビウス』の稼働開始にあわせて創刊されたナムコの広報誌で、NGは「ナムコガイド」の略。ナムコ直営のゲームセンター等で無料配布され、1993年まで刊行された。

──篠﨑さんに話をうかがう上で『NG』は重要だと考えていまして、今日は自宅の押入れから発掘してきました。ゲーム専門誌すらなかった時代に、このような小冊子がゲームセンターで無料配布されていたのは、ゲームの情報に飢えていた当時のキッズにとって計り知れない影響があったと思います。

篠﨑氏:
懐かしいですね(笑)。いろんな想い出があります。

──『NG』の編集スタッフとして活動するかたわら、どのようにしてゲームと関わるようになったんですか?

篠﨑氏:
僕は絵を描くのが好きでしたので、ある日の仕事終わりにメカの落描きをしていたんです。それを後ろから上司が見ていて、「こういうのを描けるなら、いま開発部が作っている新作ゲームのデザインを担当させてみたらどうだろう」と話していたんです。

その時はあまりよくわからない状況だったのですが、これはのちに『ギャプラス』の件ということを知りました。そうして、キャラクターデザイン的な業務にも少しずつ関わることになっていったのです。

──おぉ、いきなり『ギャプラス』ですか。

篠﨑氏:
『NG』に関わらせてもらうことで、とても──今にして思えば──好都合だったことがありました。それは編集業務を通じて、社内のいろんな方々と取材などでお会いできたことです。冨士さん(※冨士宏氏。『ワルキューレの伝説』イラストレーター)が連載している漫画の原稿を取りに行って、それがきっかけで知り合ったり。

僕が入社が決まった後に『ゼビウス』が出て感銘を受けていたんですけど、そのデザインを担当した遠山さん(※遠山茂樹氏)と知り合って、その後に一緒にバイクでツーリングに行ったり。『NG』を通して、いろいろな部署にいる先輩やデザイナーの方々との交流を深められました。

そうして次に遠藤さん(※遠藤雅伸氏)から声が掛かり、『ドルアーガの塔』に関わるようになったわけです。

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面白いゲームを作るだけでは「ナムコ黄金期」は生まれなかった

──クリエイティブセンターでは、『NG』や『ドルアーガの塔』のキャラクターデザイン以外にも、様々な業務に取り組まれていたんですよね。

篠﨑氏:
先ほどお話した「ロゴ管理」や『NG』の業務のほかにも、いろいろとやりましたね。インストラクションカードのデザインをしたり、販促用のフライヤーやPOP用にイラストを描いたりとか。

南治氏:
あの頃のナムコというゲームメーカーって、特別な雰囲気があったと思うんです。
たとえば、ファミコンやMSX向けに展開していた「NAMCOT」【※】ブランドのゲームパッケージも統一感があるデザインで、すごく格好良かった。ああいった作業も、クリエイティブセンターで?

※NAMCOT(ナムコット):
ナムコが1984年から1995年までファミコンやMSX向けに展開した家庭用ゲームソフトのブランド名。『ギャラクシアン』『パックマン』『ゼビウス』など、自社アーケードゲームの移植版を中心に展開された。

篠﨑氏:
そうですね。『ドルアーガの塔』の開発が終わった頃くらいに、NAMCOT第一弾としてのファミリーコンピュータ版『ギャラクシアン』のパッケージデザインが控えていて、そのフォーマットデザインを担当することになりました。

このデザインは、のちにパッケージがプラスチックケース仕様に切り替わるまで使われてましたね。

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(画像は「ナムコットコレクション」公式サイトより)

──そういった部分も、当時のゲーマーから見るとナムコに独特な存在感を与えていたように思えます。とりわけ『NG』は誌面のデザインも凝っていて、紹介されるナムコの関係者は親近感がありました。しかもそれでいて、ちょっとヘンな企画記事もありましたし。

南治氏:
本当に、そう思いますよ。当時のゲーマーは誰もがそう感じていたはずです。

僕は当時、佐賀県に住んでいて『NG』の噂はゲーマーの友達から聞いていたものの、「こんな田舎だともらえないんだろうな」と思っていたんです。
そうしたら佐賀駅前の西友のゲームセンターで『NG』を配っていると分かったんです。あのときは嬉しかったですね(笑)。たぶん、地方ゲーマーはみんな同じ気持ちだったと思います。

あの頃はゲーム雑誌がまだ世に出ていなくて、ゲーマーはゲームの情報にものすごく飢えていた。そういったなか登場した『NG』は、みんな貪るように読んでいたし、それを通じて周りのゲーム好きも、みんなナムコのファンになっていったんですよ。

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──この頃のナムコは、今でもファンのあいだで「ナムコ黄金期」と語り継がれています。ですが、仮に面白いゲームを連発するだけでは、そこまでの風評は得られなかったと思うんです。

ゲームセンターの社会的イメージを向上させ、ゲーム音楽というジャンルを生み出し、ゲームソフトのパッケージデザインに統一感を持たせ、ゲームを「文化」に引き上げる活動の先頭に、ナムコがいた。

そして、その活動を支えていたクリエイティブセンターこそが、ナムコ黄金期の立役者だったんじゃないか。いまお話を聞いて、そう感じています。篠﨑さんご自身は、当時そういう手応えを持って働かれていたんでしょうか。

篠﨑氏:
正直な話、当時はもう、とにかく前に進むことしか考えていませんでした。

ただ、後にゲーム業界関係者に話を聞くと、「『NG』を読んでましたよ」、「大ファンでした!」と言われることが本当に多かったんですよ。地方の方からは、自転車で何時間もかけてゲームセンターまで貰いに行った、という話も聞きました。

当時は、たとえばゲームフリークの田尻さん(※田尻智氏)とか、各地のファンがミニコミ誌を作って、それをクリエイティブセンターに送ってきてくれたんですよ。「あぁ、こういう熱心な人たちがいるんだな」と感じていました。

でも、当時は「自分たちが黄金期を作っている」なんて、実感はまったくなかったですね。「ナムコ黄金期だった」と気づかされたのは、本当に後になってからです。

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南治氏:
当時の会社って、もっとガチッとしているところばっかりだったと思うんですよ。だから、たとえばパソコンゲームのソフトハウスみたいに「趣味の延長みたいな感じで仕事できる」ところには、当時中学生だった僕も、すごく憧れがありましたね。
ナムコは大きかったけど、良い意味での勢いというか、破天荒なところがあった。

──当時のクリエイティブセンターは、社長室の直属だったわけですよね。ゲームがまだ文化的な地位を得ていなかった時代に、中村社長【※】がそこまでブランディングに重きを置いていたというのは、ある種の先見の明だったのではないかと感じます。

※中村社長:
中村雅哉氏(1925-2017)。1955年に中村製作所(後のナムコ)を設立し、1977年に社名をナムコに変更。『パックマン』『ゼビウス』『ドルアーガの塔』などナムコ黄金期を率いた経営者で、社内では「遊びは文化である」と常々語っていたという。

篠﨑氏:
クリエイティブセンターが中村社長の直属の部署だったのは大きかったですね。

あらゆる業務は、中村社長のハンコを得られないと承認されないんです。社長自体もクリエイティブな人だったので、生半可なものは作れない。「この人に認められるものを作らねばならない」というプレッシャーは大きかったんじゃないかなと思いますね。

それでいて破天荒な人でしたから、それがナムコのイメージにもつながっていたと思います。80年代は本当に、中村社長の影響力がすごく大きかったので。

ドルアーガを作ったのは、イシターを作るためだった

──そういったクリエイティブセンターでの業務の傍ら、篠﨑さんは『ドルアーガの塔』にも関わっていきます。遠藤さんからは、最初にどんな依頼が来たんですか?

篠﨑氏:
「いま、こういうの作ってるんだ」というのを見せてもらったら、その画面では『イシターの復活』が動いていました。「でも、これを完成させるためには、その前に『ドルアーガの塔』という別のゲームを作る必要があるんだよ」と教えてもらったんです。

そうして、先に『ドルアーガの塔』を進めるためデザイン作業を行っていくという状況になりました。

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──『ドルアーガの塔』において、遠藤さんからは具体的にどのような作業を依頼されたのですか?

篠﨑氏:
世界観やゲームシステム、あとはドット絵などのゲームとしての骨子は、完成という程ではないですが、僕が参加した時点である程度作られていました。

そのうえで、「今後、リリースに向けていろいろな展開が必要なので、それらのデザインを担当してほしい」という依頼が最初ですね。具体的にはタイトルロゴとか、キャラクターデザインとか。それが1983年の年末ぐらいだったかなと思います。

──篠﨑さんが合流した時点で、ある程度の形ができていたと。一般的に、最初に企画書やキャラクターデザインがあって、そこからドット絵を起こすものだと思っていたので、意外に聞こえます。

篠﨑氏:
今ではその様な流れが一般的ですよね(笑)。
でも当時は、開発データから販促用のビジュアルを起こすというのが、割と普通だったような気がします。

そうして遠藤さんからドット絵のデザインを受け取り、それを元にキャラクターのラフを描いて、「こんな感じでどうでしょうか」みたいなことを、遠藤さんとやり取りしていきました。

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──当時の遠藤さんは、『ゼビウス』が大ヒットしてゲームクリエイターとして駆け上がられていた時期だったと思います。篠﨑さんから見て、どういった人物でしたか?

篠﨑氏:
とても博識で知的な人だな、と思っていました。
『ゼビウス』も単なるゲームではなくて、その世界観とか言語まで、ものすごく綿密に考えられていました。その『ゼビウス』の遠藤さんが次に開発しているタイトルということで、ドルアーガの世界設定も隅々まで考えられている印象でしたね。

──当時のアーケードゲームでは、ゲーム外の世界観までしっかり考えているタイトルは、まだ多くなかったように思えます。

篠﨑氏:
ゲーム業界全体として見るとそうでしたが、ナムコは割と重きをおいている会社という印象が入社前からありました。たとえば『ディグダグ』にせよ、キャラクターのデザインの統一性とか、色々と考えられている。
僕にとってはそういった部分も、ナムコを志望した理由の一つでもありましたし。

じっさいナムコに入ってみると、開発をはじめ、クリエイティブセンターの上司とか先輩も含めて、ナムコ全体としてそういうこだわりを持って作っていく人たちが多かったですね。

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編集者
元4Gamer。『Diablo』 『Ultima Online』 『EverQuest』 『FF11』 『AION』等々の、黎明期のオンラインRPGにおける熱狂やコミュニティ、そこから生まれたさまざまな文化は今も忘れられません。

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