いつもと変わらず、この日も彼は、ライトの定位置にいた──。
オリックス・ブルーウェーブでの9年間で1,278安打を記録し、2001年に27歳で渡米して後はMLBにて3,089安打を積み上げたイチロー。日米通算28シーズンのキャリアに幕を閉じた、2019年3月21日。シアトル・マリナーズ対オークランド・アスレチックスのメジャーリーグ開幕戦。
東京ドームに詰めかけた9万2238人のファンたちが、人工芝の上で躍動する背番号51に釘付けになっていたなか──兵庫県で生まれ育ち、8歳のころから現在までオリックス応援一筋30年の八木淳(やぎ・あつし)氏は、彼にとっても定位置であるライトスタンドから、約20年ぶりに生でイチローの姿を見つめていた。
八木氏と同じく、幼少期から漫画『ドカベン』の殿馬一人がきっかけでオリックスを応援してきた筆者と偶然隣り合わせ、ブルーウェーブのグッズを手にした彼から話を聞くうちに、イチローが「鈴木一朗」だった頃からの熱心なファンであることが判明。観戦しながら話を聞いていると、約20年ぶりに生で見るイチローは、渡米前の姿、動きと変わっていないように感じたという。
球場に足を運び、「鈴木一朗」時代からイチローの活躍を見続けてきた八木氏。ここからは観戦中の八木氏とのやり取りを記していく。
※この記事は、「イチロー×KONAMI野球タイトルコラボレーション」を多くの方に楽しんでほしいコナミさんと、電ファミニコゲーマー編集部のタイアップ企画です。
八木氏: 後ろ姿だけ見たら、20年前とまったく変わっていなかったので驚きましたね。体型も動きも変わってなくて、唯一変わったのは髪の毛の色。それも帽子を被っていたらわからない。ストレッチで足を伸ばす感じ、キャッチボールでのきれいな球筋、ファンサービスの背面キャッチ……すべてが当時と変わらず、懐かしくてじーんとしてしまいました。
好きなミュージシャンが、昔と体型も変わらず、キーも下げずに歌っていたら、感動するじゃないですか。それと同じ感覚です。
でも、見た目がまったく変わらないからこそ、最後のショートへの打球が内野安打にならなかったこと、ボールよりも先に足がベースに届かなかったことが、“最後までやりきった”という事実を物語っていたように感じます。昔だったら絶対に内野安打になっていたと思うんです。もちろんヒットを打ってほしかったけど、大事な公式戦の初戦に、最後までやりきる舞台を用意してくれた(スコット・サービス)監督とチームメイトにも感謝です。
渡米後は現地まで応援に行くことは叶わなかった八木氏だが、テレビや雑誌などでつねにイチローの活躍を見守っていたという。
八木氏:
最初の年なんか、新人王と首位打者、MVPと大活躍をして。あんなスゴい人を見てたんや…と誇らしい気持ちを通り越して、ただただびっくりでした。その後は大活躍してもチームが勝てず、オリックス時代を彷彿とさせるような状況でしたけど、淡々とヒットを打ち続ける姿勢が素晴らしいと思っていました。ニューヨーク・ヤンキース移籍後は、勝てば称賛されるけど、負けたらすぐに終わり。そんな厳しくも注目が大きい環境で、見てるこっちまでドキドキする毎日。
試合に出られないこともあったけど、テレビ番組『ジャンクSPORTS』の取材でダウンタウンの浜田(雅功)さんが取材したときも、「ここでやれているのが楽しい」と言っていた。下を向かず、腐らずにやってる姿勢を見て、うれしく思っていたのを覚えています。引退後の会見では当時を振り返って「しんどかった」と言っていて、強がりもあったんかなとか思いつつ(笑)。
八木氏:
最後にマリナーズに戻ってからも、最大限のリスペクトを感じる待遇を受けて。イチロー自身も「手のひらを返された」みたいなことを語っていましたけど、そこまで認めさせたっていうのがすごいですよね。日本から応援してきて、いつも彼の姿には感動するばかりでした。
イチローの引退が発表されたのは、試合の中盤だった。つまりドームに集まった観衆は、引退試合になることも知らないまま、歴史的な瞬間に立ち会ったのだ。
会社を休み、チケットを購入し、兵庫県から東京まで足を伸ばした八木氏。結果、約20年ぶりにイチローを間近に見る奇跡が実現したのだった。試合後の週末、八木氏に電話で話を聞いたところ、試合後も熱は冷めずに友人と酒を飲んでいたと語った。
八木氏:
オリックス時代はずっと球場で見ていたけど、渡米後はさすがに見に行けなかったんです。ニュースではずっと追い続けていたので、もしかしたらこの開幕戦で引退かもしれないと思い、チケットを買いました。東京ドームでの開幕2連戦、両方は会社を休めなかったので、木曜を選んで、昔から一緒に応援してきた友だちとふたりで観戦に来ました。
ホンマに来てよかったですね…。試合が終わっても誰も帰らないなか、ドームの電気も一瞬消えたんですよ。もうさすがに帰らんとアカンかなと思っていたら、最後、イチローが現れて球場を一周し、目の前を通ってくれた。あんな近くでまたイチローを見られるなんて、夢みたいな時間でしたね。
深夜12時を回ってから記者会見がありましたけど、一緒に観戦に行った友だちとともにドーム付近のHUBで、会見を見ながら飲んでました。お店は立ち見客がたくさんいて大繁盛。その後も興奮がおさまらなかったので、新宿で朝まで飲み明かしました(笑)。
試合後に行われた85分間の記者会見は、野球ファン以外にも広く注目されることとなったが、記者に対しての厳しい姿勢とは裏腹に、ファンサービスに対する高い意欲は昔も今も変わっていなかった。
1990年のシーズン、父に連れられて初めて球場に行き、小学校の高学年に上がってからは毎年少なくとも20試合はスタジアムで見続けてきた八木氏。応援の定位置だったライトスタンドや、2軍の本拠地で見てきたイチローの記憶をこう振り返る。
八木氏:
球場でも、2アウトでボールをキャッチしたら絶対にライトスタンドに投げ込んでくれた。他の選手は投げてくれないこともあったんですが、イチローだけは100%投げてくれたのを覚えています。座っている席の近くにボールを投げ込んでくれて、取れそうで取れなかったときは悔しかったなあ。つい最近取り壊しになったブルーウェーブ時代の選手寮・青濤館(せいとうかん)にもよく通っていたんですが、サインにも気軽に応じてくれました。2軍時代、まだ「鈴木一朗」だった頃にサインしてくれた布のバッグはいまでも宝物です。もうサインが見えないくらい薄くなってますけどね(笑)。アメリカでも、ファンのサインに快く応じる姿が報じられることが多いし、球場に野球を見に来てくれる人に対しては、つねに真摯に対応する人なんやと思います。
「記者に対して厳しい」と言われることもありますけど、あれは質問する側にもプロ意識を持ってほしいという、イチローの真摯な姿勢やと思うんです。「成功した」と言われ、「自分のやってきたことが成功かはわからない」と返す。あれは自分の言葉で語り続けてきたイチローっぽいな、と感じました。
ブルーウェーブの本拠地から数駅の場所で生まれ育った八木氏が初めてプロ野球を生で見たのは、8歳のころ。巨人ファンながら球場で酒を飲みたい父に連れられて、母、妹とともに家族4人でグリーンスタジアム神戸へ足を運んだのだった。
八木氏:
覚えているいちばん古い記憶は、グリーンスタジアムでブルーウェーブ対ダイエーホークスの試合の光景。親父は酒を飲みたいだけやったけど、僕はどんどん野球に興味を持って、いつのまにか気づいたらオリックスファンになっていました。小学校高学年になるとファンクラブに入って、安い値段の外野席で見ることが多かったですね。当時から、引退試合を一緒に見に行った友だちと観戦していて、大人になってからもシーズン開幕前に見に行く試合の予定を立てるのが毎年の楽しみでした。
彼が10歳になった1991年、ドラフト4位でブルーウェーブに鈴木一朗が入団した。1軍に定着する前から、お気に入りの選手だったという。
八木氏:
僕のなかでは、1軍定着前から「1番ライト」のイメージが強いかな。いろいろな場面のなかで特に印象に残っているのは、応援歌。「は〜し〜れ、疾風のように〜」ってみんなで歌うのが気持ちよくて、イチローが打ってまず盛り上がる。そのあと盗塁をするとチャンスになってまた音楽が流れて大騒ぎ。彼の場合、一度の打席で二度楽しませてくれるのが最高なんです。
そしてファン歴約30年のハイライトは、阪神淡路大震災が起こった1995年のシーズン。オリックス・ブルーウェーブの選手たちは「がんばろうKOBE」のワッペンをユニフォームに付け、悲願の初優勝を果たす。選手たちが奮闘する姿は、震災の傷跡がまだ癒えぬ神戸に住む人々の、心の拠り所となっていた。
八木氏:
学校や会社が潰れて大変な人も多かったけど、ずっと暗いままではおられへんから。シーズンが進むにつれて、球場に足を運ぶ人が増えて、終盤戦ではもう入り切られへんくらいやったのを覚えていますね。内外野の席にとどまらず、階段という階段を人が埋め尽くして、友だちとふたりで「なんとか今日も入れたな」と言って応援していたくらい。あんなに人が入った球場は、後にも先にも見たことがなかった。
もともと野球が好きな人じゃなくても、「オリックスのおかげで前を向ける、ありがとう」って気持ちがあったと思います。2011年以降、2013年に優勝するまでの楽天イーグルスも同じような状況やったんちゃうかな。
僕もあの優勝の熱狂が忘れられなくて、いまもずっと応援し続けている部分は大きいです。そこからずっと優勝からは遠ざかっていたんですけどね(苦笑)。
八木氏:
イチローがアメリカに行く前も、勝てないシーズンが続いて、オリックスの優勝の可能性がなくなったシーズン終盤は、ほぼイチローの姿を見に行っていたという感じでした。彼がアメリカに渡った以降は、暗黒時代が長かったけど、それでも引退という節目の瞬間を、ライトスタンドで間近に見られたことで応援し続けてきたかいがあったと思います。できたら、臨時コーチでもいいので、オリックスに戻ってきてほしいという気持ちもありますが、それは高望みかな……。
この3年後の2021年。オリックス・バファローズが25年ぶり、改名後初となるリーグ優勝を果たした。この出来事に対して、イチローはこのようなコメントを発表している。
「オリックス・バファローズの皆様、リーグ優勝おめでとうございます。
95年の阪神淡路大震災を経験し、『がんばろうKOBE』のもと、ファンの皆さんと気持ちをひとつに闘い優勝したことは、今も私の心に刻まれています。
あれから長い年月を経て、当時オリックスの先輩だった中嶋選手が監督として、そして当時まだ生まれていなかった選手たちも一緒に、25年ぶりにチームをリーグ優勝に導いたことは大変感慨深いです。
今日の優勝は、あの忘れられない日々を共にしたファンの方々にとっても、当時を知らないファンの方々にとっても、熱い気持ちを呼び起こしてくれたのではないでしょうか。
当然次は日本一、期待しています」シアトル マリナーズ
イチロー
「ファンの皆さんと気持ちをひとつに闘い優勝した」。イチローも、あの優勝を忘れていない。彼のキャリアにとって、最も印象的なシーンとして刻まれていることだろう。
そして2022年3月23日。あの引退試合から約3年を経て、『プロ野球スピリッツ』シリーズ、『eBASEBALLパワフルプロ野球2022』など、KONAMI野球5タイトルに、イチローが登場する。
そう、イチローのいる毎日がかえってくるのだ──。
この楽しみは、グリーンスタジアム神戸のライトスタンドからイチローを見守り続けてきた、八木さんにこそ味わってほしい。そう考え、3年ぶりに電話をかけてぜひプレイしてみてほしい旨を伝えた。ゲームのなかとはいえ、オリックス・ブルーウェーブのユニフォームに身を包んだイチローを見られることについて、どのように感じているのだろうか。
八木氏:
正直、小学校の頃に『パワプロ』をやって以来、野球ゲームはプレイしてないんですよ。あ、当時はもちろんオリックスを使っていました。今回、お話しする前にYouTubeで『プロスピA』の動画を見てきたんですけど、イチローの写真、カッコいいですねえ……。「エリア51」や「イチロー」って、固有の特殊能力があるのもうれしい。この写真を見るためだけでもゲームを始めてみようと思うし、実際に動かしてみたいですね。ただ、本音を言えば、このユニフォームを着ているイチローを、一度でいいから実際に球場で見てみたいです。オリックスがリーグ優勝したときも、「当然次は日本一、期待しています」とコメントしてくれましたけど、そのためにも、臨時コーチに来てくれないですかねえ。
『プロスピ2021』では、高校球児となって甲子園を目指すモードがあるのだが、今作ではイチローがコーチとして登場する。
現実世界でも近年、イチローは智弁和歌山や国学院久我山など、野球の強豪高校へ出向いて指導をおこなったり、女子高校野球選抜チームとのエキシビションマッチに出場したりと、日本国内での活動が活発になっている。松坂大輔の引退セレモニーにも、ひとことメッセージを残して、わずか30秒ほどではあるが、日本プロ野球のグラウンドに足を踏み入れた。
八木氏は、この延長線上に、オリックス本拠地へイチローが帰ってくる可能性を感じているという。
八木氏:
引退の約2ヶ月前にYouTubeにアップされたトヨタ社長との鼎談では、去就について聞かれた際に「神戸にチームがあったら、考えたと思うんですよ。戻るとしたら、日本では神戸だと思うので」と、グリーンスタジアム神戸のブルーウェーブになら、戻ったかもしれないというコメントがあったんですよ。そういうコメントがあると、古巣への愛は変わっていないんやなとうれしい反面、もういまは可能性がないのかな……と半分諦めていたんですけど。
いまのチームの上層部はGMは、福良(淳一)で現場も中嶋(聡)監督や田口(壮)コーチを中心に、かつての盟友ばかりですし、リーグ優勝で「当然次は日本一、期待しています」とコメントしてくれましたけど、そのために、ぜひ力を貸してほしいと強く願っています。
昨シーズンに本塁打王を獲得したラオウ(杉本裕太郎)は、イチローと自主トレをやったことがあるんですけど、いろいろとアドバイスをしてもらったみたいで。まだ誰も頼んでないだけで、中嶋監督がお願いしたら、意外と来てくれるんちゃうかな? とかすかな希望を捨てずに、待ち続けています。
ただ、もし実現したとしても普通には登場しないでしょうね(笑)。松坂のセレモニーみたいに、僕らには予想もつかない登場の仕方で、見る人を楽しませてくれるんやと思います。
イチローが「鈴木一朗」だった頃からの、ひとりのファンの話はいかがだっただろうか? たまたま席が隣りだったという縁で八木氏に取材を申し込んだわけだが、貴重なお話と写真をご提供いただくことができた。
イチローの勇姿を見ることができる。これはファンにとっては大きなサプライズであり、ふだんはゲームに触れることのない層にとっても非常に魅力的なコラボレーションであるということが少しでも伝わったのならば幸いだ。
さて、ここからは「イチロー×KONAMI野球5タイトルでのコラボ」の詳細をお伝えしていこう。
2月22日、コナミデジタルエンタテインメントはイチローと『パワフルプロ野球』、『プロ野球スピリッツ』、『パワプロクンポケット』シリーズのコラボレーションを発表。同日、記念PVが公開された。
2月28日の『実況パワフルプロ野球』とのコラボを皮切りに、3月23日には『プロ野球スピリッツA』と『eBASEBALLプロ野球スピリッツ2021 グランドスラム』にイチローが登場。そして、4月21 日には『eBASEBALLパワフルプロ野球2022』に登場予定となっている。さらには、『パワプロクンポケットR』にも4月中に登場予定。
3月23日のアップデートで、『eBASEBALLプロ野球スピリッツ2021 グランドスラム』のひとりのプロ野球選手になりきって球界のスターを目指す「スタープレイヤー」モードと、高校球児として甲子園優勝を目指す「甲子園スピリッツ」の両モードにおいて、イチローが登場。「スタープレイヤー」では、振り子打法を再現した「1994年版イチロー」と、バットを立てるルーティンで知られる「2000年版イチロー」の2バージョンが楽しめる。大舞台で勝負を決めた一打から生まれた「渾身の決勝打」や「高速レーザー」といった新特殊能力にも注目が集まっている。
『プロ野球スピリッツA』では、コラボ第二弾が4月1日〜4月8日に開催され、Sランクの「OB・イチロー」がスカウトに登場する。『プロスピA』史上最高のミート能力を誇るほか、イチロー専用特殊能力「エリア51」と「イチロー」を所持している。
特殊能力に「エリア51」、「イチロー」を取り入れた理由について、『プロスピA』制作チームは以下のようにコメントしている。
特殊能力「エリア51」について
野球の歴史上、その守備力に対してニックネームが付いた選手というのはほとんど存在していないと認識しており、「エリア51」と表現されたイチローさんの守備はその守備範囲の広さや確実性の高さはもちろん、魅せる守備であるというところが評価されたのだと考えております。『プロスピA』でもそんなイチローさんの守備能力を再現すべく、これまでにない特殊能力を作成したのですが、その能力には「エリア51」以外の名前は浮かびませんでした。
<「エリア51」の効果>
・送球速度がダウンしない
・ファインプレーが出やすい(外野時)
・外野手の遠投が低い弾道になる
特殊能力「イチロー」について
攻撃の部分に特化した特殊能力です。HRやヒットを打てる幅が広い打撃センスや走力に長けている部分など、「イチローさんと言えば…」と、誰もが思い浮かべる卓越した攻撃技術を1つずつの特殊能力にするのが難しかったため、イチローさんの名前をお借りし、「イチロー」という特殊能力に決まりました。
<「イチロー」の効果>
・走力小UP(打撃後のダッシュスピードが上がる。
・パワー中UP、高弾道(ランナーなしで発動した場合)
・ミート微UP、パワー小UP(ランナーありで発動した場合)
さらに、ファンならばグッとくるのがイチローの写真。2000年当時の写真が再現されているのだ。2000年の写真を再現した理由について、制作チームは以下のように語っている。
日本での成績がキャリアハイ(打率.387、首位打者7年連続で日本記録)であるためです。日本プロ野球史上初(当時)となる200本安打を達成した1994年も検討しましたが、当時はイチローさんお馴染みのルーティーンを行っておらず、プロスピAにイチローさんが登場するならば、やはり多くの方がイメージされるあのルーティーンをゲーム内でも表現すべきだと考えた、というのも2000年を選択した理由です。
いつの日か、イチローのいる“プロ野球”がかえってきてほしい。そんなファンの熱い気持ちに応えた、今回のイチロー×KONAMI野球5タイトルのコラボレーション。SNSなどではすでにイチローの能力の高さが話題となっているので、この機会にぜひイチローの凄さをゲームで味わっていただきたい。